4 終章
ジョルノはその男が道に入ってきた瞬間から、彼の正体に気がついていた。
急に不機嫌な顔になって、エプロンを腰から外し、店の外に出て行く。大家が「あんたの知り合いなの?」と聞いてきた。ジョルノは「心配するなよ」と声をかけて、彼女の傍から離れた。
チャギはジョルノの前まで来ると「いい匂いがするね」と話しかけた。ジョルノは「何の用」とぶっきらぼうに訊ねる。チャギは横を向いて、露天の奥に見えるテーブルを見つけた。傍に居た売り子に「ここで食べられるの?」と聞きながら、サングラスを外す。
少し濡れて見える色気のある視線を見て、売り子の女性が頬を赤くして、慌てた。何度も「もちろんです、もちろんです」と繰り返して、彼をテーブル席へ案内してしまった。ジョルノは舌打ちして、彼の後をついて中に入る。
チャギは席に着くと売り子の女性をうっとりと見つめて「おいしいものを欲しいな」と甘える。女性は真っ赤になり、蕩けた顔で「はあい」と可愛らしく答えた。スキップしながら店の奥に戻っていく。ジョルノは呆れた顔で「いつもそんな風にやってんのか」と聞く。チャギは帽子を取りながら「ん?」とそ知らぬ顔で首をかしげる。
売り子はすぐに彼の元に飲み水と手拭を持ってきた。いつもなら、そんなサービスはこの市場ではしない。ジョルノは舌打ちして「化粧がひび割れるぞ」と彼女に話しかける。即座に足を踏まれて反撃され、ぺロッと舌を出された。水を持ってきたのは、チャギのためだけだ。ジョルノは全く無視されている。
チャギは市場の様子を眺めながら口を開いた。
「いい暮らしをしているようだね」
「何の嫌味だ。貧乏暮らしで悪かったな」
「僕と一緒に仕事をしないかい?」
「ゲイはお断りだって言っただろ」
「僕はゲイではないよ。この色が大好きなんだ……」
彼は指から緑石の付いた指輪を取り外し、ジョルノの前に出した。ジョルノはその態度に腹を立て、腕を組んで拒絶の姿勢だ。金持ちから恵みを受けることほど嫌なことはない。
チャギはうっとりした視線で緑石を眺めて、つぶやく。
「この石は、五年前に初めてアカリと一緒に仕事をしたときにもらった報酬だ。彼女は当時、ただの宝石鑑定人だった。地上にあるイーストメガポリス美術館から依頼を受けて、展示品の鑑定を行っていた。展示用に用意したイミテーションとすりかえられていないかどうか、最終日に確認するんだ」
美術館は展示する全ての美術品を所有しているわけではない。展示期間にあわせて、互いの所有品を借りたり、貸したりして、市民に美術や芸術に触れる機会を提供するための展覧会を定期的に開く。文化的な余興を公的資金を用いて、市民が享受できる基本的人権の名の下に計画するのである。
美術品の輸送中に事故がおきることはある。貴重な収蔵品が外に出されるとあって、盗賊が狙うこともあるのだ。チャギは警備会社を経営して、イーストメガポリス美術館に協力するボディガードだった。今でもその職業は続けている。彼の会社と契約している美術館の数は地上都市に六つ、空中都市に三つだ。従業員数は百人を超える。
さらに、チャギの配下には美術工芸品が盗難にあったとき、これを取り戻す専用の職人たちがいる。それが以前出会ったガネーシャやボブといった人間たちだ。
だが、ジョルノは苦笑いして彼に話しかけた。
「俺をごまかすんじゃねーよ、おっさん。あんたが堅気のわけがないじゃないか」
ジョルノはそんなことを言って、彼の話を遮った。
犯罪者を見慣れているのだ。ジョルノを軽々と持ち上げた体力、巧みなロープワーク、軍事施設や技術に対する知識量、部下を統制するカリスマ、どんな場面でも慌てることなく冷静に事態を把握する能力。そのいずれの才能も、彼を一つの結論へ導いている。
