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1 地上から空中都市への違法な侵入
雲の上には、島がある。
いつから、島が空を飛ぶようになったのかはわからない。しかし、人は既にその中で暮らしている。人が住めるほどの巨大な土地をあげ続けるために、どれほどのエネルギーが必要なのだろう。この場所にはとてつもない遺産が眠っている。
青く澄んだ異界のどこかに、その謎が存在する。島が浮遊する秘密を知ったところで、それを生かせるのは、金持ちぐらいだ。所詮、庶民には世界の謎なんて、暇つぶしのネタにしかならない。そんなことよりも、この空の澄み切った大気を、政治や利権や征服欲で汚されることの方が気になる。
全ての空域は、全ての人々の財産だ。
「……DLA256、高度を一万五千フィートに変更せよ。繰り返す。DLA256、高度を一万五千フィートに変更せよ。空中都市が接近中。繰り返す、DLA256……」
不意に地上からの通信が入った。
午後のまどろみの中、愛機JCPの中で無線を聴いていたジョルノ・ポアンカレは目を閉じたまま、片手を動かして、音量を上げる。
薄暗い空間の中、操縦席にいる彼はよれよれのシャツを着て、膝にフードつきのレザージャケットをかけている。額にサングラスを乗せて目を閉じているところを見ると、間抜けな格好だが、顔立ちは意外と整っている。軽い癖のついた金髪は肩のラインで切られていて、無造作に乱れている。睫が長く、肌は白くて、体つきも細身で優しげだ。目を閉じていると甘い余韻のある優男に見える。
しかし、次の瞬間、そのまぶたが持ち上がり、エメラルドグリーンに光る鋭利な瞳が現れた。その目は知的に光り、無線機を睨みつけた。
無線の傍受状況は不安定だ。なぜ、この周波数帯に入ってきたのだろうか。相手の無線はもう聞こえなくなっていた。傍受できる音域から外れたらしい。
ジョルノは額の上に乗せていたサングラスを髪の上に押しやり、長い前髪を持ち上げた。上半身を起こして、無線機の設定を変える。周囲の周波数帯を探すが、先ほどの無線連絡はもう聞こえない。無線の状態からして軍用機ではない。民間機だ。
軋む座席に座りなおし、レーダーに電源をつける。周囲の空域に機影を見つけた。
「白昼夢ではなかったか」
機影の速度を推定して、彼は立ち上がった。手前にある操縦桿を握り、それを引っ張るようにして体を浮かせた。椅子の上から飛び上がれば、古い操縦席は悲鳴に似た軋みをあげた。彼はそれを足蹴にして、出て行く。
操縦席の真上についている緊急脱出用のピットから外に顔を出す。ハッチを持ち上げれば、目を潰すような眩しさが入ってきた。彼は不意に真上にある太陽を目に入れ、顔を歪ませた。いきなりのホワイトアウトだ。小さく舌打ちした後、目を閉じたまま上半身を持ち上げる。
空港の片隅に彼はいた。ジョルノは広い空間を見渡し「おーい!」と怒鳴りながら、手をふった。回復した視界の中、ぼんやりした物陰が動いていくのが見えた。滑走路に二機の航空機が走っている。一機はすぐに停止したが、もう一機は飛び立ってしまった。停止した航空機の傍に整備士たちが走っていく。整備士の一人が車から、ジョルノに「おー、起きたかー」とのんびりした声で答えた。
ここは、空中都市にあるカトルズ空港という発着場だ。
この下に、音速で接近している地上の航空機がいる。
ジョルノは叫び返した。
「今、飛んで行った奴って誰だあー?」
整備士は「はあ?」と耳に手を当てて、首をかしげている。聞こえないらしい。ジョルノは舌打ちして悪態をついた後、再び操縦席の中に潜った。
キーを差し込んでエンジンを始動させると、狭かった操縦席の壁が突然、透明に変わった。機外の景色が透過して見える。上空の雲が滑走路に影を落として動いていた。影の動きは早い。ジョルノは風速計で現在の風の向きと速さを知る。
浮力装置への電力供給が始まった。その装置の中にある技術はブラックボックスだ。専門家でない限り、分解して組み立てることはできない。それは人類の技術力ではなかった。この空にある、異人たちの過去の遺産。浮力装置は動き始めれば、電源を切ってもこの機体を浮遊させ続ける。次に電気を入れるのは、この装置を止める時だ。必要な浮力が生じたことを確認すると、彼はすぐにその装置に繋がる電源を切った。
