ミラージュ・ラ・オードゥース2

INDEX

2



 蜃気楼とは、東方では「大蛤の吐息に浮かぶ幻」という意味があるそうだ。海の生物が見せる幻の画なのだ。砂漠でもそれは見られる。俺たちは大抵「逃げ水」と呼ぶのだが。
 近づいたオアシスが逃げていくように見える。砂漠でこれほど残酷な映像はない。
 翌日、俺は占い師の言うとおり、その日のうちに出発することになった。
 ジャマ・エル・フナから戻ってきたら、カサブランカにいる知人から仕事の依頼メールが来ていた。空中庭園の噂の真偽は不明だが、アルジェリアにある「水の記憶」を写真に収めることになる。仕事の依頼料と条件を確認し、すぐに承諾の返事を書いた。
 アルジェリアの東南部、サハラ砂漠の最深部にあるタッシリ・ナジェールはかつて水と緑の豊富な場所だったという。タッシリ・ナジェールとは「川の多い台地」という意味だ。紀元前8000年ごろに描かれた壁画には、水辺の生物と思われるものが描かれ、狩りをする人間の姿もあるという。今は広大な岩砂漠に点在するこれらの遺産を写真で記録する。
 だが、俺に正当な学術記録写真なんて彼らは求めていない。あくまで、旅行雑誌に使えそうな劇的な一枚を期待されているのだ。野宿を覚悟で約一ヶ月の旅程を組んだ。
「アルジェリアは国土の八割が砂漠だ。経済は地中海沿岸部に偏在しているが、かつては南方にあるマリやニジェールへ商隊が出て栄えた」
「南へは行かない。イスラム原理主義のテロもトゥアレグの内乱も避けたいね」
「アルジェリアも安全とは言いがたいな。クーデターのせいで、イスラム原理主義派のテロが相次いでいる」
「砂漠でテロはないだろ」
「世界遺産は狙われやすい。トンブクトゥの遺産を狙ったのはイスラム原理主義だった」
「嫌だねえ」
 おかげさまで、軍用ジープなんて借りてきたそうだが、そんなものに乗っていたら遠慮なく攻撃されそうで冷や冷やものだ。
 モロッコから東の隣国へ向かう。マラケシュを東進し、オートアトラス山脈を超えた彼方に広がる砂の地獄へ。一度、城塞(カスバ)で水分を補給した後、荒野を進む。メルズーガにある砂丘を越えて、さらに東へ。アルジェリアへ向かう。
 西サハラは砂がかすかに赤みを帯びている。これをローズサハラという。
 東にのぼる太陽は神秘的だ。だが、俺は夕日の方が気に入っている。
 マラケシュから東へ行くと、山の頂にうっすらと雪の跡が残るオートアトラスに入り、四千メートル級の山脈と共にローズの大地を見る。その雄大さと寒暖の入り混じったコントラストがいい。
 山の麓から始まるカスバ街道に沿って、観光地を転々と移動する間は華やかな気分だった。モロッコ国内では戦闘の危険はない。ワルザザードから車で進むこと数時間で、メルズーガの大砂丘に到着する。滑らかな大地に感激するのはここまでだ。夕日に彩られる美しいエルグ・シャービ砂丘を一枚撮ったらすぐに出発する。観光客ならば、この後は駱駝にでも乗って、生ぬるくなった風と共に宵を優雅に楽しむのだろうけれども。
 星空の下で出国手続きを終えた。滞在の目的はここではない。メルズーガからアルジェリアの国境までは近い。ここから先は荒野しかお目にかかれない。
「次のオアシスまで一気に行こう。夜の間にアトラス山地を越える」
「俺は寝るよ。先は長いから」
「おやすみ、先生。よい夢を」
 そんな台詞をかけられ、揺れるジープの後部座席で毛布に包まって、身を縮めながら目を閉じた。まぶたを閉じる瞬間に再び占い師の言葉を思い出し、少し躊躇した。
 何か現実ではないものを見るような予感がして、目を閉じた後、すぐに開いてしまう。
 俺はそれから数日間、目を開けていられなくなるまで起きているようになってしまった。夢を見るのが怖かった。もう二度と戻れない夢幻への旅になるのだろうか。
 本当のところは、そんな覚悟はまだできていなかったのだ。