あんたは、ハンターだ。
そう言ったら、チャギはきれいな笑みを浮かべて「そうだよ」とあっさり認めた。
チャギはハンターの家に生まれ、ハンターと共に育った。住居は地上と空中、海上に六つ持っている。裕福な家庭で育った。祖父は盗賊だったが、父の代から合法ハンターを名乗り、美術工芸品の保護を引き受けることになった。経営のセンスは父から譲られたもの、ハンターのセンスは母から譲られたもの。
彼自身もハンターとして十代の頃から働いていた。個人の美術収集家や父の仕事関係で美術品を扱う商人たちと共に働き、戦闘区域への潜入や遺跡保護活動家の身辺警護を引き受けて働いた。
その中で捕まえた盗賊の更生を助けているうちに、警備会社を設立することを思いつき、現在の仕事に繋がっているのだ。違法ハンターを封じられるのは、同じ能力を持ったハンターだけである。彼に雇われたかつての盗賊たちも、チャギの人脈と仕事ぶりを知ると目の前にある美術品を盗もうと言う気が失せるのか、盗賊に戻ることがなくなった。
モトムラ・アカリと出会ったのは、警備会社を設立してからしばらくしてからのこと。美術大学を出たアカリは、当時、地上の美術商と共に働いていた。鑑定士として、企業家たちが所有している美術品の経済価値を試算したり、美術館から鑑定を依頼されたりして働いていた。ある展示会で彼女と知り合い、アカリはイミテーションを見破って、チャギと共に盗品を取り戻した。それがきっかけで彼女との縁は続いている。
アカリは二十五歳の時に、自宅にあった美術品や知り合いから譲られた多数の絵画、工芸品を保管するための美術館を空中都市の第二気団にあるリゾート地に私設で作り、そこの館長となった。チャギに警備を依頼して、運営をする傍ら、第二気団のロヴィーネ島に登録し、遺跡保存委員会からの鑑定依頼も受けるようになった。
アカリが二十七歳でその委員会の理事に就任した時、チャギもまたロヴィーネ島と縁を持つことになった。
「数年前から公的機関が出している懸賞金を目当てに働くことにしたんだ。警備会社の経営も軌道に乗ってきたから、違法行為で捕まることはもうできなくなってね。僕は従業員の生活も守らなくてはならないし。三年前にアカリが遺跡保存委員会と一緒に働くようになってから、僕もロヴィーネ島の公認ハンターとなった」
「経営が軌道に乗ったなら、ハンター自体を辞めればいいじゃないか」
「そうは行かないよ。この仕事は両輪なんだ。ハンターの情報網が途切れれば、犯罪者にまつわる情報を手に入れられなくなる。古い馴染みはそういう情報を持つ人間たちが多い。この業界も持ちつ持たれつなのさ」
かつての仕事の知り合いから、チャギにはハンターの仕事が相変わらず流れてくる。世界には、戦闘区域に残された古代遺跡はまだ多い。個人収集家が欲しがる珍品もまだ多い。
彼の仕事も隙間産業なのだ。彼の他にできる人材がいない。ゆえに、口コミで仕事がやってくる。一度、その業界で立場を確立した人間は、その業界から足を洗うのがとても難しい。結局、チャギは仕事を選んでこの裏家業を続けることになっている。
しかし、チャギが遺跡保存委員会と共にハンターとしての仕事をするには、他にも理由があった。ただ単に、合法的に金になる仕事をしたいわけではない。彼の場合、もう一つ目的があった。
ハンターはそれ自身が類い稀な収集家であることも多い。美術や工芸、世界遺産に対する目が肥えているため、常人以上の審美眼を持ち、執着心を持っていることがある。
チャギは緑石の収集家である。
