ミラージュ・ラ・オードゥース3

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 慌しく遺跡のサンセットを撮影し、学者のテントに五人で訪問する。
 ベルベル人が、持っていったティーセットで学生たちに振舞って、彼は人気者になってしまった。つかの間の交流を楽しみ、久々に肩の力が抜けた。学生たちは奇妙なダンスを踊り、宙返りを披露して遊んでいた。
 広大な星空の下で、俺は考古学者と二人で酒を舐めながら、話をした。
 岩場の上にテラスのように張り出している場所がある。そこに簡易式のディレクターチェアを持って行き、夕飯で出てきたクスクスに、オリーブオイルであえた缶詰のトマトをかけて食べる。少しだが肉も入っている。全て缶詰で作った料理だったが、温かい。
 背後で騒ぐ学生たちを眺める。焚き火越しに彼らの踊る姿が、昼間に撮影した岩画と重なった。人間の本質は陽気なのかもしれない。
「昼間に面白い言葉を話していたね。ミラージュ・ラ・オードゥースか……あなたも空中の城を探しているのですか?」
 現実に引き戻された。俺は隣にいる考古学者を見つめた。
 ここでその噂を再び耳にするとは。俺は緊張気味に彼に問いかけた。
「その城について、何か知っていることがあるんですか?」
「砂漠の真ん中に空中に浮かぶ城があり、捕らわれた幻想を抱く姫がいる。その噂が本当ならば、紀元前8000年前にまだここが森林で覆われていたとき、森を見渡す展望台があったのかもしれない。そんな建造物を建てられる高度文明があるならば、という仮定の話ですがね。紀元前8000年といえば、エジプトに最初の古代文明が生まれた時よりも、はるかに古い……考古学上のロマンだよ」
「確かに。それはロマンだな」
 国境を越えて似たような話が流れていると言うだけで、それはロマンだ。なぜ、そんな話がサハラ砂漠周辺で流れているのだろう。本当にそんな遺跡があるというのか。蜃気楼をもっともらしく語っただけのガセネタではないのか。 
 捕らわれの姫……どこの国でも似たような話があるものだ。姫の年齢がここに来ていきなりあがった。三百歳以上から一万歳以上へ。ロマンというか、怪奇だ。
 モロッコで聞いた話と占い師に言われた言葉を話した。
「マラケシュでは、空中庭園に三百年捕らわれた姫がいると聞いた。それは視差のゆがみの中に存在し、片目を閉じて触れることができる。そんな魔術をかけられているってね」
「モロッコにもそんな話があるのか。三百年前のアルジェリアは、まだオスマントルコの支配下にあるね。三百年の時を経て閉じ込められている姫とは、誰のことだろうね」
 タッシリ・ナジェールを十八世紀に支配していた国はトルコなのか。フランスがアルジェリアに入ってくるのは十九世紀のことだ。フランスの侵略に屈したトルコの美姫だろうか。時間のずれを説明できる理論を俺は持たないが、東方オリエントの香りが漂うロマンだ。
 水の幻。
 タッシリ・ナジェールから消えた幾多の川。この高台からはるか太古の景色を想う。
 天空の星が瞬く。俺はそっと片目を閉じて空を見る。
 その時、何かが揺らいで見えた気がして、慌てて目を開けた。戻れなくなることを恐れた。俺は両目を開けて世界を見たい。両目で見える世界を真実だと思いたいからだ。本当は二つの目で一つの画を見るからこそ、視差が生まれるのだが。普段認識しない、視差に隠れているものを見つけるのが怖かった。俺はこの旅で何を見るのだろう。


 フィルムは生ものだ。セルロースでできたフィルムベースに感光剤を塗りつけただけの代物だ。感度がよければ灼熱地獄の中に放り出すだけで駄目になる。保存には冷却材が必要だ。撮り終わったらその日のうちに現像する。
 その場所を確保できなければ、細心の注意を払って保冷材を使いまくる。だが、俺はそういう賭けをするのが嫌いな性質だ。一ヵ月後にカサブランカから契約破棄の衝撃を受けたくない。それぐらいなら、砂漠に薬品を持ち込んで現像する。俺はリバーサルフィルムを使う方が好きなので、現像は手間がかかる。でも、焼き付けて色を確認する手間が省ける。素早く撮影行程に反映が可能だ。
 昨今では、生フィルムを使って撮影するよりも、デジタルカメラでいい奴が出ている。俺の撮影方法は古臭いのかもしれないが、色の出具合が段違いだ。デジタルカメラの画素がどれだけ上がったところで、俺は古臭くフィルムを使い続けるだろう。
 生っぽく仕上がった色のぬめり具合が好きなんだ。
 焼き付けた後、定着液から引き抜いた直後の色の湿っぽさ。あの色気にはデジタルカメラでは到達できない。写真は濡れている方がきれいだ。
 だが、この場所でそんな贅沢なストリップは味わえない。
 現像も焼き付けも、大量の水が必要だ。それでも、俺は飲み水を削っても現像だけは砂漠でやる。フィルムケースを一月も保冷材の中に放り込んでおくなんて、女をホテルで待たせるようなものだ。俺は垢くさい戦場カメラマンではないんだ。質の悪いフィルムで情報だけ撮るような品のない遊びは嫌いだ。
 三日に一度水を求めて街に戻ることも冗談じゃない。決定的な場面を見逃したら、悔しくてたまらないぜ。仮に、千年に一度の雨上がりで虹を砂漠に撮ることができたら?