慣性航行用の制御機器(INS)に電源を入れ、現在の座標軸の入力を始める。
現在位置は空中都市域、第一気団南西線上にあるケアフルール島カトルズ空港、だ。
シートベルトを肩にかけながら、管制官へ連絡を入れる。片方の耳にレシーバーを押し付け、シートベルトをくぐりいれた方の片手を伸ばして管制官を呼び出す。
「こちら、JCP1。カトルズ空港に緊急発進の許可を願う」
管制官は休憩中だったらしい。数秒後にくぐもった口調で答えが返ってきた。
「はあ? 予定外の航行だぞ。JCP……ジョルノか?」
直後、野菜を噛みきって飲み込む音が聞こえてきた。食事中だったらしい。
ジョルノはレシーバーを両耳につけたあとで、サングラスの存在を思い出し、頭からおろした。髪が眼鏡に引っ張られて乱れたが、彼は知らん顔で目にかける。
片腕に絡み付いていたシートベルトを付け直しながら、答える。
「地上の航空機が接近してる。DLAって何だ? 軍機じゃねーよな?」
「DLA? うちとは契約してない」
「レーダーに機影が映ってる。こっちにくる」
「だったら、発進許可を出すわけがねーだろ。お前はバカか。事故に巻き込まれるぞ」
「そういう批判は堅気の飛行屋に言え。俺の仕事の邪魔すんな。早く出せって」
「ははあ? DLAの航空機を奪った密航者、か」
直後、管制官が大笑いした。発進許可が出るとジョルノは航行中を示すライトを点滅させながら、動き始めた。整備士たちが航空機の傍で手を振っている。滑走路が三叉にわかれる場所に来た。一つは一般の旅客機用の進路で、管制塔のある空港に向かう。もう一つはよく使用される南向き行路、もう一つが北向きの行路だ。
浮力をさらに上げて、このまま垂直方向に移動して飛ぶこともできるが、無駄なエネルギーは使いたくない。水平の推進力を使って車輪で移動し、浮遊している島から、空中へ飛び出した。大気を裂く不快な音は生まれない。あっという間に、彼の機体は空の中だ。
行路は北向き。島から出た直後、反転して、南西線から北線へ向かう。
空中にある都市は主に四つの気団にあることが知られている。地表面に一番近いのは、第一気団、と呼ばれている。大気の中でも下方に位置し、風速は比較的遅い。地表から次に近いのは第三気団だが、気流を読むのが難しい場所だった。比較的風が穏やかで航行しやすいのは第一気団とその上空にある第二気団である。第四気団は第二気団よりも高度も高く、大気の移動速度も速い。
その四つの気団の上に、神がすむといわれる最高天界がある。
最高天界は、風もなく、雲もない、永遠に不変の場所。今の人類には、その場所を航行できる技術力はない。だが、その空域に存在する島の存在だけは、科学者たちの調査によって実在が確認されている。数字の上の話だ。視認できたものは誰もいない。
第四気団以下の高度にある島は、風の影響を受けながら移動する。第一気団には八つの気流が存在する。天空線と呼ばれるその気流は北線から時計回りに、北東線、東線、南東線、南線、南西線、西線、北西線である。八つの方角に直線的な風が流れるわけではないが、天空の気流を示す天空図には、八つのラインを放射線状に配した形で表現される。
天空線が二つ以上交わる点をインターポールといい、これを使って、天空の飛行は行われる。八つの天空線が全て交わる交点を「グランポール」と呼ぶが、一級の航空士でない限り、その風を読むことは難しい。
しかし、ジョルノはそのグランポールへ向かっていた。
南西線から北線に入るには、それが一番早いからだ。そのかわり、気流が乱れて失速する危険性や、別の気流に引っ張られる危険も高い。
彼が北線へ向かうのは、その場所が一番、違法な仕事が多いから、だ。
北線はもっとも地表面に近い。だから、地上の旅客機が侵入したり、地上からの盗品を売り込む人間がくる。ジョルノはそういう人間を取り締まる立場にいる男ではない。そういう侵入者たちを相手に商売している男である。
昨今、地上から違法者が侵入する機会は少ないが、仕事がない。飯の種になるかどうか、確認することにした。違法行為を手伝うつもりはない。だが、まれに、地上から亡命しに来た政治家や、逆に空中から地上へ逃げる革命家などがいることがある。彼らを運べばいい金になる。
