ジョルノ・ステラ1

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2 ケアフルール島の朝



 ジョルノ・ポアンカレが暮らす集合住宅は、ケアフルール島の東部にあるユイティ街に存在する。カトルズ空港からは人力移動でも一時間程度だ。電力を使用しない移動方法としては、自転車が最適だ。大抵は健康的にペダルをこいで生活している。
 ユイティ街の南西側には、庶民が利用する小さな市場がある。名前をヴィエイユという。日常のあらゆる雑貨や食料品が売られている。市場で取引される時間帯は午前中のみだが、午後もバーやレストランは開いている。
 ジョルノの住む集合住宅はそのヴィエイユの裏側に入る路地の奥にある。
 昨日、マクシミリアンを拾ってから、警察には通報しなかった。彼を連れて自宅に帰り、ぐったりして眠っていたら、不意に警報で起こされた。
「ジョルノー!」
 警報だと思ったが、玄関のブザーだ。しつこく鳴らされ、ジョルノは寝台の上を転がりながら「ちくしょ」と小さくうめく。不機嫌な顔に変わった。
 時計を見ると割と早い時刻だ。
 起き上がったら、背中から足が転がり落ちた。脇を見ると、宿泊する場所がない、と言って泣きついていたあの男が寝ているのが見えた。ジョルノはため息をついて、マックスの頭を叩きながら退けた。
 のっそりと起き上がり、玄関へ向かう。ブザー音を止めて「はい?」と力なく応答する。
 隣の部屋に住んでいるバスの運転手がこれから出社するらしい。扉越しに会話が始まる。
「おっすー! おまえ、今朝はどうする? 仕事は? 昼から?」
「うー……まだ決めてねー」
「仕事は見つけられなかったんだー? 昨日連れてきたのって、お客じゃないの? ねえ、バスを無料で乗せるのは無理だけどさあ、回送バスなら乗せてあげられるんだけど」
 下心を感じる誘い方だ。後で絶対、アルバイトの話になるはずだ。
 ジョルノは欠伸をしながら、シャツの下の肌をかきむしる。シャワーを浴びたい。髭をそりたい。何より、腹が減っている。
 そ知らぬ顔で、断りの台詞を口にする。
「ありがたいけど、今日はいいや。まだ、飯食ってないし」
「あ、でね、でね! お仕事があるんだけど、やるー? 時給で払うからさ」
「おまえの紹介はろくでもないんだよ……また女だろ?」
「あたりー! 女の子とデートしよう、デート! おまえもそろそろ恋人ぐらい作れよ」
 お断りだ。面構えだけはいいからと、出会い事業に引っ張り出されても、迷惑だ。女と過ごす時間は妙に気を遣わされる。そのくせ、収穫はいつもない。金だけが消える。
 ジョルノは不機嫌な顔になり、扉を拳でガツッと殴りつけた。扉の向こうで「いってきまあーす」と隣人の声がした。ジョルノは「いってらっしゃい」とうめくように答えて、部屋の中に戻った。
 もう眠りなおす気も失せた。居間に戻ると光の透過しているカーテンを引っ張って開けた。鮮やかな日差しを目に入れて、少し顔をしかめた後、窓を開けた。気持ちの良い風がそそぐように入ってくる。近くにある市場から、朝食の匂いがしてきた。焼ける魚の香りと野菜を煮込んだ甘い香り。
 バルコニーに出たら、月光のような毛色の猫が渡っていく場面に遭遇した。たまにこの近辺で顔を見る、すっきりした体の美人猫。瑪瑙のように柔らかい緑色の瞳だ。ジョルノと目が合うと胡散臭そうな顔をして、ふいっと顔をそらされた。
「お嬢さん、うちにこないか? チーズがあるぜ?」
 手を伸ばしてそう話しかけたが、その猫は既に腹が脹れていたのか、無反応で通り過ぎてしまった。バルコニー沿いに手すりを歩いて、隣の塀にひょいっと登る。
