二輿物語


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14 すれ違い



 読みどおり、姫は会食には姿を現さなかった。
 大臣や国内の有力貴族を紹介された後、王子はさっさと引き上げて自室に戻った。政治の話もできない身分で、有力者たちと時間を過ごしても無駄だ。互いの顔と身分を確かめたら、もう社交辞令に割く時間はいらない。さっさと王に退室を申し出て帰ってしまう。
 奴隷が本を持って、部屋に来たが、勉強がしたくてこの国に来たわけではない。数ページ読ませたら、それも部屋から追い返してしまった。一人になりたいと伝えて、従者を全て追い返したら、彼は外出の支度を始めた。
「大人しく月末まで待てるか」
 姫が意固地なら、こちらから行くしかない。ウルフェウスにはのんびりできる時間はあまりないのだ。祖国の守護を担っているのは彼なのだから。あまり長い時間異国に滞在して、空白を作りたくない。用が済んだらさっさと帰るつもりでいた。
 彼の目的は、姫がどんな人間なのかを知ることだ。
 たったそれだけなのに、引き伸ばされるのはたまらない。
「女は平和だぜ。恋にそれだけの時間をかけられるとは」
 笛を一本手に持って、バルコニーからあっという間に飛び降りてしまった。その身軽さは風のようだった。断崖絶壁に存在する城だというのに、その最高層部から飛び降りて、正確に壁を伝って降りていく。
 彼は恐怖心が乏しいのか、平気な顔で異なる階層の屋根に飛び降りて、宙を舞う。
 渡り廊下のひさしを通り、昼間に記憶した地図を頼りに西の方角を目指した。穏やかな月光の下に、陰影が浮かぶ。大輪の薄い色の花が闇にぼんやりと光って見えた。
 南周りの回廊を通っている時、足元で大臣たちの声がした。
「噂はやはり信用ならぬわ。年相応の王子ではないか」
「非公式とはいえ、ヴァルヴァラを留守にしての来訪……意外にあの国の情勢も落ち着いているのかも知れぬ。戦の多い国とは聞いたが、水増しして伝わっているのかもしれん」
「うむ。しかし、雷光のごとき閃きを持つ英君だと聞いていたのに、意外や、のんびりしたお方に見えたなぁ。それに少しお疲れだったようだ。長旅の影響だろうか」
「意外にひ弱なのかも知れぬ」
「ははは。そうであってくれたら、われらも気が休まるのだが」
 ウルフェウスはそんな彼らの頭の上を忍び足で通り過ぎた。
 人の噂も聞きなれた。誰がどんなことを話しているかも興味がない。ただ、大臣たちが自分に何を望んでいるのかを耳にして、彼は「ふん」と軽く笑った。
 教会の裏手にある野草園からシークレットガーデンの入り口へ向かう。昼間に案内してくれた司教は、その庭が「奥方たちの庭」と呼ばれていることを教えてくれた。歴代の女主人が育てている庭という意味だ。
 ならば、その近くに王の女がいるはずなのだ。王妃と王が同じ寝室で寝ているならば、奥方の庭を育てるのは別の女主人だ。ウルフェウスは奥方たちの庭の入り口に立つと、隠されている入り口を探して藪の中に手を入れる。
 生垣沿いに歩いて、不意にその入り口を見つけた。階段状に花壇が作られていて、すり鉢状に半円の穴が開いている。階段状に下っている花壇は、底部でトンネルが庭の奥へと通じているように見えた。この下を通って向こう側に入るのか。
「花を踏んで降りろというのか?」
 だが、王子は慎重に地面にしゃがみこみ、薄暗いトンネルの奥にある罠を見破る。半円状の下り階段の奥からは水の音が聞こえてきた。この穴の先は行き止まりだ。彼は鼻を鳴らして、水辺に生息する睡蓮の香りを嗅ぎ分ける。ここは外部から来る人間に向けた第一のトラップだ。
