二輿物語


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25 天使も嫉妬する色男




 広間に入ったとたん、アルダバの眼に美しい姫の姿が入った。彼は一瞬足を止めて、眉をひそめた。金の乙女だと思っていたのに、艶やかな黒髪がヴェールの下に見えたような気がした。肩透かしというか、残念というか、もう急にやる気が失せたという気分だ。
 その女性はしとやかに視線を伏せていた。長い睫毛がきれいに生えそろっている。うつむいているだけでも絵になる美女だ。噂が当たっていたことで、ますます気分が暗く落ち込んでしまった。これは本当にラヴィアルの女だ、と思った。
 皇太子は部屋に入ったとたん、あさっての方向を見て、社交辞令を呟いた。
「もっと早く、私が結婚する前に、あなたにお会いしたかったものだ……どうぞ、もう少しお近くへ」
 口先から流れ出ていく感情のない口説き文句。打てば響く、条件反射だ。美女を見たら、とりあえずは口説くのが英雄の礼儀というものだ。だが、相手を持ち上げたと同時に釘もさしている。もう結婚してるので、あなたを受け入れるつもりはありません、と。
 午後の入射光が窓辺の紅玉に当たり、八つの赤い玉の模様をカンラン石の壁に当てていた。黄金色に歪んだ反射光が珠の色をオレンジ色に変調させる。鏡にその女性の姿が複数映り込み、彼女の動きを一挙手一投足映し出していた。
 かつて、この場所で王は弟に腕を斬られ、腹心を刺し殺された。その後、彼は狂ったようにあらゆる場所に鏡を置いて、刺客を迷わせようと腐心した。血の幻像を消すために濃い緑を植えた。しかし、彼は幻のような迷宮の中に、当時の苦しみを閉じ込めてしまい、二度とこの場所には来なくなった。
 父にとっては忌まわしい場所。兄弟の縁が切れた哀しい場所だ。
 だが、父が残した遺産を通じて姫の姿を確認し、アルダバは別の角度から真実に気がついた。その女性を色んな角度から見ていたら、不意に幻想が破れたのである。皇太子は目を輝かせて、目の前の獲物を捕らえた。女性が好みそうな甘いマスクの顔の中で、野性味のある目がギラリと光を強めていた。天使の眼に野生が戻る。獅子の眼である。
 それは彼の闘争心を煽る獲物だった。ザヴァリアの金よりも価値のある獲物。それはゆっくりと体を起こして、正面から皇太子の眼を捕えた。鮮やかに澄み切った水の色。どこまでも透き通った泉のような清々しさ。
 どこかで見たことのある色だ。
 満月の夜に。
 その人物は従者に導かれて、用意された椅子に腰掛けた。動きは洗練されていて優雅だ。だが、その隙のない足運びは上体がほとんど揺れず、まるで武人のように無駄がない。下腿に重たい剣を持っていた剣士の動きだ。
 いや、持っているのかもしれない――彼ならば。
 その女はウルフェウスだ、とすぐにわかった。
 アルダバの隣で部下がラヴィアルから来たという偽りの名前と出身地を紹介する声がする。だが、そのほとんどを聞き流し、彼はまじろぎもせずに獲物を見つめ続けた。背筋から這い上がる電撃の感触。戦場で体験してきた生と死の狭間のやり取り。
 乱れる戦場の中で、彼を見つけた時の恐怖。
 それは運命の女と同じく、凶悪な共鳴を発生させ、全身の細胞が揺さぶられ、覚醒させられる。恐怖心によって刻まれた記憶は二度と忘れられない。
 アルダバは鋼鉄の鎧を羽織る獅子になり、隙のない笑みを浮かべた。悪魔に面する時は、一瞬の隙が命取りとなるという。あのヴァルヴァラの悪魔がザヴァリアからわざわざ自分に会いに来た。確かに脳天からしびれるほどの衝撃だ。全身を雷に打たれたように。
 政敵となるかもしれない男が丸腰で目の前に座っているのだ。
 この殺意を押さえるのに苦労した。
 乱れる呼吸を整えて、アルダバは手を挙げる。無言で、動き続ける部下の口を止める。部下は手紙を持ったまま、きょとんとした顔で口を閉じる。だが数秒後、微動だにしない主の視線を見て何かを察したらしく、すぐに手紙を丸めて姿勢を正した。そっと控えるようにうつむきながら、後ずさりした。
 アルダバは立ち上がって、歩き出した。
「踊りましょうか? 折角、ここまで来ていただいたのですから」
 相手が承諾する前に、強引にその手を握って引っ張り出した。彼は着慣れないドレスを着ていたせいか、よろけながら広間に飛び出してきた。
 あの悪魔がこの程度でよろめくとは滑稽だ。