それに、空にいる要人の傍で働かせるため、地上から子供たちが誘拐されることがある。
ジョルノは、地上でさらわれてこの天空にやってきた男だった。外見の美しさに目をかけられて、誘拐されて売られた。口の悪い少年だったので、買われることはなかったが、その時、一緒にさらわれた弟と別れてしまった。
今でも、子供を売るために空に連れてくる犯罪者がいるのだろうか。
操縦桿を握り締め、ジョルノは歯軋りする。相手が子供をさらうような男だったら、問答無用で殺してやる、と思った。生き別れた弟がどこにいるのか、未だにわからない。もうそんな子供を増やしたくない。
制御装置を始動させて、自動操縦に任せる。その間に、片手で天空図を引き寄せ、手書きで行路の計算を行った。金があれば、ホログラム上で自動計算できる天空図を購入することもできるのだが、それほどの余裕はない。慣性航行用の制御装置を購入するだけでも大変だったのだ。
彼の航空機は中古である。知り合いが引退する時に古い機体を譲ってくれた。年代物の機体はジェット気流に乗るだけでも、ぶっ壊れてしまいそうな音を立てる不穏な乗り物だが、ないよりはましだ。空を飛べれば仕事ができる。
風向きと速度から北線へ侵入する時刻を計算している時、再び地上の無線を傍受した。
「……256から……空中都市……遭難……至急……繰り返す……DLA……許可を願う……こちら」
受信状況は悪い。だが、経験上、彼らがやっていることは丸わかりだ。機器の故障とか不良を理由に緊急着陸の許可を求めて、空中都市に侵入するつもりだ。
空中都市よりも移動速度の速い地上の航空機を受け入れる都市なんて、空中にはどこにもない。そんなに長い滑走路なんて持っていないのだ。そんなことができる場所はひとつだけだ。北線にそんな航空機でも発着できる細長い島がある。だが、その場所は、近頃はレベルEの警戒態勢にある違法な空港だ。戦闘を覚悟しないと近づけないはずだ。
ジョルノは予想外に早く彼らに接触できたことで、笑みが浮かんだ。無線越しに彼らに通信を行った。
「こちらはJCP1、パイロットのジョルノ・ポアンカレだ。DLA256は応答せよ。回線コードは397。繰り返す」
数回繰り返したら、無線機の回線がクリアになった。彼らも傍受できたようだ。ジョルノが使っている無線の周波数帯を使って応答してきた。
「こちらはDLA256、操縦はアメリア・ノイフィールド」
女性の声だ。ジョルノは朗らかだった笑みを引き締めて、軽く舌打ちする。女が絡むとろくなことがない。経験上は。
無線機は続けた。
「機長は心臓発作で死亡。私は副操縦士だ。機体はハイジャックされた。これより、空中都市へ入港の許可を願う」
「燃料がまだあるなら、地上に戻れよ」
思わず、不機嫌な声でそう言ってしまった。なぜ、陸の問題を空に持ち込もうとするのか。しかも、ハイジャック犯が乗っている? 入ってもらいたくない人物だ。
だが、次の瞬間、意外なことにハイジャック犯が明るい声で入ってきた。
「この状況で地上に戻ったら、俺が機長を殺したことになる! 違うって、勝手に、びっくりして死んじゃったのよ。俺はちょっと空中都市に寄り道して、と言っただけで、機体を奪うつもりはないってば」
「あのなあ、おっさん! それがハイジャックなんだって。何が寄り道だよ。機長が提出した飛行計画を勝手に変えるな!」
「ああ、はいはいはい! 君の説教はいちいち全部ごもっとも! だけど、俺は空中都市に入る理由があるのよ。研究者なのよ」
「それなら、正当に空中都市に行けるチケットを買って」
「ビザが下りるのを待てないんだよ。空中都市にある空港との会合時刻が合わない、とか、そういう訳のわからない理由で、今時の国際社会を生き残れると思うのか。一ヶ月も待っていたら、ビジネスにならないだろ!」
「そういう言い分は、地上で言ってろ。こっちは空なんだよ」
地表面にある空港は点座標で位置を固定できる。点から点への飛行計画を作って、上空の行路が入り乱れないように調整すればいい。だが、空にある座標軸は浮動のもので、点では示せない。昨日は入れた行路が塞がれているということが頻繁に起きる。
地上の行路計画がもっと緩やかであれば、空中へ向かう航空機の行路もゆったり作れるのだが、狭い余地に押し込んで計画しているため、飛べない日が出てくるのだ。