自宅には二百五十種以上の土地から採取した緑石が保管され、また、自身の宝飾品のデザインを行う宝石デザイナーでもある。ハンターなんてしなくても充分生きられる財力も才能もあるのだが、一品を手に入れられるこの業界からなかなか足を洗えないのだ。彼は特に緑石や透明な緑色には目がない。輝石でなくても、緑色のソーダガラスで作られた安価な古代のステンドグラスを、莫大な金を払ってオークションで競り落とすこともある。目的のものがあるならば、どこへだって乗り込んで手に入れる。
その色に魅せられた男だった。彼は再びジョルノの瞳を覗き込んで微笑む。
ジョルノの瞳は、通常の緑眼とは異なる不思議な色合いで澄んでいた。緑の瞳は色合いが安定していないことが多い。だが、彼の虹彩は両目とも均等な濃さでできており、宝石のように見えるのだ。瞳孔の深い闇色が色に深みを与えているのだろうか。
くっきりした瞳の輪郭に、エメラルドグリーンが光っている。何も映っていないようでいて、何もかもを見通しているような瞳。知的で鋭い光を持ちつつも、温かみを感じさせる色合い。懐かしい香りを思い出させる郷愁の色。
その色が好きなんだよ、と彼は再び繰り返した。
「きみの目の色は……アヴィリオンに似ているんだ。僕は、最高天界に存在する神の光を見てみたい。それはこの世から消えた高貴なる光。憧れだよ……いつか最高天界へ行って手に入れてみたいよ……それには、ロヴィーネ島で働くのが一番いいだろう?」
アヴィリオンが何かはよく知らない。ただ、マックスはその物質をヴュルラク島から盗み、古代人が作った製水機を製薬会社に売ろうとした。天空域に暮らすために、神は生命を維持する水を生みだした……アヴィリオンは人の血液にはないクロロフィル色素を持っている。緑の大地から離れた時に、地上から緑に代わる何かを持って行ったのだろうか。人の肉体は、結局のところ、植物なしには生きられないのか。
神が創った恵みの水。雲から水を生み、その水に生命の元を育んだ、その源の物質。
そこに利権が集まろうとしている。どんな薬を生み出すつもりで、彼らはその遺跡を手に入れたがったのだろうか。それは人類にとって、どんな意味を成す薬になるだろう。人の生命を維持するためのものか、人の生命を奪いあうためのものか。
悪人と善人の境界線は曖昧だ。悪に近い正義もこの世にはある。
チャギはうっとりした瞳でジョルノの瞳を覗き込み、嬉しそうに笑っている。
ジョルノは彼にまっすぐ見つめられて、また冷や汗が出てきた。相手がゲイでなくても、男に見つめられるのはもうこりごりなのだ。リディックのおかげで苦手になった。熱のあるチャギの視線に触れるだけで、恐怖心が湧き上がりそうになる。
話を変えるために、ジョルノは口調を変えた。
「それで、俺に何の用で会いに来たって? あんたの持ってる指輪の由来なんて興味ないね。思い出話はもういいから、用件を言え」
チャギは表情を変えることなく、指輪を自分の手に戻した。ジョルノは少し名残惜しくそれを見つめたが、気持ちを切り替えて目をそらす。
売り子の女性がチャギに温かい朝食を持ってきた。具材のたくさん入ったごった煮である。魚介類や野菜を放り込み、ハーブ類で味を調えただけのシンプルなスープ料理だ。彼女が料理を持ってくると、チャギは優しい笑みを浮かべて「おいしそうだ」と褒める。女性は照れくさそうに真っ赤になって、すぐに下がってしまった。
チャギは話を止めて、スープスプーンを手に取る。一口スープを飲んでから、笑顔になった。ジョルノはその顔を見て、ため息をつく。何とも無邪気な表情だ。
不意にマックスのことを思い出した。
