二輿物語


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26 天使と悪魔




 ウルフェウスは手の中にある槍を握りしめ、その重みと穂先までの長さ、柄の硬さを確認する。ゆらゆらと穂先を動かしながら、槍の動きを手になじませていく。アルダバの構えを見て、ミタルスクの槍術を推定した。構えを見る限りでは、突きの攻撃が得意そうだ。動きを見切るのは難しい。皇太子と睨みあいつつ、円を描くように歩いて部屋の様子を見る。
 逃げられる場所はもうない。扉からは。
 ランファルは真っ青になっていた。彼は剣を引き抜こうとしていたが、部屋に居た衛兵に取り押さえられ、動きを止められている。その首に刃が当たったままだ。そのまま人質にして交渉しないところを見ると、アルダバはもうウルフェウスの性格を理解しているのだろう。
 ウルフェウスは部下の命を守るために、目の前の目標を覆すことなんてない。
 戦地では、数えられないほどの兵が死ぬのを見た。部下は死ぬものだった。その中の誰か一人を寵愛しても、次の戦で彼らは勝手に死んでいる。だから、彼は学んだ。
 部下は愛するものではなく、使うものだと理解した。
 失った部下の命の数は、別のもので代替されてきた。敵の首の数。占領地の数、遺族に渡す報奨金の額、憎しみの眼を向けられる回数、石を投げつけられる回数。
 今更、たった一人を救うために動くようなことはしない。
 目の前にいる男を殺せば、ザヴァリアも祖国も、そこに暮らす人たちの安らぎにつながるはずだ。彼に刃を向けたなら、勝たなくてはならない。たとえ、彼を殺した後に、周りに居る兵士たちに八つ裂きにされて殺されても、だ。
 今やるべきは、殺すこと。
 アルダバは女が好みそうな甘い表情の男だが、彼の攻撃は容赦がなかった。その殺意は本物だ。彼はウルフェウスにとって、敵だ。話し合いの余地はもうない。
 ここで殺しておかなくては、ザヴァリア国にとって将来の禍根となる。
 彼も、自分も。いや、生き残るなら、彼か、自分か、だ。
 腹を決めたら、ウルフェウスの体から余分な力が抜けた。ヒールのある靴が邪魔だ。スカートの中で裸足になると、片足ずつ脱いで放り投げる。足の裏に散らばった宝飾品の欠片があたる。一度、息を吐き出した後、勢いよくその上に足を乗せた。足の裏から頭の先まで痛みが走り抜けたが、腹に力を入れて痛みを飲み込む。
 心が鎮まると両手に力を込めて「せいっ!」と叫び、前に飛び出した。
 アルダバは上半身をそれほど動かすことなく、ウルフェウスの攻撃を見切り、わずかな動きで払いのけた。硬い音が槍の先で絡み合う。手の中に帰ってくる強い振動。
 よい材質だ。使いやすい槍。動かしやすい。
 ウルフェウスは戦の最中に、思わず笑みが浮かんだ。手の中にある槍を大きく振って、大きくしなる反動を遊ぶように確かめた。片手で軽々と柄を舞わせ、まるで舞踏のように穂先と共に踊る。槍の重みを完全に自分のものにして、肉体を制御する。
 アルダバはその様子を冷静に見つめた後、足を前に大きく踏み出すようにして、するどく突き入れてきた。その距離は予想外の長さと速さだったが、ウルフェウスは生来の反射神経で少し体をそらせるように上半身をひねると、そのまま、片手で槍を上から叩き落とすようにしてアルダバの肩に打ち当てた。
 アルダバは持っていた柄を引き上げるようにして自分の肩を守り、大きな硬い音が「カン」と高く響いた。王子は休む間もなく、その柄の上を滑らせるようにして槍を動かし、間合いに飛び込んだ。アルダバは穂先をはねあげ、追手から離れようとしたが、ウルフェウスは槍をアルダバの柄に沿わせたまま、壁際まで一気に追い込んでいく。アルダバは途中で背後に気がつき、右足を軸にして立ち止まる。勢いよく押し込んできたウルフェウスと柄をぶつけ合ったが、ウルフェウスはまともに打ち合わず、アルダバの下半身を蹴り飛ばして、皇太子の体勢を崩した。
「はっ?」
 その攻撃は予想外だったらしく、アルダバは体を少し崩したが、ウルフェウスが一度飛びのいて突き入れた時には、長い柄をふって、その攻撃を防いだ。
 アルダバは叫ぶ。
「なるほど、君は槍が」
 話している途中で、ウルフェウスは「はぁああーっ!」と怒気をあげて、アルダバに打ち込んだ。それは剣のように。
