二輿物語


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10 蒼い満月の呪


 王も王妃も夜更けまで何も食べずに王子を待っていた。
 王子は風呂を出てから身なりを整えて、謁見に向かう。
 身なりを整えるだけでもヴァルヴァラとザヴァリアでは相違があり、時間がかかっていた。ヴァルヴァラで王子が正装するときは、髪を結い上げるのだが、ザヴァリアでは簡易に髪をまとめるだけである。そういう小さな違いが衣装係をやきもきさせ、とても時間がかかっていた。
 王の前に王子を連れて行くまでにずいぶん時間がかかってしまったため、王は不機嫌になっていた。
「もうよい! 明日謁見する!」
「あなた、折角王子が用意しているというのですから、待ちましょう」
「何をもたもたしておるのか。娘を待っているわけではないぞ」
「ヴァルヴァラでは、男性は女以上におしゃれだと聞きました。そういう世界なのです」
「やりすぎである」
「それがあちらの礼儀なのでしょう」
 二人が同時にため息をついたら、執事が部屋にやってきた。
「国王陛下……王子の仕度が整いましてございます」
「待ちくたびれたぞ」
 王が部屋に入れるように指示をした。王の合図と共に扉が開き、王子が中に入ってきた。衛兵たちが慣れない手つきで扉を開けて王子を中に入れる。
 王はその様を見てますます不機嫌になった。とにかく腹が減って眠くてならない。
 しかし、近づいてきた王子を見て、王も王妃もギョッとして言葉を失った。
 すっきり伸びた両腕をあらわにするドレスで身を包み、長い裾の召し物をまとっていた。その肉体に隠し立てするところは全くない。見えている肌は全て日に焼けて黄金にキラキラと光っており、滑らかな肌と形のいい肉と骨、バランスの取れた肢体が優雅に揺れ動いて立ち止まる。厚い胸板も、大きな手足も、形良く盛り上がった筋肉も全て彼が一流の戦士である証拠だ。流れるような無駄の無い動きで膝をつき、遅刻を詫びたが、王も王妃も言葉を失い、王子をただただ見つめていた。
 不揃いな黒髪は高く結い上げて、無造作に後ろに流し、顔周りをすっきりと出している。ようやく彼の尊顔を全て目に入れることはできたが、そのことでとても緊張した。水のように澄んだ青い瞳が涼しげに潤んでいる。それは吸い込まれるような瞳だった。空のように無限の広がりを持ち、明るく澄んでいるのに、深遠を覗くような気分にさせられる。性別を超えた美を持つ神秘的な人間だ。彼の視線の前にさらされることに恥じらいを覚えるほどに。彼は神の生まれ変わりだと言われたら、素直にそう信じられる。
 優雅な物腰と、涼しげな瞳はまるで女神のようであるが、その声はまろやかに深く男性のもの。その美には人知を超えた畏敬があった。彼の前に座すことに恐れを感じる。彼は正対するのに覚悟のいる人物だった。それが王族の血のなせるカリスマ性だ。
 ザヴァリア王は自身の本能を呼び覚まされた。
 動物的な本能が、その正体を告げる。その男は王である、と。
 古来の感覚を呼び起こす鬼神が、この男に対峙する力を与える。場が凍りついた中で一人、平静に口を開いた。王に対峙できるのは、王、のみである。
「まこと……『蒼い満月の呪』を見る気分だ」
 王はようやくそう呟いた。ウルフェウスは自分のあだ名を聞いてにやりと笑う。
 そのあだ名が示していることは、ウルフェウスは満月の夜に負けたことがないから敵対するな、という真意だった。満月の夜は呪をかけられる、と戦地で兵士たちが恐れた。
 満月の夜になると、彼の部下は神がかり的に強くなる。不死身の戦士であるかのごとく。あながち、その噂は当たっているのかもしれない。ヴァルヴァラで月と言えば、闘神マルセイエスを指す。月の闘神がウルフェウスに乗り移ると考えられていた。だから、彼の青い目に見つめられると、死の呪詛をかけられる、と。
 ウルフェウスの青い目は、戦地では呪わしい美なのである。実際のところ、彼の首を取ろうとした敵の兵士が、その顔をまともに見て我を忘れ、逆に切り殺されるということが度々あった。彼は美しき殺戮者である。
 軍師と論駁しあえる知能や、大軍を率いることのできる計画性と統率力を持つだけでなく、彼個人の戦闘力も高い。弓と剣の技術はヴァルヴァラでも指折りの戦士だった。彼はその才能とカリスマで相次ぐ暗殺未遂事件の中を生き残り、戦争の多い祖国において、かの国を有数の軍事大国へと導いた異能の英雄だ。
 王は巷に流れていた噂を自分の目で確認し、その噂の正体を知る。ウルフェウスに対峙する恐怖を体感した。戦地では出会いたくない男だ、と直感した。
 王子は歪んだ笑みを隠して俯いたが、王は自分の失言に気がついて大慌てで謝った。
「いや、それはどこぞのものが口にしたものか判らぬ言葉だ。悪い意味ではなく、そなたは、美し……いや、そう、そうだ。『月の女神も嫉妬して呪をかけたくなる』だろう」
「月の女神?」
