57 白馬の姫君
泣いている姫にケタルは話しかけた。
「姫さま、ウルフェウス殿下は噂なんて、全く信じておりませんでした。兄上さまのことはそういうことをする男ではないと断じて、兄の名を汚すなと怒っておられましたし、姫の無実も知っておられると思います」
姫の侍女も頷いて彼女に話した。
「殿下は、姫さまのこと……よく理解されておりましたよ。侍女を国境まで迎えに行くような心のあったかい女性で、すごく照れ屋で、かわいくて、礼儀正しくて、強くて、曲がってない、と仰って……あの方は外見で人を判断するような方ではありません」
「そうですな。女の肉体のみを求めるような方でもございませんでしたぞ。夜伽に呼んだ女もすぐに追い返してしまわれましたし」
侍従長の言葉を聞いて、セレナと同室に暮らす侍女がきつい目つきで彼を睨んだ。彼女は「セレナが巻き込まれて可哀想だったわ!」と侍従長を叱った。侍従長は苦々しい顔で「反省しておる」と素早く謝る。
アリシアは教師の腕の中で、首をふっていた。彼女は「もうやめて、やめて」と言い続けていた。彼の話なんて、知りたくない。本当の話を知れば知るだけ、自分がどれだけ彼を傷つけたかと想像して怖くなった。その事実を見つめるのが怖い。
姫を抱いて守りながら、教師が話しかけた。
「本当のことは、ご本人の言葉でしかわかりません……殿下の言葉を聞きなさい。自分の言葉で話しなさい。真実を自分の心で知りなさい。追いかけなさい」
姫が彼らを見上げたら、教師は彼女を強く抱きしめて「自分の意志で決めなさい!」と言いながら泣いた。彼らがそんなことを言うとは思わなかった。自分を守る彼らの腕は弱く頼りなかった。それでも、彼らは姫を力いっぱい抱きしめてくれた。その中に留まっていたのは、自分の意志だったのだ。
傷つきたくなかったから、弱い人間たちに鎧を着せて、囲われていた。
アリシアはすぐにその腕の中から飛び出した。
姫は傍にいた衛兵から小さな剣を抜いて、走り去った。彼女はそのナイフで自分の体を締め付けるドレスを切り取った。馬に乗るのに、邪魔だったからだ。重たいスカートを切り落とし、兵士らが走りながら差し出してくれたマントを体に巻きつけ、馬に乗る。
城内を走って行くと、城門から戻ってきた騎士たちがびっくりした顔で「姫?」と叫んだ。彼らに「城門を開けて!」と叫び、門の隙間をすり抜ける。
ウルフェウスの馬は速い。国境まで彼はわずか数日で走破したという。姫は怯えたまま不可能だと考えた。彼女の足では彼に追いつかない。追いつけなければ、もう彼には二度と会えなくなるのではないかと思った。一度、この国をでたら、彼はきっともう戻っては来ない。消え失せろと言えば、本当に消えてしまう人だったからだ。
彼女は「間に合って!」と願いながら、城の外に飛び出した。
セレナはそんな姫とすれ違って、びっくりした顔で見送る。姫が王子を追いかけていると感づき、彼女は大急ぎで追いかけた。姫の馬は速い。あっという間に地平へと向かう。しかし、その行先を見たセレナは真っ青になり「姫さまー、もっと南ですー、南ー!」と叫んだ。姫にその声は届かない。セレナは泣きながら二人の無事を祈る。
姫と王子の進む道は袂から大きく分かれていた。
アリシアはそれから三日三晩走り続けた。自分の国は小さいと聞いていたが、実際に目にすると広々として見えた。馬の背から見える世界は大きく、豊かで自由だ。
馬の背には身を守る覆いがない。風がそのまま自分の髪を揺らし、心地よく吹き抜けていく。自由で明るい世界が見えた。王宮の外に色とりどりの美しい世界があることを初めて知った。馬があれば、何処へでも自由に走っていける気がした。彼が馬の上でどれほどの自由を感じているのかを実感する。流れていく風と景色の美しさに心を惹かれながら、彼のことを想っていた。
