二輿物語


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23 強行軍




 カプルアからミタルスクの国境までは、半月はかかるという。
 たしかに、以前、ウルフェウスはそのぐらいの速度でこの国の中央へ向かった。馬の綱を引いて歩きで、山で食べ物を探しつつ、周囲をぶらついて観察しつつ、民と楽しいおしゃべりなんかもして、ゆったりと農作業なんかも手伝いつつ。
 ウルフェウスはカプルア城を出てすぐにこの事実を告げられ「バカか!」と叫んだ。
「俺は普通に旅がしたいわけじゃねーよ。王宮から国境まで、伝令を伝えるまでに何日かかるって? てめーらっ、この国を滅ぼすつもりかっ!」
 そして、彼は怒りのあまり手を動かしたが、帯剣もせず女装していたことに気がついて、舌打ちをした。首筋がひやーっと冷える一面である。彼が剣を持っていなくてよかったと多くの兵が安堵した瞬間、王子は苛立たしげに「御輿を壊せ!」と命じた。八つ当たりか、と周囲が怯えたが、彼はそれを分割して馬に乗せるように指示をする。つまり、国内を馬で駆けるつもりだ。
 王子はカプルアから半日西に進むと、早々に宿をとって足をとめてしまった。部下に非常食と水を買いに行かせつつ、兵が持っている地図を奪って進路を計算する。
 ウルフェウスが宿泊した街から、国境まで直線距離を計測し、簡易コンパスで日数を割り出した。ザヴァリア国内を旅して、街道とその周囲の村の様子は理解できている。馬の速度はヴァルヴァラ帝国内の石畳の道路より落ちる。むき出しになった土は雨が降れば、馬には過酷な路程となる。翌日の天候と山岳の地図を考察して、実際の速度を予想した。
 国内に点在している軍事施設の場所を確認し、その宿営地にある馬の数を兵士から聞くと、夕方に天体観測を終えて、彼は出発時刻を決めた。
「仮眠を取ったら、日が昇る前に出るぜ! 水は飲むな! 今晩の飯は抜け」
 そして、美しいドレスを脱いで侍女に渡すと、ほぼ丸裸で就寝する。
 翌日は男性用の下着一枚を身につけて馬に乗り、騒ぐセレナを一喝して抱き上げると駆け出してしまった。兵士たちはいつもより早起きして馬の準備を始めていた。それでも彼の動きには追いつかない。しかも、王子はふり返ることがない。彼の姿を見失いそうになって、彼らは青ざめた。各自が自分の荷物を抱え込み、慌てて馬に飛び乗る。
 早朝に駆け出したら、もう日が傾くまで止まらない。馬が悲鳴をあげても、蹴倒して前に進ませる。見るまに兵士の体力が尽きて、脱落していった。王子を守る兵はほとんどいなくなってしまっても、彼は止まらない。
 軍事施設は馬の進む距離に応じて、設置されている。だが、彼はそれを飛び越して走って行った。馬に水を飲ませて休ませることもほとんどしない。
 案の定、初日で彼を乗せた馬はばててしまった。
 軍事施設で新しい馬を補給すると後続の兵士を待つことなく出発する。その施設にいた警備兵が「後続を待ってください!」と叫んだが、ウルフェウスは「後続の兵もここで止まらせるな、夕立が来る!」と叫んで出て行った。
 その日、飲まず食わずで王子についてきた兵士たちは、一日で音を上げた。
 だが、辿りついた軍事施設で、その話を聞いた兵士の中には闘争心を掻き立てられる若者もいた。噂の戦好き王子の実力を試してやろう、という。どれほど速く馬を走らせるのか。騎手が変わったところで、馬は馬だ。大した違いはないだろうと思ったのである。
 その夜の指示も「水を飲むな、飯を抜け」だったが、ウルフェウスの身を心配した将校が馬上でも食べられる軽食を徹夜で部下に作らせた。兵士らは翌日に使う馬の支度を寝る前に全て整えておいた。
 未明、兵士のほとんどが入れ替わっていたが、王子は「行くぞ」と声をかけただけだった。前日と同じくほとんど裸のまま、部下をふりかえることなく、飛ぶように駆けだした。
「ィイィーッハァ!」
「ヤアッ……ハッ、ハッ……ハイーィッ!」
 兵士らは勢いよく彼を追いかける。ウルフェウスはついてきた兵の速度が昨日とは段違いに早くなっていることに気がつくと、にやりと笑った。彼はセレナを抱いたまま「イィーッハァ!」と掛け声をかけて馬を蹴り、彼らを引き離す。セレナは舌をかみそうで黙ったまま彼に抱きついていた。だが、彼は服を着てないので、つかまる場所もない。しかも、動きだせば汗が出て、肌が滑る。ふりおとされそうになって青ざめていた。
