ミラージュ・ラ・オードゥース4

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 本撮影が始まってから十二日目。撮影も終盤に来て、雨が降った。
 撮影を中断するも、砂漠の雨は珍しいので雨合羽を羽織って、雨景色を撮影する。フィルムを二本使って、タッシリ・ナジェールに流れゆく水の姿を必死で撮った。
 この一帯を見渡す高地を目指して、岩場を駆け上り、天頂に近い場所にカメラを据えた。大地から突き出す幾多の山の狭間にかつての川の跡が見えてくる。
 空中の楼閣から、水の大地を見下ろす。
 浸食のせいで高低差のある川の台座。月のクレーターに流れ落ちる水。雲が広がると共に気温は急激に下がり、水の温度はまるで氷のように感じられた。指が震えないように注意してカメラと共にシートをかぶる。俺の体はずぶぬれになったが、レンズに水滴がつかないように細心の注意を払う。
 年間百ミリ以下だという思い込みから、情けない量の雨を期待していたが、降るときは豪雨だ。足場は流れていく水のせいで危険な状態になり、岩場で滑る足元が気になって降りられなくなった。生物がいなかった太古の地球は、こんな風に雨が流れていただろう。
「せんせーい! 動かないで下さいよー! 雨はすぐに止むって聞きましたからあー」
 助手が岩場の下でメガホンを持って叫んでいたが、その声は雨音に遮られてほとんど聞き取れない。叫んでいる内容はエスパー並みに理解できてはいたが。
 岩場の上で水に囲まれて一人。無我夢中でファインダーを覗く。
 俺の前には無数の川が生まれていた。
 太古に流れていたであろうタッシリ・ナジェールの川面をカメラに収める。
 なだらかとはいえないホガール山地の荒々しい岩肌が、黒真珠の滑るような光に覆われていく。空は厚く、暗雲が空の距離を思い出させる。開けた広大な大地が雲の厚みに押し潰されていくように感じられた。水の流れを遮るものがなく、鉄砲水のようになだれ落ちていく多岐の水流。それは細かい砂塵を飲み込んで濁っていく。
 水の女神が降臨した。
 俺たちの旅は最初から彼女の加護を受けていた。砂漠に降る雨は珍しい。だが、俺は二度も雨を目撃している。その確率は現実的ではなかった。今は水が消え、蚊の成虫に悩まされる乾季だ。稀な確率で俺たちは出会った。
 モロッコからアルジェリアに入った時、流れる砂丘の動きを止めたのは彼女だった。カラカラに乾いた砂漠にひと時の潤いをもたらし、その水蒸気で大きな蜃気楼も見せてくれた。あの時から、俺たちは彼女の導きを受けてここに来た。乾いた凶暴な砂嵐には、一度も巻き込まれなかった。加熱した戦闘にも出会わなかった。
 これが運命なんだ。
 俺はきっとこの高楼で彼女に出会う運命だった。
 もう戻れない、と言っていたか。構うものか。もともと、俺はそんな風にして、祖国を出て行った男だ。俺は生まれたときからずっと、夢を見て生きている。先のことなんて俺にはわからない。それでいいんだ。
「出て来い……水の女神」
 俺はファインダー越しに彼女を探した。この写真が俺にとって、永遠の愛になるのか。
 ミラージュ・ラ・オードゥース。
 片目を閉じて、揺らぎの中にそれを見る。
 光の減じた暗黒空間に突き出して見えるタッシリ・ナジェールの岩場群。月の荒地が雨越しに黒々とした太古の森に見えた。
 天から降り注ぐ斜線と岩肌に描かれた縞模様が、樹林のごとくなだらかに連なっていた。ひときわ背の高い樹木には垂れ下がった太い蔦があり、幾重にもひだができている。それはモスクを彩る幾何学的な装飾のように、連理の滴りは華やかなレースを編む。
 青黒い海が楼の狭間に埋もれるようにして広がり、はるか彼方まで伸びている。
 森の間を渡る幾多の川。
 タッシリ・ナジェールに生息した太古の生物たち。あの川には恐ろしいワニが棲み、人間を襲っていた。放牧していた牛を川の中に引きこみ、人々を恐怖に陥れた。勇士は逃げる人々を守るようにして戦い、勝利した。彼らの歓喜のダンスは夜通し続いた。踊る人、泳ぐ人、走る人、戦う人……一万年前に、彼らはここに住んでいた。
 一万年後、俺はここにいて、彼らと流水のダンスをカメラに収めている。
 俺たちの愛はここで永遠になるのか。俺はこの星の記憶を永久に愛す。
 気温はまるで夜のように冷えた。濡れて張りついたシャツが冷たい。背中に打ち付ける水の強さを感じつつ、マントの中で手を拭い、撮り終わったフィルムを巻き取った。オートマティックにフィルムの巻上げが終了するとカバーの外れる音がした。いつもの手順で片手を伸ばしてフィルムを出そうとした時、不意にそれが指先を転がり降ちた。
「やべっ!」
 とっさに手を伸ばしてフィルムケースをつかむ。
