「フィエム村三番地イル池前交差点」





 部屋の中に森があるのと、森の中に部屋があるのでは、どちらがいいだろうか。
 今、ボクはその選択を迫られている。
「一つ確認しておきたいことは、どちらにも屋根はあるのかということなんですが」
「ルーフはオプションで付けるかつけないか……工務店に問い合わせてみます」
「いやいや、屋根がないと暮らせませんし」
「あ! 壁なら許されます……あ、もしもし、今ですねえ、御依頼主さんから質問がありましてえ……ええ、ええ、大至急! 屋根って付くんですかねえ、あ……そうそう。いや、光は必要でしょう。太陽光が入らないと……ですよねえ!」
 電話を切って、その人はボクに答えた。
「ガラスのルーフか、パーゴラでよろしくお願いします」
「日陰の植物には屋根が必要ではないでしょうか」
 ボクが答えると、その人はにっこり笑ったまま、再び電話をかけ始めた。
 やれやれ、だ。


 ボクは家庭菜園にも、庭園作りにも、花見にも縁がない男だ。
 大自然の中に放り出されても、今夜の食事すら満足に見つけられない、進化しきってしまったサルなのだ。家の中に森ができても、落ち着くことはない。外敵にさらされたこの環境もどうかと思う。壁と屋根で囲った方が、安全に寝られると思うんだが。
 フィエム村に来たのは、偶然からだ。
 本屋に行ったら、どういうわけか、この村に着いていた。
 いや、上手い説明ではないな。ボクは本屋で旅行雑誌を探していた。地球の歩き方、とか、海外旅行の手引き、とか、トラベルストーリー、と言った類のものだ。旅行に行きたかったのは事実だ。同時にボクは格安航空券の情報誌も読もうと考えていたのである。
 付き合っている彼女は「サムイ島に行きたい」と言っていた。
 サムイ島ってサモア島のことかな? いや、サモアってのも何処にあるんだよ?
 寒い、サムイ島、なんてさむいジョークを言いながら、本屋に入って、地図を探した。旅行計画を立てるにも、その島の位置と使える航空会社を予想しておきたいし、日本との時差とか、距離とか、通貨のこととか、調べたいことはたくさんあった。
 だが、手に取った地図がおかしい。
「ベンジャミン島はフィエム村から五十四万キロの位置にあります……ちょっと待て。地球は円周距離で四万キロだぞ。どうして、十周以上周らなくちゃいけないんだ? 印刷のミスかな」
 ベンジャミン島なんて興味はないよ。でも、その表記が気になった。
 五十四万キロの何処が誤植だ。万という文字かな。では五十四キロ? 近くないか? フィエム村って何処なんだ。ベンジャミン島との間に海があるのか、川があるのか、湖があるのか、その村と島の関係は何だ。
 そんなことを考えながら、地図を見ていたけど、ボクの知っている地理が全く出てこない。日本の位置を示してくれないと、日本からフィエム村にも行けないじゃないか。ベンジャミン島ってのは、日本からは何キロ離れてるんだ。
 妙な本があるんだな、と思いながら、他の雑誌を手にとって見たけれど、全ての本に共通して書かれている地名が、フィエム村、である。何だろうか、この本屋は。
 店の中をざっと見回し、知っている本を見つけ、ほっとした。
 地球の暮らし方、と書かれた本だ。世界各地の都市名が書かれてある。何だよ、あるじゃないか、ニューヨークとか、パリとか、カイロとか、フィエムとか。
 フィエム?
