二輿物語


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11 平和な時間


 ザヴァリア国王の暮らすカプルア城内は、吟遊詩人に人気のある歴史的な建造物だ。ウルフェウスはその城内の東側にある塔に部屋を与えられた。
 普通の客間は南に存在する別邸にあるという。東側には守衛が多く控えており、王の寝所に最も近い詰め所だ。つまり、そこに部屋を持たせるということは、彼を特別な後継者として認めているという意味になる。王の懐にいきなり入ってしまった。
 一晩明け、明るくなった城内の様子をバルコニーから見て、王子は自分の部屋の立地の意味するところを誰に言われるまでもなく理解したのだった。彼は上機嫌になる。王の信頼に応えられる男になりたいと純粋に願い、部下となった付き人たちに案内を命じる。
「ちょっと祈りたいことがある……城内に教会はないのか?」
 最初に思ったことは、今朝感じた感動を忘れる前に誓いを立てることだった。
 彼の身支度を手伝うために、奴隷たちが部屋に入ってくる。彼らをつれてきた、メンキーナという女が応えた。
「ございます。珍しい場所からご覧になるのですね」
「そうかい? 俺の国とは文化が違う。早く慣れたいぜ」
 彼だって、普段は教会に足を運ぶような殊勝なことは滅多にしない。だが、この日は珍しく、客として常識的に過ごそうと思ったのだ。王を安心させる行動をいくつか考えて、この国の精神世界を理解しておきたかった。
 ザヴァリア国で用意された衣服に袖を通し、ウルフェウスは優しい笑みを浮かべる。奴隷たちは彼の腕に細かいリボンを巻きつけつつ、丁寧に結んでいく。しばらくすると、王子は彼らの手つきを見て「時間のかかる衣装だな」とぼやいた。着替えるのにとても時間がかかる。奴隷たちは彼の批判を聞いて、怯えた顔になり、指先が震えた。
 急に彼らの動きが早くなったが、急いでも体に布を巻きつける時間は変わらない。王子は奴隷たちの様子を見て、彼らの緊張を悟った。余計なことを言ったらしい。奴隷を監督しているメンキーナが飲み水を取り替えた後、ハラハラした表情で両手を握っていた。
 奴隷たちが靴の紐を結び、シャツを着せ終えると、深刻な顔をしたまま後ろに下がる。王子は考え直して彼らに答えた。
「俺の国では……確かに公式でこういう服を着るけど、普段は気軽なシャツを羽織りたい。自分で着られるような奴がいい。いちいち奴隷を呼ぶのも面倒なんだ」
 急に奴隷たちが怯えた顔になり、肩をこわばらせるようにして小さくなってしまった。メンキーナは息をのんで黙っていた。
 ウルフェウスは彼らの様子を見て、彼女に聞いた。
「こんな些細なことで奴隷を罰するつもりか?」
 彼女はハッとした様子で、びっくりした顔を上を向ける。王子と目が合うと「いいえ」と答えて、泣きそうな顔になった。奴隷たちの顔色が戸惑いに変わった。
 そもそもこの国では奴隷とはどんな存在なのだろうか。
 ウルフェウスの祖国では、彼らの多くは戦争でつれてきた捕虜だ。殺すよりは教育して現地に戻した方が、占領地の統治には有効だったので、何人かを連れ帰って教育するために強制的な労働に従事させる。大抵は期間が決まっており、教育と洗脳の期間が終了すると官位を与えて、地方行政に組み入れてしまうのである。
 だが、ザヴァリア国は戦争で発生する捕虜は少ないだろう。彼らはなぜ奴隷と言う身分にいるのだろうか。部屋にいる三人の奴隷を見て、ウルフェウスは話しかける。
「俺の言葉がわかるのか。教育を受けているんだな……歌や音楽は得意なのかい?」
 奴隷の一人が遠慮がちにメンキーナを見て「はい」と答える。言葉がわかるらしい。異国の出身ではないようだ。メンキーナはハラハラした顔で彼らを見守っている。まるで母親のように。
 ウルフェウスが話しかけたことで、奴隷たちの空気が変わった。こわばっていた表情が緩み、瞳に人間らしい優しい色が宿る。王子は続けた。
「お前たちはどうして奴隷なんだ?」
 そんな問いを口にする王侯を見たことがない。奴隷たちは戸惑いながらメンキーナを見つめる。メンキーナはふっと表情を変えて、王子を見つめた。肩から力の抜けた顔で、彼女は答えた。
「殿下、どうしてそのような質問をなさいますか? 何か……こちらに不手際がありましたでしょうか。ば、罰しなくてはならない……のでしょうか」
 彼女の質問の意味がわからない。奴隷制度に対する質問で、なぜ不手際の話をしなくてはならないのか。ウルフェウスは一瞬口を閉じた後「お前こそ、どうしてそういう質問を返すんだ」といった。再びメンキーナが緊張して頭を下げてしまった。