 今日もふられた。いつだって、いい女は男を袖にするものだ。ジョルノは彼女の後ろ姿を見送って、さっぱりした笑顔を見せる。あの猫は一度だって、餌のために擦り寄ってきたことがない。だから、彼女はいつも痩せてる。
「あれぐらい気位高く生きられたら、気持ちいいだろうな」
 ジョルノはそんな言葉を自嘲気味につぶやいた。
 隣から女が出てきた。ジョルノは不機嫌な顔になり、目をそらした。隣に暮らす女はいつも下着で外に出てくる。目を閉じて部屋の中に戻ろうとしたら、優しい声が聞こえてきた。
「おはようございますー」
 隣人の声ではない。ジョルノは少し目を開けて、彼女を見た。知らない女だ。
「ルカのお隣さん? 朝が早いんですね」
「ルカ……どういう関係?」
「遊びに来て、泊まっちゃった!」
 彼女はバルコニーにもたれて、ニコニコ笑っている。髪は黒くてまっすぐだ。瞳は均等な濃さのアイスブルー。肌は白くてもちもちしている。かわいい。
 だが、下着姿でふらふら外に出てくるような女の友達だ。ジョルノは顔の表情を変えることなく、警戒気味に話しかけた。
「で、あいつはまだ寝てるのか」
「うん」
 バルコニーの下で、水揚げした魚の取引が始まった。ジョルノは視線を外して、市場の様子を見つめる。その隣で、彼女もバルコニーに肘をつけて、前かがみになって下を見る。
 優しい色合いのシャツを着ているのだが、前かがみになると胸元が少し見える。下は筒状の短布をつけているので、下から見上げれば彼女の下着は丸見えだ。
 ジョルノは横目で彼女を見ていたが、途中で困った顔になって目を伏せた。
「どうして女ってのは、そう……無防備なんだよ?」
 独り言のようにつぶやいたら、彼女が「何か言いました?」と笑った。ジョルノは答えることなく、体を起こし、バルコニーから出て行った。
 バルコニーから彼女が「あのー」と声を上げていたが、知らん顔で台所に入る。食材を取り出して、パンを切り、サラダを作る。温かい飲み物を淹れるためにお湯を沸かす。一息ついたら、寝台からマックスが出てきた。
「ふあああ、あ、おはよう」
 間抜けな顔でジョルノを見て挨拶する。ジョルノは「おお」と軽く答えた。
 食卓にマックスが座ったので「飯ぐらい自分で食いに行けよ」という。マックスは「一緒に行こうよ」と笑う。悪びれることなく、ふにゃふにゃの笑顔で。
 ジョルノはそんな彼の笑みを見て、表情が崩れた。
 マックスは違法に空中都市に侵入しようとした男だが、ジョルノに救われた後、その報酬はきちんと支払っていた。だから、無下に追い出すことはない、と判断してしまった。
 それに、どことなく人好きする男だ。子供みたいに無邪気で放っておけない。
 彼の分もパンを切りながら、話しかけた。
「市場でおかずを買ってこい。それぐらいの金は払ってくれ。俺だって、余裕はない」
「起きたばかりなのに。洗顔ぐらいしたいよ」
「顔を洗って買いに行け……建物の右にある。出てすぐだ」
「いつもそこでおかずを買ってる?」
「たまにね」
 ジョルノが少し笑ったら、マックスもほっとした顔で笑い、立ち上がった。洗顔する場所を聞かれたので、指で示した。
 顔を洗って、軽く衣服を整えたら、彼は外に出て行った。ジョルノは朝食の支度を一度止め、居間に戻った。たまっている洗濯物を抱えて、浴場に入る。
 バルコニーから「ジョルノー!」とマックスの声がした。ジョルノは手を止めて、バルコニーへ出た。隣に、まだ彼女がいた。目があったとき、彼女に微笑まれて、少し戸惑う。
「おかずの種類がさあ、たくさんあるから迷っちゃうよ。どうしたらいいのー? きみ、何を食べたいのよ?」
 何でもいいから好きなものを買って来い、と答えようとして、はっとした。
 マックスのいる位置から、ジョルノを見上げたら、隣にいる彼女のスカートの中も見えているのではないか。ジョルノはちっと大きく舌打ちして、怒鳴った。