 ボクはその本をとって、表紙を見た。フィエム村のイメージを知ったのはこの時が初めてだった。ニューヨークのイメージが摩天楼だったり、パリのイメージがエッフェル塔だったりするのと同じく、シンボルとなるものがイラストで描かれてある。
 フィエム村のシンボルは、庭、だ。ボクにはよくわからないけれど、緑の生い茂った家が描かれ、小さな小人が三人、手を繋いで首をかしげている。妖精の国か。おとぎの国か。そういう風景の美しい場所がフィエム村なのか。
 少し前に、ファンタジーブームがあったせいで、世界各地でそういう観光地が売れている。たとえば、イギリスの湖西地方、とか。なんとかラビットの故郷が売りの観光地だ。
 オーケー、そういう村か。今のボクには興味はなし。
 彼女は海辺のリゾートに行きたがっているんだ。サムイの情報を探そう。
 で、本棚にその本を戻したら、ボクの額に別の本がこつんとぶつかった。一冊だけ飛び出た格好で「フィエム村のグルメ」と書かれてある。だから、フィエム村なんてどうでもいいって。ボクは目の前の本を指で押して、中に入れる。で、少し離れた場所から、別の本がにゅっと出てきた。ボクが指を止めると本の動きも止まった。
 この本棚はギュウギュウ詰めになって、本を入れているせいで、一冊しまうと次の本が出てくる仕組みになっているらしい。何と迷惑な本屋だろうか。
 もぐら叩きゲームのように、本を中に入れたり、出したりしていたら、最後の一冊が勢いよく飛び出してきて、ボクの胸に当たった。題名は「地球の暮らし方、フィエム」だ。
 買うつもりはなかったが、文句を言いたくなって、その場で店員を呼びつけた。
「すみませーん! 本が飛び出してきたんですけどー!」
 店員が「はいはい、伺います!」と叫んで、奥から走ってきた。
 ボクは本を手に持って、手を腰に置き、クレームの準備は万端、いつでも口から文句を出せるように整えていたが、店員を見て、固まった。近くに来るまで遠近感が失せた。
 人好きしそうな笑顔とか、邪気のない表情とか、近くに来てボクを見上げ、首をかしげる仕草とか……フィエム村の小人にそっくり。そして、傍に来て、膝丈ぐらいの背を伸び上がらせるようにして、ボクの手から本をとった。
「ありゃあ、すみません! フィエム村の本なんて、どうしてこんな場所に置いてしまったんだろう。村の中では不要ですよね」
「え……ああ、ええ」
「でも、うちの本棚は賢くてね。この本があなたには必要なのかもしれないですよ。あなたは、この本をお勧めされたんでしょう。近々、この本が必要になります。確実に」
 お勧めされた、のかな? 本棚に意思がある?
 その小人は本をパラパラめくってから「はい、どうぞ」とボクに渡した。ボクは受け取ってから「いりません」と呟く。ボクが欲しいのはサムイ島の情報だったし。
 小さな店員に本を渡して、背を向けた。
 悪い夢を見ている気がしてきた。店の外に出た瞬間、そこは知らない場所だと認識し、時空が止まった。ナチュラルな景色が広がる。ここは森の中の本屋。
「やばい……白昼夢だという気がしてきた。ここはどこだろう」
「やだなあ! フィエム村三番地イル池前交差点ですよ」
「ここが交差点?」
 店の外には、真緑の空間が押し寄せるようにして存在していた。道が交差しているとは思わなかったけれど、目の前を小人が片手を上げて挨拶しながら通り過ぎていった。とてもナチュラルにウィンクされた。道というか、獣道が二つある。
 ボクは再び店員を振り返り、確認する。
「こんにちは、おはよう、ありがとう、さようなら」
 小人はニコニコ笑って「大丈夫です、大丈夫です、大丈夫です」と三回繰り返して、傍に来た。ボクの不安がわかるんだろうか。平静を装っているけれど、ボクは後から考えると、この時、すごい顔だったんじゃないかと思う。傍に来た小人の手を握り締め「日本語はわかりますか!」と叫んで、それから小一時間は泣きながら、思いつく限りのどうでもいい話を続けていた。日本語はわかるのか、ボクは自分の意思をこの人たちに伝えることはできているのか。
 帰り方を教えてくれ。山手線、いや、中央線でも、大江戸線でも何でもいいから駅までの道を教えて下さいっ! お金は持っています! 切符を買えます。いいえ、フィエム村のガイドブックは要りませんよっ!


