二輿物語


INDEX

0 序



 ヴァルヴァラは新興の軍事大国。中でも、一際目立つ戦上手がウルフェウスだ。七代目の家督を継ぎ、新王を名乗り始めたムラドゥラ・シルフェウス・ヴァルヴァラ公の第五子である。
 第三妃ラファレルとの間に生まれた子と記されるが、ラファレルが何者なのかは某国の史実には明らかにされていない。ただ「北の湖の女王の末裔」と記されており、精霊の血を継いだと言われるほど美しい女性であった。
 ウルフェウスは正式な洗礼を受けて誕生した人間の子供である。しかし、母の生誕が謎に包まれているが故に、さまざまな渾名を付けられた。敵からも味方からも忌み嫌われ、かつ、愛された王子である。当然、これから婿入りするはずのザヴァリア国へも、彼の名はよく伝わっていた。
 いつの時代も噂は多少の尾ひれがついて風を招く。


1 鮮血刃の悪魔



 丘の上に、男が一人。
 氷が砕けるような繊細な音が聞こえた。突風に煽られ、彼の両耳に付けた金鎖と共に、癖の無い黒髪が、鞭の様にしなっているのだ。
 空に張った薄氷の上を、月が滑るように彷徨う。靄のせいで、上空でまぶしく乱反射を繰り返し、心臓の鼓動にあわせて瞬く。分厚い毛皮を纏っていても、着慣れた鎧から、骨身に凍みる冷気が伝わる。乾いた言葉と共に、吐息が白濁と染まった。
「マルセイエスよ……我らの勝利を見届けろ」
 彼は左指に付けた、金と銀の指輪に軽く口付けをする。まるで蛇が絡み合うような指輪だ。それは、ヴァルヴァラ家の男子だけが持つ血族の証である。
 指輪に彫り込まれた彼の名は、ウルフェウス・アクエリアス・ヴァルヴァラだ。ヴァルヴァラが当世一と誇る戦好き。諍いのないところにも戦を起こす、と恐れられるほど月の闘神マルセイエスに愛された男だ。十五の成人を迎えたと同時に軍部を掌握し、連戦を続けて、今宵で三年となる。初陣はさらに遡ること十年。八才という何もわからぬ幼少の頃から、この男は戦場にいた。
 その容貌の美しさから、部下には、輝ける君、と呼ばれてはいるが。
「輝殿下はっ、いずこに在られるかっ! 誰かっ、輝殿下を見かけたかっ」
「あちらに。しかし、今は天の声を聞くとおっしゃって、一人にするようにと――」
「何をのんきなことをっ!」
 部下の声が、泡のように聞こえてくる。
 上空は、巨大な寒気団が迫っている。見る間に、雲が月を覆い隠し、暗い夜が始まった。今夜は、より一層の冷え込みが予想される。彼は地上に碧眼を向けた。水のように澄んだ青の目に、白亜の巨塔が飛び込んでくる。刹那、過度な緊張状態に陥った瞳の奥で、激しい情熱の炎が燃え広がる。苦々しい感情に襲われた。
 二万九千人いた兵士は、食料と共に尽き果てようとしていた。かじかむ手は剣を持てず、同胞が敵の弓にむざむざと殺される。部下は少ない食料を奪い合って、仲間の死体から毛皮を剥ぎ取った。遺体を焼く弔いの炎に集まって暖を取り、長い夜を怯えて過ごした。
 全てはあの、染み一つ見えない、雪のように潔白な光の塔を手に入れるために。
「輝殿下っ!」
 軍師が鬼のような目で睨みつけていた。口元から搾り出される呼気。彼は一息に丘を駆け上がってきた。心臓の強い男だ。
「天体観測とはっ、優雅ですなっ! 今が戦時とお忘れか!」
「でかい声を出すな……月が隠れちまったろ」
 大して動揺するでもなく、軽く答えた。地面に縛り付けられている両足を動かそうとしたが、感覚が鈍い。じわじわと足の指を動かして、こりをほぐしている間に、軍師が傍に来て状況の説明を始めた。