このハイジャック犯のように、時間を待てないわがままな短気の旅行者が、独自に航空機を雇って、空にやってくる。それは、天空図を理解できなくても、第一気団の動きを理解できていれば、比較的誰でも可能なのだ。安い航空機を借りて、飛べばいい。着陸することは難しいが、この男のように「ちょっと立ち寄って」と依頼して、グライダーを背負って降りればいい。
そういうことをするのは、大体が、ハンターと呼ばれる人間たちだ。空にある遺跡を発掘し、その財宝を元に生きている。研究者と名乗っているが、その男も、おそらくは遺跡ハンターだ。だが、ハンターにしては珍しく、自分で航空機を借りずに、民間機をハイジャックして空へ行こうとしたらしい。よほどのケチだ。
やはり、嫌な予感は当たったな、と思いつつ、金にならない仕事をどう処理するかと考え始めた。真っ当な判断としては、このまま、この男を警察に突き出してしまうことである。ハイジャック犯としては、それほど危険な男でもないだろう。
彼らとの無線を切ろうとしたとたん、アメリア副操縦士の声が聞こえてきた。
「燃料は残り少ない。本当のことを言えば、今すぐに引き返したいわ。空中都市の北部に行って、再び地上に戻る燃料はないの。行くなら、不時着を覚悟するしかない」
彼女の声はハイジャック犯に比べて、緊迫していた。声の様子からして若いだろう。手動で不時着した経験なんてないのかもしれない。空までの片道切符しか彼女には残されていない。違法者を捕まえるために、軍にスクランブルを要請したら、彼女たちの燃料はさらに残り少なくなる。
ジョルノは結局「くそ」と小さく呟いて、手を止めた。
「アメリア、そのおっさんは俺がもらう。これから、引き渡しの手順を説明する」
若い副操縦士は少し安堵した口調になって、答えを返した。
「引渡しって?」
彼女が怒らなければいいな、と思いつつ、ジョルノは重たい口を開く。
今まで、女のヒステリーには嫌な目にあってきたのだ。この女性が穏やかで大人しい人格であることを祈る。だが、その願望は叶ったためしがない。
ものの数秒で、女性のヒステリーに遭遇することになった。
「慣性航行中だろうな? 雲の中に入って高度と速度をそのまま維持しろ」
「雲の中に入れですって? 引き渡しって、もしかして、ハッチを開けろというつもりじゃないでしょうね」
「扉を開けずに、その野郎をどうやって捨てる気なんだよ、お前は」
「雲の中でそれをやるのは冗談じゃないわ!」
「こっちだって、雲のない区域にいくのは冗談じゃねーんだよっ!」
天空を移動する航空機は地上の航空機とは構造が異なる。
地上の旅客機は油を燃やしたエネルギーでプロペラを回し、その推進力で揚力を得る。だが、天空では雲の水分を分解した時のエネルギーで浮力装置にエネルギーを送っているのだ。浮力装置自体は半永久的に使用できるが、推進力はエネルギーがないと維持できない。空を移動するために、少し、浮力を落として航行するのが空中都市の航空機だ。推力を維持できなければ、次第に高度が下がってしまい、最後は雲から下に出て、墜落する。
雲のない見晴らしの良い場所へ行くのは、ジョルノの場合は命がけなのだ。
アメリアは最初こそ金切り声をあげて、驚いていたが、すぐに冷静に戻った。副操縦士らしい冷静な判断を話し始めた。
「自動操縦を駆使すれば、高度と速度を維持することは可能よ。ただ、雲の中は気流が乱れることが多いから、指示した数字どおりに維持できるかどうかは不明だけど。それに機体を開けたら、加圧している空気が噴出するから、開いたハッチ側から反対方向へ機体が揺れる。気圧が下がると酸素マスクが旅客に供給され、自動的に機体が高度を下げるようになっているの。ハッチを開いていられる時間は少ないと思うわ」
彼女はハッチを開けた後、雲の中で空間識を失う危険については話さなかった。だが、最初の叫び声から判断すると、彼女が一番恐れているのは、雲の中で機体が自動走行を維持できなくなったとき、手動に切り替えて操縦できるかどうか、なのだ。
雲の中は白い。太陽光の入る方角すらわからなくなるほど。それは、上下のわからない不穏な世界だ。慣れない人間にとって、雲に入ることは恐ろしい。電子機器で制御されたナビゲーターがあるからできること。空間を見失ったら、墜落しているのにそのことに気がつかない恐れも出てくる。失速に気がつくのは、肉体に異常が生じる速度になってからになる。その後に機体を立て直して、航行を再開するのは難しい。