 ボクはすぐに自己分析に入った。
 ファンタジックな浮世の話を求める心が生じているのだろうか。ボクは現実でそんなに厳しくて、寂しいことでもあったのだろうか。なぜ、現実を逃避して、フィエム村なんかに来てしまったのか。いや、これは夢だろう。ボクの心がこの場所を求めていたというのか? エコな毎日を送りたいと思っていたのだろうか。
「いや、ボクは野良仕事も苦手、いや、知らないし。青虫が出たらどうしたらいいですか。踏んだら、気の毒じゃないですか。いやいや、農薬を撒いておいてくださいよ」
「そんなあ! 農薬だなんて! 私たちも死んでしまうじゃないですか!」
 フィエム村の住人は農薬で死ぬらしい。
 ボクはこの村に住むことになったという。冗談じゃない、と叫んで拒否したけど、数日後には諦めた。お金もないし、数日間の宿泊をした宿は、屋根がなくて雨ざらしになったし、ベッドの大きさがあわないし。
 そろそろ失踪届が出されていてもおかしくない。警察さえ居てくれれば、ボクは現実に帰れるのに、交番がない。なんという遅れた村だろう。駐在ぐらい居ればいいのに。
 ボクのために用意したという場所に連れて行ってくれた。
 立派なシンボルツリーでしょ、と大げさに手を広げられたけど、何処もかしこも立派なツリーだらけの場所だ。毛虫は出ないだろうか。なぜ、ボクは現実の世界を捨てて、こんな場所に来てしまったのだろう。きっと、現実の方が過ごしやすいに違いないのに。
「物事には、原因と帰結があると言うけれど、どのような因果があって、ボクはここに立っているのだろうか。これは難題だな。もしかしたら、サムイ島、という不思議な名前を聞いたがゆえに、ボクの頭の中で想像の扉が開いてしまったのかもしれないぞ」
 恨み節に独り言を呟いていたら、友人になってくれた本屋の主人が「サムイですか」と笑顔で答えた。
「いやあ、いい場所ですよねー、サムイ島」
「し、知ってるんですか! まさか、サムイ島もフィエム村の近くにあるとでも!」
「ないですよ。あれは、フィリピンの領海内にあるんです」
 久々に現実的な国の名前を聞いた。フィリピンの島なんだ。熱帯じゃないか。全く寒くないだろ。氷の島だと思っていたのに。
 この本屋は現実の情報を良く知っている。彼らが外界と呼ぶ国々の情報屋なのだそうだ。フィエム村の人間も年に何回か、村の外に出たがる人がいる。彼らは本屋で情報を仕入れて旅行に行くわけだ。ボクもそうやって、この村に来てしまったのだが。
「主人、あの本屋から現実に戻る方法があるのではないでしょうか。ボクは家を作っている場合ではないのではないでしょうか」
「いやいや。ここに来るべくして来たんですよ、あなた。そうでなかったら、村にあなたの名前で土地があるわけがない」
 そうなのだ。ボクはなぜかこの村に土地を持っていた。数日間の宿暮らしを終えて、無一文になり、本屋に戻ったら、村長にこの場所に案内された。家を作るのがボクの仕事だと言う。家を作ったら、元の世界へ返して頂けますかね?
 村長の紹介で来たという大工と一緒に、家の設計図を作ることになった。
 設計図がこれまた可愛らしい。クレヨンで塗っているんですか、ドリームですね。
「耐震基準を満たしてなかったら訴えます。シロアリの駆除もよろしくお願いしますよ」
「いやいやいや! 駆除剤なんか撒いたら、私が死んでしまいます!」
 この村の住民は、シロアリ並みの生命力らしい。
 最初に行うのは基礎作りだろうと思うんだ。いや、占いを重んじるなら、地鎮祭か。日柄を割り出そう。三隣亡は避けて行ってください。
「地鎮祭って行いますか?」
「もうやりました」
 フィエム村にも地鎮祭があるのか。なまじ言葉が通じるだけに、異文化という気がしない。もっとカルチャーショックを受けると思っていたのに。ジャパニズムな村だ。
 大工が持ってきた設計図を見て、めまいがした。これは人間の住める家ではない。基礎を作ってない? 床ぐらいは張ってくれ!
