二輿物語


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12 無邪気な評価


 その日、姫の部屋は大騒ぎだった。
 王子の朝食を持っていったという侍女が部屋に呼ばれ、今朝起きたことを包み隠さずにつまびらかにする。彼女はとても興奮しながら、姫つきの侍女たちに語った。
「もおお、あの方が悪魔だなんて嘘よ、嘘っ! 奴隷にも忌憚なく声をかけられて!」
「きゃあー、それで? それで? 悪魔の噂は嘘なのね。そんなにお優しい方なのね!」
「優しいというかあ、なんていったらいいのかしらあ」
「もったいぶらないでよー」
 いつもは起床が遅く、午前中はぽーっとしている姫なのだが、この日は昼前には髪を結い上げて、身支度を終えていた。午後からやってくる教師を待つ間、侍女たちとおしゃべりを楽しむ。今日は、姫の婚約者であるウルフェウスのことでもちきりだ。
 彼は昨日突然やってきた。彼が実在して生きていることを理解した。風の噂に話を聞いていた時とは比べようもないぐらい、彼を身近に感じ、胸が高鳴って眠れなくなった。
 いつもより早く目が醒めて、居ても立ってもいられなくなったが、姫は自分の部屋を出る勇気がなく、ガラスごしに庭を眺めたり、部屋を歩き回って時間を過ごしていた。
 彼がどんな人間なのかを知りたい。
 姫がそう思っていることぐらい、周りは既に承知している。姫は会話に参加することなく、静かだったが、侍女たちは構うことなく王子の話を続けた。しれっとした顔で無視していても、姫が気にしていることはお見通しだ。
 侍女が急にひそひそ声になった時は、思わず姫も身を乗り出してしまった。
「あのね、あの方が優しいかどうかはまだわからないのだけれど、確かなことは、すっごい美男子だということよ! 姫さまにはとってもお似合いの方よ」
「きゃああああっ!」
 侍女たちは突然悲鳴を上げ、アリシアの傍にやってきて抱きついた。アリシアは真っ赤になったまま戸惑って、彼らを抱きしめる。頭の中は混乱していた。次々と入ってくる彼に関する新しい情報。今まで作り上げていた彼の偶像が再び崩れるのを感じた。
 冷酷な悪魔か、動物好きで優しい男性か、親しみのある絶世の美男子か。
 彼への印象が変わるたびに、戸惑いを覚えた。彼に対して、どのように接すればいいのかわからない。冷たい男性だと思って疎んじた。世話好きな温かい男性であると聞いて、自分も彼の世話をしたいと思い直した。姫は無意識に彼に同調しようとしていた。
 美男子、と聞いて、今度は怖くなった。
 自分に釣り合うとは思えなくなったからだ。侍女たちは不安そうな顔になったアリシアを見て、健気に褒めてくれた。姫の髪は素敵だといって褒め、肌はふわふわしていて気持ちがいいといって褒め、声や顔や肌触りや抱きしめた時の香りを伝えて、彼女を安心させようとした。だが、賢い姫はわかっていた。それらが全て社交辞令であることを。
 彼女は自分の本当の美しさを知らなかった。
 男性に愛を告白されたことがないのである。自分に女としての魅力があるのかどうか、確かめたことがない。それがたまらなく不安な気分にさせるのだった。
 彼女は再び、ザヴァリアとヴァルヴァラの国力の差を思い出し、憂鬱になった。ウルフェウスにとって、この結婚で彼が得るものは何だろうか。彼は得るものよりも失うものの方が多い気がした。
 彼が本当に美男子ならば、祖国で多数の女性が彼を望んだことだろう。アリシアさえ居なければ、彼は美人の妻を選び放題なのではないだろうか。彼は自分を疎んじるかもしれない。彼に嫌われることが怖かった。噂に聞く彼の正体が改善されるにつれて、彼に愛されなかった時の失望を予想し、彼に会うことが怖くなった。
 ウルフェウスはどんな女性を愛するのだろうか。
 アリシアは深くため息をついて、首を振った。彼に媚を売りたくないといったのは自分だ。素のままの自分を愛さない男に興味はないと言った。彼女はその言葉を少し後悔した。素の状態で誰がこんな女を愛するだろう、と落ち込みながら鏡を見る。
 自分の魅力が全くわからなかった。
 母親譲りの金髪は光に溢れていて、皆が褒めてくれる。しかし、彼女は自分の髪があまり好きではない。色は好きなのだが、髪に癖があって纏め髪を作るときに侍女たちが苦労しているのを見ていた。もう少し素直な髪であったら、彼女たちが苦労せずにすんだのに、と心苦しく思っていたのである。
 肌は白くて柔らかい。それは一日中日に当たらずに閉じこもっているからだ。あまりに白いために、顔色が悪くなっていることも知っていた。公的な場所に出るときは、わざわざ顔に白粉を塗って赤みを入れなくてはならない。本当は肌なんて白くなくても化粧で白くなるのだ。いや、化粧をしなくては人前に出られないのなら、肌なんて何色でも構わなかった。肌は柔らかいのではなく弾力がないのだ。生き生きとした侍女たちを見るたびに、その生命力を自分と比較して落ち込む日があった。
 女としての教養を高めるために、歌を習い、ダンスを習い、音楽を学んだが、それらはいずれも苦手だった。歌声は声量が足りず、ダンスは持久力がなく、音楽はリズム感が悪くて、教師はいつも苦笑いした。教養のない女では男性が退屈する。周りが姫の教育にやきもきしていることも知っていた。本当は自分が至らないから、両親は自分を男性と結婚させないのだと思っていた。だから、この年になるまで婚約者さえ決められなかった。
 ウルフェウスはそんな女が相手でもいいのだろうか。