 再び周囲を探って歩こうとした時、瞳は違和感を見つけた。彼は再び来た道を戻り、藪の中に光っている真鍮の取っ手に触れた。手前に引いても押しても開かない。こういう時は上下に動かしてみるのがいい。上に持ち上げたらカチリと金具の音がした。
 その後、取っ手を動かしてみたが動かない。扉が開いたのかと探してみたが、そうではない。外部からの侵入を拒む庭である。
「内気な姫さまらしい罠だぜ。そんなに開けたくないなら、飛ぶしかねーな」
 彼は生垣の高さを目で測り、少し後ろに下がって助走をつける。一度飛び上がって生垣の上に手をついたが、木々の枝に手を傷つけられ、一瞬顔を歪ませた。
 直後、彼は生垣に足をつけ、一息によじ登った。
 その時、瞳の端で橋の存在に気がついた。
 先ほどの階段状にくぼんだ花壇の上に、金でできたおもちゃみたいな可憐な橋がかかっていた。人が一人渡れるかどうかという小さな橋が。
「ったく……面倒な仕掛けを」
 既に体は半分以上持ち上げていたのだが、彼は不意に諦めて飛び降りた。傷ついた片手を払うようにして、木くずを飛ばし、橋に近づいた。
 半円状にくぼんだ花壇の上につる草を象った金の橋が架かっていた。橋とはいえ板は張られていない。はしごを横に渡したような形のもので藪の中に隠れていたようだ。その橋は緑の生垣にぶつかるようにしてかかっている。橋を渡っても、中には入れない。
 そもそもこれは橋なのか? 壁を近くで見るためのものなのか。
 ウルフェウスはこの謎解きにイライラして、片手で頭をかいた。
「どうしろと言うんだ、このくそったれ」
 やはり、飛び越えるしかないのか。ウルフェウスは飛び降りたばかりの生垣を見上げて、自分の手をさする。この生垣は意外に痛い。小さな棘が刺さっているのを見て、小さく舌打ちした。
 しばらく悶えた後、彼は冷静さを取り戻し「遊んでやらあ」とうめいた。壁の近くへ行けというなら、そこに何かヒントが書かれてあるのかもしれない。おもちゃのような金色の橋を渡るため、彼は素直に橋の上へ足を運ぶ。
 しかし、足を置いた瞬間に、何かが閃いた。
 彼はにんまり笑って飛びのく。これは渡るための橋ではない。その小さな橋の取っ手を握り、力任せにそれを引っ張る。円形の舞台が回転しながら場面を変える様に。
 花壇の上を滑るようにして生垣が開いた。この入り口を開けられるのは男だけだ。女にこの重量を動かすことは難しいだろう。いや、女の手でもできなくはないが、姫と呼ばれる人間たちは自分よりも大きな面積の生垣を自分の手で動かそうとはしない。
 この庭は権力者が女を囲ってきた時代の証なのだ。
 回転する壁と共に金の橋が元の位置に戻っていく。ウルフェウスは周囲を見て、そのはしごを握って、飛び乗った。壁と共に周りながら、奥方たちの庭へと侵入する。
 中に入ってから後悔した。
 中は大輪のバラが植えられている。その花壇の奥に外から入れる門が見えたのである。もう少し辛抱強く生垣の周辺を歩いていたら、苦労することなく中に入れたようだ。おそらく、ウルフェウスが使った方法ではもう誰もこの中に入ってこないはずだ。古い仕掛けを捨てて、新しい入り口が作られている。
「まあ、俺は楽しかったけど!」
 王子は悔しそうに負け惜しみをつぶやいて、歩き出した。
 建物は矩形になっている。バラ園の奥から建物の下をくぐって、中庭へ入ることができた。矩形の建物は一階の部分が全て通り抜けることができる形になっている。柱を並べて土台を作り、高楼は空中に浮くように作られている。さらに、その建物を歩き回って、階段がないことに気がついた。厳重にもほどがある。
「この上に彼女がいるのかな……ずいぶんと守られて……いや、閉じ込められてるな」
