二輿物語


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9 無礼な訪問

 
 アリシア姫の元に侍女のセレナが走ってきた。姫は伏せていた長いすの上から体を起こし、彼女に顔を向ける。何事が起きたのか。非常に慌てた侍女の様子だ。
 セレナは大急ぎでお辞儀をしてから、早口で話し始めた。
「姫さま、お早くお召し物を!」
「何ですって?」
「王子が、いえ、ウ、ウル、あの、あのお方がいらしているそうです」
「誰が来ているのですか。ああ、ちょっと、セレナ、落ち着きなさい」
 姫は侍女のただならぬ様子を見て、ゆったりと体を動かしながら手招きした。もうすぐ黄昏時に入り、普段の彼女なら晩餐の支度に取り掛かるところだ。姫の支度を手伝うために侍女も部屋に集まり始めていた。
 今日使われるドレスを選び、化粧道具をそろえて姫の指示を仰ごうという時に、遅刻してきた衣装係が「お早く」と叫ぶのだから、他の侍女は眉根を寄せていた。
 黄金に染まった大気が、眼下に見える内庭を荘厳に彩る。庭の中央で噴水が光を弾き飛ばしながら、踊るのが見えた。アリシアは窓辺から外を見て、変わったところがないかと探るが、外を歩く衛兵ものんびりしたものだ。何が起きているのか予想も付かない。
 セレナは泣きそうな顔で姫の傍へいき、姫の手を握ってもう一度言い直す。
「王子がいらしているのです。ヴァルヴァラ家の戦好き……輝殿下様です」
 一瞬、頭の中が空白になった。彼が来るはずはない。まだ、結婚の承諾も口頭で交わしただけの間柄だ。結婚するまでにはまだ時間があるはずだった。
 何かの間違いだと思いつつ、舞い上がって、我を忘れた。予想外の事態に陥り、彼の動きの速さに恐怖を感じる。冷静さを欠いて、アリシアはセレナから慌てて手を離した。
 まだ、覚悟はできていなかったのである。ウルフェウスに会いたくなかった。
 セレナは落ち込んだ顔で続ける。
「ほ、本日、突然いらっしゃいました。誰も事前に知らされておらず、驚いて」
 それが本当ならば、とても無礼な話である。事前に連絡を入れることなく、女の生家を訪ねるとは。
「父上はどうなされました?」
「それが……とても驚かれて、あ、今、王子は湯浴みをしているところでございます」
 彼が今夜の晩餐に出てくるかもしれない。アリシアは焦りを感じた。彼から逃げたい。どうしたらいいのだろうか。いつもなら、父や母と一緒に、家臣たちと共に食事をして、一日を終えるのだが、今日は特別な客人が招かれるはずだ。
 だが、彼をまだ家族と思いたくない。同じテーブルで食事をしたくなかった。
 アリシアは一度大きく息を吐き出して、セレナに伝えた。
「私は私宛に出された正式な招待状のある舞踏会以外に顔は出しませんから」
「そ、そんな……でも、姫さまの許婚でいらっしゃるのですよ?」
「相手が妻になる女なら、無礼が許されるのですか。婚約だって正式に文書で交わす前なのですよ? 非公式に連絡もなく訪ねてくるなんて無礼です。父上にもそう伝えて。私は行きません。国王として最低限の礼儀を尽くせばいいわ」
「でも、姫様に会いたい一念でいらしたのではありませんか?」
 セレナの言葉を聞いて、ドキッとした。自分が彼に望まれていると考えたことがなかったのだ。相手も政略結婚で、仕方なく、応じているだけだと思っていた。
 彼は自分に好意を持っているだろうか。この結婚を心から望んでいるだろうか。だから、遠い道のりを省みることなく、やってきてしまったのだろうか。礼儀すら忘れてしまうほど、夢中になっているのだろうか。
 そんなことを考えたら、居たたまれない気分になって、気持ちが揺れ動いた。また、恐怖心から彼を傷つけるような言動をしている、と気がついた。
 彼を傷つけたくない。ガッカリさせるようなことは控えたい。途中でそう思い直し、声音を微妙に変化させて続けた。
「アリシアは王子を歓迎しております。こんな風に突然顔をお見せになるとは思わなくて、今夜の準備を全くしておりません。来てくれたのはとても嬉しいのですが、会えないことを悔やんでおります……と伝えなさい。礼儀を教えて差し上げなさい。私に会いたいなら、公式の場に出てくるように。今月末まで滞在されるなら、ヴァルヴァラに出向いていた大使も戻られます。舞踏会の招待状を王子にも送りなさい」
 言葉は厳しいのだが、態度を軟化させて、王子を舞踏会に招待することになった。セレナはほっとした顔で「はい」と答えて、頭を下げる。すぐに、字の上手な侍女が文机に向かって、姫の言葉を書き起こし、手紙を作り始めた。清書をする前に、文面を姫に確認しにきた。アリシアは頬が熱くなるのを感じつつ、彼らに話した。
「くれぐれも失礼の無いように。私からの伝言は『お会いできなくて残念です』と」
「かしこまりました、姫さま」
 セレナはようやく落ち着いてチョコンと小さくお辞儀をした。彼女が部屋を出て行くと、晩餐の支度をしていた侍女たちが今夜の支度を片付け始めた。今日は公式に顔を出すこともなく、部屋で食事を取る。王子だけでなく、父や母にも手紙を出して、わがままを詫びることになった。
 執事が食事を運んでくる間、姫はバルコニーから外を眺めて、そわそわしていた。