 実は槍は苦手だ。揺れる穂先の計算までして、長い棒を操るような繊細さは彼にはない。そのかわり、彼にあるのは打ち込む時の鋭さと、その打撃の強さだ。単純な攻撃にもかかわらず、ウルフェウスの打撃を受けながら、アルダバは背後に下がっていく。槍をふる隙が全くない。
 だが、王子の力量を知ると皇太子はにんまり笑って、攻撃に出た。不意に変化する槍先のスピード。蛇が波を打って襲い来るように、激しい打ち合いの間隙をくぐり、幾度もの突きが繰り返される。はねのけても、はねのけても、柄にまとわりつかせるようにして穂先で小さな円を描き、ウルフェウスの槍を制し、かつ、気を抜けば、一瞬の空いた脇を狙って、正確な突きが入る。
 振り回される槍の動きを手で制しつつ、王子はちっと大きな舌打ちをした。
 アルダバは槍先を動かしながら叫んだ。
「君は余計な動きが多いな! 師匠にそう言われただろう!」
「お前もさっきから、グルグル回してばかりっでっ!」
 指先をすり抜けて穂先がウルフェウスの頬を切った。全く相手にならない。ウルフェウスはふんと鼻を鳴らした後、槍の持ち方を変えた。槍の両端を握ると上下に立てるように動かし、体をくるりと回した。
 ウルフェウスは槍が苦手だが、アルダバは体術が苦手だ。一度やりあえば、相手の得手不得手なんか、すぐにわかる。アルダバが槍を振ろうとするならば、その足を攻撃して体術に持っていくまでだ。揺れる槍を制して盾のようにして使い、アルダバの攻撃を全てはねのけ、足で彼の体を攻撃する。ウルフェウスの攻撃スタイルはくるくると変わっていく。
 これがダメならあれ、あれがダメなら別の攻撃……ウルフェウスを制するには先んじて叩かなければならないが、そのスピードすら常人には追いつかない。相手が彼の攻撃法を理解し、対抗策を講じても、スタイルを変えて防御してしまう。頭脳の回転が恐ろしく早い。
「卑怯だなっ! 君はっ! いてっ!」
「喧嘩のやり方に卑怯も何もあるか!」
「喧嘩! はっ……喧嘩?」
 アルダバは槍を怒涛のように動かしながら、王子を追い詰めるが、ウルフェウスは槍を握ったまま、軽々と飛び歩いて華麗な足技で皇太子の槍を踏みつけてしまった。
 人間の体重が乗るとは思っていなかった皇太子は、一瞬青ざめた後、ウルフェウスを見た。その冷酷な王子は皇太子の顔を目がけて、槍を思いっきり振った。
 どんな体勢からも攻撃を繰り出せる。肉体制御のバランスは王子という立場に似あわず、傭兵並みに優れている。その素早さに思わず、皇太子は槍から手を離して仰け反った。穂先はアルダバの目の前を通り過ぎ、王子はちっと舌打ちしながら、一度、力を流すようにしてその場でくるりと回る。
 即座に、皇太子の体に向き合うと同時に一歩踏み出して、突き入れた。速度は予測不可能なほどに変幻自在だ。アルダバは冷や汗をかきながら、体をそらすしかなかった。生物的な反射だ。
 アルダバの上着に穂先が刺さり、皇太子は両手を挙げながら叫ぶ。
「もう……勝負はあっただろう?」
「うるさいっ」
 一度、槍を戻そうとしたが、アルダバは柄を脇にはさんで引っ張ってくる。動きを制しながら、皇太子は叫んだ。
「君の実力はわかった! そろそろ喧嘩はやめようか? 楽しいおしゃべりでもしよう」
「はっ! 命乞いか」
「これは殺し合いではない。喧嘩だろう? 君はそう言った」
「嘘つけ! お前は俺を殺そうとしたっ!」
「どっちが? 君も……もういいから、手を離せ。危ないだろう!」
 ウルフェウスはその槍を手放すと、足元に転がっていたアルダバの槍を足で蹴り上げて、手に持った。アルダバはその動きを見て「じゃじゃ馬めっ!」と叫びつつ、自分の服を貫いている槍を手にした。
 皇太子が服から穂先を引き抜く前に攻撃をしかけた。アルダバはその姿のまま柄を操り、ウルフェウスの腹に当ててきた。
「君はそういう奴だっ! もうわかった、君には慈悲が全くない!」
 アルダバはそう言いながら、穂先が自分の服に刺さったまま、槍を持ち、ウルフェウスを柄で打ちはじめた。その攻撃は安定していて、アルダバの腰はどっしりと沈んでいる。一撃一撃が全て重い。
 だが、アルダバは槍を自分の服につけたままだ。制動距離は決まっている。そして、槍をそれほど強く動かせない。その動きを見極めると、王子は槍を強く握って、ドン、と強く足を踏み込んだ。
