二輿物語


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56 王子の帰還




 翌朝。婚約者が帰るというのに、アリシア姫は見送りには来なかった。
 ザヴァリア王に滞在の礼を述べ、ウルフェウスはピピネと共に城を出て行く。アリシアに未練はあるが、心の奥底で既に割り切っていた。
 賭けに負けた。彼女は自分を選ばなかった。
 男なら、それ以上の理由はいらない。
 彼は恋と戦略に破れても、さっぱりした顔で騎乗した。そんな弟の横顔を見て、兄は複雑な表情だ。ピピネは何度も城をふり返り、姫が来ないかと確認していたのだが、そんな彼に異母弟が「置いて行くぞ」と気軽に声をかけて歩き出してしまう。
 ピピネもため息をついて、馬に乗った。
 ウルフェウスは兄に声をかけた。
「あの女、最後まで見送りに出てこなかったぜ。ずいぶんと嫌われたもんさ」
 そんな憎まれ口の背後ににじむのは、思いが通じなかったという悔しさだ。割り切れるものも割り切れぬからこそ、負けず嫌いという性格が残るわけで。内心ではもう悔しくて悔しくて悔しくてならないが、まあ、これはもうどうしようもない。
 ピピネは「私も読み誤ったのかな」と囁き、馬を前に進ませる。弟は彼の背中を守りつつ、城門をくぐった。衛兵らは二人を見送って、一緒についてきた。ミタルスクの大使の動きを調べ、旅中の安全を確保してくれる。彼らから地図を受け取り、帰路を計算しつつ、路銀を確認する。
 弟は城門を出ると、街に向かう坂道を一人で進んで行ってしまった。ピピネはカプルア城を振り仰いでから、弟の後を追う。
 ザヴァリア王は婚約破棄の撤回をしなかった。だが、彼は破談も明言はしなかった。
 彼は非常に残念がりながら、ピピネに「貴方の弟君を我が息子と呼べぬと思うと悔しくてならぬ」と述べていた。王はウルフェウスを認めているのかもしれない。だが、彼は婚姻の話をこれ以上進めることを控えたいと続けた。それは、姫の心情を慮ってのことらしい。ピピネの勘では、アリシア姫が弟をそこまで避けているとは思えないのだが、二人の仲はこじれてしまっているようだ。
 男女の仲はまことに難しい。周囲がからむとなおのこと。
 跳ね橋を渡り終えると、衛兵らが正対してお辞儀をした。彼らに見送られて、歩き出す。正門が閉じると二人きりだ。ピピネは落ちこんでいる弟に声をかけた。
「ウルフ、よい恋をしたな」
「どこが?」
「お前は少し我慢強くなったし、周囲に配慮できるよい男になった。まだまだ、だがな」
 兄は弟の前に馬を出し「早駆けで競争するか?」と笑った。ウルフェウスは気持ちを改めて、笑顔になる。もともと、割り切りは速い男だ。彼は「よし!」と叫ぶと、馬の手綱を強く握って、馬を叩いた。
 直後、「王子ー!」と女性の声がした。ウルフェウスは笑顔になって振り返る。走り出そうとしていた馬を引きとめ、暴れる馬を力でねじ伏せて留まる。ピピネも苦笑いして馬の動きを止めた。
 正門を飛び出して、少女が走ってきた。それは姫ではない。ウルフェウスはきょとんとした顔で「セレナ?」と声を出した。彼とミタルスクへ一緒に行った侍女だ。彼女は息を切らせながら走ってきて、彼の足元にうずくまった。ウルフェウスはあわてて馬を下りて彼女の傍に膝をつく。
 セレナは照れながら彼を見上げた。
「あ、あの……あの、気をつけて帰ってください。それから、ま、また来てください」
 王子はその侍女が可愛くなり、にっこり笑った。セレナは真っ赤になり、彼に白いバラの花を渡した。ウルフェウスはその花を受け取って、機嫌がよくなる。バラの花にキスをしてセレナを見つめる。
 セレナはドキドキしながら口を開いた。
「あ、あの……それ、それは姫様が」
 ウルフェウスはドキッとして笑顔が消える。急にイライラしてセレナを睨んでしまった。セレナは緊張した面持ちで言う。
「ひ、姫様が、王子にって」
「あんたが俺に持ってきたわけじゃねーのか」
「ぅ……馬鹿なこといわないでください! 姫様の許婚なのに、そ、そんなこと」
「うるせえ! つっまんねぇええなぁーっ! くそっ! 代理なんか立てやがって!」
 王子は受け取ったその白い花を投げ捨てて、彼女の前から立ち上がる。セレナは花を捨てられてショックを受けた。本当のところを言えば、それは代理でも何でもない。彼女は彼に花を渡せるのはこれでもう最後だと思っていた。どんな口実でも良かったから、彼に花を渡したかった。