 女性を振り回すようにして、彼の腰を抱く。だが、そこに柔らかさはない。腕の中で硬く絞まって動くのがわかる。弾けるように反発する強い肉の弾性だ。被っていたヴェールが落ちると、彼の姿がはっきりと外にさらされた。
 控えていた部下たちが「わぁ……」と声をあげた。腕の中で彼の顔つきも変わった。至近距離で彼の眼を覗き込み、互いに睨みあった。
 優美な女性に見えるが、麗しい絶世の……殺戮者だ。
 戦地でウルフェウスを見たのはいつだったか。あれはまだ幼い子どもだった。
 アルダバは南方遠征の途中でヴァルヴァラ軍と他国の戦いを見た。自分には向かうべき別の戦場があったので、無視して通り過ぎようとしたが、戦場の流れが一気に変わる場面を見て、動けなくなった。右に流れていたものが、突然、左の急流に飲み込まれたような感じだ。平原に散らばる数万の騎兵が渦を巻いていた。
 その渦の中心に光があった。
 月光と共に敵味方合わせて数百の人間が突然、爆音と共に吹き飛んで消えた。鮮烈な光の後、戦場を制する銅鑼の音がしたかと思うと、濁流が一息に遡上を始めた。兵の勢いがまるで違って見えた。爆破で死んだ兵も生きている兵も踏み散らすようにして駆け抜けていく。光が誰よりも早く敵陣へ駆け込み、敵将の首を跳ねる。その軌道に迷いがなかった。
 その冷酷な閃きはまるで純粋な神の呪いのように見えた。
 殺すことが本能であるような。
 美しい瞳を持った少年が敵の首を取って、勝鬨を挙げる。敵に囲まれたまま、勝利を宣言した、その度胸。敵も味方も兵士たちがみな膝を折って彼に屈した。あの少年はきっとまだ成人していなかった。それなのに、その鋭さは他を圧倒する神の御子に見えた。
 彼を見た時の恐怖は忘れられない。混じりけのない澄み切った瞳を。
 今も同じ目をしている。
 アルダバが彼の腰を抱いて振り回せば、その獲物はびっくりして仰け反った。無理やりさらうようにして踊りつづける。
「うわっ……ぁ」
 早いステップでは踊れないようで、彼はアルダバの腕にしがみついた。困った顔で足元を見て、飛び跳ねている。アルダバは足を踏まれて立ち止まった。ウルフェウスはがっかりした顔で「踏んだ」と小さく呟く。悪いと思ったのか、そのまま情けない顔でため息をついた。
 アルダバは急に殺気が失せて、目の前の美人に視線を向けた。冷静に彼の姿を見ることができなかった。だが、改めて見るとおかしくなった。
 なぜ、女装しているのか? 自分は何か夢を見ているのだろうか。
「……ゆったりした音楽の方がよかったか。君は踊れないそうだからね」
 彼は演奏を始めた従者に「もっとリズムを落とせ」と叫ぶ。ウルフェウスは不信感の詰まった顔で、体を仰け反らせた。アルダバは彼の体を両手で抱いたまま答える。
「どうやら危険なものを身につけていないようだ。ようこそ、ミタルスクへ……ウルフェウス・アクエリアス・ヴァルヴァラ第五王子。戦場で一度お見かけして以来、かな? 君の目を忘れられなかったんだよ。お会いできて光栄だ」
 その瞬間、腕の中で大きな反発を感じ、アルダバは彼を封じ込めるように腕に力を入れた。暴れる大魚を腕に抱いているようだった。女の肉体ではこれほどの激しい反応は絶対に味わえまい。
 ウルフェウスは大きく舌打ちして、体を左右に振って逃れようとしていたが、アルダバは彼とグルグル回りながら部下に「閉じろ!」と命じた。部下は扉を閉めて、彼らが逃げられないように囲んだ。
 それでも、彼は諦めない。凶暴な暴れ馬を押さえこみ、力比べが始まる。
「どういう経緯かわからないが『鮮血刃の悪魔』が私に抱かれに来るとはな!」
「な、何のことだか」
「声はもう男のものだ。女の真似は気持ち悪い」
「ああ、そうか!……放しやがれ、クソ野郎っ!」
「君には私の友国が痛い目にあってるんだ。楽しませてもらおう。望み通り、私の床で夜を明かしたらいい……もう二度と目覚めることはないだろうね!」
 ウルフェウスの従者が真っ青になって剣を抜こうとしたが、直後に部下がその男の首に刃をあてて動きを制した。
 アルダバはウルフェウスを引っ張って部屋中を引き回す。腕の中で飛び跳ねるじゃじゃ馬は動きが変化した。それまで大人しく惑う姿は初々しかったのに、正体がばれたとたんに一変した。アルダバの首に片手をまわすと素早く体術をかけてきた。そのまま、首を絞められそうになって、アルダバは逃げた。遠心力を使って振り回すが、もう彼はドレスも構わず、アルダバに飛びついて上半身を足で挟み込み、首を両腕で締め上げる。
 女のような姿に騙されていたが、それは男の力だ。
「皇太子殿下っ!」
 部下が慌てて叫んだその言葉に、息が止まる。皇太子、殿下?