 奴隷の一人が震えながら声を出した。
「し、叱らないであげてください……殿下が、お怒りでなければいいのだと、思います。メンキーナさんはとても優しい方です。ど、奴隷を殴るようなことはなさいません」
 声を出した奴隷をふりかえったら、その青年は真っ赤になって俯いた。年はウルフェウスよりも上だろう。二十代半ばぐらいの青年だ。
 しばらくして、王子は急に気がついて苦笑いした。彼らに話しかけた。
「そうか、おまえたちは俺が怖いのか」
 突然、その場にいた全ての人間の目が変わった。怯えと衝撃の入り混じった顔を伏せて、感情を読み取られないように全員が俯いている。ウルフェウスはため息をついて、自分の通り名を恨んだ。悪魔だの、鬼だのと言われることに慣れすぎた。
 賢い王子は知的な瞳をくるっと動かした後、メンキーナが用意した水を口にした。沈痛な空気の流れる中、彼は再び口を開く。
「俺も奴隷を罰したことはない。仕事をさぼった場合は飯を抜かせたけど」
 俯いている彼らの様子をみるため、一度口を閉じた。
 奴隷たちは恐る恐るウルフェウスを見上げて、目があった。王子がにっこり笑ったら、彼らは恥ずかしそうに再び俯いた。
 気持ちを入れ替えて、彼らにやって欲しいことを具体的に命じなおした。
「朝は奴隷を三人もつれてこなくてもいい。俺が一人でも着られる簡易なシャツと飲み水を寝る前に届けにきてくれ。公的な行事に呼ばれる以外は、農民が着るような服でいい。俺は服をよく汚すから……午後に食事を取った後、風呂に入る。その時、髪と体を洗うのを手伝ってくれ。夕方に読書を手伝ってくれる人間が一人いればありがたい。夜はできれば歌の上手い奴に祖国の歌を教えたい。俺は寝入るのに時間がかかるんだ」
 奴隷たちは互いを見つめあって、暗黙のうちに自分たちの役割分担を決めたようだった。メンキーナがほっとした表情で「かしこまりました」と答える。
 護衛を担当している男性の従者が部屋にやってきて、侍女たちと共に朝食の支度を始めた。メンキーナは奴隷たちに退室を命じたが、ウルフェウスが「今日は傍にいさせろ」と途中で止める。奴隷たちは部屋の隅で王子を見守るようにして留まった。
 侍女たちが食卓を整える間、王子は護衛にやってきた男性に話しかける。
「これは推測なんだが、この国では犯罪者の子息を奴隷に貶めるのか?」
 部屋にいた奴隷たちとメンキーナの顔色が再び悪くなる。だが、男性の従者は朗らかな顔で「はい」と答えた。その後、背後にいるメンキーナの顔を見て吹きだしそうな顔で笑った。この男性は名前をケタルと言った。彼は続ける。
「彼らに何か無礼がありましたか?」
「そんなもんないぜ。無礼があったら、俺は直接伝えるだろう。だが、前もって言っておこう。戦時でない限り、俺は理由もなく怒りに任せてお前たちを痛めつけたり、殺したりなんてしない。必要以上に怯えることはない」
 ケタルはそんな話題を振ってもケロッとした様子だった。彼は理解力のある男性だったらしく、王子の言葉を受けてメンキーナたちを振り返った。彼女たちが口に出せない感情を読み取って、王子に話しかける。
「異国の作法がわからずに、彼女は昨夜書庫にこもって勉強しておりました。ご要望があるようでしたら、直接メンキーナに伝えれば彼女はそのように努力すると思います。慣れない部下で戸惑うこともあろうかと思いますが、我らをそのように教育してください。殿下にお仕えさせていただきとうございます」
「頑なになるな。俺は完璧な主人じゃない。部下の期待を裏切るのが大好きな問題児なんだ。堅苦しい社交も嫌いだし、思ってもいない賛辞を口にするのも耳にするのも嫌いだ。気楽な滞在を望む。俺が間違えたことをしているようだったら、遠慮なく指摘しろ。部下に叱られるのは好きなんだ。お前たちは俺を助けてくれるんだろ?」
 滞在中、彼が遠慮なく甘えられる人間たちはその六人だった。ウルフェウスはケタルを通して、メンキーナや奴隷たちにもそのように付き合うように求める。背後をふりかえったら、メンキーナは真っ赤になって笑っていた。
 だが、奴隷たちは苦しそうな顔で俯いている。その身元は犯罪者たちの人質なのだ。王家に仕える奴隷ということは、生まれも確かな者たちだろう。王子にその罪を許すことはできない。付き合い方に工夫の要る人間たちだ。必要以上の罰を与える必要はない。彼らは既に罰されているのだから。
 彼らの罪の内容をウルフェウスが把握する必要はない。彼らがその罪の償いをできるように手伝えばいいだけのことだ。王子は奴隷に話しかけた。