 その瞬間、意図しなかった方角から槍先が飛んできた。
「やめろっ!」
 アルダバが叫んだ時には、ウルフェウスは空に飛びあがって宙をくるりと回っていた。反射だった。左右から飛び込んできた光を見て、上しかない、と思ったのだ。
 三人の衛兵が王子に向かって、槍を動かしていた。串刺しにするつもりだったのか、その軌道は全く隙がない。
 ウルフェウスが着地したとき、彼らは槍を絡み合わせるようにして彼の首元を押さえた。が、直後、王子の眼は怒りに燃える。
「うりゃああああーっ!」
「うわあっ」
 手に持っていた槍を振りまわし、兵士の体にぶつける。一人でその包囲を振りほどいてしまった。
 アルダバは自分の衣類から穂先を取り除いたあと、上着を脱ぎ捨てた。少し疲れた顔になると「まだ抵抗するのか」とぼやいた。片手で槍を持ったまま、彼は部下に「退け!」と叫び、前に飛び出した。
 アルダバの姿を目にした瞬間、ウルフェウスの体は動いていた。
 風よりも早く。槍の穂を手に握って、飛び出した。確実にその息の根を止める。穂先をナイフのように握って、皇太子の懐に滑り込んだ。長い柄が殺意には邪魔だ。直接この男の心臓を貫くには。
 その殺意はまっすぐに向かう。
 だが、アルダバは槍を横に向けると自分の足元に転がしてしまった。両手でウルフェウスの刃を受け止める。
 穂先は目の前の人物に当たった。だが、ウルフェウスは彼に手を包まれたまま動きを止められてしまった。
 それ以上ピクリとも動けなくなった。二人の乱れた呼吸が聞こえてきた。
「はあ……はあ……はあっ」
「ふ……はあ……ふあっ」
 静かに呼吸を繰り返していたら、体中に痛みが戻った。指が切れている。ひどく熱い。足の裏からも血が出ている。ウルフェウスの足から出た血が、かすれながら床に跡をつけている。体中に打ち身と打撲でじりじりと鈍い痛みが広がっていく。
 アルダバはウルフェウスの眼を覗き込んで囁いた。
「なんて顔をしてる……もう終わりだ。喧嘩はもう終わり……手を離せ」
「はあ……はあ」
 ウルフェウスは穂先を手放すことができないまま、目の前にいる男を睨んでいた。
 敵だ。敵だ。敵だ。殺せっ!
 次の瞬間、アルダバは少し悲しそうな、苦しげな顔になる。皇太子は片手で王子の頭を抱いて、彼の頬にキスをした。そのまま、強く抱きしめられ、ウルフェウスは体中に痙攣が走った。強張っていた筋肉が足から抜けていく。
「殺さないよ……約束する。だから……手を離せ」
 獅子王に何度か髪を撫でられていたら、めまいがしてきた。膝が抜けそうになったが、首をふって「俺から離れろ」とうめく。だが、アルダバは王子の手を完全に離して、両手で抱きしめ返した。槍の穂先は彼の心臓を狙ったままだ。
 このまま貫けば、獅子王を殺せる。
 いや、彼の胸に傷をつけることはできても、彼の体を貫くには距離も角度も悪い。ナイフなら可能だっただろう。手の中にあるのは、柄のついた穂先だ。やんわりと攻撃を封じられてしまった。これは計算なのか、偶然なのか。
 彼の身に近づきすぎて、制する力を失った。
 そう感じた直後に、ウルフェウスは自分の指を動かして、槍を床の上に捨てた。
 硬く響く音がして槍が転がっていく。王子は血だらけになった手で前にいる男を突き放し、離れた。ランファルの傍に行き、その首に刃を当てている衛兵を正面から睨みつけた。衛兵はごくりと唾を飲んだ後、ゆっくりとその剣をランファルの首から離した。
「殿下……手当てをしましょう」
 ランファルはウルフェウスの指先を見て、自分の懐からハンカチを取り出した。恐る恐る王子の手にふれて、血をぬぐう。その指先は硬く、冷たい。血をふいている間、王子の顔に変化は何もなかった。心がどこかへ行ってしまったかのように。
 アルダバは部下に目配せをして武具をしまうように指示をした。部下たちは王子の様子を見て、緊張しながら、一人一人槍をおろしていった。
 アルダバは穏やかな口調で話しかけた。
「これから、近隣にやってくるのだから、仲良くしたいと思っている。ここは丸く収めたいのだが……どうだろうか?」
 ウルフェウスは応えることなく、黙っていた。
 ミタルスクは嫌な男を皇太子にしたものだ。この時、王子はそんなことを思ったのだった。


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