二輿物語


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21 姫の変容




 王子の出立から二日。
 アリシアは自分の侍女が誘拐されたと気づいて、動揺していた。
「無事でいて、セレナ」
 セレナの安否が心配で居ても立ってもいられない。姫はウロウロと部屋を歩き回り、悲しそうな顔をして窓辺に向かう。
 可愛がっていた侍女の不在に気が付いたのは、昨日の夕方のことだ。姫の衣装を担当している彼女がいつまでも部屋に来ないので、怒った侍従長がセレナの部屋に押し入ったが、不在。衣装係たちが働いている仕事部屋を片っ端から覗いたが、不在。侍女たちが休憩に使っている食堂でも、不在。セレナが内緒で使っている屋根裏の物置部屋も、不在。
 ようやく、侍従長は異常な事態が起きていると感づいて、侍女が行方不明になった、と姫に報告した。城の中から彼女が突然消えるなんて考えられなかった。その後、彼らはセレナが井戸に落ちたか、崖から落ちたか、屋根に上って降りられなくなったのか、と城内を探し回る。どこかで寝てるんじゃないのー、と他の侍女たちがぼやくのを聞きつつ、姫は別の衣装係からドレスを受け取り、彼女の無事を教会で祈ってから就寝した。
 翌日にはセレナは戻っていると信じたかった。
 だから、いつもより早起きして、着替えるために再び彼女を呼んだ。セレナにいつも通り服を持ってきてもらいたかった。何事もなかったような笑顔で。
 だが、事実は厳然と変わりなく目の前に示された。
 彼女はそこでようやくはじめて事実に向き合ったのだった。
 セレナは一晩中自分の部屋にも戻ってこなかった。同室に暮らしている侍女が泣きながら、姫に異常を知らせた。次いで、衣裳部屋からドレスが一着消えていたことを、衣装係から聞かされる。セレナは姫にそのドレスを見せに行ったはずだといわれて、姫は首を横に振る。その日は一日、彼女には全く会っていない。衣装係たちは泣きそうな顔でセレナの身を案じた。彼女はどこへ行ったのか、と。
 彼女は何に巻き込まれたのか。
 できたばかりの新しいドレスを抱えて、どこへ消えてしまったのか。
「誘拐されたのではないでしょうか……王子の祖国からいただいた、あの煌華織という織物は、城下では人気がございます。類似品でも高い値をつけて取引できるそうで、商人たちがあの織物の切れ端を巡って、城内で衣装係たちから布を奪うことがあるそうです」
 侍従長がものものしい口調でそんなことを伝えた。アリシアは煌華織という織物のことなんてすっかり忘れていた。王子から贈られた工芸品だったが、彼女はそれらにはまったく手を付けなかったし、興味もなかった。
 彼の贈り物が原因で、セレナが事件に巻き込まれたのか。
 アリシアはぐったりした様子でバルコニーにもたれて泣き始めた。あの王子の存在が恨めしくて堪らなかった。何もかも彼のせいで狂ってしまう。平和な時間を奪われ、親しい人たちを奪われ、心を傷つけられる。あんな織物をもらわなければよかった!
「どうして彼は……私から全てを奪うの?」
 悔しくて哀しくて腹が立った。今までの平和な生活は全て壊されるかもしれない。不安でどうしようもない。彼女は恨みがましく王子を呪って、彼なんかいなくなればいい、と強く願った。
 それは単なる八つ当たりというものだが、恐ろしいことに、彼女の勘はそれほど間違いでもなかった。この時、姫はまだセレナを誘拐した犯人がその厄介者だとは知らなかったが、宮廷は王子のせいで大きく動揺している最中だった。今まさに、王子の呪いを一番に被っている被害者は、ザヴァリア王である。王は予想外の出来事に青色吐息だ。
 ともかく、ほどけかけていた姫の心も、再び固く閉じてしまった。
 姫にとって、今のウルフェウスは単なる記号に過ぎなかった。城内のどこかに滞在しているには違いないのだが、まだ見たこともないし、話したこともないし、触れたこともない。それを生きている人間とはまだ認識できないのである。彼に共感すべきところがまるでなかった。そして、自分が被る被害のほとんどは彼から派生している。迷惑、という言葉一つで表現できる存在だ。
 昼近くになって、ようやく姫は事実を知らされる。その頃には、宮廷内で不穏な空気が漂っていることに多くの侍従たちが気づき、それぞれが自分たちの主に報告をいれているところだった。当然、姫のところにも、城内の異常な事態が知らされた。
 平和だと思っていたこのザヴァリア国で、軍が動き出したという事態だ。
 扉が開いて侍女と教師たちが入ってきた。彼女たちは泣いている姫の姿を見つけると、慰めるために傍に来た。
「姫様、セレナのことは王に任せましょう。もう軍部が彼女を迎えに行きました」
「何ですって? 軍ですって? どうして? セレナは何処に居るの?」
 アリシアはびっくりして彼女たちを見る。侍女たちはちょっと言いよどんだが「王子と共にミタルスクへ」と答えた。アリシアは言葉を失ってめまいがした。
 彼はそこまで非常識だったのか!
