ミラージュ・ラ・オードゥース1

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 今日は五十を超えるという。その言葉を聞いて、華氏なのか、と冗談を返したが、儚い笑いが沈黙の中を返ってきた。ジョークのわからない連中だ。
 外に出るのは、自殺行為だった。
 窓は開けるな、エアコンを入れるな、日差しに当たるな。そうは言っても、窓辺から逃げる術もない。熱砂の中を進むドイツ製の軍用ジープの窓には、全て遮光シートが張られているが、後部座席はうだるような暑さだ。
 吹き出した汗を拭い、自らの身がバタートーストになるような錯覚を味わった。車内の温度は生命維持限界温度を超えている。普通ならエアコンを入れるところだ。しかしながら、彼らは分厚い布を羽織って空気の断熱材をまとい、この天然サウナをたんのうしている。
 夕暮れになるまで外に出ることができず、俺たちは月下で砂漠に入る。だが、一度入れば、オアシスに着くまでは、昼も夜もない。結局のところ、直射日光の下をオーブン状態のまま移動する。
 平坦に見える土地は一度も見なかった。水平の境界線はどこにもない。時々刻々と景色が変わっていく。道標もない、大海原のように滑らかな大地。崩れ去る山脈の連なりが生きている蛇のように曲がりくねって、時間と空間を奪う。
 今、俺たちはどこにいるのか。わからなくなる。
 わずかな湿り気をかぎわけ、どこから湧いてきたのか、ハエと蚊が肌の露出している場所という場所を襲ってくる。分厚いマントを頭からかぶって、もそもそと食事をしていたら、運転手に笑われた。無駄な努力だと言う。
 スープを飲めるのは贅沢な方だ。しばらくすると調理に使える水はほとんどなくなり、持っていった石榴をかじって水分を補給しつつ、簡易栄養剤を取るようになった。
 体は引き締まり、水が抜けて血が濃くなっていくような気がした。体臭もきつくなる。
「美味そうな体になった方が、砂漠の女王はお気に召すだろう」
「砂漠の女王は吸血鬼なのか?」
「そうだ。こいつらは女王の僕だからな」
 彼らはそう言って、張りついている蚊を大きな音を出して叩く。既に腕のかゆみは麻痺しているが、彼らに習って、しばらく蚊を殺していた。が、きりがないので諦めた。蚊によって媒介されるマラリアには二年前に罹患したことがある。現地の人間が一緒なら、大した問題にはならないだろう。薬草の煎汁を飲まされて、寝かされるだけだ。
 この砂漠では救急医療を望めない。病にかかればどれだけ急いで街に戻っても、一日かかる。生きるか死ぬかはもはや神の手にゆだねられている。
 俺たちはひたすら「水の幻」を目指した。
 この旅の目的は、熱砂に存在する幻の遺跡を確認することだった。その遺跡は、空中に浮く水の城だと言う。この熱地獄の中を? おそらくは蜃気楼だと思うのだが。


 捕らわれの女王がいるという噂が流れていた。異国でよく聞く御伽噺の一つだ。夢幻空間の中で永遠に生きる女の話だった。最初、俺はモロッコでその話を聞いた。
「美人なのか?」
「先生の好みに合うかどうかわからないけれど、月光の似合う姫さまだ。もう三百年は生きているらしい。先生はそういう化け物が好きだろう? 市場(スーク)に行けば、もっと詳しい話を聞ける。その姫さまは空中庭園に捕らわれて、永遠の命を手に入れたんだ」
「胡散臭い情報だな。噂の空中庭園という遺跡は、バビロニアだろう?」
「違うよ。サハラにあるんだ」
 聞いたことがないぜ。だが、そういう酔狂な冒険が俺は好きだ。
 マラケシュからカサブランカにいる雑誌編集者に連絡をして、取材費の申し込みをした。いつも通りの契約で、出来高払い。噂の真相はまだ不明だ。支社にいる編集者は俺と同じ言葉を返した。
「胡散臭いな。ぼったくられるぞ」
「サハラの写真を一枚撮ってきてやるよ。いい具合に蜃気楼が現れるといいんだが」
「始めから、ガセネタ狙いか。よほど巧い構図でないなら、買わないぞ」
「巧い構図ならいいんだな?」
 こんな調子で売り込みを終え、旅の準備に入った。
 蜃気楼の現れる条件は大気層の密度差にある。寒暖の差が激しく、地形がなだらかで風がほとんどない場所。そして、古代遺跡が空に浮かんで見えるようなロケーション――マラケシュ大学にいる知人を訪ねて、そんな地形をコンピューターで計算してもらう。
 その頃、モーリタニアに出向いていた知人から連絡が入り、メディナにあるスークで食事がてら話をすることになった。知人は、冒険を終えてガリガリになった肉体に水と栄養を詰め込み、早口で話した。
「砂漠の女王? シバの女王のことか?」
