二輿物語


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27 獅子の刃




 二人の王子は庭を散歩していた。落ち着いた雰囲気で話しているが、先ほどまで戦っていた彼らのことなので、周囲は緊張気味に見守った。
 ランファルはテラス席から庭に出た二人の様子を見守りつつ、辺りを観察している。彼は外部とどうやって連絡を取ろうかと考えていた。このまま、無事にここを抜け出せるとは思えなくなっていた。外に出る扉は鎧を着た四人の衛兵が守っており、堅固に見えた。
 水晶の壁越しに斑の入った緑の蔦が見える。歪な根を結晶の中に忍び入れ、壁面を覆う。
「どうしてこの国に来た? 表敬訪問にしては妙な格好だね。私をだませると思っていたのかい?」
 皇太子は穏やかに王子の手を引く。王子は不機嫌そうに彼の手を払って、歩きにくい靴で庭を歩いた。ヒールのある靴で、でこぼこした道を不器用に歩く。
 アルダバは庭の花を愛でながら、独り言のように呟いた。
「ラヴィアル国の紋章入りか……本来なら公文書偽造という件でラヴィアルに連絡が必要だが、今回は見逃そうか。君に敵意がないことはわかった。武装しなかったのは賢明だ」
 ウルフェウスもイライラして辺りを見ていた。逃げ出せるような場所が無い。庭は絶妙に計算されている。侵入もできないし、逃げることもできないように作られている。
 緑で覆われた庭園に見えるが、細かく石積みの壁で囲まれている。
 庭に植わっている常緑のモムに直射日光が当たると、硬い葉は艶やかに輝いて見える。真っ青な空によく映える濃い緑色に、水晶の軒下に揺れる紅玉の光が混じる。緑で作られた生垣が幾重にも重なり、奥の方からは、木々の隙間から水の流れる音がする……落ちる……瀑布の音。近くに絶壁がある。
 アルダバは続けた。
「何故、ラヴィアルの女に化けたのだ。私が北方の女を好むと思ったか? でも、私は君の方に興味がある。ウルフェウス王子として来てくれても歓迎したのに」
 その名前で招待状もなしに入国できるわけがない。王子の旅はお忍びと決まっている。異国に入るときは外交か、婚姻か、戦争ぐらいしか理由がない。
 ウルフェウスが名前を明かして他国に入るには、少なくとも数百名の護衛が必要である。彼が他国から買っている不評と恨みを考えるとその数でも少なすぎる。
 祖国からこれほど離れた未知の国に実名で入れるわけがない。王子はすぐに応えた。
「それは社交辞令だな? 俺なら、飛んで火に入る夏の虫、だと思って用意周到に殺す」
「なるほど、用心しよう……君は今の言葉に嘘はないだろうからね」
 アルダバはウルフェウスの殺意を聞いても、平静を保って笑っていた。
 見かけ以上にこの皇太子の実態は獅子に近い。殺す時にはためらいもなく一撃を繰り出してくる。だが、どうして、最後の場面で自分の命を捨てて、この王子を抱きしめることができたのだろうか。理解できない行動だ。
 獅子の心は深淵だった。
 だからこそ、ミタルスクの隣でザヴァリアは今の姿のまま存在できるのだろうか。彼の真意を知りたい。彼と共存できるのか。その可能性はあるのか。
 ランファルの視界の中で、戦好き王子が迷いながら口を開いた。
「俺が、今回この国に来た理由は……うーん……表敬訪問さ」
 珍しくも、穏和な言い訳である。だが、ランファルは彼の決断を耳にして、安心した。彼もミタルスクの英雄と今すぐに刃を交えるつもりはないらしい。
「君も嘘をつくではないか」
「悪いのかい?」
 あっさりと表面上の言葉を見抜かれてしまったが、ウルフェウスは悪びれることなく、問いかけた。アルダバはそれほど気にすることなく「構わない」と応えた。社交辞令は獅子王の方が慣れている。彼は王子を見て、にっこりと優しい笑みを浮かべる。
 その笑顔にだまされそうだ。女だけでなく、男も口説き落とすのが為政者である。
 ウルフェウスはランファルを振り返りつつ、続けた。
「挙式に招待しよう。俺とザヴァリア国王女の挙式だ。国賓としてあんたを招く……今度は本物の美女をそろえて歓待してやらぁ」
 彼は足を止め、体の向きを変えた。ランファルの方へ戻っていく。つまり、用件はもう終わったので謁見を終えろ、という意思表示だ。
 アルダバははにかんで笑いながら、足を止める。
 用が終わるとウルフェウスはもう雑談をすることがなかった。無愛想な男である。社交辞令に疎く、表面上の付き合いに慣れていない。実直で、嘘が下手で、直情型。操りやすい男に見える。そして、事実、与しやすい一面があったからこそ、ヴァルヴァラ国内では多くの兵が彼を愛した。何の見返りも求めず、その愛に殉じ、命をすてて彼を守り戦った。
 だが、この王子を御すのは簡単だろうか。
「ウルフェウス王子……ここから無事に帰りたいかい?」
 アルダバの一言で、緩んでいた空気が再びひやりと固まった。ランファルは穏やかな獅子王の笑みを見つめつつ、冷や汗を浮かべる。ウルフェウスは屋内に入る手前で足を止めた。王子の眼は既に冷えていた。再び、衛兵たちも武具を握る手に力を入れている。
 部屋にいる衛兵たちは、ウルフェウスの反応を見守って、息をのんだ。
 彼の動きは速すぎる。捕えるなら、殺すつもりで挑まなくてはならない。しかし、これほど無防備な彼と対面できる機会はもうないだろう。わずかな護衛を連れて、策もなしに政敵の懐に飛び込むとは。獅子は獲物を逃がす、だろうか?