おそらく、その点については、腹を決めたのだろう。彼女に覚悟があるなら、話は続けられる。ジョルノは彼女が話せる状態で安心した。
「おっさんを扉のすぐ傍に置け。その機体はハッチが壊れた時、どうなるように作られてる? もしかしたら、そのまま……?」
自動でシャッターが閉まるように作られているだろうか。気圧を維持できなければ、旅客機は航行を維持できない。アメリアたちがその後どうなるのかを考えなくてはならない。
アメリアはしばらく沈黙していた。そのような事態に陥ったことがないのかもしれない。たっぷり時間をとってから、答えを出した。
「緊急用のシャッターは閉まるけれど、高度を維持して飛び続けることはできないわ。すぐに救難信号を出して、地上へ向かう。積んでいる燃料から考えて、今、真下にある国に着陸を指示してもらうことになるわ」
「それでよければ、俺がその厄介者を空に入れてやる」
「乗客は、彼を含めて三十六人よ。彼らを代表して、あなたに礼を述べるわ」
話がまとまると通信が切れた。
ジョルノは自動航行に切り替えて、シートベルトを外した。近くの壁から携帯用の無線機とコントローラーを掴んで身につける。操縦席を飛び出して、船尾に向かう。サングラスを目から外して、胸ポケットに入れようとしたが、ジャケットを羽織り忘れていることに気がついた。それを近くの棚に放り投げ、代わりに目を保護するゴーグルを掴んだ。
十五メートルほどの長さの機体は細かく五つの区域にわかれている。操縦席のある前部とその後ろに電子機器の置かれた空間があり、下部に動力源となる機関部が存在する。中ほどに小さな居室が挟まっていて、修理道具や防具などが壁にそってベルトで固定されている。ジョルノは壁にかけられていた防寒着を手にとって、船尾に入る。
最後尾は自動制御されたハッチで区切られている。ハッチを開けば、少し広い空間が現れた。その中央に備え付けてある小型機JCP2の設置状況を確認した。
空の上では機動性の高い小型機だ。これも中古品で見つけて改良したもので、座席と浮力装置を包む防具の他は、方向を決める簡易なハンドルと速度を調整するレバーぐらいしかついていない。細長い羽に跨るような形の飛行機だ。パイロットの姿勢を維持するベルトも頼りない形状のものが数本ついているだけ。ジョルノの他には、危険がられて誰にも買われなかったポンコツ品である。
これに乗って、違法な密航者を受け取りに行く。
機体の設置を確認した後、壁につけられている輪状の皮ベルトに片手を突っ込み、手首を回すようにしてから握り締める。その状態で、傍にあるボタンを押すとハッチバックが開いて、冷たい外気が雲と共に入ってきた。
瞬間、肉体が浮き上がるような衝撃を感じたが、風の音は穏やかだ。JCP2は風に揺られて少し動いたが、暴風ではない。ジョルノは風が落ち着くのを待って、ベルトから手を離した。小型機の傍に行って、拘束具を外していく。
風に煽られて、彼の軽い髪が動いている。ゴーグルをしっかりとつけたら、視界を狭く感じた。揺れる前髪が邪魔だ。彼は一度髪に手を置いたが、時間がないことを思い出した。すぐに小型機に乗って、エンジンをつける。
浮力装置を始動させて、その場で浮き上がったら、風に引っ張られて外に滑っていく感じがした。ジョルノは背後を見つめて最後の確認をした後、上空の中に飛び出した。
綿雲の中は灰色の世界。
今日の天候は穏やかな南風が強く、高気圧が迫っている。南から北に向けてなだらかな勾配のある気圧配置だ。前線上に発達する気流の荒い積乱雲が遥か遠くにあるはずだ。その影響を受けるのはまだ先の時刻。ジョルノは風の流れにあわせて、DLA256便のいる場所を目指した。
無線機のレシーバーを保護するようにつけたイヤーマフの中で、彼女の声が聞こえた。
「JCP1……こちらはDLA256、応答願います」
ジョルノは怒鳴るようにして答えた。
「こちらはJCP2! パイロットはJCP1と同じジョルノ・ポアンカレだ!」
「アメリアよ、あなたは今どこにいるの?」
「雲の中! あんたのライトを探してる!」
「DLA256の現座標軸は、機器表示によると北緯42、東経152、高度は一万七千フィートを維持して、東北方面へ航行中」