 彼は自分と夜を過ごす時、アリシアに何を望むのだろうか。自分はそれに応えることができるのだろうか。自信がない。何一つとして。
 侍女が飛び跳ねながら彼の話を続けた。
「殿下は本がお好きみたいっ! 奴隷に『誰が俺の読書を手伝う?』って聞いていたわ」
「はーい! 私たちも姫様と一緒にお手伝いしまーす」
「きゃははは!」
 彼らは明るい笑顔でそんなことを話した。アリシアは予想外に知的な彼の台詞を聞いて、ドキドキした。彼はどんな本を読むのだろうか。
 傍に居た侍女が「殿下はどんな本を読むの?」と口にしたとき、思わず心を読み取られたと思って、怯えてしまった。胸を隠すようにして彼女たちを見る。
 姫の表情と様子を見て、侍女たちはニコニコ笑っていた。怯えている姫の手を握って、彼女の周りに集まってくる。
 朝食を運んだ侍女は首をかしげて腕を組んだ。今朝の話を思い出しながら「うーん」と唸っている。彼女の反応を見て、別の侍女が「恋の詩はどうかしら」とつぶやく。姫は侍女たちと一緒に考えて、一緒に微笑んだ。
「鮮血刃の悪魔と呼ばれる方が、実は恋の詩が好きだなんてことになったら、威力が半減しちゃうわよー。ありえない、ありえない」
「えー? でも、実は、ということだってあるじゃない」
「もしそうだったらぁ……きゃはっ、かっわいーっ!」
「冒険の話とか?」
「ああ、そっちの話なら、物語でいくつか書庫にあったはずよ! 姫さま、今夜持ってきましょうか? ね?」
「え、えっと……わ、私がその本を借りて読んだら、殿下が読めなくなりますから」
「殿下のお部屋で読んで差し上げたらいいじゃないですかぁ」
 アリシアは頭に血が上って首を左右に振ったが、侍女たちは彼女の手を握って「書庫に行きましょう!」と無邪気に誘った。彼女たちに連れられて部屋を出そうになったが、不意に足がすくんでしまった。
 途中で彼にあったら、どうしたらいいのだろうか。
 姫は不意に毅然とした態度で侍女たちから手を離した。背筋を伸ばして部下を諌める。
「幼馴染に会いに行くわけではありません。相手はヴァルヴァラから来た客人です。無礼のないように気を引き締めなさい。たとえ、殿下が親しみを持って声をかけてきたとしても、殿下のいる前で今のような態度を取ることは許しません。慎みなさい」
 その言葉を告げた後、侍女たちがしゅんとした顔になって落ち込むのが見えた。彼女たちを傷つけたことを知り、姫は心が痛んだが「私を一人にしてください」と部屋にこもってしまった。
 一人でぼんやりしたまま、バルコニーから中庭を眺めた。しかし、強い日差しの中にいたら、目眩がしてくったりしてしまった。手すりにもたれて空を流れていく雲を見つめる。自由に飛んでいく雲がうらやましい。空に手を伸ばしていたら、背後の扉を叩いて、教師がやってきた。
「おやまあ、姫さま、なんというだらけた格好を」
 彼女の批判を聞いて、慌てて背筋を伸ばして振り返った。その後、自分の姿を思い浮かべて、バルコニーの下を確認した。誰にも見られていなかったかと。
 その時、教会から司教と共に知らない男性が庭に出てきた。
 顔を見分けることができないけれど、城内にいる客人だろうと予想がついた。その人物の周囲に彼を守る護衛がついている。彼が自分を見つけたかもしれない、と思ったら、反射的に立ち上がってバルコニーから逃げてしまった。
 部屋に入って扉を後ろ手に閉めて、教師を見つめる。教師は険しい顔で「何ですか、その態度は」と姫を諌めた。姫は真っ赤になったまま「申し訳ありません」と謝る。
 教師は窓際にやってきて、カーテンに手をかける。
 強い日差しを遮るように動かして、姫に話しかけた。
「長い時間日に当たっては肌が弱くなってしまいます。折角、美しい白桃のような肌に生まれたのですから、守らなくてはなりませんよ? 今、城内には異国からきた客人がおります。こちらの方へ来ることはないかと存じますが、もし、今のような気の抜けた姿を見られて、吟遊詩人にありもしない不名誉な噂を流されたらどうなさいます?」
「申し訳ありません。以後、気をつけます」
 教師は軽く息を吐き出した後、気持ちを入れ替えて笑顔になった。姫も彼女が許してくれたことを感じ取り、肩の力が抜けた。
 今日の授業は習字だった。手紙を修飾する飾り文字を駆使して、自分の名前と公的文書の作成を学ぶ。見本となる文面を書き写すのである。
 飾り文字を書く専用の台がある。姫は教師と共にその文机に向かう。インクを含ませる筆を準備した。ペン先が少し傾いていて、ペン先がよく見えるようになっている。
 手を動かしながら、教師が話をした。
「もう、おしゃべりな侍女が話しているかもしれませんね。異国からの客人とは、姫のご婚約者であるウルフェウス殿下のことです。浮かれる気持ちはわかりますが、はしたない態度で最初の出会いを印象付けてしまっては、後の結婚生活に差し障りが出てくるでしょう。姫さま、これは国の未来がかかった結婚です。自重してくださいませ」
 改めて、二人の婚礼が、愛とは全く別の思考の元にくみ上げられた政略上の策であることを思い出した。ウルフェウスが自分を気に入ろうと気に入るまいと関係ないのだ。彼はアリシアがどんな女であっても受け入れるだろう。そして、女として愛せないならば、愛人を囲うだけのこと。姫は心に何か冷たくて鋭いものを押付けられたような気持ちになった。少し険しい顔で「わかっています」と答えた。


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