 体の芯から冷えそうな目つきで、ウルフェウスは口を開く。
「俺を無事に帰す気はないというのか?」
 王子はゆっくりと背後にいる皇太子に顔を向け、するどい目線で睨みつけた。
 ランファルはごくりと息をのんで、祈るような思いで獅子王を見る。彼の口からどんなあくどい条件が出されるだろうか、と。
 だが、次の瞬間、アルダバは驚いた顔で後ずさりした。両手を挙げてふった後、片手で自分の顔を覆い、突然、笑い出してしまう。
「あは……は! ちょっと待ってくれ。今のは無しだ……何だこれは。しまった、私が間違えた。いや、いいよ、帰ってくれ。帰っていいよ、いつでも無事に帰ってくれたまえ」
 獅子王は王子を避けるようにして部屋に戻ってきた。彼は柔和な顔でランファルを見て、苦笑いする。何が起きたのだろうか。言葉を翻すとは、皇太子らしくない失態だ。
 王子は不審な顔のまま、庭を歩き、屋内に戻ってきた。
 皇太子はもう王子の方を見なかった。広間に戻ると壁際のソファに座って、自分で水をグラスに注いでいた。彼は赤くなった顔をごまかすようにして横を向いたまま水を飲んだ。王子はランファルの傍に来ると「退室の言葉」と短く命令した。
 何事もなく、本当にこのままこの部屋を出て行けるのか。無礼な訪問に対する謝罪ぐらいは要求されると思っていたが。ランファルはあわてて立ち上がり、姿勢を正した。
「皇太子殿下、退室のお許しに感謝申し上げます」
 深く頭を下げて礼を示す。王子は彼の傍で立ったまま目礼した。彼はすぐに背を向けて、部屋を出て行こうとする。
 すぐに「待て!」と声がした。アルダバは「本当にもう帰るのか」と言い直した。
 ランファルは迷いながら、王子の背中を見つめた。獅子王が何をしたがっているのかわからない。帰れと言ったり、待てと言ったり……嫌がらせなのか。
 いや、これは駆け引きだ。
 ランファルは皇太子と王子を交互に見て、頭を働かせていた。皇太子が求めているのは交渉だった。逃がしてほしいなら、何か提案してみろ、と笑っている。ミタルスクはザヴァリアにとって脅威となる国だが、その脅威は戦意ではなく、外交力なのである。ランファルはそのことを無言のうちに伝えようと、王子をまっすぐ見つめたが、王子の眼は冷静に退路を探して蠢いている。全く伝わっていないだろう。
 部屋の中にいた衛兵たちも戸惑った顔になる。ウルフェウスはその中で舌打ちをして、彼をふり返る。自分の口を開いてアルダバに告げる。
「もう帰る! 俺の用事は終わった!」
 その通りなのだが、正直なところを言うと、身もふたもない、と思った。アルダバも呆れた顔で「しばらく泊まっても構わないが」と続けようとしたが、王子はその譲歩すら遮って「意味がねえ」と即答だ。まるで融通の利かない武人である。
 彼が戦好きと呼ばれたわけである。これでは、この王子に平和な外交は難しいだろう。獅子王は王子と親しくなりたいようだ。普通の使者なら、ここは甘えて数日ぐらいは滞在する許可をもらい、感謝する場面である。敵愾心を隠すことを知らない。
 アルダバは指をならし、衛兵たちに「外に出すな」と命じる。強引な命令だ。これは友好的な態度とは言えない。ランファルは青くなった。何が始まろうとしているのか、と。
 ウルフェウスも怜悧な目で周囲を睨みつけ、素早く武具に目を走らせていた。
 アルダバは少し迷った後、照れながら話しかけた。
「君は……女ではないのか? もし、そうなら、その……さっきはひどいことを」
 その場の空気がその一言で凍りつくように固まった。どう見ても、この暴れん坊は女ではない。そして、当人はその一言で顔から表情がすうっと消えた。見ている方が冷え込むほどの速さで目の色が変わる。
 アルダバはそれが見えないのか、はにかみながら続けた。彼自身は謝罪のつもりだったのかもしれないが、周囲は肝をつぶした。やめてー、と無言のうちに主に訴える。
「つまり、その、君はきれいだ……いや、その髪がね! もっと撫でたい……このまま帰したくない。せめて、お別れのキスをしてくれないか?」
 周囲はウルフェウスの顔を見て、怯えつつ、遠ざかり、自分の武具を奪われないように体の背後に隠しているのだが、獅子王はそんな気配もさっぱりと無視している。
 もしかして、これは口説いているのか?