 その時、世界が反転した。岩場から滑り落ちたのだろう。だが、俺の記憶にそれは残っていない。天と地が半分に見えていた。
 厚い雲の狭間から、オーロラのように輝く金光のカーテンが見えた。その裾が揺らぎながら広がり、天空に現れた光の塔のようだった。不意に天空の光が目に差し込んだとき、俺は思わず眩しさに片目を閉じていた。
 世界は七色に輝く。
 ガラスの泡粒は、色彩豊かな天空に花輪を落としている。水に濡れた螺旋の階段が上下動を繰り返し、その上を光の船が流れゆく。透明なベールの中を蠢き、雫の生物が地上から空へと巻き上がる。水晶に映る逆さまの空は下から持ち上がり、歪んだ黒い森が浮かびあがる。真珠の粒が広がり、はじけ飛ぶ淡い触手が空を撫で、見えない塔を呼び覚ます。時は止まり、いや、連なり、幾多の時は点から線へと重なり光芒となる。それは巨大なガラスのふくらみをもつ蝸牛のような円錐の空中庭園。
 消失点へ向かって、宇宙は収束する。幾たびも伸縮を繰り返し、無限の時を旅する。
 ゆらいでいる。
 ゆらぎが異なるのです。歪んでいる。ともに歪まなくては、城に入れません。
 空から突き出している二つの瞳。それは大きな蝸牛だ。空中に浮かぶ瞳は、大地を見下ろす展望台へ。空に浮かぶ。それは空に浮かんでいる。天空に青い目がある!
「あなたの愛を受け取ります。あなたの体は全てこの星のもの。その血も涙も何もかも」
 俺の背後にその女神がいた。滑らかな水の腕がぬめりながら、体内に浸食する。彼女が侵入した時、体中に火がついた。その熱に俺はもだえる。水は神経を通して、俺の記憶と肉体を奪った。彼女と共にとろけて一つになる。たくさんの海水が体の中に入った。
 それが最後の記憶となる。あとは全て夢うつつに溺れた。
 岩場から地面に落ちるまでの時間は僅かに十数秒ぐらいだっただろう。不幸な事故で俺のカメラは大破したし、撮影の続行は不可能だ。俺は強かに全身を打って、助手に抱き上げられた時には意識がなかったようだ。
 その後、自分がどうやって砂漠を出たのかを覚えていない。
 気がついたときには首都アルジェに近いブリダ県の精神病棟の中にいた。俺はあの時、片目の視力を失っている。再びこの世の光を目に入れたとき、もう一つの目に映った光景を見て、常軌を逸して俺は何かを叫んだらしい。自分が何を叫んだのかを覚えていない。俺の言葉を聞き取れたものは、その時誰もいなかった。
 俺の目は、それからずっと異界を映している。
 ミラージュ・ラ・オードゥースを。


 視差とは、俺たちの言葉では「ファインダーの視野と実際に撮影される画面との違い」を意味する。
 だが、一般に流布しているもう一つの意味は「両目で同一物を見たときの網膜像と視方向のずれ」を意味するだろう。立体視には不可欠の能力だ。片目を失えば、人は遠近を体感できなくなる。
 その他の医学的な意味合いとしては、肉体の動きを修正し、対象物を認識する能力を指す。これが奪われると、少し頭を動かしただけで目は何も認識できなくなる。本当は動いているのに止まった状態で物体の形を理解できるのは、脳内の修正画像が巧く働いているからだ。俺たちはこの能力を当たり前のように使って生きている。
 俺は右目の修正能力を失った。
 それでも、生きていただけ良かったのだろう。右目をつむれば今までどおりの映像の中で生きていくことはできる。片目に眼帯をして食事をするのは慣れるまでに時間がかかった。手を伸ばしてもなかなか目的の物に触れることができず、距離を両目で計っていたことを思い出された。
 眼帯を取って右目を開けば、世界は大きくゆがんで見えた。
 全ての物体がとろけて交じり合い、ゆったりとした砂のような動きで移動していく。人も草木も空の雲も何もかもがとろけていた。たくさんの色が混じりあい、すりガラス越しに神の光を透かすようなステンドグラスを形作る。
 心の底から俺は怯えた。
 左目の映像よりも、右目で見る新世界の方が美しく思えたからだ。俺は狂ってしまったのだろうか。現実の何が正しいのかがわからない。足元を崩れ去る感覚が恐ろしい。
 俺は今まで、自分ひとりの肉体で生きてきた。他者と自己とを分ける境界線は明確で、自分以外の存在と交わることがなかった。複雑な世界は、きちんと色分けされたキャンディボックスのように個が確立されていた。
 それが俺の旧世界だった。
 新たな目で世界を見れば、光も闇も、男も女も一つだった。その混沌とした綿飴のような世界はひどく濁っていて、全てが均一に見えていた。のっぺりとした世界の中に蠢く生命力の光。動きの大きな存在を目で追えば、その方角から明るい子供の笑い声が聞こえてくる。彼らの周りにある色は華やかで優しく、動きは激しくて爆発している。