「うるせえっ! さっさと買えっ!」
 その後、隣にいる彼女に「いつまでもそこにいるな!」としかりつけた。彼女はきょとんとした顔で、彼を見つめ返す。
 部屋の中に入ろうとしたら、隣の部屋から女が出てきた。予想通り、下着姿で、すけすけのショールを羽織って。
「ううーんっ! いい朝だああー、おっはよー!」
 何をして働いている女なのか知らないが、下着の色は赤である。誘っているのか。朝っぱらから。ジョルノは目のやり場に困って「うっせ!」と不機嫌に答える。
 部屋に入ったが、彼女の声はバルコニーから聞こえてくる。彼女の名前はルカというらしい。実は初めてそれを知った。ジョルノはイライラしながらも、少し赤くなった。
「リン、もう起きてたのお? はっやーい、起こしてくれればよかったのにい」
「だって、よく寝てたんだもん。起こしたら悪いかなって。あ、隣の人も早起きみたい」
「ふふふ……ね? 隣の人、よく見るとかっこいいでしょ。彼と話はできた?」
 あの姿のまま外で会話しているのかと思ったら、たまらなくなった。
 ジョルノは「あああ、くそっ」と悪態をついてから「うるせえぞっ!」と彼女たちに怒鳴った。部屋の中で話せ、と叫んだら、ルカの笑い声が聞こえてきた。だが、もう一人の女性が「うるさかったかな?」と落ち込んだ声で言う。
 思わず、ジョルノも口を閉じてしまう。部屋の中で小さく「いいから早く中に入れよ」とつぶやく。おしゃべりぐらいは聞こえたっていい。でも、もう少し、周りを気にした姿をしてバルコニーに出てくれないものだろうか。
 電話が鳴った。ジョルノは気持ちを切り替えて、窓辺から離れた。
 受話器を耳につけたら、女性の声が聞こえた。
「おはよう、ジョルノ」 
 知り合いだ。ジョルノは表情を緩めて「おはよう」と答えた。
 契約しているカトルズ空港の職員だ。大きな空港ではないが、整備士が常駐している。ジョルノの愛機もそこで整備を受けている。昨日は無理な飛行をさせたから、整備を依頼していた。
 彼女の名前はネイジェルという。彼女は一人でエンジンをばらして、持ち運ぶこともできる男勝りな女性だ。メカニックとしての腕は信用している。
 電話機を持って、ソファに座った。
「制御盤の磨耗がひどいね。そろそろオーバーホールしなよ。JCP2の第一エンジンは取替えだ。新調するから、午前中にきな」
 彼女は笑いを含んだハスキーボイスでそう話して、早速金の話に入った。請求額を書き取った後、ジョルノは再び眠そうな顔に変わる。欠伸をした後「俺に仕事をくれよ」とジョークを返した。
 ネイジェルは気持ちの良い声で笑った後、先を続けた。
「あんたとはよしみだからさ、つけにしておいてやってもいいよ。でも、待つのは月末までだからね。仕事は? 昨日の旅客機で何か獲物は拾えなかったの?」
「厄介な居候が増えただけだ。第四気団へ行くと言ってるが……金がありそうなら、雇ってもらえるかな? いくら持ってるか知らないけど」
「あんたも人がいいね。金だけとって捨ててきたらよかったじゃん。犯罪者を一人ぐらい放り投げたって、上空ではどうせばれないよ」
「ネイジェル、おまえは人でなしだな」
「ジョークよ……警察が昨日の件で空港に来たけど、知らないと言って逃げちゃった」
「何だよ、もうお尋ね者なのか、あいつは」
「そらそうでしょ。派手に旅客機をハイジャックしたらしいじゃない。バカな遺跡ハンターだよね。あはははは!」
 一緒に仕事をすると失敗するかも、と言われたところで、当人が市場から戻ってきた。ジョルノは笑いながら「またあとで」と言って、切った。
 マックスは両手に袋を下げていた。市場で誘われるがままに金を払ったらしい。
 彼は空中都市で過ごすのは初めてだったのか、興奮気味に話した。