「タイユ湖に流入する二つの河と、流出する河口を確保。双方、せき止めました」
「湖の容積を計算できたか」
「専門家に計算させていますが、不足する情報があるとのこと」
「推定値で構わん。作戦を進めろ」
「御意のままに。既に、周辺の村を三つ制圧し、精製した岩塩を手に入れました。一刻後には、こちらに到着するとの報告を受けております。これで計算に足る量になるかと」
 ウルフェウスはようやく足を前に出した。彼の声が風と共に聞こえてきた。「俺の意に反して、略奪を命じたか」 感情を押し殺した声だが、ここ数日、彼の機嫌はすこぶる悪い。軍師は即答した。「いいえ。全て金銭で取引を」
 まだ若い主は泰然とした歩みで、軍師の傍を通り過ぎる。
「俺の目は節穴だと思ったか?」
「軍規が乱れていることは認めましょう。しかし、今はまだ、そのような報告のできる状態ではありません」
 少年は立ち止まって、眼下を見た。軍師は彼の視線を追って、口を閉じる。
 平野に存在する穏やかな敵城。その周囲は湖に囲まれ、敵は悠々と長期篭城中だ。遠征の目的は、湖中に存在する、あの無敵の白壁を落とすためであった。
 湖の中に鎮座した砲台は、太陽光を武器にした光の攻撃を得意とする。城内に存在する数千枚の鏡によって、集められた熱線で、対岸に滞在している敵を焼き落とす。岸辺から砦までは遠く、こちらの砲撃は無効化される。船は建設中に全て焼かれてしまった。広大な湖は予想外に深く、真冬でも凍ることが無い。毎朝、柔らかな靄に包まれて、幻想的な美しい城が静かに佇んでいるのを見続けた。優雅にして、難攻不落の砦である。
 遠征の序盤は連勝したヴァルヴァラ軍だが、タイユ湖畔で動きが取れなくなった。敵の勢力を崩さずに敗走すれば、篭城していた兵士らが城外に出て追撃してくるだろう。
 今、ヴァルヴァラ軍は兵站を断たれ、生殺しになっている状態だ。部下は寒さに凍え、正気を失って戦線を離脱し、逃亡し、敵に寝返ろうとして殺されるものが続出している。死なば諸共で、無害な民を脅し、その財を奪ってあまつさえ、殺害や強姦を繰り返すものまで出てきた。周辺住民からの略奪行為が目に余るようになってからというもの、停戦の提案は拒絶された。このままでは、凍死か餓死で死ぬことになる。
 戦の指揮を執っているウルフェウスの責任を問われるのは当然。敗戦して捕らわれれば、敵地でそのまま、民の慰安のために見せしめになって殺されることも覚悟が必要だ。
 それが国を名乗る者としての勤め。
 軍師は敵城の周囲を守る広大な湖を見下ろし、かみ締めるようにして言葉を発した。
「この戦を治めた後、私の首を差し出しましょう。配下を苦しめたのは、私の策が元凶でございます。それまでは、命に代えて貴方をお守り申し上げ、決して、敵の手には――」
「ふん。負けを知らずに勝ち続ける軍師なんざ、今まで見たことねえよ」
 主は麗しい笑みを浮かべたまま、軍師の感情を無視した。彼は軽やかに坂を下りていく。軍師は表情を引き締めて、彼の背後についた。
 今夜の作戦が、最後の足掻きになる。今宵は寒気の相。岩塩を使って、凍らぬ湖を凍らせる作戦だ。夜明け前に奇襲をかけなければ、翌日には全軍が死滅するだろう。敵の弱点は夜しかない。一晩で上手く氷を張らなければ、敵は夜間の警備が弱点になっていることにも気がついてしまう。敗走する好機を捨てての軍事作戦だった。
 だが、主は、普段通り、散歩に出るような気楽さで、指揮を執るために陣に戻った。