 旅に同行してくれたのは、運転手が二人と案内役のベルベル人が一人、撮影の助手が一人だ。撮影者の俺を含めて五人のパーティだが、車は二台用意する。それは砂砂漠を通るのに必要な常識だ。サハラ砂漠の砂は目が細かく、さらさらしていて水のように姿を変える。タイヤをとられた後、風に流されたら、目を当てられない状態になる。そうなる前に砂から素早く脱出する必要がある。二台以上必要な理由は、牽引だ。
 くず鉄の乗り物で何事もなく安定した走行なんて、実はありえないのだ。砂漠を優雅に渡りたいなら、時計を捨てて、駱駝に乗るべきだ。
 夜間に起こされたら、大抵は砂だらけになる作業が待っている。
 だが、初日は前日に雨が降ったらしく、珍しいことに砂丘が固くしまっていた。これは幸運だ、と車内で誰かが囁いた。俺はそれが女王の用意した貢物のような気がして、気が重い。彼女が早く会いたがっているのか、車は止まることなく、固い台地の上を滑るようにして走っていった。速度が出れば、快適さからは程遠いジャンピングで、とても寝ていられる状態ではなくなったのだが。
 オアシスとオアシスの間を渡るようにして、旅は続く。
 大抵は夕暮れ近くに出発し、月の光の下を快適に飛ばしながら進む。途中でトラブルに見舞われたら、砂のど真ん中で朝日を拝むことになる。修理キットを片手にオイルまみれ、砂まみれ、汗まみれになって、朝日なんて優雅に見ている余裕は消えている。太陽が姿を見せた瞬間から立ち上がる湯気と熱気。灼熱地獄の中を「せーのっ!」なんていう掛け声と共に車を押したり、戻したり。
 この砂地獄にも大きな蛤がいたらしい。朝日と共に現れた巨大な蜃気楼に、助手が平和な歓声を上げる。砂の轍からタイヤを救出した後、俺もカメラバックを持って走った。
 空に浮かぶオアシスだ。まさに狙っていた通りの構図で青々しい庭園が空に浮かんで見える。三脚を立てる時間を惜しんで、熱砂の上でホールドを取り、連写する。蜃気楼は現れたと思ったら、すぐに消える。大気層が熱で交流するからだ。予期していなかった場所でフィルム一本分の撮影を終えたら、太陽の角度が変わると共に幻は消えていった。
 ベルベル人が傍に来て「オアシスが近い」と笑った。一晩中働いて泥だらけになったまま、彼は朗らかに笑っている。俺は撮影を終えると「ミントティを飲みたいな」と彼に甘えた。たっぷりのミルクを入れて、爽やかなミントティを飲もう。
 アルジェリアにもミントティを振舞う習慣はあるだろうか、と話しながら、車に戻る。ガイド役のベルベル人は手持ちの茶葉でミントティを入れてやろうといってくれた。だから、俺は彼が好きだ。もてなし上手で気に入っている。
 アトラス山地を越えた辺りから、砂に悩まされ、車のスピードが落ちていく。車に乗ったほうが早いのか、歩いた方が早いのか。この砂漠にアスファルトなんて敷いても無駄だ。移動する砂の下になるだけで、明日にはまるっきり景色が変わってしまう。
 砂に囲まれて襲われた日には、陸地にいるのに沈み行く船に乗っている気分になる。砂を乗り越えれば、何もない地球の岩場が顔を出す。この殺風景な岩の上を砂が水のように行きつ戻りつしていることを実感する。風と共に急速に成長していく砂丘。不意に水のように崩れて流れていく砂紋。
 砂漠に入ってからは、空を見上げることが増えた。夜空はよく見えた。自分の行く道の未来は空が知っていた。焚き木で暖をとりながら、空を見上げ、星の姿で方角を知る。
 人間はきっと夜行性だったのだ。俺たちは夜の方がよく話し、よく笑い、友好的だった。夜の酒は格別に美味い。イスラム圏では、日が暮れてからしか飲めないと言うが、昼間から飲む必要なんてない。それも、舌に乗せて舐めるだけでも気分は上々だ。


 今や砂漠には人工の建造物が建てられている。アルジェリアは石油と鉱物資源の豊富な国だ。掘削現場の周囲は鉄線で囲まれていて、軍人が見張っている。その脇をすり抜けつつ、先を急ぐ。荒野とはいえ、生きた人間の姿はありふれていた。ムザブの谷からタッシリ・ナジェールまでは道なき道を通り過ぎる観光用の車も多い。空には文明の利器が飛んでいる。これが現代版サハラ砂漠の情景だ。