「上等だ。あと五分待て」
雲の中は白い靄がかかって見える。しかし、手元の計器が見えなくなるほどの分厚さではない。ぼんやりと白い霧がかかったような中に上空の太陽が見える。雲の厚さは空間識を失わせるほどのものではなさそうだ。どことなく夢の中を飛んでいるような優しい浮遊感を味わう。
ジョルノは頭の中で地上の座標を思い出し、天空図とすり合わせた後に、現在の風の向きと相手の速度、自分の速度を図式に入れていく。邂逅時刻が計算どおりなら、このままの方角であっているはずだ。
しかし、相手は地上の旅客機だ。推進力はJCP2号機の十倍はある。こちらが全速力で近づこうとしても、一度邂逅時刻を見逃せば、もう遭遇できないだろう。
彼女に今の座標軸を言われる前に、レーダーで彼らの進行方向と速度は理解できていた。彼女のおかげでうまく行っていることが確認できた。あとは時間が全てだ。
ジョルノの計算では、会合してから五秒間の猶予があるはずだ。
ゴーグルの中で点滅して見える時刻表示を確認し、無線を繋げた。
「アメリア、合図を出したら、ハイジャック犯を外に出すからな。無線にあのおっさんをだしてくれ!」
短い返答の後に、彼女はハイジャック犯に無線を渡した。
再びあの軽薄そうな声が聞こえる。
「ねええ、きみ、本当に生身で外に出ろっていうのかい? この機体さあ、グライダーがないっていうんだよね。他に方法はないのかな」
「ない! 嫌ならもう助けてやらねえよ。地上で裁判を受けろ!」
「ああっ! ちょっと待って待って!」
「悩んでいる時間なんてもうねえっつーの。あと三分だ! やるのか、やらないのか、外に出る時の合図の話とか、言いたいことはたくさんあるんだけどーっ!」
そのハイジャック犯は空中都市に来るのは初めてなのだろうか。手際が悪すぎる。ハンターにしては技能も低そうだ。
ジョルノがイライラしている間に、アメリアが「ここで降りないなら、航空法違反でただちに空中に放棄します!」と叫んだ。女性のヒステリー気味の叫びまで聞いて、ジョルノはうんざりする。どちらでもいいが、ここまできたのだから、早く決めてくれ。
たっぷりと一分以上経って、ジョルノがもう止めようと思ったとき、無線越しに落ち込んだ男の声が聞こえてきた。
「ハッチを開けたら、俺の体だけ外に出るらしい……夢を見てるのかな? 空中都市って本当は天国のことなんじゃない?」
「笑えるジョークだぜ。俺はお前の死神か? 天国に行く決心はついたのか、生まれ変わって真っ当に生きるのか、どっちなんだよ」
「何を言ってるのよ。行くしかないでしょ? 俺は第四気団にあるヴュルラクへ行きたいんだ。だから、死ぬ気でこの航空機に乗ったんだ。頼むよ、ジョルノくん」
悩んでいたのが不思議なほど、その男はさっぱりした口調で依頼した。空に出る覚悟ができたらしい。ジョルノはにんまり笑って「あとで俺に金を払え」と答えた。
時間はない。詳しい説明はもうできない。
ジョルノは早口で叫んだ。
「俺が合図を出したら、おっさんがハッチを開けろ。いいか? 合図をしたらすぐだ。ためらっている時間はない。合図を出した五秒後には、もうあんたを拾えなくなる。本当に念願の天国へ行くことになるぜ?」
「ええー? ちょっと待って」
「待つんじゃねえ! すぐに出ろ、以上だ! アメリア、後の航行の無事を祈る!」
騒ぎ出した男の後で、アメリアが「レーダーに小型機の機影をとらえたわ!」と叫ぶのが聞こえた。その後、彼女は無線で「ジョルノ!」と叫んだ。
「ありえないわ。あなたなの? これってあなたなの?」
答えている時間もない。既に会合時刻まで、あと残り十八秒だ。
彼女たちのレーダーでJCP2をとらえられるとは思っていなかった。だが、その機影の小ささと速度の遅さに驚いていることだろう。彼女たちから見るとほとんど動いていない点に見えるはずだ。
音速に近い速度で飛んでいる航空機にニアミスするだけでも危険だ。ジョルノはもう彼女たちの悲鳴に気を配っている余裕は消えた。雲の動きは大型の雲粒の存在を知らせていた。彼自身も緊張しながら、機体を操る。
雲の下に出るぎりぎりの高度へ向けて、潜行を続ける。アメリアたちが通り過ぎた後、落下する人物を拾うつもりなのだ。
「こんな馬鹿げた方法で空に来るような親父に出会ったことがないぜ!」