 殿の下に呼ばれてたまるか! あの男の息子でなんかいたくない。
「うおおおっ!」
 反抗心が何かを打ち破って、爆発する。
 首に感覚がない。顔が熱く重くなっていく。アルダバは真っ赤な顔のまま、ウルフェウスを抱いたまま、壁に突進し、彼の頭を壁にぶつけた。ウルフェウスはアルダバの頭に抱きついたまま、首をすくめる。力いっぱい彼の体を壁にぶつけ、ウルフェウスの腕の力が弱まると、その男の首を片手で殴るようにして握りしめた。
 女なら首の骨が折れただろう。だが、その男は瞬間に歯をかみしめ、首の肉が硬い鎧のようになって、衝撃を肉に逃がす。それは戦う男の体だ。体中の全てが彼の武器だ。
 彼の青い目が閃き、憎しみに満ちた顔が間近に見えた。アルダバの顔に素早い拳が入った。口の中が切れたが同時に、もう片方の手で、ウルフェウスの髪を握って顔をのけぞらせる。喉仏が上向きに仰け反って首回りの力が抜けていく。片手で強く彼の首を締め上げるが、反発力が残っている。片手では彼を絞め殺せない。
 彼はうっ血した赤い顔のまま、アルダバを睨み、歯を食いしばっていた。両手で自分の首を締め上げている男の手をつかんで、自分から離そうとしているが、しばらくして唾棄と共に彼の膝が脇腹に入った。アルダバは思わず体勢を崩し、直後、背中に打撃を受けた。
 全くかわいくないじゃじゃ馬だ。
 かわいくないどころか、本気で殺してやりたいほど憎たらしい男だっ!
 彼の腰に飛びついて、そのまま壁に向かって突進する。勢いよく壁にぶつけたら、不意に「いってーっ!」と悲鳴が上がった。腕の中で感じていた彼の硬い筋肉がふっと溶けるように柔らかくなって消えた。
 その隙に彼を殴ろうと拳を握ったが、ふと手が止まった。
 どういうことか、胸を押さえてうずくまっているその姿が女性に見えた。アルダバは拳を握ったまま、その顔を殴れずに戸惑う。
 柔らかい黒髪が乱れ落ち、肩の上を繊細に揺れながら滑っていく。美しい髪を結い上げて止めていた飾りはいつのまにかどこかへ消えている。自分が乱してしまったその姿を見つめるのは、ひどく罪の意識を感じさせられた。何度も、これは男だ、これは男だ、と言い聞かせて殴ろうとするのだが、腕がそこから先に進まない。
 ウルフェウスは胸と背中を押さえて、青い宝石のような飾りを手につかむ。涙目になって、舌打ちしながらそれを投げ捨てる。彼が女性のドレスを着たまま、今までの戦闘をしていたのかと思ったら、急に気が失せた。アルダバが拳を降ろそうとしたとたん、目の端にとんでもないスピードで影が飛んできた。
 あわてて腕を盾に出しながら、しゃがんだが遅い。
 彼のしなやかな黒髪が肩から離れ落ち、ほっそりしたドレスが華やかに舞う。女のように見えてひどく重い衝撃。左肩に受けたと思った瞬間に、蹴り飛ばされていた。
「殿下ぁーっ!」
 休む間もなく真上から振り落とされる、彼の踵が見えた。再び怒りが燃え上がった。
 この男に一瞬の情けも憐憫も不要だ。少しでも許してやろうと思った自分が甘かった!
 両手を挙げる前に、部下が彼の体に飛びついて押し倒していた。部下は槍を手にして、あの悪魔を取り押さえようとしたが、逆にその長い柄を握って動きを制され、あっという間に振り回されて武具を奪われた。強い。噂以上にウルフェウスは戦い慣れている。
 アルダバは壁際に立っていた別の男に叫ぶ。
「槍をっ!」
 その兵士は自分が持っていた槍を皇太子に投げ渡した後、剣を抜く。アルダバは上着のボタンを外して、大きく息を吸い込むと「手出しするな」と部下に言いつけて、あの王子の前に出て行った。
 ウルフェウスは周りに居る男たちを槍で瞬く間に跳ね飛ばすと、身につけている装飾品を引きちぎって床に投げ捨てた。アルダバに向き合って、その穂先を向ける。
 凛とした立ち姿は花のように麗しいのだが。


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