 自分の侍女が、この国にとって最も危険な国に、最も危険な人物と共に連れて行かれてしまったのだ。アリシアは全身から力が抜けて静かに涙を流した。もう生きてセレナに会えない。王子と共にセレナも殺されるだろう。
 アリシアは気がついたら立ち上がっていた。
 絶望も極まると居直るものである。彼女は「どうしたらいいの?」と言いながら、部屋を出て行った。姫が勝手に部屋を出ることは普段なら許されないことだ。しかしながら、舞い上がっていた侍女たちは、アリシアを見送ってから「きゃあああ」と悲鳴をあげた。あまりにも普通に姫が走り出て行ったので、普通に見送ってしまったのである。用を足しにでもいくのかしら、と。だが、そんなことはありえない。
 姫は一人で軍事施設へ走っていった。
 セレナはアリシアよりも年下の侍女だ。彼女が殺されるさまを想像したら、耐えられなかったのである。妹のように可愛がっていたし、二人でドレスの話をしているときはとても楽しい時間を一緒に過ごした。セレナが殺されるなんて、耐えられない。
 守りたかったのである。彼女を。平和な時間の思い出を。
 誰が頼りになるだろう。父も母もあの王子に振り回されているだけだ。自分が愛した時間と平和を守れるのは自分自身の力だけなのだ。セレナを助けられるのも、自分だけ。自分自身が動かなくて、自分の望む未来を手に入れられるわけがない!
 普段走り慣れぬ彼女の肉体は、すぐに悲鳴をあげた。衛兵たちは深窓にいる姫の普段の様子を知らなかったので、息を切らせてよろめいている女性を見ても、病気の侍女が水を求めて歩いているようにしか見えなかった。いつもなら正装して部屋の外に出て行くのに、その日は髪も結わずに室内着のままだった。彼らの目の前を横切り、姫は城外へ向かう。
「誰か!」
 アリシアは柔らかい下着のような室内着のまま、施設に飛び込んだ。荒くれ者の多い軍事施設に入るなんて恐ろしいことだと思っていたが、もう構っていられなかった。
 兵士たちは既に王子の例があったので、非常にかしこまって丁寧に応対した。極めて紳士的に振舞って、あられもない格好でやってきてしまった姫から視線を外す。美しい女に見えるが、浮かれて彼女を口説こうものなら後でどんな懲罰があるやら。首が飛ぶかもしれないと怯えつつ、その正体を想像する。女に化けた貴人だったら厄介だ。
 普通の乙女はここには来ない、絶対に。
 姫は断崖絶壁の中に彫りこまれた施設のどれが目指す場所なのかを理解できぬまま、橋を渡り終えてすぐ、その場にいた兵士に怒鳴った。
「今すぐに、私を、ミタルスクへ連れて行きなさいっ!」
 彼女にとって、兵はどれでも全て兵である。命令を遂行してくれる人ならば、誰でもよかったのだが、兵士たちには厳しい階級がある。彼らは戸惑いつつ、仲間内でさっと目を配って、自分の上司に人を走らせた。
 上司の判断を待つ間、彼らはなだめるようにこの女性に話しかけた。
「恐れながら、ご婦人」
「私はアリシアです。ザヴァリア国の第一継承者よ! 控えなさいっ!」
 兵士らはその一言で諦めた吐息をついた。城の中でどんな政局の変化が起きているやら、一兵足には皆目見当もつかないが、また、王族、である。ウルフェウスの例があったので彼らはそれほど驚くことなく、控えたまま先を続けた。
「はい、アリシア姫殿下。恐れながら進言致します。ザヴァリア国とミタルスク国は今、非常に緊迫した情勢でございます」
「そんなことは知っているわ。王子とセレナがかの国へ向かったというのは本当なの?」
「セレナ、ですか。えーと……はい、おそらく」
「では、私も連れて行きなさい!」
「しかし」
「反論は許しません! 命令ですっ!」
 ぴしゃりと言ってアリシアは兵士を睨んだ。感極まった彼女はそのまま泣いてしまう。涙が次から次へとこぼれていく。兵士たちは困った顔で控えていた。彼女は「どうして行かせてくれないの」と弱々しく声を絞り出す。誰も自分の言葉を聞いてくれない。第一継承者という言葉は上辺の飾りだ。自分には何一つ動かせない。
 その事実にうちのめされて、彼女は泣いた。自分の侍女すら助けに行けないなんて。自分は何のために王位継承権を与えられているのか。何のためにこの国に殉じて我慢してきたのか。侍女一人ですら助けられなくて、何が王か。何のための国か!