だが、彼はそう叫んだ後、楽しそうに笑った。そんな無謀な冒険者の顔を拝んでみたいものだ。痛快だ、と叫んで哄笑した。
実はこういう冒険者が好きだから、厄介ごとに巻き込まれやすい男なのである。
航空機が雲に入った瞬間、規則正しく流れていた気流は壊され、力学の平衡点を探して、雲がうねり始める。それが雲の中に小さな渦を巻く。旅客機のプロペラによって後方に生まれる小さな渦が、雲を引っ張って、次第に大きなうねりとなる。
その渦によって生まれた気温差から氷晶が生まれていた。
ゴーグルに一瞬にして、びったりと白い霧状の氷がくっつく。彼らが近くを通り過ぎたことを、体温から理解した。JCP2の機体を安定させつつ、無線に叫んだ。
「おっさん、出ろ!」
直後、やだー、という悲鳴がして、肝が冷えた。即座に、ジョルノも「早くしろー!」と悲鳴を上げる。直後、冷静なアメリアの声が「出したわ」と聞こえてきた。
彼女自身もその後は緊急事態に陥り「もう切るわ!」と一方的に叫んで、無線を切った。ハッチを開けた後の気流の乱れを考えて、ジョルノは笑った。あの女も肝の据わったいいパイロットだったのかもしれない。
雲の下に向かって、潜行する。雲の下に出たとき、エンジン音が苦しそうな音を出して、高速で動きはじめた。直後、雲を突き抜けるようにして、黄色い物体が落ちていくのが見えた。ジョルノはその影を追いかけて、手を伸ばす。
自分のリュックを抱えて、青年が固く目を閉じていた。思っていたよりも若い男だ。眼鏡をかけていて、髪を几帳面に切りそろえている。確かに、研究者っぽい弱々しさを感じる。それにしても、無謀なことをしたものだ。
ジョルノは限界一杯の速度で下に向かって飛び、彼の足を掴んだ。
上方に引っ張り上げると、その男は目を開けて、しがみ付いてきた。
「ばかっ! おれにしがみ付くな。落ちるだろっ!」
そう言いながらも、彼の体を後部座席に押し付けることなく、抱きしめて、逆噴射した。落下速度は止まらない。ジョルノも冷や汗をかく。推進力がなければ、浮力は不十分だ。このまま二人で地上に向けて落ちるしかない。エネルギーの残量を示す計器を睨みつけ「あがれーっ!」と彼は叫んだ。
雲のある高度まで、わずかに1500フィート(約500メートル)だ。しかし、たったそれだけの距離を登るのも大変なのだ。JCP2のエンジンは苦しげな音を立てていた。
その時、前方の雲から大きな機体の塊が下に降りてきた。DLA256号機だ。
ジョルノは真っ青になって「あのバカ女っ!」と叫んだ。直後、ジェット気流に飲み込まれ、二人の乗ったJCP2は回転しはじめた。機体の向きを制御できない。
しかしながら、アメリアも必死なのだ。揺れる機体を制御しつつ、今頃は地上の管制官と緊急着陸の条件を話し合っているだろう。DLA256号機は翼から雲を引きながら、地上に向けて高度を下げていく。アメリアは乗客を守るために最良の手段を講じている。
彼女を責めることはできないが、JCP2はおかげさまで推進力が落ちた。きりもみになって回転しながら、落下していく。ジョルノの体には、間抜けなハイジャッカーがしがみ付き、彼の肉体の自由も奪っている。
無線が入った。
「カトルズ空港からJCP1へ……ジョルノ、空軍が違法に接近した旅客機に気がついたらしいぞ。その空域から急いで逃げた方がいいかもよ?」
管制官の声を聞いて「逃げられるなら今頃逃げてるよ!」と叫び返す。
直後、上向きの風に機体を持ち上げられた。DLA256号機が緊急着陸用の下降を始めたことで、大気の流れが後方で上向きに変わっているのだ。風に巻き込まれつつも、ジョルノは上空を睨みつけ、操縦桿を握り締めた。
逆噴射をかけることなく、回転しながら、その遠心力を使って空へ戻っていく。
エンジンを使って、回転速度を上げていたら、途中でエネルギーが切れた。ジョルノの額に汗が浮かぶ。だが、雲のある区域まではあと少し。目の前に見えている。雲の動きがわかる。エンジンが切れた後「登ってくれ」と祈るようにつぶやいた。
ゆったりと回転しながら、平衡に位置を保つ。浮力装置はまだ生きている。高度を維持して風を掴む。雲の下に広がっている景色が見える。大地と海が平面だ。
アメリアたちの機体はあっという間に下にいた。機体はすでに着陸態勢に入っている。高度二万フィートの高さにいても、彼らの技術では数分以内に地表面へ降りられる。