「すごいね、地上で食べるものも、空中で自給できるって、うわー、農場に行ってみたいよ。何なの、この魚は? ねえ、きみ、名前知ってる? 美味そうでしょう。煮付けらしいんだけど、香りがよくない? ねえ!」
 無邪気だ。憎めない男である。
 朝食にしては食べきれないほどの量を買ってきて、テーブルに並べていく。ジョルノも台所に入った。切りかけのパンを切り、籠に入れて彼の前に出した。サラダを少し大きな皿に入れなおして、取り皿と一緒に持っていく。
 マックスはテーブルをなでるように拭きながら、話した。
「隣の人、かわいいね」
 ジョルノはひんやりした目で彼を睨んだ。マックスは両手を上げて、慌てて振った。
「いや、俺は別に手を出そうとか、そんなことは考えちゃいないよ。一般論だよ、一般論だ。うん。ほら、毎朝、そういう女の子の姿を見られるなんて、眼福じゃないのよって」
「飯はいらないらしいな」
「だから! 彼女たちに手を出さないってば! もー」
 マックスはため息をついて、天井を仰ぐ。小さな声で「何だよ、どっちと付き合ってるの」と言われたが、冷ややかに見つめただけで答えなかった。 
 隣人に恋愛感情なんて持ったことはない。
 いつも、あんな格好で外に出るから、留守中に色情魔が入ったりしないかと冷や冷やしてるだけだ。治安が悪くなることを心配しているだけだ。
 自分のいない時間に、彼女に何かあったら。
 ジョルノは手を止めて、考え直した。ルカに何かあったら何だというんだ。彼女と付き合ってるわけではない。単なる隣人だ。今日まで名前すら知らなかった。
 顔だってまともに見た覚えがない。目や髪の色よりも下着の色の方が記憶に残るような女だ。街ですれ違っても、きっとわからないはずだ。彼女が街で、普通の姿で歩いていても、きっと……誰なのかわからない。本当はすれ違っているのかもしれないが。
 外では彼女のことを無視しているだろう。多分。
「はあ……俺って最低男かも」
 落ち込みながら、飲み物をカップに注ぐ。
 テーブルに二人分の飲み物を出したら、マックスが向かいに座って「ジョルノくん、食べようか」と声をかけてきた。年下男に「くん」と呼ばれても気味が悪い。しかし、抵抗することなく、着席した。おかげさまで今日は豪勢な朝飯だ。
 マックスは話した。
「きみは運び屋なんだってね」
 市場でそう聞いたよ、と続ける。ジョルノはパンにサラダと魚を挟んで折り曲げる。口の中に放り入れたら、マックスが不気味な笑みを浮かべているのが見えた。しかし、そういう類の笑みは見慣れている。違法なハンターの送り迎えぐらい、したことがある。要は依頼人に金があるか、ないか、だ。
 ジョルノは口を動かして、久々のたんぱく質の味を堪能してから、飲み込んだ。
 マックスは飲み物を口に入れてから、腕まくりをして食事をする。彼に話しかけた。
「第四気団へ行くのか」
「そのつもりだよ。送迎の相場は知らないが、君は信用できそうだ。仕事を頼みたい」
「言い値で取引してると、巻き上げられるぜ」
「そういう忠告をしてくれるという性格も含めて、気に入ったんだよ」
 ジョルノはパンをかみながら、かすかに笑う。電話の脇にあるメモに手を伸ばした。彼にそのメモを渡してから、指を三本立てる。マックスは意味がわからなかったようだが、請求額を知って、苦笑いした。
「三分の一?」
「三倍だよ。おまえがこれから行くのは、第四気団だろ? 苦労は昨日の比じゃねーよ」
 彼らが現在いる第一気団は、地上からでも入りやすい場所だ。
 しかし、これからマックスが行きたがっている第四気団は、空中都市に暮らす腕利きのパイロットたちでも、尻込みする場所だ。空の島を渡る移動手段は雲がエネルギー源だ。第四気団はその雲が少ない。さらに、第一気団よりも遥かに高い場所にあり、地表面の五倍近くの速さで風が吹く。天空の風を読む航空士にとって、この風は掴みにくい難物だ。