 宿営地に戻ると将軍が出迎えた。王子に軽く頭を下げて礼を示すと、時間が惜しいといわんばかりの顔で、軍師を睨む。
「軍師殿、塩と火薬が到着したぞ。時間が無い。すぐに湖畔へ」
 軍師の顔がさっと変わって、すぐさま踵を返した。将軍も小さな灯りを手に、彼を追いかける。彼らの主は、テントの中に入って毛皮を脱ぎながら、彼らを見送った。彼はさっさと寝台に入って眠ってしまう。
 その夜は、月の魔法がかかったのだろう。
 寒気団が通過して、冬の嵐がやってきた。凍死する兵士が続出し、ウルフェウスも朝が来る前に、尋常ではない冷気のために目が覚めた。僅かな睡眠時間だったが、彼はパチっと軽く自分の頬を叩いて目を覚ます。テントから顔を出すと別世界が広がっていた。
 世界は白く、濁って、風の魔物が舞っている。
「すげえっ! 雪だっ!」
 子供のように無邪気な笑みを浮かべて、両手を空に伸ばした。くるくると舞い踊る雪。究極の暗さの中で、薄氷越しの月光に照らされて、灰色に映る姿。
 そこへ、毛皮に包まれた軍師が滑り込むようにしてやってきて、彼に告げた。
「輝殿下、湖が凍り始めました」
 軍師の言葉を聞いて、主はようやく無邪気な笑いを収めて振り返る。軍師の背後に夜間を通して働いていた部下たちが、晴れやかな顔をして、汗でまみれた顔を拭っていた。彼らに無言の笑みを見せて、その努力をねぎらう。主の笑顔をまともに見てしまった兵士は真っ赤になり、照れくさそうに互いの肩を叩き合った。
 ただ一人、将軍が渋い顔で呟く。
「しかしながら、安定した厚さではありません。塩分濃度が所々薄くなり、真水に近い濃度で取り残された場所があります。何処まで歩けるかわかりません。重い砲台を渡すことは難しいと思われます」
「まだ、夜明けまでに時間があります。早朝がもっとも冷える時間なんです」
 将軍に反論して、工兵らがうめいた。しかし、軍師も渋い顔で主の表情を伺っていた。
 ウルフェウスは将軍の肩を軽く叩いて、湖に出向いた。将軍が毛皮を主の肩にかけながら、その背後を守る。
 耳鳴りに似た暴風に包まれて、湖畔に立つ。足元は柔らかい雪に弛んだ泥水がひたり、平らな湖の周囲は細かい霜ができていた。歩くと、クシャ、クシャ、と潰れるような音がした。まだ凍り始めたばかりの湖だ。足元に落ちていた石を取り上げて放り投げたが、音もなく、空間に溶けて消えた。「……祈るしかない」彼はそう言って、湖から立ち去る。
 軍師が傍に来て、耳打ちする。
「輝殿下、兵士らを避難させたく存じます。既に、凍死した兵が数名報告されております。防寒の用意の不十分な兵は、このままでは何もせずに死んでしまいます」
 ウルフェウスは湖を振り返って、笑う。
「追撃で跳ね橋を動かせないぐらい、氷が厚くなることを願って、退却するか?」
「お役に立てなかったことは、断腸の思いでございます。私の処分は好きなように」
「その頭は負けた言い訳しか考えないか。お前は部下が凍死するという予測も立てず、その覚悟も無く、この策を俺に提案していたというのか!」
 一転して、彼は不機嫌そうに軍師の頭をぐいっと脇に押して退けた。
 将軍を振り返って、彼は叫んだ。
「ソリを用意しろ! 爆薬でもめいっぱい詰めて氷の上を走らせろ。不戦敗なんてしたら、てめえらを俺の部下とはもう呼ばねえ。暇があったら、知恵ある人間をかき集めて氷を厚くする方法でも考えろ。言い訳なんざもう聞きたくねえっ! ううごおけえええっ!」
 命令を叫んだ後、彼は自らの身につけていた宝飾品を取り外して、放り投げてしまった。肩に羽織っていた毛皮ですら、地面に落として拾うことが無かった。