 前日に降った雨の影響から、馬の脚に泥がはねる。だが、彼らは人の通らない農道に飛び出して進んだ。普段人が歩かない道は、細かい雑草の根が地面を硬く締めていた。柔らかいスポンジのように馬の脚は沈んでしまうが、土ほどの重みはない。
 農民が畑に出てくる前に「ルロロロロ」と口笛を吹いて警告した。兵士らは一列になって王子の背中を追いながら、彼の口笛を真似て吹き鳴らす。夜明け前の騒音に、農民が慌てて灯をつけて外に出てきたときには、馬群はもう風のように消えていた。
 月明かりで葉の滴が照り輝く。陰影に浮かび上がる銀色の道の形を見極め、彼らは音を頼りに前に進む。やがて、朝日が登ってきた。
「ハアッ、ハッ……イーッハーッ! ハイーィ!」
 兵士たちの掛け声はより高くなり、まばゆい光の中でスピードを上げる。地方の巡視に使われる馬は普段兵士たちに鍛えられているのか、反応がいい。ウルフェウスは自分の体で、兵士らの活動を知る。普段から馬をどのように鍛えているのか、と。
 だが、真昼をすぎると馬も兵士も体力が落ちた。ウルフェウスは軽食をかじりながら、後続をふり返る。ほとんど誰もいなくなっていることに気がつくと、苦笑いした。
 腕の中では侍女が気絶していた。彼女の体を抱える腕もしびれてきた。だが、王子はその体を荷物のように脇に抱え直して、先を急いだ。馬の息切れが耳に聞こえてきた。速度を調整しつつ、歩調を整える。完全には立ち止まらせない。急いたり、速度を落としたり、木陰と日向の道を交互に進んで体温を冷ます。素肌に感じる感覚は彼らと同じ。
 馬が苦しいときは、強く脇を挟んで彼らを抱くようにして叩いた。
 膝に彼らの脈の激しさを感じる。一体化して、その苦しみを分け合った。一日中駆ければ、彼自身も脱水症状に陥ってめまいがした。水をとるのは、馬を交換する休憩時だけだ。わずかな時間に体を冷やすための水を自分と馬の体にぶつけるようにかけて、彼らと一緒に水の中に顔を突っ込んだ。
 その場所でも兵に「後続を待って」と言われたが、彼は「後続も止まらせるな」と叫んで、新しい馬と共に飛び出した。
 馬も人も入れ替わったが、王子についてくる兵の顔は徐々に安定してきた。馬術に優れた兵は彼にしがみつくようにして追ってきた。彼らは数日間随行して、王子を理解し、彼のように鎧を脱ぎ、軽装になって馬の速度をさらにあげた。自分自身の重みをさらに減らすために食事と水を制限しても、音をあげなくなった。その日が終わるころになると、宿営地についてから王子が背後をふり返れば、数人の馬が見えるまでになる。
 国境に着いたとき、中央のカプルアからはまだ何の知らせもついていなかった。王の指令も何も。ウルフェウスは国境際で止められることもなく、その兵士たちをつれて異国に入った。数日間の強行軍で一体感を得た彼らも、王子から離れがたくなっていた。王子に求められるがまま、理由も問わずに任を受けたのである。
 ミタルスクに入ってからの王子は、再び女装することになる。乗馬を終えて引き締まった体は、女性用のドレスもすんなりと入ってしまった。余分な肉をそぎ落とした彼は、侍女に命じ、ドレスの紐を結び直して再び調整させる。兵士たちはそこで初めて、この王子の美しさに気がついて度肝を抜かれたのだった。


 ミタルスク国内。
 通行書を再び金で買い落としたウルフェウスは、ひたすら長い道を進んでいた。この国に入ってからの行程は、それまでとはうって変わってのんびりとしたものだ。早駆け馬に慣れず、遅れていた男もミタルスクに入ってから順当に王子に追いついた。紋章鑑識官はよれよれになって一人で国に入り、王子を探し当てた。彼が最後に到着した部下だ。
 皇太子がいるという都の情報をつかむとまっすぐに向かった。
 ザヴァリア国とは違い、街道沿いに都までの概算日数と距離が数字で表示されている。国外から来た旅客は、はじめてでもこの国では迷わないだろうと思った。
 旅中、輿の上から国の視察を行う。今まで、ヴァルヴァラからこの国へ入ったものは誰もいない。王子は目を輝かせていた。誰も知らない国の、誰も見たことがない光景。
「でっけー国さぁ……これは戦わんほうが身のためだぜ」
 ミタルスクの国土を自分の眼で視察した王子はニヤニヤ笑ってそう言った。