 俺は現場から出たくない。そして、現像だけはしたい。
「先生、水がきましたよ。やるんですか? 廃液はちゃんとポリタンクに入れてくださいよ? この場所は世界遺産なんですから、絶対に汚さないように!」
「俺が被写体を汚すわけがないだろう」
 フィルムを現像液に放り込んで、タイマーをセットする。後は時間との勝負だ。今夜の予報では砂嵐や急な気候の変化はない。谷を渡る突風でテントが揺れることはあっても、何が何でもフィルムは死守する。
 テントの出入り口を幾重にもテープで止め、暗黒の中を助手と二人で作業した。見えてなくてもあいつがどこにいるのかわかっている。カラーフィルムの現像は繊細だ。赤外灯はまだ点けられない。だが、見なくても作業ができるように、遮光用の布で袋を作り、全ての作業を袋の中でできるようにしている。そのために、一本分のフィルムの枚数は少なくして小さな容量でも現像できるようにしている。短いフィルムを使っているので、フィルムケースだけは大量だ。今夜中にいくつ現像できるだろうか。
 均等に隙間のあいた金属製のリールにフィルムを巻きつけ、現像液の入った丸いタンクに入れる。蓋を閉めたら、袋の中に入れてから、赤いライトを点灯させる。助手が廃液を捨てるためのポリタンクと、フィルムを洗い流すための水とたらいを用意した。俺は両手を中に入れて、定期的にゆっくりとタンクを裏返す。あわててやれば泡が立つ。原始的だ。カラーリバーシブルフィルムの場合はこれを複数回繰り返す。
 定着液でフィルムに色素を固定させたら、洗い流して乾燥させる。色を固着させるまでは助手には指一本触れさせない。そもそも、俺はこの作業を今まで一人でやっていた。助手なんて雇えるようになったのは最近の話だ。金が入ってきてからか?
 いや、俺は助手に金なんて払った覚えなんてないのだが、いつから傍に張りついているのか。彼も写真をやりたいのだろう。技術とか人脈とか仕事が欲しいから、俺の傍にいたいのかもしれない。いつか、彼に俺の仕事を奪われるかもしれないが、まあ、何でもいい。今は便利な奴だ。いつから傍にいてもいい。彼とも長い付き合いだ。
 狭いテントの中は酢酸の匂いが充満し、汗と埃の狭間に人いきれが漏れる。
 無機質な時計の秒針が逸る女の吐息のように俺を責めつづけた。早くしろ、と互いに思いながら、静かな時を密着して過ごす。俺の手の中に女神はいる。あのフィルムには何が映っただろうか。
 贅沢な量の水中に、黒い蛇のように、大量のフィルムがぐねぐねと艶かしく揺らぐ。
 俺は現像を終えると塞いでいた入り口を開放して、薬品臭の濃くなった大気を入れ替える。両腕をあげて凝り固まった背中を伸ばしていたら、コーヒーの匂いがしてきた。時刻は真夜中を当に回っている。日の出までの時間を考えれば、もう眠ることはできない。
 あとは水から蛇を引き上げて、吊るして干せば終わりだ。フィルムの記録と管理を助手に任せ、俺は熱いコーヒーを飲みに行く。運転手たちはもう寝ている。ベルベル人のガイドが、いつも通り穏やかな笑顔で俺をもてなしてくれた。
 撮影と現像の繰り返し。
 大量のフィルムブックが助手のカバンに増えていく。夜になれば光板を通して、それらのフィルムのチェックをした。
 寝不足は続いているのだが、撮影に入ると俺の体は異様に興奮して眠れなくなる。
 フィルムのチェックをしている方が落ち着いた。砂漠の色合いは理想どおりだった。その鮮やかさに見惚れながら、レンズのゴミをマーカーでチェックする。
「先生……マラケシュで何か撮ったんですか?」
