二輿物語


INDEX
prev

18 優美な退屈



 ザヴァリア国中央にて。
 月末まで待つ、と心に決めたものの、王子は一週間も経たぬうちにこの決意が揺らいでいた。彼は退屈な王宮生活に飽きていた。最初はヴァルヴァラと異なる生活習慣に面白みを感じていたが、基本的に城の生活は苦手だ。馬を人に譲ったせいで趣味である乗馬もできず、許されず、イライラしていた。彼には城の上部にある最も上級の部屋を与えられたが、そこから見える雄大な風景も二日で見飽きてしまった。
 舞踏会も憂鬱だ。ウルフェウスは舞踏をきちんと習っていない。そこでメンキーナから踊り方を学び、当日に備えることになった。だが、授業を抜け出したくてうずうずしている。不得意なものを一日中学ばされることの苦痛といったらない。
 舞踏の指導をしていた侍女のメンキーナも、王子の学習態度に怒ってしまった。
「王子、今日こそはワンステップ覚えていただきますからね! ほら、始めますよ」
 部屋には舞踏会の衣装合わせのために、複数の商人が呼ばれていた。王子の体を採寸し、ドレスを作るのだが、その作業も堅苦しくて嫌になる。絵師が描くドレスのデザインは優美で品があり、ウルフェウスが身につけると女性のように見えてしまう。彼は舌打ちしながら「俺は男だぞ」とやり直しを幾度も命じた。女性と見まがうようなひらひらした衣類なんて身につけたくない。もう二度と、王に「美しい」と言われたくなかった。
 幾度目になるかわからないデッサンのやり直しを命じていたら、ダンスの時間が来てしまった。ウルフェウスは全く自分の時間を取れないことにイライラしている。
「はあー、お前と踊って何になる? 俺の相手は姫だろう。練習してやるから、姫をここに連れてこい。それとも何かい、あんたたちの姫様、実はもう雲の上にいらっしゃるんじゃねーのかい。ちゃんと生かしてあるんだろうな?」
 王子は商人たちを片手で追い出して、自分で髪を無造作に縛り始めた。ダンスレッスンの間は髪をしばれ、と初日に教わったからだ。普段はそこまできちんと身なりを整えて授業を受けることはない。これでも、彼は頑張っておとなしく我慢している方だった。
 メンキーナは王子の言葉に幾分腹を立てて答えた。
「滅相も無い! きちんと生きておられます! わがままを言っていないで、早く」
「はああ、遠路はるばる花婿が会いに来てやったというのに、挨拶一つ、愛想もねえや」
 実際のところ、姫が長期滞在中の来客と一度もあうことなく、手紙もよこさないのは無礼だった。ウルフェウスはただの客ではない。彼女の婚約者なのだ。無礼もこの上ない。
 だが、彼は戦地で流れている自分の浮名も知っていたし、彼女に疎んじられていることは理解できていた。普通の女ならあえて選ぶことのない部類の男のはずだ。婚約を覆したいと思っているならば、こんな風に来客を無視することもあるだろう。姫の態度は徹底していた。彼を疎んじていることは明白だ。
 ここまでわかりやすい態度をとるならば、王子としてはその無礼に対して、婚約破棄を王に申し出て帰ってしまっても許されるだろう。ウルフェウスだって、訳のわからない女と生涯を共にするなんて、真っ平御免だ。
 それでも、愚痴を言いたくなったのである。
 彼女を一目も見ることなく、この国から出ていくのは腹が立つ。婚約を覆すとしても、その顔ぐらいは絶対に見てやると、半ば意地になっていた。
「王子、いい加減になさいませ。そろそろ舞踏をはじめましょう。一番簡単なワルツを」
 メンキーナは無理やり授業を始めようとしたが、王子はそれを無視した。
 彼は退屈そうにカウチソファーに横になり、続ける。
「ふん、男女が手をとり、くるくる回って、一体全体何が面白いのかを言ってみな。俺は服を着た女なんか興味ねえ。ホールで抱くより寝室で抱くぜ」
 婉曲なものの言い方を知らない少年である。しかも、その表現はあけすけで品がなく、しかしながら事実を実直に表現していた。
 王子は姫と結婚するためにこの国にやってきたのだ。優雅にダンスを踊るためではなく、二か国の関係を深めるために、血縁になるためにやってきた。ずばり言えば、この国の後継者にヴァルヴァラの血を入れるためにやってきたのだ。姫と子を作ることが彼に課せられた仕事だった。
 しかし、普通の王子ならば、それほどわかりやすい表現をしないだろう。
 メンキーナは驚いて真っ赤になってしまった。そのまま、彼女は怯えて、王子の傍から遠のいた。女として自分の身に危険を感じたからだ。彼女はそのまま何も言えなくなり、王子の機嫌をうかがった。
 ウルフェウスは瞳の端でその動きを見て、ふんと鼻を鳴らした。王子の寵愛を恐れる侍女の態度を見て、さらに機嫌が悪くなってしまう。メンキーナは既婚者だ。夫を愛しているに違いない。彼女の態度もはっきりしたものだった。
 そんなに自分は女に嫌われるような男なのか!