彼女は焦りながら馬を走らせる。彼はもう国境を越えただろうかと考えると、切なくて、止まることができない。馬は悲鳴をあげたが、姫は無理やり彼らを叩いて前に進ませる。
彼は太陽のように明るくて強い光で、全てを照らした。彼は月夜に慣れていた自分を混乱に陥れて、外に連れ出した迷惑な男性。自分の醜い部分も、美しい部分も、愛すべき部分も、見たくないと思うところも全て白日の下にさらけ出されてしまう。慎ましく覆っていた仮面を取りさり、その下に隠しておいた、矮小な自己をえぐりだされる。今まで、自分はもっと大人しいと思っていた。今まで、自分はもっと規律正しいと思っていた。今まで、自分はこんなに非常識な人間ではないと思っていた。
一人でこんなことができる人間だとは思っていなかった。
彼といい思い出なんて全然ない。彼の言葉や行動を思い出すだけで苦しかった。何一つ思い通りに行かない。何一つ理解できない。自分の知らない場所で知らない世界で生きてきた男性だ。自分の持っていた常識が通じない。
彼を愛しているかどうかなんてどうでもいい。
彼に愛されているかどうかなんてどうでもいい。
ただ、彼をもっと知りたい。彼のことを何も知らないまま、彼を見失いたくなかった。
一週間後、彼女はある村の外れに到着する。
ほとんど飲まず食わずで国境を目指していた彼女は、最後には意識が消えていた。ふらふらになって馬から落ちてしまう。馬は既に彼女の制御を離れ、自由に散策しながら草を食んでいる。その馬は運命の赴くまま、本能のままに旅をして、彼女をそこへ連れてきた。
草原を耕していた村人たちは、あわてて彼女を抱き起こし、水を与えようとしたが、姫はひどく熱が出ており意識も朦朧としていた。
彼らはラグという男のもとに彼女を連れて行った。
ラグはこの村で農具を直したり、金具を打ったりして働いていた。カヒン村と連絡をとりながら、二つの村を結ぶ街道の建設責任者にもなっており、いまでは村にとって無くてはならない用心棒だ。不審なものを見つけたら、まずは彼に相談する、というのがその村の常識になっていた。
「ラグさん、ちょいと不審なご婦人を見つけたんだがね」
彼らは工房へやってきてアリシアを預ける。ラグは義肢を動かしながら、頭をかいた。
「何だこりゃ? これは大層な美人だ。何者だろうな……うーん」
ラグはアリシアが乗ってきた馬を見て、馬具に着けられた紋章を見る。
彼は記憶を引っ張り出して答えた。
「おいおい、こいつはこの国の姫さまだぜ」
「んなわけあるかい。あははは」
「はは……まぁ、そういう噂をカヒン村の賢者に伝えてやんな。それまで俺がこいつを預かっててやろう――アリサ! 薬草を出してくれ。旅人が熱を出して倒れている!」
彼は部屋の奥にいる盲目の少女の名を呼んだ。ラグと一緒に暮らし始めた身寄りのない少女は「はーい」と明るい声で答えていた。村人たちはアリサの元気な様子を見、ほっとした顔でラグの家を出て行く。
二人の王子がカヒン村に到着した。
さすがのウルフェウスも数日なんて超特急の速度ではやってこなかった。帰路は馬を乗りつぶす余裕はない。朝に出て、昼前まで駆けたら、ゆったりと休憩して、午後に少し歩かせるような、そういう速度で馬をいたわりつつやってきた。
また、兄が一緒なので、野宿というわけにもいかず、結局遠回りして街道沿いに宿をとりながらゆっくり旅を続けていた。往路に比べ、贅沢にも朝晩の食事とベッドはついたものの、退屈なことこの上ない。
戻ってきた賢者の姿に安堵した村人らは、村を上げての歓迎振りだ。ウルフェウスは自分とは待遇が違うと思って不機嫌になる。ピピネを祭り上げ、彼らは早速相談の嵐。