 まずはその高度に到達するまでが大変だ。並みの浮力装置では上がれない。最大浮力を生み出すのに必要なエネルギー源がいる。大量の氷晶を積み込まなくてはならない。
 ジョルノの乗るJCP1には耐凍性のタンクが存在している。だが、乗せられる容量を考えると登れる高度に限界がある。マックスが行きたがっている「ヴュルラク島」は航行高度限界の島だ。帰り道でどこかへ給雲に降りなくてはならない。
 ヴュルラク島は一般見学の許されていない特別な島だ。この男が正規の研究者であることを願う。そうでなければ、給雲に立ち寄ったところで、遺跡保存委員会に捕まるだろう。
 遺跡保存委員会は、天空に存在する太古の島を保存する目的で存在している公的な組織だ。密航者が貴重な遺産を盗まないように、ロヴィーネ島という場所で第二気団以上の高度に入ってくる侵入者を監視している。
 一番いいのは、正規の入島許可証を求める研究者たちを、第二気団にあるロヴィーネ島へ送ることだ。第二気団の高度に到達するのもなかなか大変なのだが、第四気団よりは楽だ。そして、合法的で金額は相場をきちんと払ってもらえる。安全だ。
 だが、おそらく、マックスという男は違法なハンターの方だろう。帰り道が不安だ。
 湯気の出るカップを口につけながら、マックスが聞いた。
「このメモは何の数字?」
 ジョルノはサラダに酢をかけて答えた。
「俺が片道に払うリスクだ」
 格安だぜ、と続けたら、マックスが笑顔で頷いた。扱いやすい男だ。ジョルノはあっさりと話がまとまって、少し不安になった。きちんと金を持ってるんだろうな、と確認し、前払いで半分を払わせることにした。
 

 知り合いのバスに途中で拾ってもらい、観光客に混じって、カトルズ空港へ。
 駐車場からすぐに建物に入り、窓越しに航空機が見えるような小さな空港だった。受付カウンターは二つしかない。北行きと南行きのカウンターだが、大抵は北に行くより、南に行く客の方が多い。北行きカウンターは今日も南航路の臨時カウンターになっている。
 いつもはワンフロアに十人も客が座っていたらいい方だ。今日は、待合室が人で溢れている。椅子に座れなかった団体客が壁際で集まって歓談している。彼らは明るい色調の衣類を着ていて、装飾品をつけている。観光客だ。ここ、ケアフルール島で購入したらしい土産を手にして、朗らかな表情だ。
 ジョルノは空港内に入ると、珍しくにぎわっているカウンターへ歩いていった。
「よお! 今日は臨時便でもあるのか」
 カウンターで受付業務についていた女性が、うんざりした顔で答えた。
「北線へ侵入しようと考えてるなら、今日はもう無理よー。空賊が出たらしいわ」
 北線で空賊が出たなら、その周囲にある北東線や北西線も侵入禁止だろう。その線にある軍隊が出動しているはずだ。物騒なことが起きそうだ。空賊が軍と衝突することも覚悟で動くとなると、何かが起きているだろう。金になりそうな、何か。
 今日は、北側には向かわない。ジョルノは内心ほっとしながら、世間話を続ける。
「あー、乗り継ぎ客が押しかけてきたのか」
 受付にいる女性はファ・ルウという。彼女は繊細な指で搭乗者名簿を操作していた。彼女はまだ若いが、生まれつき直毛の白髪だった。瞳も色が薄いので、奇異な目でよく見られるのだが、彼女はもう慣れたようだ。派手なカラーレンズを瞳にいれ、毎月明るい色に髪を染める。今月の彼女はオレンジの瞳に真緑の髪だった。カトルズ空港は職員の身なりには比較的緩やかだ。観光地でもあるので、シャツ一枚で仕事ができる。開放的な空港だ。
 受付カウンターの仕事は大方終わっている。空港内にいる客はほとんどが手ぶらだ。手荷物の確認作業が航空機の傍で始まっているのが、窓越しに見える。