「ゆ、床なんか入れたら、草が生えないじゃないですか!」
「こら! 草なんかどうでもいいよ! ベッドを入れてください。風呂上りに寝転がることもできないでしょう!」
「わかりました。では、足つきのベッドを」
「虫が上ってきたらどうするんだ! 床が先です! いや、もしかして、屋根は付いているんでしょうね?!」
「屋根ですか。この場合はありません」
 さらっと言ったぞ。問題発言を。屋根がないなら、宿屋と同じ雨ざらしじゃないか。
 基礎はない。床はない。屋根はない。ベッドは地面の上に直置きで雨ざらし。泣ける。
 結局、議論は平行線。こんなことで平行線の議論をするとは不本意だが、フィエム村の自然志向は徹底している。自然の草木を大事にしたいなら、家なんか建てるな。
 だが、また明日来ます、という大工なんて待っていられない。今夜、雨が降ったら、台無しだ。もうボクは濡れたくない。ナメクジだって嫌いだし。
 自分に割り当てられた土地なのだから、何をしてもいいだろうと思った。
 とりあえず、木の上に寝床を作ろうとしたら、本屋に叱られた。
「あなた、ダメですよー。木の上はサルと鳥の住処と決まっているんです」
「ボクはサルの一族です。もうはるか昔に木登りは忘れてしまいましたけど」
「え、そうだったんですか! では、どうぞ。あ、サルの一族でしたら、あとでアリ塚をお持ちしましょう。大好物でしょ?」
「いりません!」
 ボクの好物は肉じゃがとレンコンのはさみ揚げである。そんな和食はここでは食べれないと思うけど。本屋が帰ると、ボクは不器用に木登りを始めてみたけれど、枝の上に座ったら、とてもここでは寝られない、と思った。落ちたら怪我をする。
 それに、木の枝には、樹液を求めて飛んできた昆虫がたくさん居て、参った。
 ボクの先祖は本当にこんな場所で生活していたのだろうか。虫まみれだな。
 駆除剤を撒くことはできない。風向きによって、村の住民が大量に死んだら、ボクが犯人だとすぐにばれそうだ。殺人事件になったら、しゃれにならない。
 この虫をどうしたらいいのだろう。
 悩んでいたら、日が暮れた。まずい。真っ暗だ。
「電気もないのか! あ、イテ! 何か噛ん、いて、蚊か? ダニか、おい、こら!」
 枝から落ちそうになったけど、落ちるわけには行かない! 肌を噛まれようと、蛇にまかれようと、うわああ、暗闇って気持ち悪い!
 おかげで、眠気も吹っ飛んで、一晩中、目を開いておきている羽目に。
 眠れない夜って長いんだ。樹幹の間から、星が見えた。とりあえず、雨は降らないみたいで安心したけれど、虫と一緒に夜を過ごすことになるとは。
「文明社会に帰りたいよ」
 そんなことを呟いたら、ポケットの中で携帯の着信音がした。何気なく手をポケットに入れて取ったけど、闇の中で輝いている待ち受け画面を見て、目を見開いた。
 彼女からだ。いや! ここは電波が届くのか!
 どこに基地局があるんだ?! 文明の利器が使える?!