 セレナは哀しくなり、花を見つめて涙が出て行く。
 ピピネはその様を見て呆れた顔で弟を見下ろしていた。ウルフェウスは馬にまたがり、セレナに「泣くな」と一言かける。女心の機微など到底理解できぬ軍人なのだ。呆れたバカ男である。ピピネは不機嫌な顔で愚弟に言う。
「きちんと拾え。それは『許婚から別れの挨拶』という名前の花だ」
「……ばっかじゃねーのかぁああ?」
「お前はそれだけ彼女に屈辱を味わわせたのだ。心して拾え。拾わないなら、帰国したら父上にそう報告するぞ。すぐにミグリが不名誉な話を作り、人心にお前の不敬ぶりを記憶させるだろう。生き恥をさらしたくなかったら……拾え。それが恋の作法だ」
「何で? あー、もー! がああああーっ!」
 弟は悔しそうに馬の背で飛び跳ねていたが、セレナが顔を覆ってしくしくと泣き出してしまい、あわてて馬から下りる羽目となった。
 彼は花を拾ってセレナの機嫌をとる。
「ほら、受け取ってやったから、安心しろ。あのクソ生意気な女に『きちんと届けた』と言ってやれ……もう泣くなって」
「う、うぇっ……も、もう知りません。王子のことなんて、も、もう知りません!」
 セレナは王子の頬をパチンと叩いて走っていく。彼はきょとんとして固まった。これでこの国の女性に叩かれるのは二度目だ。痛くはないが、何とも心にズキッとくる。
 ピピネは呆れた声で「やはりお前は本当に鈍いバカ男だ」と笑った。
 ウルフェウスは納得のいかない表情で白いバラの花と走っていくセレナの後姿を見つめた。花の匂いは懐かしく、セレナと過ごした時間を思い出した。過ぎた時間が戻ることはない。彼は別れの花びらにキスをして彼女を見送った。
 もう、この国に来ることはないのだろうか。ウルフェウスはそんなことを考えつつ、バラの花を、未練と共にその場に置いた。彼の心情では別れの花なんて持ち帰りたくないのだ。思い出も未練も恋心も何もかも捨てていきたかった。兄ももうそれ以上の諫言を口にしない。本当は振られた男の心に塩を塗るような花なんて、置いて行っても構わない。
 これから、長い帰りの旅路が始まる。彼らは南に進路をとって帰り始めた。
 城下にある街を通り過ぎ、広い田園地帯に入ると青く成長した美しい出穂が、風に揺れるのが見えた。遠くから吹き寄せる薫風に若葉の香りがした。まだ見ぬ故郷の豊かな農耕地を思い出す。二人は一度馬を止めて、地図を確認した。
 ウルフェウスは帰り道に寄りたい所があった。彼は兄に話しかける。
「さーて、俺の愛馬を返してもらわなくちゃ。ラグってやつに貸してやったんだ。あいつは今、南部にいるはず。少し南寄りに下ろう」
「ラグ? どこかで聞いたような……そいつはきっともうお前の馬を売って、金に換えているだろう。行くだけ無駄なのではないか?」
「そんなことねーよ。いい男だった」
「ふん。信用してるのか?」
「金が欲しかったのなら、きっと足りてる。銀貨はたくさん渡したから」
「お前と言う奴は……まあよい。私もその付近に用がある。どのみち、そこには国境を越えるための検問もある。奴らはまた怠けて悪事を見逃しておるかもしれんしな」
「ふふふ……どうやら俺たちは同じ村を通ってきたみたいだぜ」
 二人はゆっくりと東南寄りに進路をとって進んだ。


 ウルフェウスが退城したと聞き、城内は一気に緊張がほどけた。彼についていたケタルやメンキーナは一気に老け込んだかのごとく、脱力して呆けていた。かの王子が来てからというもの、並みの従者よりもよく働いたような気がする。しばらく休みたい、と思った彼らだが、すぐに本来の仕事場に戻される。侍従長は容赦ない。
 ケタルは王の侍従に戻ったし、メンキーナは王妃の元に戻される。奴隷たちも一緒だ。水瓶の乙女に恋していた、かの奴隷が喜んだことは秘密の話だ。
 城内を歩きながら、侍従長はメンキーナに話しかけた。
「此度の件では、城内のおしゃべり雀の功罪が明らかになったぞ。恐ろしいことに、王家の政略結婚の行方すら左右してしまうとは……何とか対策をとらねばなるまい」
「しかし、侍従長さま、人の口に戸は立てられません」
「是が非でも。これが戦時中なら、どうなることか。ウルフェウス殿下があっさりと帰ったのも、我が国との契約を不安に思われたからだろう。本来ならば、ご婚約者として紹介すべきところを……遊行中の王子と紹介することになるとは。王も大層ご立腹だ」