あいつも美味そうに朝食を口にしていたな、と思ったら、急に肩の力が抜けた。この島に来た最初の朝、無邪気な笑顔でこの市場で朝食を買い、はしゃいでいた。あの時の彼はきっと、本来の彼の姿だろう。一般の旅客と同じように、観光したいと言いながら、見たことのない食材をキラキラした目で眺めていた。あの瞬間、彼の善意を確信した。彼と一緒に冒険してもいいと思った。彼と過ごした時間を思い出し、妙に懐かしくなる。
チャギはナフキンで口元を拭い「きみも食べる?」と聞く。ジョルノは思わず笑みが浮かんで「いらねーよ」と答えた。チャギを見つめて頬杖をつく。ジョルノの笑みを見て、チャギは再び笑顔になり、おいしそうにスープを口に運んだ。
不意に、彼が手を止めて、ジョルノの目の前に、白い封筒を出す。
ジョルノはその封筒を手にして、中を見た。紙を取り出して中を見ると、人名が書かれてあることに気がついた。そのリストの一番最後にマクシミリアン・シャッテンバウワーの名前があった。つまり、これは違法ハンターの名簿だ。
チャギが何をしている人間なのか、わかった。これらのリストに載っている違法ハンターの行方を調査し、彼らが盗んだ財宝を取り返す人間たちなのだ。
マックスから今回の盗品を奪い返したと言う話をこの時に聞いた。地下都市に侵入し、品物をマフィアに渡す現場へ乗り込んでの奪取である。地上のオフィス街で起きた銃撃戦以上の反撃があっただろう。地下組織はマフィアの巣窟なのだから。だが、そ知らぬ顔でこの男はここにいて、スープを優雅に飲んでいる。彼が興味を持つのは、戦闘行為ではなく、奪い返した品物の学術的、美術的価値だけ。
ジョルノには理解できない世界だ。
この男は遺産や美術品のためだけに命を賭けられる人間、金ではない何かの価値で動ける人間。チャギは何者にも縛られていない。愛したものを守るために、彼は全力で戦える。
美しい神の色、アヴィリオンを手に入れるために。
その価値を決めるのは自分。そのものの値段を決めるのは自分。自分の命を懸けるかどうかを決めるのも自分。そんな生き方のできる人間は、酔狂だ。
どんな生き方なのだろうかと思う。
しかし、正しく生きるより、痛快に生きる方がジョルノは好きだ。そういう意味では、一般よりもこの男の生き方には共感できる。チャギは今までに出会ったどんな犯罪者よりも、純粋な愛に狂っていた。
チャギは言う。
「近々、そのリストにある男の一人が空中都市に入るという情報が入った……遺跡ハンターだ。おそらく、その男はこの島に来て、きみに依頼をするだろう」
「俺に何をさせたいんだ」
「彼らの情報を伝えておくよ。彼らについて調査した内容がチップの中に入ってる」
封筒の中を覗くと、小さなチップが入っているのが見えた。その情報を取り出すためには情報端末が必要だ。今すぐには見れないが、その気になれば、カトルズ空港でチップの中身を確認することはできる。空港を経由する犯罪者の情報ならば、空港経営者たちも欲しがるだろう。彼らと共同で働くことができるようになる。
だが、そのチップの中身を思って、少し気持ちに迷いが生じた。
マックスの過去を知ることになるような気がした。知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちだった。中を見る前から予感がしているのだ。きっと、知りたくない内容を見ることになるだろう、と。
彼の首筋にあった天空の印。マックスは神族に縁のある男なのだろうか。本名は何と言うのだろうか。ハルシュと関係のある王族だったら、どうしたらいいのだろうか。
彼らを傷つけたくない。失いたくない。もう、ハルシュの血縁を一人も失いたくない。
ジョルノにも、失った血縁がいるのだ。