「おらの嫁が飯を旨く作ってくれねえ。何であいつは飯がまずいんだ?」
「もうすぐ家畜が子を産むんだがね。丈夫な子になるようにおまじないをかけてやってくれんかね。いい名前も付けてやってくれんかね。来年孫が生まれるし」
「便所が壊れた」
「ほら、なんだ、あんた、ようやく帰ってきたんだな。うん、あ、それで、うん、話が一杯あってね。何から話そうか」
「何度言っても、爺の徘徊癖が直らないの。何とかして頂戴」
ピピネは疲れた顔で「とりあえず馬から下りてもいいか」と声をかけた。到着した早々彼らの話を聞き、うんざりした。隣で弟がいつの間にか気の毒そうに兄を見ていた。
為政者の仕事はとどのつまりは親切からくる世話焼きだ。馬から下りたピピネは彼らに歓待されつつ、日々の生活の愚痴やら雑談に付き合い、アドバイスをしたり大笑いして慰めたりしていた。ウルフェウスは兄の姿を見て、もっとも原始的な政治の姿を知る。自分がこれからするべきことは、戦ではなく、対話であると気がついたのだった。
一人の老婆がよちよちと集会場へやってきた。ウルフェウスは彼女を見て「あ、ばあちゃん!」と声を上げたが「おめ、誰だ?」と返答されて落ち込んだ。
「婆さん、俺のこと忘れているんじゃねーだろうな?」
「うん? どこかであったっけな」
「俺が王子さま、と言っても覚えてないな?」
「はあ? おめが王子か。あははは、まずはいい男になりな」
「うん、わかったぜ。どうやらここに、ラグはいねぇや」
彼は苦笑いして彼女を見つめた。老婆は朗らかに「こわっぱ、なっさけねー顔して……腹減ってるのか?」と声をかけてきた。王子は笑ってしまった。
老婆はピピネの傍に来て「おめ、誰だっけ?」と呟いている。ピピネも「また自己紹介か」とうんざりした様子で呟いた。
その時、村の入り口に白い馬がやってきて嘶いた。ウルフェウスはドキッとして走って行く。自分の愛馬を見つけて飛びついた。優美な白馬に抱きついて再会を喜んでいたら、馬の後ろに引かれた荷馬車から人の声がした。
「賢者はいるかぁー?」
「てめーら、俺の馬をこんな風に使いやがって。賢者ってのは誰だ」
「名前は知らねーよぉ。俺は隣のゾイ村から来たんだが、アドバイスを貰いたい。村に白馬に乗ったお姫様が来たんだが、どうしたらいいかな? あれ、お前、珍しい黒髪をしてるな。何処から来たんだ?」
ウルフェウスは彼の話を聞くのが面倒になって、兄を呼んだ。ピピネはゾイ村の使者から手紙を受け取る。封を切ると中から紙に書かれた王家の紋章が出てきた。ピピネはしばらくしてその紋章の意味に気がついた。
彼はギョッとして弟を振り返り「ゾイ村へ行け」と命令した。早く自国に帰るべきだと言いはる弟を叩きだす。ウルフェウスは渋々自分の馬にのって近隣の村へ出向いた。
その村で彼は懐かしい男を見つける。
「ラグ! なぁーんだ、お前はこっちにいたのか」
「お……おおお、何と呼びかけたらいい? ウルフでいいのか?」
「へへへ、気がついたなら黙っていな」
村から少し外れた場所にあるラグの家には、白馬が繋がれていた。彼は自分の馬を見下ろして、首をかしげる。
ラグは白馬を二頭持っていたようだ。不思議な感じがして王子は問いかけた。
「妙な噂を聞いたんだが、白馬のお姫様って何のことだ?」
「ふふ。俺があの高貴なお方の名を口にすることはできねーな」
「まさか、本当に……何処にいる?」
王子は妙な予感がして急いで馬から下りた。彼女は国境まで侍女を迎えにいくような優しい人だった。そんな無謀なことをする姫なんて、世界中を探してもきっと彼女しかいない。だけど、彼女が本当に自分を迎えに来てくれたのか。そう信じたい……でも、信じられない。ただ、彼は真実を見るために先を急ぐ。