 そんな国のために、もうこれ以上、何も犠牲にするものか。
 控えている兵士には姫の涙は見えないが、周囲には兵士が集まってきて青ざめた。姫の泣き顔を見て、彼らは胸をうたれてしまった。兵士たちは神妙な面持ちで彼女を見ていた。人の噂越しに聞いていたアリシア姫は高飛車な女だったが、目の前で侍女の安否を案じて泣く女性は非常に心優しい乙女に見えた。
 アリシアは涙の溢れた目で彼らを睨み、決意した。何が何でも一人でも行くと言い、施設を出て行ってしまう。誰の助けもいらない。もう誰にも頼らない!
「私しか、セレナを救えません! 私しかできません、私にしかできませんっ!」
 絶対に彼女を連れ戻す!
 兵士たちは大慌てで姫を追いかけた。馬の鳴き声を聞いてそちらへ向かった姫を押し留め、何とか説得を試みたが、姫は歩いてでも行く覚悟だ。兵たちに呼ばれて出てきた将校は、事態を知って王に連絡を入れようとしたが、突然、姫が綱を握って馬の首を引いた。
 その行為に驚いた馬が走り出してしまう。姫は馬の動きを引き留めることができずに、転んで足を地面にすられ、血が流れる。それでも、彼女は歯を食いしばって綱を握っていた。彼女の衣服が破れ、足から血が流れるのが見えた。
 突如、兵士たちが身分も階級も関係なくあわてて走り出した。彼らは我先にと競うようにして、暴れ馬を止めに走る。誰が命じたわけでもないが、彼らは姫を救うために、飛び出したのだった。
 すぐに馬は止められたが、アリシアはセレナの名を呼んで地面に伏せてしまった。彼女は自分の無力さ加減に嫌気がさして、そのまま倒れ込んで泣いていた。
 自分の身を呈しても侍女を救いに行こうとした姫を見て、数人の兵士が「自分が共に参りましょう」といい始めた。この女性が未来の主になるのだ。彼女が部下を想うあたたかい心に感動したのである。将校も困った顔でそれを黙認してしまった。
 誰が彼女に逆らえただろうか。彼女の願いは、臣下が叶えるべき将来の目印だ。
 有志の兵士を十数名得ることができて、彼女は国境の町へ向かうことになった。
 彼らは馬に乗り慣れぬ姫のために、輿を用意してゆったりと進もうとしたが、アリシアは「私も馬にのりますから、急いでください」と頼んだ。兵士の一人が姫を抱いて、馬を走らせることになった。しかし、兵士は恐れ多くて彼女の腰を抱くことができず、姫は鞍にしがみついて落ちないようにしていた。一日たつと体中が痛くなってしまう。
 旅中、彼女は彼らから乗馬を学び、ようやく一人で馬に乗れるようになった。手綱を誰かに引かれなくても、馬を制御できる。そのことに姫は興奮した。生まれて初めて、自分の行きたい方向へ自分の力で、いや、馬を操って、進むことができたのである。
 西にあるミタルスクまでの道のりは約半月。
 彼女たちは追いつくだろうか。あのウルフェウスに率いられた強行軍の素早さに。

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