弟は、空賊にさらわれてから消息がわからない。生きているのか、死んでいるのか、それすらも。犯罪者となって、このリストに載っていたら、ジョルノは多分彼を見逃すだろうと思った。
自分もまた、さらわれてから空賊になった。そして、たくさんの人の善意で更生してきた。悪という範疇がわからない。何が悪で何が善なのかわからない。人生はいつだってやり直せる。このリストに乗っている人間が、今現在、更生して幸せな家庭を築いていないとも言えない。ターニャのように、愛した夫を待ち続ける女がいるかもしれない。
全ての遺跡は誰のものでもない。この空は誰のものでもない。遺跡の所有者は、はるか昔に滅びて消えた神なのだ。それを現世の人間が勝手に所有権を主張して、奪い合い、戦っているに過ぎない。
くだらないな、と思った。
この空は誰のものでもない。全ての空域は、全ての人々の財産だ。
神がすむといわれる最高天界は、風もなく、雲もない、永遠に不変の場所。今の人類には、その場所を航行できる技術力はない。ならば、その場所は永遠に封じておいても構わない。いつから、そこに島があるのかはわからない。なぜ、人が空に暮らすようになったのかもわからない。
青く澄んだ異界のどこかに、その謎が存在する。人が浮遊する島に暮らし始めた理由とその技術の秘密を知ったところで、それを生かせるのは、一握りの人間たちだ。彼らは正義と言う刃を振り回し、この澄み切った大きな空間を、力づくで征服し、敵対する勢力を排除しようとする。彼らに排除されたくない人間たちもまた、権力を使ってこれを阻止し、権利取得者を排除しているだけのことだった。
既に人はこの空に暮らしている。身分や信条、所有額、人種、その他の制約に関わらず、自由に空を飛んでいたい。空賊であろうが、航空士であろうが、この空間を愛していることに変わりはない。正義と言う理由で、この場所から排除なんてされたくない。
勝手な利権争いで、この空間を消されてたまるか。
この空は一人で過ごすには広すぎる。
たまに、異分子ぐらい入ってきた方が、痛快だ。俺は痛快に生きる方が好きだ。
ジョルノは小さく「それはつまらない仕事だな」と答えて笑った。チャギはその言葉に答えることはなかった。ただ、優しい笑みを浮かべてジョルノの瞳を見つめる。
チャギはスープを全てきれいに飲み干してから、丁寧に口を拭った。じっと見ていても嫌味のない食べ方だった。食べ方にその人間の品性は顕れる。上流階級が身につけるべきマナーを、彼はきちんと身につけていた。
食べ方を見ていて、彼が生まれ育ってきた環境を感じ取った。
彼は嘘を言っていないだろうと思った。彼のことは信用できるだろう、と。
だが、今は、彼と一緒に仕事をしたいとは思わない。自分の仕事は罪を断じるものではなく、ただ、この空を飛ぶことなのだ。犯罪者だから捕まえる。権力者だから迎合する。金持ちだから法外な値段を吹っかける……そういう行為が嫌いだ。
食事を終えてから、チャギは自分の名刺をジョルノの前に差し出した。彼が経営する警備会社の連絡先を見てから、彼を見る。チャギは帽子を頭にかぶって、立ち上がる。
彼はジョルノに声をかけた。
「この島にきたら、きみに会えそうだね。また、一緒に仕事をしようよ、ジョルノくん。きみとの仕事は楽しかったよ」
そんなことを言ってサングラスを目にかける。
彼は頭ごなしに命じたり、自分の依頼を押付ける提案をすることがなかった。ただ、情報を無償で渡し、相手の反応を見ただけで用事を終えた。それがこの男のやり方らしい。共に仕事をするかどうかを決めるのは、ジョルノ自身なのだから。