 この鈍感な皇太子に合図を送るため、ランファルまでも口をぱくぱくと動かして、手を振りまわしていたのだが。恐ろしいことに彼は笑顔である。そして、件の王子の顔は、悪魔どころか、既に殺人鬼に変わっている。
「さっきのキスは不本意だ。無理やり奪うつもりはなかったが……今度はその唇で」
 直後、屋内に風が吹いた。
 目にも留まらぬ速さで王子は近くの衛兵にぶつかっていた。腰から剣を引き抜くと、おびえている衛兵を突き飛ばして踵を返す。そして、周囲が武器を構えるより早く、アルダバに切りかかっていた。
 とっさにアルダバの身を守るようにしてランファルが前に飛びだし、彼を止める。王子を両腕で抱きしめたまま、彼は言葉を発した。
「……皇太子殿下、王子の名誉をお守りください。奇妙ななりで訪問したことはお詫び申し上げます」
 彼の血が王子の手を伝って流れていく。ポタポタと血が滴って床を汚した。ウルフェウスは真っ赤な顔をして怒りながら、ランファルの体にもたれた。その小さな頭を抱いて守りながら、ランファルは歩き出す。
 アルダバは衛兵たちに「お帰りだ」と静かな声で告げる。異国の王子が皇太子に刃を向けた……これは開戦の理由になってしまう愚かな行為だ。だが、部屋を出て行く彼らを見送り、皇太子はようやく「私は今の不敬を詫びよう」と異国の使者に声をかけた。彼は自らの非を認めて、王子の行為を不問にしたのだった。


 部屋を出ると王子は侍従を担ぎ上げ、そのまま窓から逃走した。そして、直線的に屋根を伝ってあっという間に、城外だ。早い。
「あ、王子!……きゃあーっ! ガレアさんの体から血がっ、血がっ!」
「セレナ、止血しろ。今すぐに出る。帰国だ、帰国ーっ!」
 ウルフェウスは着ていたドレスを両手で引っ張ってビリっと破る。その侍女は再び「きゃああああ」と盛大な悲鳴を上げて気絶した。王子はちっと舌打ちして「使えない奴め」と言いながら、自ら侍従の体の手当てをした。
 ザヴァリアの兵士たちが「何事ですか!」と叫んで走り寄ってきた。ランファルが「何でもない」と叫んでぐったりと倒れる。ウルフはランファルの服を切りながら「馬を盗めー!」と部下を怒鳴りつけた。この王子は手癖が悪い。迷うことなく敵の馬で逃走。
 王子は自分のドレスを細かく切って止血体を作り、怪我をした部下の体に巻きつける。侍従は恐縮して何度か起き上がろうとしたが、そのたびに彼に殴られた。
 気絶している侍女を担ぎ上げ、王子は馬に飛び乗った。
 ふり返ることなく、さっさと城を後にして、駆けていってしまう。風のようだった。
 その様子をアルダバが部下を抑えて見送らせた。
 結局のところ、ウルフェウスがこの国に来た理由を、彼には理解できなかった。皇太子は「やはり彼はすばやいなー」と感想を漏らしながら、ため息ついた。もしかしたら、彼を殺す千載一遇のチャンスを逃したのかもしれなかった。戦場でまみえるようなことがあれば、この素早さと強引な力強さに振り回されることになりそうだ。
 だが、アルダバは麗しい彼の髪を思い出して、楽しそうに笑った。何が理由だとしても、滅多に見られない面白いものを見たものだ。あの悪魔が女装してまで、挨拶に来るとは。
 あれほど美しい子供を殺すことはできない。今の彼をこのまま殺すのは哀しすぎる。あれほど単純な誘いに簡単に乗ってしまうとは……危なっかしくて目が離せない。彼はいつかまた外交上で問題を起こすだろう。彼は生涯戦うつもりなのか。出会う人すべてと敵になり、恨まれて、争い、殺し合うつもりなのか。
「しばらく……私が君とつき合おう。ウルフェウス、君も私のよい喧嘩相手でいてくれ」
 戦いの最中に見た彼の本性。彼は愛を知らない戦士だ。今まで、彼は一人で戦ってきたのだろう。それがあまりに哀れで、慈しみたくなった。それまでザヴァリアの金を手に入れようと考えていたが、急にどうでもよく思えた。金は使えばなくなる物質だ。だが、人の情を築けば、生涯の安定につながる。
 おそらく、あの王子が今まで味わったことのない安らぎになるはずだ。
 彼の心を手に入れれば、ザヴァリアは丸ごと手に入ったも同じこと。
 しばらくして彼から挙式に誘われたことを思い出し、アルダバは嬉しそうににっこり笑った。彼はザヴァリアへ祝いの品々を贈る手続きを始めた。これから少しは楽しめそうだ、と思いつつ。


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