「ここはアフリカだぞ。そんな有名どころの話ではないね。ただのガセだ。砂漠に空中庭園だぞ? 俺なら地中庭園を作る。直射日光に焼かれてひどいことになりそうだ」
「うーん……砂漠に空中庭園があるという話はどこかで聞いたことがあるんだよなあ」
「バビロニアのネブカドネザル王だろ? 俺にイラクへ行く予定はない」
「マリの方で聞いたような気がするんだよなあ。蜃気楼だったかな?」
 彼と情報を交換したら、再び大学へ戻る。大学でコンピューターのはじき出した地理を印刷し、夕方には再び市場へ戻る。この時の俺はセネガル行きを考えていた。ダカールから東へ向かい、サヘル地域を東進するつもりで旅の支度を始めた。万が一、蜃気楼を写真に取れなくても、マリからニジェールにかけて旅をすれば、遺跡と共に何か撮れるだろうという思い込みがあったからだ。
 スークは夕方から労働者が入り乱れて、飲食店がにぎわっていた。彼らの間を潜り抜けるようにして、雑貨屋へ急ぐ。旅の道具を調達するためだ。
 近頃は、モバイルも売っている露天の商店を歩き、傍を通る子供の群れに注意する。体に触れそうになったら、くるっと周って逃げた。彼らは人懐っこい顔で笑いながら、はやし立てる。俺は片手をあげて応えたが、スリを警戒して人間の体にはぶつからないように歩く。この街で外国人は目立つ。だが、もうここに暮らして長い。顔見知りも増えた。
 普段から使っている雑貨屋で大判のシートや衣料品を購入し、食料品、飲料水、レンタカーの予約を行う。俺と一緒に働いてくれる買い物上手がその商店にいる。彼は手馴れた様子で俺の望みどおりのリストを作り、明日の朝にはリストと調達の可否を知らせてくれると言う。準備を彼に一任して、店を出る。
 俺は写真の準備だ。
 輸入品を扱う商店に入ると、店主はもう俺の顔を記憶していたらしく、冷蔵庫の中から真新しいフィルムを出してくれた。詳しい旅の日程はまだ決めていないが、試し撮り用に幾つか購入して雑談をする。
「あんた、『女王の城』を撮るのか」
「女王の城? 三百年生きているって奴か?」
「ああ。水の女神が棲む。その城は魔術がかかっている。行くのは辞めたほうがいい」
「おっとっと。キタよ、魔術ネタ。編集部が喜びそうだ。場所は?」
 店主の忠告を無視して訊ねたら、別の客が入ってきて、早口で注文を始めた。店主は一度、片手をあげて俺に待つように合図をしたあと、商品を店の奥に探しにいった。
 店先でその客と共に、重々しい空間を過ごす。目があったので、軽く笑ってみたが、神秘的な瞳で直視され、軽く咳払いして目をそらした。
「南に行けば、お前は死ぬだろう」
 不意にそう声をかけられた。警戒心と共に振り向く。店の中が不意に暗くなったように感じられた。その男は静かな目をしていて、髭がなく、異様に白い肌を持っていて、頬がこけて見えた。まるで生きている骸骨のような。
 とっさに、言葉を聞き間違えたのだと思い、軽く首を振って、目をそらした。
 男は俺に近づいてきて、再び声を出した。
「東へ行けば戻ってこられない……女王に近づくのは止めた方がいい。あなたはまだ若い」
 その時、閃きがあった。俺が待ち望む情報を彼が持っているように思えたのだ。
 彼をふりかえって口を開こうとした時、店主が戻ってきた。店内はもう元の明るさを取り戻しており、市場の騒がしさが耳に入ってきた。音の洪水に襲われて、一瞬、気が遠くなる。目の前にいたのはまだ十代の子供だった。彼は小さな手で金を店主に渡し、品物を受け取ると飛び跳ねるようにして店を出て行った。俺に話しかけていた男は店の中にはいなかった。幻を見ていたのかもしれない。
 店主は元の場所に戻って腰をおろし、俺に声をかけた。
「あんた、死神にでもあったような顔をしてるぞ。疲れがたまっとるんだろう」
 俺は自分の顔をさすりながら、笑みを浮かべて平静を取り戻そうとした。死神……あれはそういう類のものだったか。俺は会ってはいけないものに会ったのかもしれなかった。
 店主は少し優しい顔になって、俺に取れたてのオレンジを手渡した。小さな贈り物が身に染みる。俺は明るい色の果物を手に持って、彼に礼を言った。店主は「今日は早く休みなさい」という。彼からはそれ以上『女王の城』についての情報はなかった。
 翌朝、俺は迷っていた。商店の息子が旅に必要な物品のリストを作って、俺のアパートにやってきたが、資金の話をしながら時間を潰す。今すぐに出発するつもりではないと悟ったのか、しばらくして彼は雑談を始めた。
「マリへ行くのは止めたほうがいいかもしれない。内戦に巻き込まれるかもしれない」
「そんな話は珍しいことではないけどね」
「でも、先生はそれを恐れているんじゃないのか? トンブクトゥ周辺にある聖墓が内乱で破壊されたという話を聞いたよ。止めたほうがいいのかもしれないよ」