 ファ・ルウが搭乗手続き用の名簿をコントロールセンターへ送ってから答えた。
「ホント、もういい迷惑! 臨時便で午前中は隙がないわ。クリスが管制室で泣いてるわよ。チェルキオ空港からも指示がきてるらしくて、朝飯も食えない、らしいのよ。一応、ネイジェルがさっきサンドイッチを作って持っていったけど。チェルキオは今まさに、国際会議の開催中で、要人以外は入島できなくなってるし、地上から到着した旅客がそのまま南回りに押しかけちゃってさあ」
「へえ。稼ぎ時だな……」
 チェルキオ空港というのは、東線に存在する巨大島クルセルにある主要空港だ。地上からの旅客機が最初に到着する天空のハブ空港である。その空港から各地へ乗り継いで、旅人が空を移動する。クルセルには大きな街があり、要人が滞在する。議会開催時にこの島は外部からの侵入を禁じられる。チェルキオ空港は乗り継ぎにしか使われなくなってしまう。これから政治がらみで、空が騒がしくなるようだ。
 今日は北側から東回りまで進入しない方が無難だ。空の上は南西方向に込み合うことになりそうだ。本当なら、ジョルノも今日は稼ぎ時だっただろう。短気な金持ちが、リゾートの多い第二気団へ連れて行ってくれ、と民間のパイロットを雇う可能性がある。
 ファ・ルウは既にそういう状況も見越しているのか「さっき、あんたの客になりそうな奴がいたわよ」と教えてくれた。彼女からはよく仕事のおこぼれをもらう。配達の手伝いとか、雇われパイロットとか、観光用のアクロバット飛行とか。
 だが、今日はそういうアルバイトを引き受けられない。
「第二気団のロヴィーネ島へいく船は?」
 彼女は不思議そうな顔で「JCPで行きなよ」とつぶやく。ジョルノは瞳にサングラスをかけて、笑った。
 背後を振り返るとマックスが、ぽかん、とした顔で窓の外に見える空港の景色を眺めていた。マックスは気楽なスタイルだ。これから第四気団へ行くとは思えない軽装で、先が思いやられる。彼に金があるなら、ここで彼らと共に第二気団へ行かせれば楽だ。彼が本当に研究者なのかどうかわからない。
 ヴュルラクという島の名前を知っているだけで、怪しい男なのだが。
 第四気団内にある島には遺跡が多い。最古の空中都市を作ったという神族にまつわる遺産だからだ。重要な遺産のある島は入島許可証がないと入れない。許可証は第二気団にあるロヴィーネ島で遺跡保存委員会に申請して手に入れることになる。
 大抵の許可証は学者用に作られている。一般見学可能な島もあるが、ヴュルラクは一般見学者の立ち入りすら禁じられた島だ。その島には古い井戸がある。空中都市で人類が暮らし始めた当初、雲から水を精製する初期の技術が残っていると考えられている。それゆえ、学術的に貴重なのだ。
 マックスがその研究者なのだろうか。
 ジョルノは彼の後ろ姿を見て「見えねー」と独り言をつぶやく。だが、人は見かけではない、とも言う。観光も楽しむ気楽な研究者がいるかもしれない。調査に来たにしては身軽そうだが。一体、何日間滞在して何の調査をするつもりなのか……不明だ。
 ファ・ルウがコンピューターを切って、立ち上がった。これから搭乗手続きが始まるらしい。彼女はカウンターから出て、搭乗口へ向かいながら、口を開いた。
「遺跡の見学許可でももらいたいの? 悪いけど、今日、カトルズ空港から第二気団へ行く船はもう満席よ。予約してまた明日来なさいよ。今から取れるのかはわからないけど」
「あ、そ。ありがとう。今の言葉で腹が決まった」
「何よー、それー? 引き受けたくない仕事なの? ははあ? さてはハンターだ?」
「大きな声で言うなって」
 ジョルノは背の低い彼女の頭を軽く包むように撫でてから、カウンターを離れていった。ファ・ルウは「気をつけてね」と笑顔で手を振った。