 メンキーナの隣を歩くケタルが少し呆れた顔で「女の口は軽いからな」と笑う。その言葉に彼女はカチンとして、少し睨んだ。ほとんどの噂は姫の侍女があることないことしゃべくって広めたのだ。それを全ての女は口が軽いと言わんばかりの口調に腹が立った。
 彼女は憤慨した様子で、腕を組んで二人の男性に話しかける。
「言っておきますけどね。噂の出所はほとんどすべて、姫の侍女がしゃべっていたんですからね。ピピネ王子と姫さまの逢引も、それを知ったウルフェウス王子が怒って、姫より美しい女を求めたという流言も。そんなことあるわけがないのにー!」
 ケタルが先の話を続けて応えた。
「ウルフェウス殿下がアリシア姫殿下にふられたら、死ぬという話も」
 侍従長も彼にならって先を続ける。
「王子が死ねばザヴァリアが報復のために襲われるという話も」
 メンキーナは眉を吊り上げたまま「え?」と聞き直した。彼女はびっくりした顔になり「何なのー、その噂ー!」と叫んだが、しばらくして、その出所が自分だということに気がついて「うそー!」と怒鳴った。侍従長は呆れた顔でため息をついた。
「……その噂が王にも伝わったおかげで、陛下は婚約の破棄を明言されなかったぞ。輝殿下には、また収穫祭へご招待すると話しかけ、何とか自死を思い止まっていただいた」
「あたしのおかげ、ですか?」
「慎みなさい。いずれにしても、婚約は延期だ」
 三人が回廊を進み、角を曲がったら、不気味に沈黙する集団とばったり鉢合わせてしまった。侍従長たちは「あ」と口にして、慌てて、その場に控えて道を譲った。
 昼間に西宮を出ることのない姫が侍女たちを引き連れて、その場所に立っていた。彼女は真っ青になったまま「何の話ですか?」と彼らに問いかけた。メンキーナたちは深く頭を下げたまま、顔をしかめて舌を噛んだ。不用意な会話こそが不穏な噂話の発祥だ。
 アリシア姫はきつい口調で「今の話は何ですか!」と怒鳴った。
 侍従長は左右にいる二人を見たが、ため息をついて口を開いた。
「……根も葉もないお話でございます」
「私……私とピピネ殿下が、どうして? ウルフェウス殿下はその噂を知っていらしたんですか? それで、セレナが王子の部屋に行ったの? 私にふられたら死……」
 姫は見るまに血の気が引いて倒れそうになった。よろめいた彼女を支えて、侍女たちが支えようとしたが、姫はその手を払って「触らないで!」と怒鳴りつけた。
 姫は重たいドレスの裾を握って、駆けだした。教師たちが「姫さま!」と叫んだが、姫は回廊を飛び出して、東の棟へ一直線に走って行った。慎み深さからは程遠い走りっぷりだ。侍従長は彼女の行先を察して大きな声で叫んだ。
「姫さま! もう殿下はご帰国されました!……もうお部屋にも、城内にもおりません」
「嘘ですっ! どうして、そんなに早いの?」
 アリシアは泣きながらふりかえって、怒鳴りかえす。庭の中で、彼女は「ぅわあぁーん!」と大きな声で泣きだした。彼女が人前でそんなに大きな声をあげて泣くことは今までなかった。特にマナーで教えるわけではないが、みっともないから普通は誰もやらない。
 教師が大急ぎで中庭に飛び出して、泣いている姫の傍に行く。彼女たちは姫を叱らなかった。泣きだした彼女を強く抱きしめて、苦しそうな顔をしていた。彼女の泣き顔を隠しながら、小さな頭を撫でた。姫は彼らにしがみつき、子どものように泣きじゃくる。
 日に照らされて黄金に弾け飛ぶ巻き髪が、彼女の姿を後光のように覆う。いつもこんなに早く身支度をするようなことはなかった。彼が城を出て行く前に早起きして準備したはずなのに、ウルフェウスは姫の予想以上に動きの速い男だ。
 それが、彼との差なのかもしれない。
 彼は全く知らない世界の、全く知らない常識に生きる人で、アリシアとは全く異なる考えを持っていて、理解しあえない人なのかもしれない。
 二人は釣り合わないのかもしれない。
 何もかもがすれ違っていた。アリシアの予想通りに動いてくれない。昨夜、バラの園に行ってずっと待っていたのに、彼は来なかった。彼と話をしようと思って早起きしたら、もう国にかえっていた。こんなに行動のずれる人と、運命なんてあるのだろうか?
 彼にとって、運命の人は別にいるのかもしれない。
 アリシアは違うかもしれない。彼にふさわしくないかもしれない。


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