 主は勝利を諦めていない。その決意が全軍に行き渡る。
 そして、朝が来たのだ。
 来光と共に、敵が見た光景は想像を絶したという。真冬でも凍らないと言われていたタイユ湖に薄いピンク色の氷が張っていた。さらに、その上をヴァルヴァラ軍が筏と歩兵で進駐していたのである。
 慌てて、戦闘の準備を始めたが、すでに手遅れ。寝ている間に開城は終わっていた。
 夜の間にソリと凧を利用して、上空から潜入した死間が、通路を開いてしまっていたからだ。タイユ湖の氷が膨張と共に、城内に人血に染まった水を逆流させていた。城内に血液と化学反応を促す劇薬が投下される。一時的に城内の大気組成が変わって呼吸困難に陥り衛兵が気を失った。その間に、ウルフェウスは騒動も起こさず、筏で静かに入城した。
 目覚めたときには、彼の統治はもう始まっていた。寝ている間に殺されなかったのは、なぜだろうか。この開城で双方が払った犠牲は、それまでの戦闘が夢だったかのように最小限のもので、全てが静かに終わった。
 立地で守られていると思っていた彼らは、タイユ湖に張った氷の上を敵が歩いてきたという事実で舞い上がっていた。そんなことは開城以来なかったことだからだ。湖を飛び越えて空から侵入するという可能性も考えたことが無かったので、砲台以外の場所は警備が薄かったのだ。そして、湖の色が変わるほどの犠牲を双方に強いていると気がつき、彼らはヴァルヴァラ軍の報復を恐れて大人しく降伏した。
 だが、何よりも。自然を操り、魔術師のように空間を飛び越えて入城していた悪魔の王子を恐れたのだ。彼の魔術にかかって呪い殺されることを。
 この時、ヴァルヴァラ軍は五千に満たない兵士しかいなかった。
 タイユ湖は彼らの血で真っ赤になったという。人血に染まった湖は、水生生物が棲めなくなるほどひどい汚染で、これを回復するために、長い年月を要したという。
 ウルフェウスの呼び名は、ヴァルヴァラ軍の狼藉よりも長く、周囲に知られることになった。彼は、軍規を乱した兵士を全て一夜にして、斬首に処したと謳われた。民にとっては、村の平安を脅かした犯罪者たちを一網打尽にしてしまった敵の英雄なのである。
 本当のところは、彼が一人で全ての部下を制裁できたとは思えない。
 二万九千人の兵士が五千人に減ったのは、制裁が原因ではなく、軍事作戦の失策が原因である。その責を取った軍師は二度と祖国の土を踏むことが無かったという。そして、現地で犯罪行為に及んだ兵士は帰国後に公開刑に処したというのが、実際の話だ。
 湖が一夜にして赤く染まったというのは、伝説好きな吟遊詩人の作り話だ。タイユ湖が赤くなったのは、そこで激しい戦闘が行われたからなのである。しかしながら、凍るはずの無い湖が凍ったのは事実。それは岩塩を投入したからなのか、人の血液が多く流れて比重が変化したからなのか、非常に珍しい自然現象が起きて、幸運の女神が悪戯に微笑んだのか、本当のところはよくわかっていない。
 この事件以降、ウルフェウスは「鮮血刀の悪魔」という忌まわしい呼び名で恐れられるようになる。不凍の湖を凍らせた魔術師。敵だけでなく、部下に対しても冷酷で、法に厳しい君主として、魔王の名を賜ることになった。
 そういう男と、婚約することになったのである。
 辺境の小国、ザヴァリア王国のアリシア・フォル・ザヴァリア姫は。

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