 南へ行けば死ぬと言われていた。俺は反論することなく彼の話を聞いた。静かになった俺の様子を見て、彼は少しほっとした顔になり「先生、たまにはジャマ・エル・フナに行かないか」と呼びかけた。ジャマ・エル・フナはマラケシュ最大の広場だ。観光客に紛れて、大道芸でも見学しようというのか。
 俺は重い腰を持ち上げた。フィルムの試し撮りのため、彼を誘って広場へ向かう。
 ジャマ・エル・フナでは、行きかう人の群れに紛れて、ベルベル人たちの芸が披露されている。色鮮やかな民族衣装を着て、弦楽が鳴り、華やかなダンスが始まる。出店の間に渡されている赤いファサードの間を渡り歩き、被写体を探して迷路のような道を行く。スパイスと共に、香木を焚く懐かしい香りがした。
 商店の狭間に揺れる幾多の色布。赤いタオルが幾重にも連なって吊るされた空間の奥に、薄暗い通り道があった。そこに青い瞳を持つ黄金の猫が座っている。
 一瞬、ドキッとして足を止めた。その青い瞳に惹きつけられた。
 周囲を見て、商店の息子を探したが、彼は隣の店で靴を見ていた。
 再び猫を見て、カメラを構える。その猫がゆったりとした動きで立ち上がり、体の向きを静かに変えた。小道の奥へ歩いていき、数歩進んでから俺をふりかえる。一度シャッターを切った後、誘われているような気がして、俺はその道に足を入れた。
 ジャマ・エル・フナには占い師がいる。だけど、俺は今までそれを利用したことがなかった。赤い布の奥に開かれた一つの扉があり、誘うように青いタイルで通りの客を招いている。黄金の猫が入り口の台座に飛び乗って腰を下ろす。奥から女の声が聞こえてきた。
「明日には、行きなさい。東へ行けば……あなたは永遠の愛を手に入れます。もうここには戻ってこられません」
 俺に向けた言葉とは思いたくない。気分が落ち込み、自然とため息が漏れた。猫は目を細めて俺の顔を眺めていた。妙な猫に道案内を頼んでしまった。
 その猫が甘い声で切なく一声鳴いた。俺は気分を入れ替える。
 案内してくれた猫に片目を閉じて、彼女を慰めてから中に入った。これが運命なら、楽しまなくては損だ。永遠の愛を待つ捕らわれの姫が俺を求めているならば、飛び込むのがロマンのある男というものだ。
 天井から垂れ下がっている青く半透明な布をまくって、中に入っていく。水の色は奥に進むほどに濃くなって、海の中に潜っていくような錯覚に捕らわれた。爽やかな香木の香りがきつくなり、しばらくして、部屋の奥に光が揺らめくのが見えた。その中に入ろうとしたら「お座り下さい」と声をかけられた。
 傍に椅子が一脚ある。占い師の顔を見られないのは残念だったが、俺は素直に腰掛けた。
「空に浮かぶ『女王の城』を探している。俺は見つけられるだろうか」
 女は一度沈黙した後、即答した。
「それはミラージュ・ラ・オードゥース(水の幻)です。あなたには見つけられます」
「オアシスのことか。逃げ水を見るのは嫌だぜ?」
 思わず軽口を返してしまったが、直後、沈黙にさらされて口を閉じた。女は布の向こうで水晶を手にしていた。両手で水晶を持ち上げて、机の上に光を落としている。うっすらと透けて見えるその動きに注視して、俺は黙った。
 占い師は白い布を体に巻いていた。それが水のように透けるような薄さで、彼女の髪色が金色であることがわかった。珍しい人間が占いをしている。俺は思わず、出入り口をふりかえって、金色の猫を思い出した。よく似た色だと思ったのだ。
 しばらくして、彼女は再び口を開いた。
「片目を閉じてください。ゆらぐように、視差の狭間にあるのです。幻ではありません。歪んだ形で感知されているのです。それは、現実にあって、現実のものではないと認識され、異界にあるようで、われらの傍にあるものなのです。ゆらぎの形が異なります。われらもまた共にゆらがなくては、城内に入ることはできないのです」
 何を言われたのか、わからなかった。だが、彼女の言葉は忘れようとしても、それから数日間は忘れられなかった――われらもゆらがなくては入れない。視差の狭間にある城――思わず、彼女の言葉どおり片目を閉じてしまった。
 視差の狭間とは何のことだろうか。
 目を閉じた瞬間に理解した。俺は現実を歪んだ形で理解していたことを。
 そこは靴屋の前だった。俺の前には、店主に靴の定価を値切る男がいた。布製の赤いファサードが店の前に垂れ下がり、店の脇にライオンの銅像が置かれてあった。まるで、黄金の猫のように。
 だが、この時はまだ信じていなかった。俺は、少し疲れているんだ、と思っていた。

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