「そうだ。夜空に浮かぶ冷ややかで美しい女神だ。彼女は真夜中に最も美しい光を放っておるが、今宵はそなたの姿に嫉妬しているだろう」
 王はすっかり機嫌がよくなって笑う。ウルフェウスは居心地悪そうに困った顔だ。王の賛辞はまるで女に向けて語っているような言葉だからだ。実は、彼自身は美しいと称えられる自分の姿が苦手だった。だからこそ、周りが失望するような形で自分を汚し、衣服に気を配ったことがないのである。だが、公式の場での礼儀作法はわきまえていた。大嫌いなドレスに袖を通し、自分の能力を視覚的に強調して見せる手法を。
 戦地ではその姿でさえ、部下にはよく利用された。敵を圧倒する手段の一つとして考えられていることを、彼自身もよく理解して部下の要求には応えてきた。それゆえにここでも、彼は感情を押し殺し、王に深く頭を下げた。それが社交辞令である。
 王の隣に居る王妃はずっと無言だった。彼女はコホンコホンと咳をしながら、夫の注意を引こうとするのだが、王は王子から目をそらさない。そんな彼女が気になってウルフェウスは視線を向ける。涼しげな瞳で王妃を見つめたとたん、王妃は真っ赤になって俯いてしまった。彼女は王に体を近づけて小さな声でささやいた。
 王があわてた様子で声をかけた。
「そなた、食事は」
 ウルフェウスが「夜は摂っていません」と答える。王は食事の用意をさせる。
 豪華ではないが、簡素な食事がでてきて三人は食事を始めた。
 客人の来訪を歓迎して、城内の鳥をさばき、肉料理を用意した。高貴な客に命を代償にした食事を用意するのは礼儀である。それは生贄としての意味合いがあった。来客に対して、この国で平和な行動を願う意味を込め、その犠牲を知らしめるのだ。普段の食事はもっと質素だ。自給自足するために育てている野草園の食材が多くなるのだが、この日は儀式としての会食という意味合いが強い。
 非公式とはいえ、戦いに才のある男が自国に入るのだ。丁重に扱うべき客だ。
 彼が号令をかければ、戦が起きかねない。そういう類いの男なのだ。生贄を出さないわけがない。食肉としては簡便に手に入る食材とはいえ、今朝まで生きていた鳥だった。急な要求に対して、調理場は早急に対応して、素晴らしい料理を作ってくれた。王と王妃は、部下がよく動いていることを、王子の皿を見ながら確認した。
 王子は一堂に注目されたまま、食事をした。従者も給仕も彼の一挙手一動を注視していた。その場に居た人間たちは誰も言葉を発することなく、彼に見惚れた。彼のグラスは常に飲み物で満たされたし、空いた皿はすぐに下げられる。王子は注目に慣れているようで、それらの配慮を自然に受け入れた。その度量の大きさも彼が大物である証拠だ。
 彼自身にも自分の役割がわかっているのだ。見られることが仕事だということを。
 出された料理はサラダとメインディッシュの肉料理のみという簡単なものだったが、彼はその食事の意味合いをよくわかっているようだった。特に、鳥を使った肉料理は時間をかけて大事に食べた。シェフが食べやすく切り分けているとしても、彼は乱れた食べ方をしないように、細心の注意を払っていた。丁寧にナイフを扱い、ホストである王に刃先を見せなかった。料理を褒める言葉は直接的なものではなく、芸術と哲学の話題を選んで代用し、知的で明るい雰囲気を維持した。その男の教養の高さを再び確認する。
 彼がこの国で平和に過ごしてくれることを実感し、王は大きく頷いて笑みを浮かべた。
 王子は何度か口を開いて会話を試みたのだが、王はニコニコ笑って頷くだけだったし、王妃は真っ赤になって下を見たままだった。その静けさには不慣れな様子ではあったが、彼は食事を終えて満足そうに笑っていた。
 退室間際、王はようやく話しかける。
「そ、そうだ! 王子、舞踏は得意であるか?」
「いいえ」
「うむ……いや、今月末、ヴァルヴァラから大使が帰還する予定だ。そなたの懐かしい故郷の話をして、和やかに過ごしたいのだがいかがなものか」
 王子は思案深げに黙ってしまった。瑞々しい瞳をくるっと動かして、困った顔だ。
 彼は今まで一度も舞踏会に顔を出したことが無い。そもそも、堅苦しい場所は嫌いだからこそ、戦場を駆け回っていたのである。できれば遠慮したいところだろう。
 その反応の悪さの理由をいち早く察知して理解した王は、即座に付け加えた。
「姫もその会には出席する予定だ。私の娘を紹介しよう」
 ウルフェウスはようやくにっこり笑って了承した。その笑みを見て、王は安堵した顔になる。王子が姫を好きになって、大事にしてくれるのではないかと期待したからだ。
 その日から、王子には従者が付き、滞在中の面倒を彼らが見ることになった。従者は男性が二人と女性が一人。それに、専属の奴隷が三人である。
 王子は身近な助っ人を六人得て、満足気に部屋を後にしたのだった。


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