 悩んでいる時間も惜しい。電話が切れる前に親指で通話ボタンを押した。恐る恐る耳を近づけたら、懐かしい声が聞こえた。
「もしもしー? あ、た、しー」
「今の時刻を教えて」
「んもー、ごめんー、夜遅いのは知ってるけどさあ! ほら、眠れない夜って奴? 声を聞きたくなってえ……怒ってるの?」
「怒ってないよ。ボクも今、全く同じようなことを考えていたんだ。で、今は何時?」
 夜明けまでの時間を知りたかったんだ。それに、携帯電話の電源がいつまで持つのか自信がなかった。彼女に時計を見てもらうことにして、十分おきに教えてもらおう。そして、ボクは優先順位の高い話題を考えよう。
 彼女は少し沈黙してから「十一時」と答えた。夜明けまで七時間。よし。電源は持たない。途中で切れるぞ。何を話そうか。
「ねえ、何を考えてたの?」
「フィエム村から現実に戻る方法だよ。どうして、君からの電話が繋がるのか、全くわからないけど、因果は繋がっているはずだ。明日は携帯電話の基地局を探すことにする」
「あはは! 相変わらずユニークで笑えるー。フィエム村って何ー? 新しいゲーム?」
「冗談じゃなくて、リアルサバイバルだよ」
「基地局って? 何よ、今何処……え? サバイバル? 何それー」
 会話の途中で違和感に気がついて、沈黙した。ほんのわずかなんだけど、彼女との会話がずれた気がして。彼女も気がついたのか、二人で沈黙した。
 この違和感の原因を考えていたら、彼女が「くしゅっ」とくしゃみをした。その瞬間、彼女と行くつもりだったサムイ島のことを思い出した。
「ねえ……サムイ島のことなんだけど」
「うん? なあに……サムイ?」
「何処の国にあるの? もしかして、フィリピン?」
「なあに……聞こえにくいね。え? 国? うーん……赤道の方」
「赤道?」
「そうそう、フィリピン」
 わかった。時間が遅れてる。
 彼女に、子守唄を歌って、と甘えてみた。一緒に歌おう、と言ったら照れていたけど、しばらくして歌ってくれた。で、二人で歌っていたら、だんだんちぐはぐになってきて、彼女が「ちがーう!」と怒った。で、ボクは確信する。時差があるぞ、ここは。
 フィエム村からベンジャミン島まで五十四万キロ。
 忘れていたけれど、光の速度は秒速およそ三十万キロ。光が一秒以上かかって進む距離だぞ。何なんだ、フィエム村って。日本からはどれだけ離れてるんだよ。いや、ここは地球上の場所ではないだろう。月よりも遠い場所にあるぞ。
 論理的に考えようとするとおかしくなる。
 どうして、本屋に入ったら、フィエム村に着くんだよ。あとで、神田まで古本屋もまわろうと思っていたのに。本郷なんか立ち寄るんじゃなかったよ。
「どういうこと? 今、東京に居ないの?」
「居ないみたいだ」
「一人でサムイに行くなんてひどいよー」
「二つほど訂正したい情報がある。一つはボクが来たくてこの場所に来たわけではないということ。もう一つはサムイじゃなくてフィエム村だ」
「その場所って、電波が悪いね。はあー? 訂正されても……んもー」
 要領を得ない会話だ。電波は光よりもさらに速度が遅い。再び彼女に「今、何時?」と聞いてみた。彼女は呆れた声で「わかりました、もう切りますー」と拗ねてしまった。ボクは慌てて「切らないでー」と叫んで引き止めた。危ない子だなー、もー。
 携帯がいつ切れるかわからない。
 彼女と繋がっている間に、助けを呼ぼう。なるべく急いで。
「ボクは今、フィエム村の新興住宅地というか、何番地だったかな、村の東側にある土地に家を建てることになってるんだけど、訳がわからないんだ」
「だからフィエム村って何ー? 村のことを言われたって……え? 家を建てるの?! きゃー、すごーい、一軒家あー、家持ち、家持ち。何処の村? 遊びに行くー」
「来れるものなら迎えに来てよ。本郷にある本屋から来たみたいなんだけど、本屋の名前を忘れたよー。変な地図が置いてあってさあ。サムイ島の情報を調べている間に、テレポートしたらしいんだ。おかしなおとぎの国みたいな場所で、周りが日本語を話す小人だらけで、家には屋根がなくて、舗装されていない道路は細すぎて泥だらけ、布団はないし」