 今、この瞬間に彼がこの城の中にいるとは信じられない気分だ。この庭に足を運ぶことはあるだろうか。彼の姿を見てみたい。気になってはいるのだが、素直になれず、バルコニーでうろついたあと、落ち込んだ様子でため息をついた。
 本当のところは、ウルフェウスが戦に秀でていて冷酷だから疎んじているわけではない。結婚してからの二人の生活が味気ないものになることを恐れている。大国の王子で、才能があり、英雄と称えて謡われるほどの男性がザヴァリア王国のような小さな国に来て満足するだろうか。彼は自分との婚姻を嫌がっているのではないかと思っていた。
「私を疎んじていると思っていました。どうして、婚約も正式にしていないのに、私に会いに来たの? 私のことは彼の国にどんな風に伝わっているの?」
 物珍しさに見に来たのだろうか。アリシアは姫にしては珍しく、婚約者も作らず二十になるまで親元で過保護に育てられた姫である。父親の寵愛を深く受けていて、並大抵の諸侯では手を出せずにいたのである。だから、度々好奇な興味を持って、城を訪れる使者も居た。深窓の姫を一目見ようと、何かと理由をつけて、ザヴァリア王に謁見を申し込み、土産を手にやってきた。
 だが、父はそういう人間を遠ざけ、娘を隠し、守っていた。見世物のように扱われるのは嫌だった。アリシアは内心怯えながら、彼の真意を想う。
 自分が本心から男性に愛されると信じられなかった。今まで、そのような男性が傍に居なかったのだ。本当のところは、両親が縁談を全て遠ざけていたからなのだが、彼女自身は自分に魅力がないから、婚約者も決まらないと思っていた。
 一生、心を通わせる男性なんてできないと思っていたのに、戦場で最も有名な男の妻になることになった。国力の差から言うと身分違いの相手である。ヴァルヴァラは歴史的な意味合いからするとザヴァリアよりも身分は低い公爵の出身であった。しかし、ムラドゥラの政治手腕が逸脱して、周囲から抜きん出た存在となり、今では一目置かれる大国だ。国力ではザヴァリアも敵わない国になってしまった。
 軍事的に強大で、進んだ文化をもっており、国内の工芸品は一流の品質、流通する貨幣も市場の規模も品数も常識はずれの先進国。
 その国から、大陸一の戦績を誇る王子が、古臭いだけの田舎王家へ婿に入る。
 彼の気持ちを想像したら、恥じ入った。どれほど、落胆しているだろうか。もしかしたら、唯一の望みとして、婚約相手の姫が絶世の美女であることを期待しているのかもしれない。アリシアは自分が身につけているドレスを省みて、頬を赤らめた。この時ばかりは、お気に入りのレースを用いたドレスもみすぼらしく感じられてしまい、彼に会う勇気が出ない。
 自分を一目見て、彼が目の前で落ち込んだら、どうしようか。想像していた女ではなかったとガッカリしたら、どうしようか。今更ながら、父親がウルフェウスの女性の好みを探ろうとしていたことを思い出し、彼の計画をなじったことを後悔する。素直に忠告を聞いておけばよかった、と。
 一人、物思いに沈んでいたら、執事が部屋にやって来た。夜食の支度を整えながら、彼は姫に話しかける。
「姫さま、今宵の晩餐は取りやめになったとの事。大臣たちも私邸へ戻り、王陛下は皇后さまと共にウルフェウス殿下と夜を静かに過ごされるようです。殿下も、長旅でお疲れでしょうから、今宵、来訪は公にはしないようでございます」
 テーブルを整えながら、彼は小声で「さすがは姫さま、冷静な判断でございました」と称えた。アリシアは内心ほっとして、自分の行動が無礼には伝わらなかったことに安堵した。ヴァルヴァラからの距離を想起して、ウルフェウスの疲労を慮る。
 少し気分が晴れて、執事に話しかけた。
「フィス、ヴァルヴァラからザヴァリアまでの旅程はいかほどなのですか?」
「さあ、ワタクシ、国外には出たことがございませんゆえ。しかしながら、先日、ミグリ殿が来城されてからの日数を考えますと、殿下がミグリ殿から話を聞いて、すぐに出発したとして……おそらく半月ほどでございましょうな」
「王子の従者は何人いるのですか。皆、疲れているでしょうね」
「いやいや、姫さま……殿下は一人の従者もお連れにはなっておりません。お忍びでいらしたようなのです。大胆にも豪気なお方でございますな」
 供も連れずに半月近くの旅程をたった一人でやって来た。アリシアには真似できない、想像もできない冒険だ。旅の間、王子はどんな生活をしていたのだろうか。知りたいことは山ほどあったが、彼女は恥らって口を閉じてしまった。
 それも全て、自分に会うためだというのだろうか。
 執事がテーブルクロスとグラスを整えると、侍女が給仕を伴って部屋に入ってきた。庭でつんできた大輪の花を活け、焼きたてのパンを皿に乗せ、暖かいスープを椀に盛る。姫は食事の用意ができたと呼ばれた。
 日は地平線をさまよい、紫紺の闇が虹に色を落としつつ、濃くなっていく。夕闇とともに涼しい風が吹いて、庭木を揺らす。姫は「バルコニーで食べたら、気持ちよさそう」と呟く。彼が庭に出てくるかもしれない。
 しかしながら、執事は「夜風はお体に悪うございます」と言って、姫を部屋の中に入れた。アリシアは少し残念に思いながら、自分の部屋に入った。


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