ラグの言葉を待たずに部屋の中に入っていく。部屋に入ったとたん、奥に横たわる金髪の女性の姿が目に入る。何も考えることができなくなり、彼は弾けたように走り出した。
抱き上げるとアリシアはぐったりして彼の腕にもたれかかった。その体はとても熱い。ウルフェウスは思わずラグに怒鳴りつけた。
「熱っ? なんでっ、てめぇえええっ、彼女に何を」
「一昨日、その方が馬に乗ってやって来たんだ」
「馬に乗って……一人で?」
「そのようだ」
彼の腕の中でアリシアが意識を取り戻して、軽くうめいた。
ウルフェウスは恐る恐る彼女を寝かせて額から出ている汗を拭う。その後、どうしていいかわからなくなり、黙っていた。腕の中で彼女はゆっくりと繊細な睫毛を揺らして、瞳を開けた。
彼女は彼を見つけると、何も言わずに涙目になる。唇が震えている。何度も口を開こうとしているのだが、その度に歪んで閉じてしまう。彼女は言葉もなく泣きながら、指で涙をぬぐった。
息苦しそうにしゃくりあげるので、そっと頭を撫でて慰める。
ウルフェウスは堪らなくなって口を開いた。
「都に帰ろう?」
びくびくして囁いたのだが、彼女はにっこり笑って頷いてくれた。笑った瞬間に、その目から涙が出てきた。彼女は弱々しく震える手をのばし、彼の手をつかんだ。
力のない声で彼女は話す。
「……一緒に」
「うん」
ウルフェウスはさっぱり応えて、彼女の手を握りかえす。彼は少しほっとした顔になり、彼女の濡れた頬を片手で撫でて涙をぬぐった。姫はその手のぬくもりを味わうようにして目を閉じる。彼女が本当に自分の傍にいると信じられない。夢のようだ。
彼はそっと近づいてキスをしようとしたが、途中でその動きを止めた。
彼女に握られた自分の手を見て、彼はうれしそうな顔になる。壊したくない。失いたくない。このまま、時を止めてしまいたい。それ以上のことを性急に求める気持ちは失せていた。彼女の傍にいたい。彼女は今ここにいる。
国境まで迎えに来てくれたのだ。
彼女自身の意志の力で殻を破り、誰よりも早く走ってきた。走る彼女が好きだった。彼女に追いかけられる男でいたい。
彼は静かに彼女の傍に寄り添った。優しい笑みを浮かべたまま。
彼は姫とその村に滞在した後、再び都へ戻ることになった。弟はもうこの国の王子になったのだと悟り、兄は一人で帰国することになる。次にウルフェウスが自分の祖国に戻ったのは、婚約の報告を実父にするための帰郷であった。
彼は以後、ザヴァリアの王子となったのである。
都へ向かう前夜、ラグが王子に飢血石の欠片を返し「ここに銀は無い」と答えた。王子は改めて彼に銀山の位置を教えたが、ラグは「崩落した山にはもう草木が生えているだろう」と答えてその事実を誰にも教えなかった。ラグは既に無欲の価値を理解していた。彼自身が奪った銀貨だけでなく、国境の兵士が賄賂で受け取った銀貨すら、返してしまう。
ウルフェウスは戻ってきた自分の銀貨を土に埋めなおした。そして『この土地に銀が出る』という噂が流れたらここを掘らせろ、と命じた。『鮮血刃の悪魔』と『赤毛の鬼神』の顔が彫られた銀貨を見つけたら、きっと怖くなって誰もこの土地を襲わないだろう。そんな呪いをかけてから、彼は朝日の髪を持つ女性と共にその村を去ったのだった。
その呪いの硬貨は以後一度も発掘されたことがない。鮮血刃の悪魔の噂よりも、片目の大男の存在の方が、現実には恐ろしく、この近辺に盗賊の類は現れなかったからだ。いつしかその土地には『一つ目の美しく大きな銀鬼が人を喰らうから、悪しき心を持つ者はこの土地には入れない』という伝説が生まれるようになるが、賢明な読者にはその噂の真相がもう理解できていることだろう。
ちなみに、例の銀山は後に、婚姻にまつわる動乱と共にウルフェウスによって開発されることになるが……それはまた次のお話で。
了