 交じり合うことのなかった一つ一つの礫が、ガラスのように溶けて交じり合うさまを眺めるのは、大層官能的な光景だ。俺は砂の動きを見て、普遍的な愛の形を学んでいた。一人で中庭を過ごす時、俺は眼帯を反対側に付けて眺めた。
 女の声が聞こえてくると、流れていく砂の画像に愛着した。彼女の残像が景色の中にとろけていくのを見守った。人にはそういう本能がある。とろけて交じり合い、一つになりたいという欲望が。自分の手を景色に投入し、左右に振って自分の指が女と景色の中に溶けるのを見る。全ての物体と一つになる。この快楽に夢中になった。
 流れて消えていく砂紋のように、人の動きは全てが一つに収束する。砂は昔生きていた生物の残骸だ。俺の目は、生物の痕跡を砂に変えていく。
「今日も夢を見ましたか?」
 俺は定期的に精神科医の診察を受けていた。事故の衝撃から一時的な記憶喪失と軽いうつ状態に陥っていたが、今は閉鎖病棟を出て、一般病棟に行けるほどになった。後は感覚器官の検査をして後遺症について考察するだけだ。今後の治療の方針を医師と共に考え始めていた。
「まだ、砂漠の夢を見ていますか?」
「砂漠を思い出すことは減ってきたが、当たり前だろう? 長いこと見てないんだから」
「そうですね。今朝の夢って何でした?」
「忘れたよ。ははは、昼ごろに来て、何の話をしてるんだよ」
 医師は俺の目から眼帯を取り外した後、少し困った声で「また反対に付けてましたか」と笑った。俺は「こっちの方がきれいなんだよ、先生」と応える。担当医は黒い肌を持っている。珍しいことに黒人だった。左目で彼の姿を確認し、にっこり笑う。
 彼は俺の感性を認めてくれる存在だ。彼の前では素直になれた。異常な視覚に執着する自分を許せるようになった。再び世界に心を開くようになると、俺のうつ症状は消えた。
 俺の白い指を右目に映る彼の姿に重ねあわせる。白も黒もない。俺たちは一つだ。
 その様子を見ながら担当医は明るい声で笑い、前に腰掛けた。左目に映る彼の動きと右目に映る残像の軌跡。目眩は減ってきた。俺は片手を振ったまま微笑む。担当医はもう俺が何をしているのかを理解していた。簡単にカルテに文字を書き込んでいく。
 他者と一つになりたかった。俺自身を溶け込ませる遊びを続ける。子供のように。
 彼の動きが右目にどう映るのかを理解して、俺の脳は新しい情報を吸収していく。
「視野は落ち着いているようですね。失われた視野は今のところ10%未満ですので、運が良かったのかもしれません。視差調節の障害は残りますが、トレーニングしだいでは社会復帰は可能だと思います。本当ならば症状が安定するまで検査を続けていただきたいのですが、あなたのビザではそろそろ退院措置をとらなくてはなりません。緊急の事態は脱しているので、今日には許可を出そうと思います」
「強制退去か。俺を本国に送還する?」
「そうですね。一度フランスへ戻られた方がいいと思います。モロッコの就労ビザも切れているようですし」
「そうだったか……しまった。大使館へ連絡したほうがいいかな」
「そうですね」
 この時、俺はもうモロッコには戻らないことを、心に決めていた。
 予言は成就したんだ。俺は自由になりたかった。広い場所へ行きたい。
 人ごみの多い大都会はめまぐるしくて、キャンバスがひどく汚れる。右目で見える世界をたんのうできる場所へ行きたい。美しい色彩に溢れていて、穏やかな時間の流れる場所へ。
 病院で退院手続きをしてもらい、国際電話でカサブランカにいる助手に連絡を取る。俺が退院すると聞いて、彼は泣き叫んだ。迎えに行くから絶対に動くな、と叱られる。俺はあの時だって、彼の命令を無視しようと思って動いたわけじゃない。だが、彼の気持ちは痛いほど理解できたので「はいはい」と答えて、新しい滞在先のホテルの名前を伝えた。
 出国用に新たなビザを取得し、アルジェからフランスへ行くことになった。
 しかし、パリのド・ゴール空港に着いたとたん、俺は後悔した。
 税関を通り抜けた直後、俺は右目を覆っていた眼帯を外し、この国の色を見た。どこもかしこも生命のない色に見えた。文明と言う機械に押し込められた窮屈な色が混ざり合う。
「俺の望む色じゃない」
 俺は助手にそう言って背後を振り返った。
 あの国に戻りたい。あの色の中に戻りたい。何もない土地の方が、はるかに美しい色合いを持っているんだ。俺はなぜあの国を出てしまったのか。
 俺はもう戻れないと言われなかったか。なのに、なぜ、この国に戻ってきたんだ。
 自分がいるべき場所はどこなんだ。どこへ行けばいいのかがわからない。俺はあの場所に生きていたはずなんだ! あの国が俺の故郷なんだ! 俺たちはあの場所から世界へ散っていった。最初の楽園を俺は見つけたんだ!
