二輿物語


INDEX
prev

15 夜の音色


 どこからか笛の音が流れてきた。
 アリシア姫は日記を書く手を止めて、窓の外を見た。冴え冴えしい月明かりの中、色を消した建造物の連なりが、繊細な影絵のように映っていた。アーチとその周囲に施した彫刻の影を眺め、姫は少し顔色が悪くなる。それは「奥方たちの庭」から聞こえてくる。
 その場所には古の幽霊が棲むと言われていた。
 昔、祖父母よりももっと古い時代にその場所で亡くなった四人の娘がいたという。妖精のように美しく、王の寵愛を受けて城にかくまわれたが、この地域一帯に流行っていた疫病から逃れられずに命を落とした。以後「奥方たちの庭」は呪われた場所として、教会がその浄化と鎮魂を引き受けて、管理している。
 だから、夜遅くにあの場所へ行くものはこの城内には誰もいない。
 なぜ、その方角から笛の音が聞こえるのか。
「まさか……彼女たちが器楽を……?」
 そんな超常現象に怯えつつ、姫は立ち上がってバルコニーへ出た。
 外に出たとたん、月明かりの余りの美しさにぞっとした。空の大気はガラスのように透き通り、白々しい巨大な発光体を張り付かせている。その冴えた光には生命が宿っているように見えた。心に染み入るような天の輝き。
 笛の音はこの世のものとは思えぬほどの美しさだった。音色は華やかでありつつ、繊細に蕩けて零れ落ちる氷滴のごとく煌めいている。装飾音は遊び心があって幾度も重なり、音調の幅は広く、旋律は異国の情緒が感じられる。息を継ぐ暇を与えぬほどの速度があり、たくさんの音を含ませるのに、全体的な流れはゆったりとして調和している。たっぷりとした音量は周囲の大気を支配するほどに力強い。安定感のある音は均一だ。
 相当な肺活量を持ち、高度な技術力のある奏者である。
 姫のいる場所は「奥方たちの庭」から少し離れている。姫のいる塔は中庭を囲う半円の建物で、眼下には白いバラの植わった庭があり、南には教会とその司教区の管轄である森と「奥方たちの庭」がある。医療用の草木を育てるメディカルガーデンの奥にその建物は存在する。手前にある森が視界を遮り、その存在は姫の目には入らない。
 しかし、姫はこの国の精神世界を守るためにその場所を守護する役目も両親から授かっている。毎朝、彼女たちの鎮魂のために、教会で祈りを捧げるようしつけられていた。同時に医学の修得も義務付けられていた。もっとも、それは健康を叶えるためというよりは、より多くの子を産むための学習であったのだが。
 いずれにしても、姫はこの城内では最も精神的に彼女たちに近い場所にいるのである。
 今まで聞いたこともない音色に怯えつつ、彼女はそわそわして自分の役目を思い出した。あの場所にいる霊が騒いでいるのならば、それは日々の祈りが悪いせいだ、と自分を責めた。この超常現象にどう対処したらいいのかと悩みつつ、バルコニーを歩き回った。さすがにこの時刻になって、教会に一人で行く勇気はなかったのだ。
 こんなことは今までになかったことだったので、どうしたらいいのかと戸惑った。
 姫の足元から家屋の明かりが漏れた。階下にいた部下たちも音色に気がついたようだ。次々と窓を開ける音がして「何の音?」「きれーい」「誰の恋歌?」「ばか、奥方様たちの方角よ!」と侍女たちの囁きが聞こえてきた。姫は眼下に映る明かりに自分の部下の存在を思い出し、少し安心した。
 庭に並ぶ黄金の窓枠に人影を映し、中庭に人の囁き声があふれる。生きた人間たちの声を聞いて、姫は一度大きく息を吐き出した。気持ちが落ち着くと、急にやるべきことが見つかった。最初に報告すべき人間は誰なのか。
「司教さまはまだ起きていらっしゃるかしら?」
 奥方たちの庭に異常があるのなら、彼に相談をするのがいい。姫はしばらくすると、勇気を奮い起こして外出の支度を始めた。部屋にある鈴を鳴らして、支度のために侍女を呼ぶ。窓の外から「きゃあー、姫さまが呼んでるー」と無邪気な彼らの悲鳴が聞こえた。
 彼女たちはいつも通りだ。アリシアはその声を聞いて、ふと口元をほころばせた。