ジョルノたちがいる高度を示す数字はあがり続けている。彼はゴーグル越しにその時刻と高度を見て、つばを飲んだ。彼は眼下に見える美しい地上の風景に見惚れたりしない。
空を見ていた。雲までの距離。
「あと少し……頼む……風をくれ」
そんなことをつぶやいたら、彼にしがみ付いていた男が答えた。
「あの山に近づけば、上向きの風が吹く。弱いと思うけどね」
言われて地上を見れば、独立峰が見えた。海際に近い場所にある。海風が山の裾から登れば、気流が上に流れるだろう。だが、地表面の風を読むことはジョルノには難しい。地形から生まれる風を読むことは思いのほか難しいのだ。
「前線が向こうにある」
そのハイジャッカーは意外にも冷静な声で続けた。
「前線沿いに発達性の雲ができてるね。あの下なら、上向きの風があると思うのに」
「あれとの会合時刻まで飛び続けられないし、その周囲は巻き込む形で下方の風が流れるんだよ。それにあれは俺たちのいる高さまで影響は与えない」
「本当に天国へ行くことになるのかい?」
「答えたくねーよ」
ジョルノは諦めて、ゴーグルを外した。回転速度はゆったりとしたものに変わった。もうすぐ上昇を止めて、落下が始まるだろう。
しかし、諦めた直後、上方にあった雲が下向きの風によって、渦を巻きながら落ちてきた。上空に何があるのかを考えて、ジョルノはにやりと笑った。
「JCP1……俺たちを迎えに来いよ」
彼は片手に握っていた遠隔操作用のコントローラーを握って、現在位置を示す信号を愛機に送った。それは数秒後、雲をまとわりつかせてJCP2の前方に下りてきた。機体と共にまとわりついていた雲の一部が目前に迫る。
雲に覆われた瞬間、JCP2のエンジンが一時的に生き返る。JCP1の後方にあるハッチバックは開いたままだ。彼らはそのまま水平移動して、船内に入った。
JCP2を繋ぎとめる時間はない。ジョルノはJCP2から飛び降りたが、直後、体がぶら下がった。肉体に絡み付いているシートベルトをもどかしげに引きちぎり、手を壁に叩きつけてハッチバックを閉じた。そのまま、操縦席に向かって走っていく。ハイジャッカーは船尾に置いてきぼりだ。
操縦席に戻れば、既にエネルギー量低下のアラームが鳴っていた。
「空に戻ろうぜ、相棒!」
彼はそんなことを叫んで操縦席に滑り込んだ。高度は雲の下320メートル。だが、JCP2には積んでいなかった氷晶がこの船には積まれている。雲のない区域でそれらが急速に消えていくのが数字で理解できた。エネルギーを全て浮力装置へ入力し、浮力を上げて上方へ向かう。
ほどなくして、彼らは雲の中に戻った。
操縦席の背後にハイジャッカーがやってきて、ジョルノの座っている座席に腕を置いた。彼は操縦席越しに見える雲の中の景色を見て、嬉しそうだ。雲の下方は煙に透けるようにして、地上が見える。上質な絹織物のような薄さである。
「俺たちは天国へいけそうだね」
「お前がいけるかよ。犯罪者め」
苦笑いして振り返ると、ハイジャッカーは照れくさそうに笑っていた。小さな声で「助けてくれてありがとう」と彼は言った。
気持ちが緩んでから、ふと、思い出した。
「あ、おっさん、名前は?」
「あれ? 言わなかったっけ。おっさんって、君も失礼だよね。多分、同じぐらいの年でしょ。俺はマクシミリアン・シャッテンバウワーだ。まだ二十五歳だよ。マックスと呼んでよ」
「二つ年下かよ。あんたと仲良しにはなりたくないけどな」
ジョルノは朗らかに笑って、行路を変更した。
雲を突き抜けて、上方へ。太陽光の射す雲海に飛び出ると、白面の雲海原に七色の光がはじけ飛び、かすかに黄金の光がさしているのが見えた。
「ああ……天国みたいにすてきな光景だね」
「行ったことがあるのか?」
雲の上に浮かぶようにして飛びながら、ジョルノは体中を触って、サングラスを探した。何をしているのかを、マックスは悟ったようだ。何も言わずに、機体の中で見つけたサングラスを差し出してきた。
ジョルノはサングラスをかけて、小さく笑った。
雲に浮かぶ島が遠くに見えてきた。天空図を引き寄せて彼はつぶやく。
ケアフルール島カトルズ空港へ。
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