「先生?」
 助手が背後で呼びかける声がした。俺は揺らぐ足元を踏みしめて、戻り始めた。荷物受け取りのカウンターを過ぎたら、職員が走ってきて「何か忘れ物ですか」と声をかけてきた。俺は彼女に「戻りたい」と伝えた。職員は一瞬、躊躇したがすぐに警備員を呼んで戻ってきた。
 俺の助手も走ってきて、彼らから俺を守るようにして両手を広げ、論争が始まった。
 まるでガキのようにわがままだ。自分でもおかしいことに気がついていた。だが、止められない。これは本能だ。体が求めている。もうこの国では生きられないことを、俺の体は知っている。足りないんだ。色も熱も風も香りも何もかもがこの国には足りない!
 飛行場へ連なる渡り廊下のところに、彼女が立っていた。
 金色の髪を持つ白衣の魔術師が。
「南へ行けば、あなたはそこで死ぬことになります」
 それは幻だっただろうか。マラケシュで出会った占い師そのものだ。水のような肌の透けるベールを羽織っていて、青い目を持つ金色の猫をつれている。
 構わない、と思った。
 俺はあの国で死ねるなら、構わない。
 生きた証が大地に残る。ならば、俺はあの国でこの骨を砂にして堆積してやる。たとえ、風に水のように流されても。あの大地をいつまでも抱いていてやる。
 幻の女の脇を通った時、座っていた猫が立ち上がり、俺の隣に寄り添った。その猫の目は透き通るように青く、海の色のように見えた。
 その青い色を見ていたら、右の目に軌跡が浮かんだ。
 右へ、左へ、寄せては返す穏やかなリズム。泡の立つ海辺に一人の女が座っている。空は海に溶けており、海は空に溶けている。彼女の足は水に浸り、体の水が海に溶ける。自然と一体となり、その女は生きていた。
 水色の平原は砂丘のように形を変え、優しい風を運んでくる。陸地には螺旋状に立ちのぼる豊かな空中庭園が見えた。そこが俺の求める場所だろう。
 悠久の時を経て、俺を待つ運命の女がそこにいる。
 水の女神だ。彼女の棲む場所は、南にある。
 猫は目を細めてその映像を閉じる。俺は脚を止めていた。
「あなたは今日中に旅立ちます。南へ行けば、死ぬまでその場所に暮らすことになるでしょう。それでも、あなたは幸せになります。永遠の愛がそこにあります。あなたはこの星を深く愛しているのです。ミラージュ・ラ・オードゥースはあなたの傍にあります」
 猫が甘い声で切なく一声鳴いた。俺は片目を閉じて幻を消す。
 そこには女の姿も猫の姿もない。だが、俺は確かに彼女の予言を耳にした。あの時のように、ジャマ・エル・フナで出会った最初の時のように、彼女は俺の運命を告げた。
「先生! モロッコへ行くなら、チケットを買いますから、一度外に出ましょう!」
 助手が俺の腕にしがみ付くようにして抱きついてきた。俺は右目を閉じたまま、彼を見た。彼の顔は歪んでいない。普通に見えることを確認して、軽く片手でその頬を叩いて退けた。パチンと叩けば悲鳴を上げて非難されたが、片手に感じる感触に気分が改善した。こいつは俺の隣で本当に生きている人間だ。幻なんかではなく。
 険しい顔をしている職員の傍を通って、再び税関を抜けた後、俺は助手に命じた。
「おい、大至急チケットを取ってくれ。砂漠は飽きた。うんと南がいいな。どうせだから、今まで乾いていた分を取り戻せるぐらい潤っている南へ行こうぜ。太平洋へ行くんだ」
 あの猫の目のように青い世界を俺は見てみたい。
 今まで赤い色を見過ぎたんだ。この先は青い星の色をゆっくり眺めていたかった。