 広大な自然はなだらかで、人の住む余地がたっぷりとある。かつてその土地はザヴァリア国のものだった。だが、ミタルスクになってから急速に環境が整えられたのだろう。まるで違う国に来たようだった。国境際に住む農民たちの畑も豊かに苗が成長している。
 人々の顔も穏やかでやさしい。彼らが生活を楽しんでいることが分かった。この国の豊かさを民の顔色で知る。飢えているものは誰もいない。年老いた老婆ほど太っている。
 街に入れば、市は今まで見たことが無いほどの規模で広がり、あらゆる品々がそろう。物を売る商人の人種もさまざまだ。見たことのない肌色の人間が、見たことのない服を着て、見たことのない商品を売っている。
 ウルフェウスはソワソワしながら、御輿から顔をのぞかせて、通り過ぎるこれらの商品を見た。疲れて眠っているセレナをつつき「おい、あれを買ってこい」と急かす。セレナはぐたっとした様子で旅の疲れをひきずっていたが、彼は憎らしいぐらい元気だった。
 御輿は結局、天蓋と紋章の入った数枚の板しか持ってこられなかった。国境で担ぎ棒を新調し、板を架け継いで作り直し、国境警備兵たちの衣類を割いてセレナがクッションを作った。その作業でセレナはものすごく疲れていた。王子につつかれても知らん顔である。
 天蓋の周囲に顔を隠す薄手の布を張り、八人の兵士が交互に担ぐ。途中、ランファルに言われてラヴィアル国の物品を買いそろえ、彼らのために異国風の衣装まで作らされている。セレナは揺れる輿の中で、細かい作業を続けて酔ってしまっていた。
 周りに長いローブで姿を隠している兵がいた。彼らは王子に話しかける。
「王子……いえ、失礼。えー、姫」
 ウルフェウスは一瞬、ムッとした顔になったが、諦めた顔で答えた。
「妙な気分だぜ。何だ?」
「もうすぐ都ですが、どうなさいますか」
「まっすぐ王宮へ行け」
「礼儀に反します。今宵は宿を取って身を清め、旅の汚れを落としてから謁見に向かうのが正しい作法です」
「じゃあ、風呂に入ろう。その後、すぐに行く。のんびり泊まっている余裕はないぜ」
 王子は瞳を煌かせてその兵士を見た。彼は頭を下げてから、背後を見る。ローブの隙間からわずかに青い目と彼の顔が見える。ランファルは緊張気味に周囲を見て、他の兵士に浴場を探すように命じた。
 セレナはドキドキしてウルフェウスに言う。
「わ、私が王子の湯浴みを手伝うのですか?」
 セレナはそれまで成人男性の裸体をまともに見たことが無かった。だが、彼がドレスに着替えたとき、その体を見ている。そして、旅中はその体に一日中抱きついていた。彼女は思い出して真っ赤になる。
 馬に乱暴に揺られつつ、汗にまみれた彼の体を力いっぱい抱きしめた。彼の呼吸の乱れも、跳ねるような心臓の音も、熱すぎた滑らかな肌の感触も、彼の汗の香りも全て覚えている。今までそんな風に力強く男性に抱かれたこともなかった。
 セレナにとっては、初めての男性経験、である。不本意な体験ではあったが。
 彼は彼女の迷いを無視して辺りを見ていた。
「風呂屋ってあるのか? 川ならさっきあったけど」
「ひ、姫の体しか洗ったことが無いですぅ。男性は未経験で、下手かもしれませーん」
「は? 洗った? 姫って……ど、どんな体をしてるっ!」
 ウルフェウスは突然、侍女をふり返る。野獣のような彼の目が爛々と光を帯びた。普通の男なら、いや、狩人なら聞き逃せない言葉だ。彼女はどんな体をしているのか!……と。
「……。ひゃああっ、私、普通の体ですぅー」
「あんたの体には興味ねーや。アリシアは可愛い子なのか?」
 セレナは涙目になり、無言のまま真っ赤になって頷いた。ウルフェウスは急に機嫌がよくなる。アリシア姫を想っているのか、少し優しい顔になって侍女に話しかける。
「肌の色は?」
「白いです」
「太ってる?」
「普通です」
「胸は?」
「……二つあります」
「当たり前だろ。三つあったら怖いじゃねーか。お前より大きいのかい? ちょっと見せてくれよ」
 王子はわくわくして「風呂行こう、風呂!」と兵士たちに声をかけた。セレナは真っ青になったが、結局のところは、問答無用で王子は兵士たちと風呂に入ることになった。王子は不満顔だったが、セレナは九死に一生を得た顔で力が抜けたのだった。


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