 タッシリ・ナジェールのあるホガール山地まで数日間、特に戦闘に巻き込まれることもなく、大きなトラブルと言えばエンジンルームに砂と共に飛び込んだサソリと格闘したぐらいだ。持ち物のほとんどが砂まみれになったが、凶暴な嵐にも遭遇はしなかったし、予定通りの行程で目的地に着いた。
 北アフリカのほぼど真ん中。リビアとの国境に近いこの場所はかつて緑にあふれていたという山地だ。八万平方キロメートルという広大な面積の中に、二万点近くの岩画が点在する。この場所で、かつて我々は豊かな生活を営んでいたことを知る。今はもう、月のクレーターのように侵食されてしまった死の谷だ。
「砂漠の正体を考えたことは?」
 現地で遺跡のガイドをしてくれた考古学者が話しかけてきた。
 助手はテストで撮影したデジタルカメラの映像を離れたテントで編集中だ。人工衛星を利用して、カサブランカに電話を入れようとしているが、うまく行かないらしい。テントから出て大きな声で悪態をついている。すぐ近くに滞在用のテントがある。俺たちはこの場所に二週間近くテント暮らしをする予定だ。運転手はベルベル人のガイドが用意したミルクティを飲みながら、荒野の休日を楽しんでいる。
 俺は足場の悪い坂道に三脚を設置してカメラを安定させる。ライトとレフを複数使いながら光を乱射させ、薄暗い洞の撮影を行う。フィルムを交換しながら応えた。
「どうして、この場所から森林が消えたのか、という質問?」
「いや、地球上に土壌はどうしてあるのかという話だよ。我々は土というものを、大地が生み出すと思っている。岩が風化されて粉々になり、つみあがっていくのだと思っている。だが、それは違う。土壌は生物が作るものなんだ。地球上に複雑な地層があるのは生命に溢れた星だったからだ」
「土壌はもともと生物の死骸か」
「そうだよ。かつて、この大地に巨大な森林があったから、広大な面積の砂があるんだ。生命の記憶がなければ、砂すらなかっただろう。かつてはここも砂で覆われていただろう。それが、長い年月をかけて風で剥ぎ取られ、本来の姿を見せている。この星はもともとこんな岩石で覆われた星なんだ」
 サハラ砂漠は東西に5000キロメートル、南北に1500キロメートルの広大な荒地だ。サハラとはアラビア語で「荒地」という意味らしい。だが、かつてのこの場所は「荒れた」場所ではなかった。大きな樹林があったからこそ、その死骸が溢れているのだ。俺たちは普段その死骸を「大地」として足で踏んでいる。柔らかく湿ったスポンジの上で生を営み、また、死して再生のループの中に自身も投入される。それが地球の土台だ。
 国連環境計画によると、地球の特産品である「土壌」は「水」と共に消えていく運命にあるという。世界中で土壌の流出が相次いでいる。生物が生命を営む土台が消えているのだ。サハラ砂漠にはうんざりするほどの砂があるが、それはいずれ沿岸部にある街を襲い、海の彼方へ消えていく運命なのだろうか。生命の記憶と共に、それは海へ還る。
 新たなフィルムをカメラに入れて、撮影を再開する。
 俺はファインダーを覗きながら、独り言のようにつぶやいた。
「昔はここに川があった……ミラージュ・ラ・オードゥースだ。今はもう見えない」
 この地名の由来を思い出し、ファインダー越しに見える川の記憶を想う。
 岩画は子供がいたずら描きしたように無邪気だ。川の中を流れていく人間の姿が描かれる。この場所に豊富な水が流れていて、その中を泳ぎまわり、狩りをしたり、水生生物と戦ったりして、生きていた。その証拠をカメラに収め、再び現実の姿を見る。
 ここは、空気の吸える月面だ。