 部屋に控えていた執事のフィスが王子の傍にやってきた。年配の執事は穏やかに笑って、空気を和らげた。
「ホホホ、お懐かしい話題でございます。わたくしも遥か昔にご婦人とそのように遊んだ記憶がございます」
 メンキーナはまだ顔を赤くしていたが、すがるような目で執事に後を託した。この手の会話は男性に任せるに限る。従者のケタルもメンキーナを慰めるように傍に来て、無言で下がるように伝えた。
 王子は一度、きつい目つきで彼らの動きを制した。沈黙の中、彼はもう授業を受ける気をなくしたようで、折角縛った髪を片手で解いた。長い黒髪がばらけるように流れ落ち、彼はその髪をかきあげながら口をひらいた。
「アリシアの部屋は何処だ?」
「雲の上にございます」
 フィスはにやりと笑って、言葉を濁してしまう。老獪な紳士の表情を見て、王子も話を終えた。本当に、雲の上に姫がいるわけがない。ただ、その言葉は執事の決意を示していた。姫は雲の上にいるのだ。つまり、あわせられない、ということだ。執事からは何も情報を引き出せないことがわかった。彼を脅しても無理だろう。
 柔和な男ではあるが、フィスは態度を覆すことがない。姫だけでなく、王族を守るために、最も身近で働いている人間なのだ。彼は剣を持たずして、最強の心を持っている。要求をむげに突っぱねられてしまったが、フィスの態度はすがすがしく感じられた。彼のような男が傍にいるならば、この城は安泰だと思った。
 それで、王子は気分を直し、気もちを入れ替えた。
 そういうところはさっぱりしていて、この王子の良いところだ。
 遠ざかってしまったメンキーナを手招きして「ダンスを教えろ」と呼ぶが、侍女はもう泣きそうな顔でしゃがみこんでしまっていた。彼女は彼の傍に行ったら襲われるのではないかと考えて恐ろしくなったのだ。見た目は美しい王子だが、口を開くとガサツで品がなく、態度も粗野だ。傍に行くと男性の強さに振り回されてしまう。
 ウルフェウスは部屋の中央へ行き、イライラしながら待っていた。が、メンキーナがいつまでも傍にやってこないので、フィスが「では、私が」と言って、王子の手をとった。
 おじさんとくっついて踊っても面白くも無い。いや、むしろ不愉快だ。王子は嫌気が指して「いや、いい」とやんわり断るが、フィスにリードされて踊り始めてしまった。
 意外にも、この執事は強引だった。拒否したくても、彼の腕からは逃げられない。がっちりとホールドされてしまっていた。昔、彼に遊ばれた婦女はこんな風に強引に口説かれたに違いない。二人でぎこちなく踊っていたら、扉が開いて男性の従者が二人入ってきた。
「王子、ご機嫌麗しく」
「あ、これって女のステップじゃねーか?」
 ウルフェウスは従者を無視して、真っ青になった。フィスにリードされ、王子が女性のステップで踊っているのだ。こんなダンスを覚えても、当日は何の役にも立たない。
 フィスはのんびりと微笑んで答えた。
「はい、わたくしは男性のステップしかわかりませんので」
「俺は男だ。当日、俺に誰と踊れというつもりだ」
「王子!」
 無視された従者がたまらずに大声を上げる。
「何だい! 今忙しいことが、見てわからないか?」
 王子は動きを止めて従者を叱りつけた。従者はかしこまって膝をつけてから、口を開く。
「昼食の準備が整いましてございます」
「はー、長い授業だったぜ」
 ウルフェウスは少しほっとした顔で、執事に目で合図をする。彼の傍から離れて執事は軽く頭をさげた。王子はそのまま部屋を出てしまう。メンキーナが慌てて「私はまだ何も教えておりません!」と叫んで追いかける。フィスも「ホホホ」と笑い、王子を食堂へ案内しはじめた。
 食堂へ向かいながら、メンキーナがヒステリックに王子をなじったが、彼は耳に指を入れて聞こえないふりをしている。廊下を歩きながら、彼は話す。
「今日の昼食の内容は?」
 呼びに来た従者が怯えた顔になった。びくびくしながら言葉を選び、ぼそぼそと答える。
「肉のつ、詰め物と野菜のスープ、野禽の煮込み、珍しい海鮮だしを用い」
「パン」
「は、はい、パンとデザートと……少ないのでしょうか?」
 彼らは王子の反応を見て息を潜める。ウルフェウスは「毎日豪勢に食う」と笑った。従者たちはほっとした顔になり「そのように調理場へ伝えます」と話を終える。