彼はテーブルに食事の代金と緑石を一つ置いて、立ち去った。ジョルノはその緑色に光る原石を見つめ、ため息混じりに頬杖をついた。その石を手に取るべきか? 手に取らない方がいいのか。チャギは悪魔のような誘い方をする男だ。
磨いてから渡せよ、と悪態をついたら、売り子の女性が傍にやってきて「きゃああ」と悲鳴を上げる。彼女は緑石を手にして喜んでいる。彼女は立ち去るチャギに「ありがとうございましたー!」と飛び跳ねながら手を振った。チャギもまた、ふりかえって女性に軽く手を振る。あの男はサービス過剰だ。
大家が傍に来て「あんたに会いに来た客だろ」と声をかける。ジョルノは立ち上がってからエプロンを腰に巻き「俺の顔を見に来ただけだ」と答えた。大家はテーブルの上に置かれた名刺と白い封筒を見て、それをジョルノのポケットにねじ込んだ。ジョルノは迷惑そうな顔をしたが、何も答えずに再び店の前に立つ。
大家は全てわかっていると言う顔で「いい金になりそうな男じゃないか」という。彼女にも、あの男がハンターだわかっているのだろう。ジョルノは苦笑いして「タイムサービスを始めちゃうぞ」と彼女を脅した。
大家が彼に惣菜の詰まった袋を渡してきた。ジョルノの背中を押して「さっさと食っておいき」と店から追い出す。ジョルノは「だから、仕事の依頼じゃねーっつーの!」と彼女に叫んだが、追い出されてしまった。昼を過ぎると店はもう閉まってしまう。陳列棚の中にある惣菜はもうほとんど売り切れていた。
その店からジョルノたちが暮らす集合住宅のバルコニーが見える。
ジョルノは不意にその場所を見て、すっと顔色が変わった。ジョルノの隣のバルコニーに老夫婦が出てきて、バルコニーに置いた鉢の世話を始めた。その部屋にいたはずのルカはどこに行ったのか。いつからあの部屋に住み、いつからあの部屋から消えたのか。
彼女は仕事を終えたのだ。結局、彼女のことは、何一つわからないままに。
「またあとでねって言わなかったか? あの女……」
ジョルノはそんなことをつぶやいて、立ち尽くす。ルカとはもうこれっきりになるようだ。あの女はプロのスパイだ。次に会うときは別の人間に成りすましてジョルノを無視するだろう。悪女の口から出る嘘は罪作りだ。信じたとたんに、傷つけられる。だからと言って、憎むに憎めないのだ。
彼女は魅力的だった、いつでも。もうドキドキしながらバルコニーに出ることはなくなるだろう。どんなに怒鳴っても、彼女は平気な顔で外に出てきた。文句を言いつつ、いつのまにか、彼女と会える時間に外に出るようになった。
今日も会えるかな、と思いながら、毎日、朝日を眺めていた。
もう彼女は隣に住んでいない。
いや、別にいいんだ。惚れてなんかなかったぜ、と心のうちで強がりをつぶやく。そうなる前に終わってしまった。何とも切ない気分になる。
足元を野良猫が通った時、ジョルノはふと思い出して、気持ちを入れ替えた。
今日もふられた。いつだって、いい女は男を袖にするものだ。ジョルノは彼女の消えたバルコニーを見て、さっぱりした笑顔を見せる。これでいいんだ。彼女はいい女だった。
孤独の中に、気高く生きよう。
店から出たら、隣の部屋に暮らすイウェンが帰ってきた。午後の休憩時間にシフトを変わり、引継ぎを終えたらしい。彼は目ざとくジョルノの手にある袋を見て「おおっ!」と叫んで走ってきた。ジョルノは慌てて彼に背を向けて集合住宅の中に飛び込んだが、すぐに追いつかれた。階段を駆け上がりながら、二人で叫ぶ。
「ジョルノー、一緒に飯食おう! なあ、お前、午後から仕事? 時間ある? なあ」
「時間はあっても金はない!」
「じゃあ、バイトを紹介してやるよお」
「いらねーよ。お前の紹介なんて、絶対にろくでもないんだから」
「俺以外の紹介だって、ろくでもないくせに」