 白っぽいピンクの岩場は長年の風化作用で滑らかに歪んでいる。距離感を喪失するような窪地が広がり、はるか彼方を駱駝に乗った観光客が通る。俺たちが彼らを追いかけようと思っても、追いつける距離ではない。叫んだ声も距離に消されるほど離れているのに、彼らの姿を遮るようなものは何一つないのでよく見える。
 風を感じる。古来の風が吹く。
 このタッシリ・ナジェールから南へ行けば、乾季にも水が絶えないと言われるアイル山地がある。ホガール山地もまた水のある山なのかもしれない。
 サハラ砂漠は水のない渇いた土地だと思われているが、実際にはこれらの山から供給される伏流水でオアシスが点在し、人間と共存できる豊かな自然が残されているのだ。それは、紀元前8000年前も変わらなかっただろう。水は山が生み出している。
 一箇所で撮影を終えたら、車に乗って遺跡の場所を転々と訪ねながら、地形と方角、時刻を記録する。遺跡を撮影しながら、本撮影に使用する場所の選定を行い、ベースキャンプからの距離と時間を記録しておく。助手に人工衛星を中継して週間予報をネットで調べさせるが、それがうまく行かないらしい。野外ではよくあるトラブルだ。
 年間の降雨量は百ミリもいかない。明日雨が降っても、翌日にもう一度降る可能性は低い。撮影期間中に雨で撮影が邪魔されることはないだろう。
 現地の地図を確認しながら、撮影をして、足場となる場所を選んだ。
 撮影が終わると岩場の上で夕暮れを待ちながら、考古学者と話をする。彼にガイドを頼んだのは半日だけだ。彼も午後から指導学生と共に自分のフィールド調査に戻ってしまう。時間があったので、彼の調査地を訪ね、キャンプで甘い紅茶を振舞われた。少し離れているが、遺跡で寝泊りする隣人というわけだ。滞在中に何かあったら、互いにキャンプの間を行き来して、医療品や生活用品を借りることがあるかもしれない。
 早速、俺の助手は彼らから衛星電話を借りて、カサブランカにいる知人に連絡を入れていた。学生たちは彼が持っていった電話機を分解し、中に入り込んだ砂を除去して、使える状態に直してくれた。やはり学者の知り合いは役に立つ。
 学生たちが持っているネット回線で最新のニュースを幾つか読んでいたら、助手に呼ばれた。もうすぐ日が暮れるという。これからファンタジックな時間の到来だ。自分の仕事を思い出して、キャンプを後にする。後で夕飯を一緒に取ろうと誘われて承諾した。
 傾いていく日差しを助手と共に岩の上で眺めつつ、カメラの準備をする。
 セッティングが終わると、あとはひたすら待つだけだ。助手は何度も方位磁石を調べ、日の入りの方角を周囲の景色の中に探した。俺は彼の隣で寝転んだまま、背中に岩の熱を感じる。もう体から出てくる汗すらない。俺の体内は渇いているのだろう。ただ、岩に抱かれるような感触を味わって、黄昏の日光浴を楽しんだ。
「先生、撮影は順調ですね……予定より早く帰れるかもしれませんね」
 彼にそう話しかけられたとき、俺はふと忘れていたものを思い出した。
 戻れるのか、と思ったとき、妙な感覚に捕らわれた。もう戻れないと思っていた。予言を信じすぎていたのだろうか。東に行けば永遠の愛を手に入れると言われていたが、永遠の美女なんて見つけていなかった。妙に拍子抜けした。
「運命ってのは、望む形では現れないもんだ」
「まあ、そうですね。始まったばかりでこんな話も変ですけどね」
 彼は磁石から目を離し「あ、星が出てきた」と声を出した。俺は頭を少し持ち上げて、地平線に浮かんでいる金星の姿を見る。空はまだ計算どおりの色合いではなかったが、起き上がってファインダーを覗く。助手が隣で記録用のノートを開く音がした。
 小さな覗き穴から画を見て、片目を閉じた時、占い師の言葉を思い出した。
 それはゆらぐように視差の狭間にあるのです。
 シャッターを切るとき、俺は少し躊躇した。もしかしたら、俺は歪んだ現実を映しているのかもしれない、と。大気を切り裂くようなシャッター音の直後、助手がノートに撮影時刻と条件を書き込む紙の音を聞いた。

next