二輿物語


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13 自由への憧れ


 知らない国の文化を体験するのは楽しい。だが、知らない国で自分のしたいことを伝えるのは苦労する。ウルフェウスは午後に風呂場でイライラしながら奴隷たちと試行錯誤を繰り返した。
「わかったーっ! この国には浴槽がない! 代わりにあるのは湯桶のみだ! そうか、そうか、くそっ、俺は脚を思いっきり伸ばして湯の中で暴れたいぜ! どうしたらそういうことができるのかを教えろ」
「数学者を呼んで解答を考察させましょう」
「はっ! 受け答えが慣れてきたじゃないか。哲学なんかでごまかそうというのか」
「我らが懸念しておりますのは、殿下が既に半裸になって悪い病を引き込まないかということでございます」
「そこまで柔な体じゃねーよ。湯で泳げないなら、俺は城外に出て川で泳ぐ!」
 さすがに従者が「それは絶対になりません」と即答した。来客が川で身をすすぐような状態を知られたら、国の恥である。だが、ウルフェウスは風呂に関しては曲げたくない。小さな桶の中で湯を回しかけて我慢するような窮屈なことは大嫌いなのだ。それぐらいなら、入らないほうがマシだ。
 元来はとてもわがままな無法者だ。一日中気を遣って、品よく王子の真似事をしたら、自分で自分にイライラしてきてしまった。一日の最後ぐらい、自分の思うがままにわがままを追及して、リラックスしたい!
 この先、この国で生涯を終えるのだ。ゆえに、譲れる場所と譲れない場所がある。一生浴槽で手足を伸ばせない生き方をするなんて、うんざりだった。
 絶対にヴァルヴァラ式の風呂に入りたい。
 巨大な浴槽にたっぷり湯を入れて、音楽と飲食を楽しみながら、香りの良い草花を浮かべてゆったりと過ごしたい。石鹸で濁った生ぬるい湯なんかで我慢したくない。
 叫んでいる王子の傍で、奴隷たちが何とかして彼の希望を叶えられないかと試行錯誤を繰り返していた。メンキーナは庭から香りの良いバラを摘んできて、すぐに浴室から出て行った。王子の叫びから、飲食を持ってくることを理解したからだ。軽食となる菓子をいくつか持ってきて、冷えたお茶を入れる。
 彼らの準備が整うのを見ながら、ケタルが王子の話し相手になっていた。彼は王子との会話を楽しんでいた。この王子はわがままで横暴ではあるが、人を傷つけるようなひどい言葉は使わなかったし、脅したり、部下に手を上げることもなかった。
 結局、奴隷たちが湯桶を二つ用意して、体を洗うときと、体を温める湯をわけた。彼らは平身低頭して王子の怒りが収まるのを願う。ウルフェウスは一通り要求を叫んだら、意外にもさっぱりした顔で彼らの用意した湯に体を浸した。体を桶の外に伸ばしながらリラックスしていた。要は、一日溜め込んでいた要求を吐き出したかっただけなのである。
 奴隷たちに体を洗ってもらいながら、従者に話しかける。
「姫はどんな女なんだ?」
 彼らは含み笑いをして「素敵なお方です」と答える。奴隷も穏やかな顔で笑みを浮かべた。ウルフェウスは彼らの様子を見て、安心する。今日は彼女の部屋の近くまで行ったようなのだが、会うことはできなかった。それでも近くにいることを実感する。
 メンキーナが手持ち無沙汰にバラの花を活けつつ、部屋の隅にいた。男性の入浴中に中に入ってよいものかどうか迷っていたのだが、男性たちはバラの花や冷茶の存在に気を配ることがない。彼女は王子の裸体を見ないように注意しつつ、居心地の悪い空間に留まっていた。
 王子はそんな彼女を見つけて話しかける。
「なあ、メンキーナ! お前は姫を直接見たことはあるのか」
 メンキーナは名を呼ばれて、そっとふりかえる。王子は屈託なく笑っていた。彼が姫の話を聞きたがっていると知り、彼女は腹を決めて声を出した。
「今は、声をかけることもありませんし、お声をかけて頂いたこともありませんけれど、子供の頃は庭で駆け回って遊んでいる姫さまを見守らせていただきました」
「へー、お転婆だったのか」
 王子の感想を聞いて、メンキーナは慌てて手を振った。失言だったと気がついたのだ。普通の男性はお転婆な女を嫌がるはずだ。今の姫はもうお転婆ではない。淑やかな女性に成長しているのだから。
 彼女は「いーえっ! 普通の範疇でございます」と叫んだ。だが、ウルフェウスは瞳を輝かせて笑みを浮かべた。
 王子は髪と体を洗うと、自分から湯桶を移動して熱い湯の中に入りなおす。桶にもたれるようにして、メンキーナに話しかける。
「姫の好みを教えろ。何をするのが好きなんだ? 笛なら持ってるぜ。演奏しに行ってみようか。彼女の部屋を教えろ。部屋まで登れる木は? 彼女も木登りはするのか?」
 好奇心を隠すことなく訊ねてくる。思わず、メンキーナも肩の力が抜けて笑ってしまった。彼が姫に興味を持って、近づこうとしていることが嬉しかった。
 この王子は気取ったところのない、心の温かい正直者だ。
 彼がこの国に来ても、平和は維持されるのではないか、と期待した。彼の傍に一日居ても恐怖はなかった。むしろ、素直な彼の感情に引きずられ、一緒にいると気分が明るくなる。彼は太陽のような男性だった。温かくて、明るくて、激しい情熱を持っている。常に動き回って、何かを生み出そうとする能動的な革命者だ。
 その力の強さに引き込まれる。