 助手が記録ノートにフィルムナンバーを書き込みながら訊ねた。俺は拡大鏡を覗いたまま生返事をしていた。タッシリ・ナジェールに来る前のフィルムも混ざっていたようだ。モロッコを出るときから、カメラを持ってあちこち撮っていた。俺は特に気にすることなく、フィルムの確認を続ける。
 三週間で撮りためたフィルムの数は三百枚。このうち百枚は色調調整のためのテストで捨てられる。残り百枚が遺跡の記録写真、五十枚が情報の記録、売り物になるのは五十枚。そのうち、色の出の悪いものや構図の気に食わないものを除いて、使える写真は三十枚程度。編集部に持ち込むと、さらに使える写真が減っていく。彼らの望む画かどうかは神のみぞ知る。だが、長年の付き合いで担当者の好みは理解しているつもりだ。
 太古の地球を彷彿とさせ、旅情を誘う美的な構図。
 最終的に使える写真は一枚か二枚。だが、百枚近く持っていっても採用されない時がある。出足が悪い。現場に入って一週間でまだ三十枚か。フィルムはまだ充分ある。もっと劇的な光と構図が欲しい。
「先生の画にしては珍しいね」
 ベルベル人が助手の傍でフィルムを覗いて、そう言った。俺は不意に気をひかれて顔をあげた。至近距離から少し遠くを見ただけで、目頭がしめつけられるような痛みを覚える。眼精疲労か。遠近の調節機能が衰えているようだ。今日は早く寝よう。
 フィルムチェックをほどほどにして、光板の電源を切った。
 椅子から立ち上がって、二人の傍へ行く。二人はフィルムを光板に載せて、旅の記憶を見ていた。通り過ぎてきた風景を思い出し、懐かしい街の写真を見て、会話が弾む。俺は肩の力を抜いて、自分の写真を覗きこんだ。
 マラケシュの画像が懐かしい。出発する前に撮った奴だ。
 広場で蛇使いが笛を吹いている。商店の息子と出歩いた時のもの。色鮮やかなベルベル人たちの帽子が青い空によく映える。ふくよかなトゥアレグ族の青い衣装が、赤い街の中で風にそそぐように揺れている。ジャマ・エル・フナの一日を思い出した。
 その中に、妙な一枚があった。
 砂にかき消されたような流動の画。ひどい手ぶれだ。
「歩いている時にぶつかったのかな」
 俺がシャッターを切るときに、こんな画を撮るわけがない。あえて、シャッタースピードを落として流し撮りをしたような感じの画面だ。
 前後の写真を見て、不意に占い師のことを思い出した。靴屋の傍を通り抜けて、金色の猫の後を歩いた。いや、あの時、あの猫を撮ったはずだ。
 俺は蛇腹になっているフィルムブックを広げて、その時の記憶を探す。あの猫を探しているうちに背筋が冷えてきた。猫の写真がない。いや、あの時の写真がそれなのだ。
 ゆらぐように、視差の狭間にあるのです。
 俺はその画面を見ながら、片目を閉じてみた。もしかしたら、何か見えるだろうか、と。何かとんでもない化け物を見ることになるのではないか、と内心びくびくした。しかし、砂嵐はやはり砂嵐だ。彼女が言っていた視差の狭間って何のことだ?
 助手が明るい声で話しかけてきた。
「先生好みの美女が横切って、慌てたんでしょう?」
 俺は苦笑いして答えた。
「見つめられて、指が震えたのかもな」
 あの時、俺は確かに異界をこの目で見ていたのだ。写真は真実を写したはずだ。俺はあの一瞬、揺らぎの中に入ったに違いない。どうやって入ったのかわからないが、あの時、俺はファインダー越しに片目を閉じた。視差の間に入ったのかもしれない。
 あの占い師と猫は、視差の狭間に存在した幻なのだろう。現実での彼らは、こんな風に歪んで見えるのだ。砂にかき消された流紋のように。

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