「はいはい、何よー、フィエムって何なの? テレポートってウケルなあー。アセンション? 宇宙人にさらわれちゃったあ? フィエム星人って奴? はっはっは!」
「ジョークは辞めてよ。マジでそんな気がしてきたよ。ありえないぐらい背が低いんだ。あれって、宇宙人なのかな?!」
 ボクの彼女の妄想力はたくましい。農薬で死ぬ奴らだし。人間離れしている。本当に宇宙人かもしれないぞ。ボクはさらわれたか。友好的な星人だといいけど。
 ダメだ。リアリティのない話を続けても、電話を切る頃には、彼女はジョークにして忘れてしまいそうだ。違うんだ。ボクが今体験しているのは全て現実の話だということを伝えなくては。どうしたらいいんだ。この妄想系女子の信頼を得るには。
 考えていたら、予想通り「明日デートしようよー」と言ってきた。ボクは気軽に帰れない場所にいるんですよ。現実を実感したくて「最後に会ったのはいつだった?」と聞いてみた。彼女は少し怒った声で「一週間も無視されたあ」と呟く。時間の流れは間違っていない。くそ。アインシュタインは何をしていたんだ。時間にゆがみを作っておいてくれ。
 ダメもとで彼女に念を押した。
「あのさ、フィエム村の場所を調べてくれないかな。自分がどうやってここに着たのかわからない。帰り方もわからないんだ。それから、この村は電気がない。携帯の電源が切れたらおしまいだ。明日の夜、また電話するから、一度、切るよ」
「ねえ……そういうさあ……べたべたの言い訳をどうして言うのかな。何よ、浮気でもしてるの? 電話を切りたいって事? てか、あたしとは縁を切る?!」
「非現実的だよ。どうしたらそういう発想になるのかな。素直に言葉を聞いてくれよ。助けを求めてるんだよ。東京からフィエム村までの道を教えてくれ」
「バカ! 切りたいなら切ればいいじゃない! もう知らない!」
 で、ぶちっと切られた。ひどい彼女だ。でも、電源は守りたいので、そのまま電源をオフにする。明日の夜、繋がりますように。いや、明日は彼女に電話をするより、警察に、そうだ、最初から警察に連絡をしておけばよかった。今からでも……。
 ボクは再び電源を入れ直したけれど、かけている途中で電池がなくなった。虚しい闇夜だ。無意味な痴話げんかにバッテリーを使ってしまった。


 フィエム村には電気が通っているらしい。
「え?! あるんですか!」
「ありますよ。基地局だってありますよ。だから、電話ができたんでしょ」
「そ、そうなんです、そうなんですよ。それで、昨日は彼女と電話で喧嘩してしまって」
「で、電源が切れたと」
「そうそう」
 本屋の隣に日用雑貨を売る店があるのだが、ボクはその店に翌朝、朝食をもらいに行くついでに世間話をした。フィエム星人のこととか、携帯電話の基地局の話。充電させてくれと頼んだら、意外にもあっさりと許してくれた。
 ただし、太陽が南中に昇ってからだと。
「太陽光発電ですか? 意外にハイテクじゃないですか!」
「晴れることを祈っててくださいよ。また、お昼を一緒に食べましょうね?」
 雑貨屋の主人はつる草で編んだ袋に雑貨を入れて、ボクに渡してくれた。お金は要らないという。素晴らしい。村人はボクが一文無しだと全員が知っている。お金があるときはもらうけど、ないときはくれると言う。
 一瞬、耳を疑ったけど、お金をくれると言う意味ではないらしい。
 生活に必要な物品で余っているものなら、助け合って分け与えると言う。素晴らしい。「いやいや、昨日は美味しい血液を頂きましたし」 
「え? 血液?」
「ちょっと吸わせてもらいました。だから、これはそのお礼です」
 今、とんでもない言葉を聞いたような気がする。ボクの血液をいつ吸った?
 店主はにこやかに「お互い様ですから」というけれど、ボクはこの村では献血をしてないぞ。いつ吸った? 吸った? 血液を吸う?
 まさか……吸血鬼?! この村の住民は吸血鬼!
 血の気が失せて、早々にその店を飛び出した。食われる! このままでは殺される!