 最初にやってきたのは、姫を指導する立場の教師たちだ。彼らは既に正装をして、落ち着いた様子で姫の部屋にやってきた。彼らが姫に正対してお辞儀をしている時に、年下の侍女たちが慌ただしく階段を上がって駆けてきた。教師たちはきつい視線で一瞥し「何と行儀の悪いこと」と冷たい声で彼らを制した。侍女たちはかしこまって小さくなる。
 姫は寝問着であったが、落ち着いた態度で彼らを迎え入れた。
「南西にある『奥方たちの庭』に異変があるようです。司教さまに至急連絡を入れるように。私はこれから着替えて教会へ向かいます」
 姫の命令を聞いた彼らは一斉にお辞儀をして「かしこまりました、姫さま」と答えた。教師たちは背後にいる侍女たちを中に入れて、姫の身支度を手伝わせる。そのまま部屋に残って、姫の相談役を引き受ける。
 衣装を取りに戻った侍女たちを待つ間、姫は字のきれいな侍女を傍に置き、司教に出す即席の文を用意させた。凝った文面ではなく、深夜の突然の訪問を詫びる内容だ。訪問の理由は、奥方たちの庭から聞こえてきた怪異の音の原因を追究すべきかどうか相談したい、と結び、教師に内容を確認してもらってから、侍女に清書を命じる。
 教師の一人が王宮にいる王と王妃にも手紙を出すようにと進言したので、姫自身が筆を執って飾り文字を操りながら文面を綴った。
 彼女たちは姫が文字を書き終わるのを待ってから、口を開いた。
「もしかしたら、これは怪異ではないかもしれません。今はかの方がご滞在中です。嘆かわしいことですが、夜遅くに皆が寝静まってから、姫の所在をお訪ねになる目的でさまよわれているのかもしれません」
 明確にその人物の名が出てこなかったので、姫は最初「え?」と首をかしげてしまった。こんな夜遅くに誰が自分を訪ねてくるのだろうと考え、不意にその人物に思い至った。
 アリシアは突然、頬が熱くなって、頭に血が上ってしまった。
 その人は、ウルフェウスだろうか。いや、教師たちが言外に示しているのは、彼のことに違いなかった。今まで、こんな事件が起きたことはない。彼がやってきてから起きている怪異だ。彼が来ただけで、この国に風が吹きはじめた。
 顔中がぼやけて熱を持つ。ふわふわした眩暈のような感覚に酔いそうになる。
 夜に男性と逢引をしたことなんてなかった。恋の歌を届けられたこともない。暗闇に乗じて、恋を囁いたこともなかった。それがこんな風にして突然目の前に現れるとは。
 平穏な毎日だった。幾度も繰り返される、退屈で凡庸で動きのない日課に、旋風のような事件が起きた。政治的にも世俗的にも切り離され、精神的に滞り淀んだこの西側の地区にこんな事件を起こすとは。
 いや、彼が忍びで姫の在所にやってくることは当然考えられる事態だった。
 到着した初日は大人しく旅の疲れをいやして寝ていただけだ。何事も起きなかったので、つい、忘れていたが、彼は婚約者なのだ。姫に会いに来たのだ。
 その行動はわかりやすく、素早かった。
 恋をするということは、このような突発的な事件を幾度も体験するということなのだろうか。姫は脈打つ鼓動を感じつつ、胸を押さえた。不意に破られた日常の均衡。これが男性の恋なのだろうか。常識なんて無視して思いのままに行動するのが、彼らなのか。激しい情熱のままに、彼は恋を歌う。
 耳に届く鮮やかな音色。それは彼の心なのだろうか。予想外に美しい旋律だった。
 彼はどんな人なのか。急に彼に対して興味を覚えた。十分な教養がなくては、あの音は出せないと思ったからだ。噂では戦好きと聞いたが本当は雅なのではないかと期待する。
 今夜の晩餐に顔を出さなかったことを思い出し、姫は落ち着かない気持ちになった。彼は愛想がないと思っているだろう。何が何でも顔を見てやろうと思ったか。我慢しきれずに姫を探しに来たか。お高く留まっている、と文句を言いたくなったか。
 どんな顔をして彼に会ったらいいのかがわからなくなってきた。彼が怖い。
 姫は素知らぬ顔で自分の頬を押さえて、熱をとる。ベランダから自分の姿が見えてないかどうか確認するように背後を振り返って、顔をそむけた。
 鼓動はまだ静まらない。体中を駆け巡る温かい血の感覚が、夜には珍しく姫の気分を高揚させる。非日常的な夜を体験し、全身に電流が走る。彼の意識を近くに感じた。