 奴隷まで、普段の冷淡な表情をすべり落とし、王子の感情に合わせて目を輝かせている。彼らも彼の世話をするのが楽しいらしく、命じられなくても傍に寄り添うようになっていた。傍にいても恐怖がない。いや、むしろ大きな愛情に包まれる安心感があった。
 見た目は確かに美しい男性だったが、時間が経つにつれてそんな見かけ上の魅力よりも、もっと強く、内在した大きさに惹かれるのだった。その魅力は性別に関係なく、全ての人間をひきつける。女性であっても、男性であっても、少年であっても、老人であっても。彼は分け隔てなく話しかけ、愛してくれた。
 戦地に流れている恐ろしい彼の呼び名は、作り上げられた虚像なのかもしれない。
 彼が姫を望むなら、手伝いたかった。
 メンキーナは少し考えて、王子の傍に近づいた。主の入浴中にこれほど傍に行くのも初めてのことだ。王子は無防備にも全ての武器を取り払って、部下に肉体をさらしている。それだけ信用して命を預けているということなのだ。
 彼女は声を潜めて囁いた。
「アリシアさまの男性の理想像はとても高うございます」
 王子はにんまり笑って答えた。
「ああ、そうだろうさ。婚約者が来てるのに、全く無反応だなんて……普通ではありえねえ。どうして彼女は隠れてる? 今夜の会食には出てくるのか?」
「いいえ、いらっしゃらないと思います。姫さまが、殿下とは舞踏会で会う、と決めたなら、絶対にそれまでは姿をお見せにはなりません」
「あったまかってえ」
「違います。淑女の礼儀として、そう叩き込まれているのです」
 メンキーナはそれから淑女のたしなみをいくつか教えた。彼女は既に結婚していたが、結婚する前までは戒律に縛られて、自分の自由になることはほとんどなかったのである。男性に言われるがままに働き、親が決めるままに婚約をして、夫の命じるままに生きている。女の人生は男の良し悪しで決められてしまう。だからこそ、ウルフェウスのような評判を持った男の妻になることは恐ろしいことなのだ。
 姫は自分で愛する人間すら決めることができない。言われるがままに、心を封じて生きるしかない。姫は王子を愛さなくても、抵抗できずに結婚するだろう。
 メンキーナの言葉を聞いて、ウルフェウスの表情が暗くなった。彼は肩をまわして、コリをほぐす。女には女の生き方がある。それは窮屈に感じられる生き方だと思われるかもしれない。
 王子はしばらくして、落ち着いた声で話した。
「なあ……お前の目から見て、俺は自由に見えるのか?」
 メンキーナはふっと目の前にいる少年に目を向けた。王子は自分の感情にも素直だし、やりたいことを自由にやっているように見える。特に問題はないだろうと思いつつ、頷こうと思ったが、ふと、ためらわれた。
 傍にいた奴隷やケタルが小さく首を振っていたからだ。
 女にはわからない男の世界があるかもしれない。安易な解答を避けて、彼女は沈黙した。
 王子は話した。
「俺は不自由な拘束の中に、自由な楽しみを見つけて生き抜いてきた。だけど、それは特別なことじゃない。それって誰もが皆やってることだろ? 俺にはこの結婚を退ける自由はない。だけど、それを俺は不自由だとは思わない。そういうチャンスがなければ、俺は彼女に会いたいとは思わなかっただろうと思うし、お前たちに会うこともなかったと思うからだ。俺はその不自由を選択して受け入れた。彼女はきっと、自分の人生を楽しむ度胸がないのさ……俺との結婚生活に楽しみを見つける気がないんだ。本当に嫌なら、好いた男と逃げてしまえばいいだろうに。今なら、俺を排除することもできるだろう。正式な文書なんて交わしてないのだから、自由に会って、互いの意思を確認できるのに。基本的に親に逆らわない、大人しい子なんだな。結婚前に俺がどんな奴なのかを知りたくないのか。本当に、どんな男が相手でも、親の言いなりになる気なのか……俺ならぞっとするぜ」
 彼は再び「あったまかってえ」と言いながら笑った。無邪気に見える少年だったが、その思考は大人以上に知的だった。彼はあっという間に姫が持っている問題を言い当ててしまった。メンキーナは言い返すことができずに、もやもやした気分のまま口を尖らせた。確かに、アリシア姫の反応はこの王子に比べたら消極的で幼稚に見えなくもない。
 ウルフェウスはそんな彼女の表情を見て「お前も夫を愛してないなら、逃げれば良かったのに!」という。メンキーナは思わず「愛してないなんて言ってません!」と叫び返した。彼との結婚を疎んじたことなんてない。いや、むしろ自分の気持ちを優先させるために、父の戒めを利用して、彼に結婚を迫った。彼女の希望を受け入れて、婚姻を父親に申し込んだ夫はメンキーナにとって最愛の人である。
 メンキーナの不自由さは現状に対する不満でしかない。いつだって、自分の望みをその枠内で叶えてきた。彼女は不自由な拘束の中でも、自分は自由だったと気がついた。
 王子は奴隷を見ながら「俺も奴隷をやったことがあるぜ」と気楽に話しかけた。
 びっくりしている彼らに満面の笑顔で「退屈だったから、すぐにひっくり返してやったけどな」と彼は答えた。その後、王子が敵の占領地で捕らわれた回数を聞いて、初めて奴隷が声を上げて笑った。珍しいことだ。ケタルは奴隷を諌めて睨んだが、ウルフェウスも大きな声を上げて彼らと共に笑った。豪胆な男である。
 どんな身分に身を落としても、心は自由であり続ける。
 それが彼の本質で、人々をひきつける魅力の正体なのである。


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