 王子は表情を変えることなく穏やかな笑みを浮かべた。彼は常に見られていることを感じていた。長期滞在中の他国の王子を気遣って、普段は出さない貴重な食品をふんだんに用いているようだ。それは国防上の配慮もあるだろう。
 だが、ザヴァリア国とヴァルヴァラ国の貧富の差は歴然としている。王宮の食料庫がどうなっているのか気になった。王族の食事も市井とあまり変わらないはずだ。質素なのはよいが、兵糧攻めにあったら何日持つのだろう。十分な蓄えがあるようには思えない。
 彼が婿入りしてこの国に入ったら、すぐに隣の大国に襲われるかもしれない。その時、十分な兵站を用意できるだろうか。この国の兵を何日生きながらえさせることができるのか。それは兵法で習う最も初歩の下準備だ。
 ウルフェウスは執事に話しかける。
「……なあ、後で地政学の授業を受けたい。教師を呼んでくれ」
「熱心でございますね」
「うん、この国について知りたいことがたくさんある。本当は早く学びたくてうずうずしてるのさ。地政学の次は経済、兵法、外交論……いや、農学が先だ。あ、軍の関係者も呼んでくれ。もう贅沢な接待にも飽きてきた。外出もしたい。乗馬がダメならそれでもいい。うるさい護衛をつけてもいいから、そろそろ市の視察ぐらいさせてくれ」
 既に、王子の頭の中には、自分がこの国に来てからの統治のことがあった。何も知らないことが不安でならない。ウルフェウス自身は結婚相手の姫が美人であろうとなかろうと、そんなことで浮かれてはいない。祖国で分析していたこの地方の情勢は知っている。彼は、既にこの国を取り囲む厄介な政治を見通していた。やるべきことは山積みだ。
 現世王の在位中に政治基盤を理解しておかなくては、国が路頭に迷うことになる。
 王子はにっこり笑ってフィスを見る。フィスは相変わらず穏やかな笑みで考えを巡らせた後、小さく頷いた。厳かな顔で頭をさげ「かしこまりました」と答えた。
 メンキーナはおどおどして、主の後ろを歩いていた。ウルフェウスは静かになった彼女に気がついた。メンキーナは少し怯えた顔になって、彼から目をそらす。
 また、彼女をおびえさせたらしい。王子は苦笑いしつつ、彼女に話しかけた。
「どうした? 今度は何が問題だ?」
「いいえ……ただ、舞踏の方もそのぐらい熱心にやっていただけたらと」
「そうか、わかった。明日は真面目にやるぜ」
 ウルフェウスは珍しく優しい返答をして、食堂に向かった。
 メンキーナは妙に緊張して王子の後を追う。
 一瞬、彼の背に流れた気配は痛々しく、張り詰めていた。ヴァラヴァラから来た王子なのだと思い出す。厳しい政治の世界が彼の頭の中では展開されている。難しい学問をあえて学びたいという王子はやはり只者ではない。彼のことを見直したが、同時に彼の存在が恐ろしくなった。王子が本当にこの国にやってきたら、平和だった今までの生活が全て変わってしまうのではないか、と。
 この時に感じたメンキーナの予感は的中することになる。
 食堂に向かっていたウルフェウスは、その途中、噂話を聞きつけて目の色が変わった。
 ヴァルヴァラから帰国するはずのザヴァリア国の大使の到着が遅れているという。月末の舞踏会の準備をどうしようかと噂していた侍女らを睨み、王子は「何事だ」と声を出した。思いもよらず突然かけられた王子の声が、あまりにも冷厳だったために、侍女たちは無意識に膝を折ってひれ伏してしまった。
 彼らは、理由はわかりませんがと前置きして、大使の到着が遅れていると話した。天候の不順か、大使の病か、何が起きているのかわからない。しかし、大使という職業は外交を反映する最もよい象徴だ。彼が期日どおりに到着しないときは、何か問題が生じたという証なのだ。
 王子はのんびりした空気を一変させ、足早に王のいる食堂へ向かう。その横顔はもう別人のようだった。突然、がらりと変わった彼の空気に怯え、フィスですら言葉を発することができずに戸惑った。ケタルが主を守るようにして、すぐに追いかけた。彼らは緊張気味に王子に寄り添い、彼を守る。
 その中で、メンキーナは無意識に両手を組んで祈っていた。王子の背中からは険しい戦の気配がした。自分たちはそれをこれからずっとこの位置で見ることになる、と覚悟した。

next