 マックスに声をかけて、空港を出て行く。マックスは搭乗手続きの始まった空港を見渡しながら、おぼつかない足取りでジョルノの後をついてきた。
 職員通用口を通って、商業施設を通り抜ける。滑走路に出る扉を開けると、強い日差しが目に入ってきた。ジョルノは前髪を片手で、ぐしゃっとかき混ぜるようにして動かし、サングラスの上に髪を乗せる。整備士たちがいる倉庫に向かって歩いていく。
 ネイジェルの姿を探したが、見当たらなかった。仕方なく、他の整備士たちに声をかけようとしたら、背後から彼女の声がした。管制塔に行っていたらしく、手に食器を持っていた。管制官とおしゃべりでもしていたのだろうか。
「あれ? ジョルノ、早かったじゃん」
 ネイジェルは彼の隣にマックスの姿を見つけ、にんまり笑った。彼女は少し浅黒い肌をしているが、瞳は大きく潤むような光が入る。しなやかな肉体が豹のような印象だ。一見すると男性のように見える短髪だが、性別を超えた色気のある目つきをしている。実は、管制官のクリスが彼女のことを気に入っている。まだ恋人ではないらしいが。
 ジョルノは建物の中に入って、立ち止まる。自分の航空機を探した。
 ネイジェルは彼の隣で立ち止まり、尻ポケットに突っ込んでいたキャップを頭にかぶる。
「JCP2の第一エンジンは、スターターが狂ってるよ。第二エンジンを使って飛ぶことはできるけど、今日はやめた方がいいと思うな。補助だからさ」
 彼女はジョルノを見上げて、手に持っていた食器を押付けた。ジョルノは彼女から汚れた皿を受け取り「他には?」と答えた。ネイジェルは軍手を取り出しながら、歩いた。倉庫の奥で緑色のカバーをかけた航空機の傍へ向かう。大きさから言ってそれはJCP1だ。隣にむき出しの状態でJCP2が置かれ、エンジンがばらされている。
 ネイジェルは壁際に置かれた古びた机の上から、ライティングボードを取り出し、視線を落とした。文字を読みながら、ジョルノの質問に答える。
「JCP1の動力部に異常はなし。電子制御部に若干磨耗した回線があるけど、使用に不都合はないと思うよ。慣性航行用のINSに入力する時、ちょっとバグが入るようになったら、取り替えた方がいいと思うな。あんたの腕なら、手動で行けると思うけど、単独パイロットだからさあ。INSが働かなくなったら困るでしょ」
「まあね。浮力装置への電子回路に問題はないか」
「今のところ。MLS(着陸用の誘導装置)も使わないなら、もう捨てちゃいなって言ってるのに、どうして使わない機器を後生大事に突っ込むかね? 機体が重くなるって」
「たまに地上へ行くこともあるかもしれないだろ。他には?」
「そういう時は、飛ぶ前に整備を依頼すればつけてやるのに……あ、そうだ。動力部はともかく、機体を制御するパーツが終わってるよ! ブレーキパッドを二つ取り替えた。アラインメントを維持する部品の磨耗も著しい。車輪もタイヤが擦り切れてるし、外装も傷だらけだし、流体エルロンの形状も辛うじて」
「わかったよ。今度の仕事が終わったら、とりあえずオーバーホールを頼むよ」
「今度の仕事?」
 ネイジェルは大きな瞳を輝かせて、マックスを振り返った。そのまま含み笑いしてライティングボードを机に投げ置いた。軍手をはめて、JCP1に可動式のはしごをかける。
 マックスは彼女と目が合うと、ほっとした顔で傍に来た。ネイジェルに手を出して挨拶を始める。
「ジョルノを雇ったマクシミリアンだ。マックスと呼んでくれ」
 ネイジェルははしごに片足をかけたまま、振り向きざまに彼の手を握る。何も言わずに笑顔を作り、軽々と登っていった。
 緑色のカバーを半分めくり上げ、機関部のハッチを開けた。片手でハッチを開けたまま、細いペンライトをつけて中を照らす。ジョルノは愛機の真下に行って、照らされた部位を見る。動力部に異常はなし。電子制御部は不安定だが、修理が必要なレベルではない。今すぐに飛べるのか? 彼の目は飛行に向けて確認しながら動いていく。