 それが第一印象だ。
 しばらくして、王子はその建物が今はもう使われていないことに気がついた。階段を取り払い、中に人が入れないようにして封じている。だが、古い時代の名残が壁に彫られている。刻みつけられた愛の証を見つけると、彼は神妙な顔になって、指先でその文字のあとをなぞった。
 それは幾年前の記憶なのか。
「母さまへ……私は生きています、か」
 矩形の中庭の中央に睡蓮の咲く池が掘られてあった。噴水はもう止まっている。水は厚く濁り、水底が見えなかった。王子はそこから生垣をふり返り、距離を目測した。高低差を計算して、地中に存在する水路の構造を理解する。
 この水の下から逃げようとした女はいなかっただろうか。いたとしたら、途中で溺れ死んだだろう。
 彼は噴水の周りに腰掛けて、揺れる水面を見つめた。中庭から矩形の建物を見上げ、かつての楼閣の姿を思い浮かべる。色あせた塗料は今よりも鮮やかだっただろう。闇夜に照らされる幽玄の空間。回廊のいたるところに松明を灯す台座が置かれてある。夜通しその場所に火を焚いていただろう。
 建物の窓は朝日の入らないように下向きに突き出したひさしが付けられている。この屋敷に暮らしていた女を思い浮かべた。メンキーナから聞いた女の生活を想う。
「ここはハーレムと言う名の牢獄だ。アリシアはこの建物を見て絶望してるのか?」
 二階建てになっているその建物の一辺に二人ずつ女が暮らしていた。一番西側は、窓が一切ない空間になっていそうだ。中はどうなっているのだろうか。
 六人の女が外部との関係を絶って暮らしていた。
 夜毎に主が部屋を訪ね、西側にある部屋へ連れて行くのだ。その部屋は窓がなく、叫んでも声は聞こえなかっただろう。朝になっても光が入らず、夢幻の空間で男性に奉仕させられる。建物の周辺には女性の心を慰める優しい花がたくさん植えられている。だが、彼女たちに自由はない。この場所から逃げることはできない。
「本当は『奥方』なんて住んでなかったかもしれないな……とらえた捕虜の拷問を行ったのかもしれない。奥方たちの庭という名前は優しげだが」
 部屋の形状を見ると囚人が暮らす場所とは思えない。ウルフェウスは気が少し滅入って、その場で仰向けに倒れこんだ。上方に真四角に抜けた夜空が見える。色とりどりに輝く宝石のような星をながめて、思いに沈む。
 この国ではどのようにして女は愛されているのだろうか。姫が結婚に感じている恐怖心を少し感じる。
 姫に会うために侵入したのに、無理やり会うことに罪悪感を覚えた。この国では男と女の生き方が異なる。自分にとっては喜ばしいことも、彼女にとっては恐怖かもしれない。
 天空に浮かぶ月の姿を眺めて気持ちを静める。
 早く彼女に会いたい。
 だけど、彼女を怖がらせたくなかった。彼女は妻になる女性だ。これから生涯を共にする人で、初めて、一人の男として相手から求められた縁談話だ。
 自分の持てるものを全て使ってでも、認めてもらいたかった。この国で共に生きていくのに、ふさわしい度量を持っていることを。男として、夫として、彼女にも認められたい。
 しばらくしてウルフェウスは小さな声で囁くようにつぶやいた。
「月末までいてやるよ。長い休暇を楽しむことにするぜ……しっかり、俺を見極めろ」
 彼女が自分から殻を破って自分の傍に来るまでは。
 彼は心を決めるとさっぱりした顔で起き上がった。手にした笛を吹きながら、その庭を後にする。彼女たちの魂を慰めるよう、優しい曲を奏でながら、彼は闇の中に消えた。


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