 彼はこの場所を探そうとしている……近づくために。会うために。
 不意に笛の音が途絶えていることに気がついた。外は静寂に包まれている。
 姫は怖くなり、教師を振り返った。教師たちは珍しく表情を緩めて「ご安心ください」と微笑んだ。一人が彼女の手を握って傍にくる。
「私たちが夜を徹して姫君をお守り申し上げております。ご婚約者とはいえ、こんな無礼が許されるわけがありません。もし、この怪異が殿下のせいで起きているというなら、懲罰は司教区に一任し、姫さまはぐっすりと安眠なさってください。夜に騒ぐ無礼者のために祈らずともよいのです」
「彼の仕業かどうかはまだわかりません……霊魂を貶める言動は許しません」
「申し訳ありません。言葉が過ぎました。ただ、可能性を申し上げただけです。至急、かの方の動向を調べさせましょう。姫君の外出は安全が確認された後でよろしいかと」
「しかし……」
「そのお体は、あなた一人のものではございません。国の財産でございます。無礼な暴漢に身を許すことはあってはならないことなのです。姫君がそのようなお顔をなさらなくてもよいのです。悪いのは、かの方なのですから」
 きっぱりと言い切って、その教師は姫の傍を立ち上がる。侍女の一人に「ウルフェウス殿下についている侍女のもとへ使いを出しなさい」と命じる。侍女の一人が「行ってまいります」と頭を下げて部屋を出た。
 彼女と入れ違いに、外出用の衣装をもって、侍女のセレナが戻ってきた。教師たちは司教区からの知らせを待つよう、姫に進言した。姫は寝問着のままで時を待った。
 何一つ、自分の意志では動けないのだと思い知った。
 夜中に笛の音が聞こえたというだけの小さな事件なのに、こんなにたくさんの人を動かし、なお、姫は自分の足でその部屋を出ることができない。彼女に移動の許可を与えるのは、姫の身を守るという名目を持った、護衛たちだ。
 姫は豪奢な衣類に身を包んでいるが、それは一人で歩き回らせないようにするための拘束着に似ている。たっぷりとした布で作られた衣類は、持ち上げて走るには重すぎる。彼女は常に周囲に人を配して、彼らと共に移動しなくてはならない。
 アリシアはふと想像する。
 月夜に映える美しい笛の音に、まだ見ぬ彼の姿を思い浮かべ、果たせなかった彼との邂逅を想う。月の静かな夜の闇の中で、彼の声を聞いてみたいと願った。
 彼はどんな男性なのか。悪魔のように冷血で、残酷で、強くて、動物が大好きで、世話好きで、やんちゃで、身分の差を気にしない大らかな人物で、背が高くて目が青くて容貌が美しくて、笛が上手で、正直でまっすぐで、常識や体裁に縛られず、自分の意志のままに自由に動き回れる人……それは彼が男性だからできることなのだろうか。
 自分とは正反対の、全く違う世界にいる人のように思えた。
 彼に会ってみたい。
 アリシアは自分を守ってくれている大人たちを見上げた。彼らと一緒にいて、不安を感じたことはない。彼らがいてくれるから、自分の身はいつも安全だった。なのに、なぜか、今は彼らの存在が疎ましい。自由に動けないことが、この場所を走り出て自分の足で好きな場所へ行けないことが、悔しかった。
 しばらくして、司教区から遣いが来た。
「深夜の訪問をお許しください。司教より、返信の便りをお持ちしました」
 教師がその手紙を受け取り、姫に持ってきた。姫が手紙を開こうとしたとき、王子の動向を探りに行った侍女も戻ってきた。
 アリシアは手紙を読んで、彼らの前で口を開いた。
「奥方たちの庭から王子が出てこられたそうです。今、かの方と共に司教さまは教会で祈りを捧げられているとのこと。これから、王子の要望で、奥方たちの庭で起きた悲劇をお話しされるそうです。王子は司教さまと共に書庫に向かい、歴史書を読まれると……皆、ご苦労でした。私は今夜、もう外には出ません……もう休みます」
 淡々とそう告げると、姫は冷たい表情になり、手紙をたたんだ。司教区からの使者が深く頭を下げて退室し、教師たちが侍女を解散させた。彼らも、最後に部屋の中の安全を確認してから、姫の部屋を出て行った。
 姫は一人になると退屈そうな顔で、背後の窓から漏れる月光を仰ぎ見るのだった。


next