 急ぎ足で歩いていたら、本屋の前を横切った。店主は叩きで本を叩きながら「おはようございますー」と声をかけてきた。振り返ったら、にこやかな笑みを浮かべていた。だが、その笑みが不気味だ。吸血鬼……彼らは全員吸血鬼!
「昨日は眠れましたか?」
「昨日……あ。ダニだ! ダニが、ダニに食われた! お前はダニか! ボクの血を吸っただろう!」
「あ、はい。ちょっとだけ」
「ちょっとじゃない! 痛くて、痒くて眠れない!」
「でも、犬よりはサルの方がその点は寛大なんですけどね」
 嘘をつけ。サルはグルーミングをして、ノミを取るはずだ。今度見つけたら、爪先で潰すぞ。いや待て。卵が飛び散る? うわあ、お前らはノミだったか!
 闇に紛れて、何をするんだ。この小人どもは。
 ボクは目が据わってきて「血を返せ」と呟いた。店主は申し訳なさそうな顔で頭を下げて謝る。奥さんが妊娠中だから、と。知るか。栄養価の高い食品が欲しい? 知るか。
「お詫びに朝食を用意しますから」
「いらない! というか、ボクを東京に帰してくれ」
「東京? ここは東京です」
「うそだー」
「フィエム村は東京にあるんです」
 本屋の主人が嘘を言っているのだろうか。ボクは再び周囲を見回して、深い緑の森に視線を向ける。東京にこの森があるのか。西の外れだろうか。だが、携帯電話の電波が遅れたぞ。五十四万キロとか妙な表記で距離感がわからなくなったし。
 店主は空を見上げて呟いた。
「あなたの目は五十四万キロの距離に耐えられますか?」
 耐えるってどういう意味だろうか。速度のことか? 光速を超える速さで移動するものがあったら、見えるわけがないと思うんだが。
 だけど、静止している物体を見ることはできると思う。どれだけ距離が離れていても、光として認知できると思うんだ。月は三十八万キロ離れているけど、地球上から裸眼で見ることができる。ボクの視力でも、月の見かけは1度程度の大きさを持っている。小指の太さとほぼ同じ大きさ。
 距離に耐えるってどういう意味なんだろうか。
「空の彼方に、何が見えますか? あそこに……東京タワーがあるのがわかりますか」
「東京タワー?」
 芝公園にある奴だ。空の彼方、と言われたが、ボクは無意識に東の空を探していた。東京は西の方が自然が多い。二十三区は東にある。東京タワーは東の空だと思っていた。
 だけど、しばらく上を見ていたら、森が消えたことに気がついた。
 草の匂いが消えた。代わりに、コーヒーの香りがしてきた。
 そして、南の空を振り向いた時、小さな東京タワーがビルの間に見えた。
 はっとして周囲を見回したとたん、街の騒々しい音があふれ出した。信号機が点滅し、通りに車が行きかう。白昼夢を見ていたのだろうか。ボクはふと足元に視線を移した。
 公園の植木に尺取虫がついていた。
 花の蜜を吸いに蝶が舞っている。
 小さくしゃがんで地面を見たら、小さな交差点が見えた気がした。この場所はフィエム村三番地イル池前交差点ではないだろうか。雨が降ってできたと思われる小さなくぼみが傍にあった。信号待ちの人たちがボクらの目の前に立っている。ここは本当に交差点だ。
 公園越しに携帯電話のショップが見えた。充電しよう、と思い、ボクは立ち上がる。
 サムイ島の場所もわかったし、彼女に詫びの電話でも入れようと思った。公園を横切って、携帯のショップの前に来たら、彼女が隣の本屋から出てくるのに遭遇した。サムイ島の情報誌を持ってきょとんとしていた。彼女に「あーっ!」と怒鳴られた。嘘つきじゃないって。さっきまで、フィエム村に居たんだってば。
 多分、ボクは彼らに食料を提供するために呼ばれたのだろう。そのために、ボクの土地まで用意して……迷惑なダニたちだな。今度行ったら、絶対に屋根と床をつけてもらおう。
 いや、もう行きたくありませんけどね。



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