 ネイジェルは浮力装置を包んでいる保護盤を見ながら話した。
「その目は何を言っても無駄そうだ。いつまでに整備すればいい?」
「午後には第二気団へ飛ぶ」
「相変わらずだね。あんたに目はついてないんじゃない? JCP2は使わないよね?」
「使うに決まってる。気流をつかんだら、そのまま第四気団へいく」
「あんたが空の死神に嫌われてることを祈るよ……空港でランチでも食べてて。氷晶はフルゲージで入れておく」
 彼女は多くを聞かずに必要な仕事を始めてくれた。ジョルノはマックスを連れて、再び空港に戻った。
 空港内でランチの食べられる場所は一つしかない。しかも、軽食だ。
 店の中は既に満席である。ジョルノはエントランスを渡り歩きながら、店の様子を眺める。通用口から中を覗き、料理長に「飯あるー?」と声をかけた。麺を盛り付けている男が顔を向けずに「パンがある」と答える。ジョルノは売り子の女性に指を二つ見せた。レジにいた女性が笑顔で「飲み物は?」と聞いてきた。それも二つもらって、飛行場に戻る。
 滑走路の脇にある管制塔の日陰で食事をする。その位置から整備士の動きは丸見えだ。
 ネイジェルともう一人男性がJCPの整備をしていた。彼らは機関部に半身を入れて、中を覗く。必要な作業を終えるとすぐに外に出て、配電盤の電気抵抗を測り始めた。
「彼女の目は素敵だったねー……あ、彼女でよかった? 男性じゃないよね?」
 マックスはパンをかじりながら、そう聞いた。ジョルノは呆れた顔で飲料を口にする。
「あんたの話題は女ばかりだな」
「男としては正常だと思うけど? 俺をいくつだと思ってるのよ?」
「浮つくのは構わないが、締めるところは締めてくれよ。第四気団へ入るって、どういう意味だと思ってる? 俺とパートナーを組めないようなハンターはたどり着けない」
 マックスは気楽な顔で「どういう意味?」と聞いてきた。
 壁にもたれて空を見ながら、続きを答える。
「あんたに操縦桿の一部を預けることになる。さっき、乗らないほうがいい、と忠告された小型機の操縦で、だ。JCP1で楽々とビュルラク島に入れる可能性は低い」
 そこは秒速三十メートル以上の暴風域だ。風を僅かに読み違えれば命に関わる。ジョルノは風と航路を読む専門家<航空士>だ。本来、操縦桿を握る人間ではないが、第一気団内北西線にあるシエル島の航空士養成学校で操縦方法も実技で学んだ。普通の航空士よりは操縦の腕も勘もあるほうだが、極限状態では、座標読みに力を発揮する男だ。
 空中にやってくるハンターの多くはそういう情報を知っているので、自分で操縦できない時は、他所でパイロットを雇って、話を持ちかけてくるのが普通だ。短期間のパーティを組んで、遺跡のある島を共同で目指す。
 マックスはにっこり笑って答えた。
「パイロットを雇えばいいじゃないのよ。君は航空士だろ? 君と操縦士と機関士がいればビュルラクへいける」
「簡単に言うなよ。受付カウンターで何を聞いた? 今日はどこのパイロットも忙しく空を飛んでるぜ。あんたの案に誰が乗るんだ」
「君は乗ったじゃないの……大丈夫さ。クルセルで国際会議が開かれてるんだから、西側の警備はゆるくなる。北線に空賊も出たことだしね」
 彼はそんなことを呟いて、飲料を飲み干した。
 ジョルノは彼の隣でその言葉を聞きながら、かすかな違和感を覚えた。
 西側の警備はゆるくなる?
 それは、何を暗示した言葉だったのか。ジョルノは失念していた。隣にいるこの男は、平然と旅客機をハイジャックした男なのだ、という事実を。


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