「それで? 誰が俺の読書を手伝う?」
 一人が恐る恐る手を上げる。王子は優しい笑みを浮かべ「今日から俺と一緒に学ぼう」と話した。ようやく、奴隷たちの表情も落ち着いた。罪人だと知ってから、王子は彼らを受け入れたことを示した。彼らは控えめに頭を下げ、王子に服従を示す。
 朝食を並べていた侍女たちが口元に笑みを噛み締めていた。彼らはうきうきした様子で仕事を終えると、はねる様にして頭を下げて退室した。若い女性の生き生きした表情を見てウルフェウスは機嫌がよくなる。
 彼は奴隷たちを手招いて、食事の手伝いをさせた。飲み水をくみ、彼らの手から食事をとって、ゆったりと堪能する。朝の清々しい光の中、二人の従者と会話を交わし、徐々に彼らの表情が落ち着いていくのを見つめた。
 食後、執事のいる部屋に立ち寄って、城内の簡単な案内図を見る。
 カプルア城の執務を担当しているフィスという男は、初老の穏やかな人間だった。彼はウルフェウスの要求に応じ、彼を歓待しながらカプルア城を簡単に説明した。
 接待用の机の上に古い地図を数枚並べて、城の設計図を見せる。本当ならば、防衛上、王の暮らしている城の設計図を他国の王子に気安く見せるものではない。ウルフェウスはいきなり設計図を並べられて、戸惑いつつも、苦笑いした。信頼されているのか、無防備なのかわからない。彼は丁重に設計図を眺めて、目に光が増していく。
「カプルア城には二十五の塔がございます。教会は殿下が滞在なさっておられる東の塔から西へ向かったところにございます。朝一番の光が礼拝堂に入ると、ガラスごしに七色の光が漏れるように作られておりまして、大層美しい眺めでございます。今の時刻ですと少し日は高く上がっておりますが、それでも白亜の殿に光が溢れていることでしょう」
「教会の中が白いのか? へえ……そうか、カプルアは白大理石の産地だな」
「さようでございます。この土地の岩石をくりぬいて作っておりますが、どこよりも白く光に溢れた天然の祭壇でございます」
 それは見てみたい。ウルフェウスはそわそわした顔で城の見取り図を手にする。防衛上の要としての城の構造を検討することは後回しにして、礼拝堂の場所を探した。ともすれば、普段の癖で国防を考えてしまうが、意識して滞在を楽しむことにした。
 自分の行動を常に見られているはずだ。鮮血刃の悪魔が国防の情報を手に入れて、どんな態度をとるか、と。ザヴァリア王に警戒されたくない。今は無邪気な少年でありたい。彼自身も政治に心を悩まされない平和な時間を味わってみたくなったのだ。
 この城内にある観光できそうな場所を聞き、お茶と菓子を楽しんでから、ゆったりとした気分で探索に出た。
 フィスの執務室は王の住まう北の主塔を守る位置にあった。そこから、西の城郭へ向かい、中庭を二つ通り抜けて、迷路のような城を歩いた。全ての建造物が白い大理石でできており、庭を彩る緑色との対比が美しい。繊細な模様が薄紅色に入っていて、石は風化によって優美な丸い穏やかな形になっている。
 風化の状態を見るに三百年は経っている。だが、城内は所々修繕されており、城の正しい年代は不明だ。歴史書に城の建築を記した正しい年代は記録されているだろうか。王子は「今日はこの国の正史を読みたいな」と独り言のようにつぶやいた。一緒に歩いていたメンキーナがその言葉を書き取り、奴隷をふりかえって書庫に向かわせる。奴隷は何も言わずに静かに姿を消し、夕方に読む書籍を探しに行く。
 庭を通る時に、大臣と思われる集団が南の回廊を渡っていくのが見えた。彼らはウルフェウスの姿に気がついたらしく、一斉に足を止めて、膝をつく。王子は困った顔になり、メンキーナに「挨拶した方がいいのか?」と訊ねる。メンキーナは首を振って「必要ありません」と答えた。今夜、正式に大臣たちと会食を予定しています、と続けた。ウルフェウスはかすかに口の端を曲げたが、不平を言わずに彼らの視線を避けて、東の塔へ向かう。
 政務に使用される場所が理解できた。南は公に開かれた場所らしい。王子は南に存在する多数の建物群を眺めて、ふと、足を止めた。
 不意に目の端に小さな建物が入った。崖の上に作られた天空の歩廊と、夢のような造詣。
 北に王の御在所と執事の部屋があり、南に政務用の建物群と客室がある。東側は王を守る守衛の要だ。では、西側は? 特に念入りに守られたその場所。
 ウルフェウスは直感的にその場所の意味を理解して、にんまり笑った。
 彼は独り言のように「深窓だな」とつぶやいた。


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