確かにその通りだ。ジョルノは彼に押し切られて、無理やり部屋に入られてしまった。部屋に入ってから、イウェンは我が物顔でジョルノの冷蔵庫を開けて、自分が買ってきたビールを放り込む。
ジョルノはポケットに入っている名刺と白い封筒を、無造作に机の上に投げ出した。その封筒の下にユージンから送られてきた結婚式への招待状があった。それと共に訓練校時代の学友たちからのメールが山になって積まれている。その傍を通り過ぎ、ジョルノはイウェンの傍に行って、食事の準備を始めた。
彼は袋の中に入っている惣菜を取り出しつつ「こら、俺の家の電力を勝手に使うな」と彼を睨む。イウェンは「今日は午後からオフー、飲むー」と既に上機嫌だ。ジョルノも思わず顔を崩して笑ってしまった。
二人で昼食の準備をしながら、口と手を同時に動かした。
「なあ、ジョルノー、クリスも今日の午後から非番らしいぜ。ようやく日の当たるシャバだーっつって、バスの中で大げさに泣き喚いてた」
「あー、クルセル島の国際会議も続いていたし、恒星フレアもあったし。あれ? もしかして、あいつ、俺があちこち飛び回っていた間中、缶詰かよ? 二ヶ月近く?」
「あいつは今まで昼間はずっと缶詰だよ。管制官の数が少ねーからなー、あの空港。んでさあ! あいつ、今日は勇気を出してネイジェルを誘ったらしいぜ! ネイジェルもしれっとした顔で『おっけー』なんて、あっさり承諾しちゃってさあ」
管制官のクリスは内気で有名だ。無線越しに彼と会話をすることはあるが、外に出ると急に口数が減るのだ。一日中口を動かして疲れているのだろうと思っていたが、そのことで、彼はとても恋愛ベタだ。整備士のネイジェルのことを気に入っていると言うのは、周りがもうずっと気がついているのに、二人だけがずっと無風状態である。
珍しく、ジョルノも思わず笑みが浮かんで「へー」と身を乗り出した。どこでデートをするつもりなんだよ、と聞いたら、イウェンが意地の悪い笑みを浮かべた。ジョルノも少し予感がした。こういう予感はよく当たる。
俺に何の仕事を紹介するって?
イウェンのアルバイトなんて、そういうくだらないものに決まっている。
呆れた顔でパンをテーブルの上で切り分けていく。イウェンが冷えてないビールとグラスを持ってきて、グラスに氷とビールを一緒に注ぎ始めた。もう彼は制服を脱いで、気楽に飲み始めている。ジョルノはパンを彼の前に置きながら「飲むならいらねーな」と嫌味を言うが、彼は気にすることなく「おっさきー」と言いながらグラスを掲げる。
もらってきた惣菜が酒のつまみに変わり、ジョルノもビールを口にした。
真昼間からビールを飲んで、彼とおしゃべりを楽しむ。
イウェンはクリスとネイジェルのデートを覗きたいと言う。そういう悪趣味を辞めろ、と注意したが、ファ・ルウがダブルデートすると言って二人のデートを手伝う予定らしい。ジョルノはその流れを聞いて「俺は……何のバイト?」と聞いた。
覗きの方か、デートの方か。
「ファ・ルウがお前を擬似彼氏に指定してんの!」
「くっだらねええええー!」
「力一杯叫ぶなよ、お前」
「で、お前はその風景を一人で覗き? さらにくっだらねえええ」
「そこは激しく同意っ! だから、トリプルデートにするために、これから誰かもう一人ナンパしようぜー、お前の力で」
「くっだらねえよ、くっだらねええ。それは、史上最高にくだらねー仕事だ」
言いながら、ジョルノは酒が回って「あはははは」と大笑いした。
そんな彼らの騒動を聞きながら、銀色の猫がベランダを通り過ぎていく。晴れた青空に一筋の飛行機雲。緑色の目を持った美人猫が、ベランダで上空を見上げて「にゃあお」と優しい声をあげた。
了