二輿物語


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28 迅雷の男




 アリシア姫が国境に辿りつく前に、かの王子の動きが伝えられる。
 姫は日中、懸命に乗馬を習得しようと試みたが、兵士らは彼女の前方を二往復ぐらいして、ウルフェウス王子の動向を探り、また、その対策に追われる。
 王子が通り過ぎた直後から、軍事施設は慌ただしく動きはじめていた。その最中に姫が馬を操って到着する。既に彼らは王族の受け入れ準備も万端。しかも、次の中継地点に向けて伝令が出ているというありさまだ。ウルフェウスに触発され、彼らの伝達速度も上がっている。同じ国の兵士らも戸惑うほどの変化だ。
 宿営地では、ウルフェウス王子の噂話を耳にした。
「既にミタルスク入りしたらしいぞ。伝書鳩によると、東離宮に向かうとか」
「うは。早っ! 一体どうやったら、そんな速さ……」
「紋章鑑識官を通して、外交官を国境に呼ぶらしい。ラヴィアル国との裁判の支度をしておけ、と……それから、国境際に馬を用意するように」
「ちょっと待て。夢をみているみたいだ。戦争になるのか?」
「いや、まずは外交だろう。殿下からの指示はまだないが、早駆け馬を3頭用意するように言われているそうだ。本当に何もかもが早い」
「3頭……どういう意味なんだ?」
「ザヴァリア王に一頭。自分の国に向かって一頭。もう一頭は不測の事態」
「慣れたものだぜ。もう、殿下の頭の中では、政争が始まっているんだな」
 姫はそんな兵士らの言葉を怯えたまま聞いていた。兵士は姫が近くに来ると、すっと会話を切り上げて、立ち去ってしまう。何が起きようとしているのか。アリシアは一人でおびえながら、道の先を見つめる。
 国境は、まだ遠い。
 姫はまだこの時、彼の恐ろしさを体感できていなかった。ただ、彼に追いつけなかったということに、失望した。王子と侍女はもう恐れていた国に入ってしまった。
 これからどうしたらいいのか、と途方に暮れる。
 そんな悩みを考えている最中に、まさか、件の王子たち一行が一仕事を終え、ザヴァリア国へ向かっているとまでは思わなかったのだ。周囲の予想をはるかに超えた男だ。
 この速さの意味を誰も理解できていない。
 疾風迅雷とはこのこと。打てば響く、反応の速さは、神の閃き。
 彼は問題が生じたと同時に、それを解決する策を瞬時に実行している。彼の考えを理解するものがいなくても、彼は周りを動かし、問題の中心に飛び込んでいる。
 まるで、魔術のように時間と空間を飛び越えて。
 ウルフェウスはその速さで、危機の重篤化を防ぎ、素早く事態を収めてきた。戦争が起きる時も、反乱がおきる時も、大抵は敵が充分な支度を始める前に、また、こちらの準備すら不十分であっても、敵も味方もかき回して、存在を示した。
 相手の度肝を抜く度胸だけは、人並み以上に優れている。そして、相手がその非常識さにひるんだ隙に全てを手中に収めて、意のままに操ってしまう。
 それが、彼を魔術師と言わしめた本質の能力だった。
 緊張感に包まれ、悲壮な空気が軍事施設内に広がる。しかしながら、それはすべて、手遅れの感慨である。この時、彼らが抱えていた問題は既に解決していた。
 姫たちは悩みつつも三日後に国境でその事実に遭遇することになる。


 再び早駆け馬で国境に向かった王子一行であったが、兵士らもこの緩急には慣れたので、比較的温和に旅中を過ごした。一人だけ、ウルフェウスは目をぎらつかせて背後の敵を警戒していたのだが、獅子王は一兵すら出してこなかった。
 戦に慣れたヴァルヴァラの王子は拍子抜けだ。
「何を考えンのか、わっかんねーっ! あーっ、むかつくっ、っかつくっ、あンの男っ」
 都から遠ざかるにつれ、広間での侮辱を思い出したのか、七転八倒して悔しがる。しかし、数日もすると、件の王子もさすがに冷静になり、ようやく話のできる状態になった。
 ザヴァリアとミタルスクの国境まで戻ってきたウルフェウスは馬に乗って考察中だ。
「皇太子が東にいる理由は何かあるんだろうな。俺の顔も情報も、婚姻の話も理解していた……もう、ザヴァリア国内にミタルスクの間諜は入りこんでいる、ということか。そして、何か策を打ち出そうとしていた。どうして、俺を殺さなかったんだろう……まだ……そういう時期ではないということ、あの場所では殺せなかったということ、殺す必要がないということ、俺を生かして利用できると思った……いや、予想外だったのか、本当に」
 一人でそんなことをぶつぶつつぶやいて、馬の背に揺られている。
 ミタルスクが敵対するつもりなら、ウルフェウスが丸腰で登場した時、そのまま捕えて幽閉すればよかった。無理して殺す必要はない。それだけで十分だったからだ。
 ラヴィアル国の公文書を偽造し、異国に侵入し、皇太子に刃を向けた。それだけで、罪に問うことは可能だ。それをあえて逃がす意味はない。王子を罪に問えば、祖国はミタルスクの下に出て交渉せざるをえない。労せずして、ヴァルヴァラを操る駆け引きはできたはずだ。獅子王と呼ばれるほどの英傑ならば。
 しかし、アルダバはただ鮮血刃の悪魔と呼ばれる男の動きを見ただけだ。
 どんな言葉で煽れば怒るのか、激情によって理性を失ったとき、どんな行動を取りやすい男かを学び、次の政治に利用しようとした。アルダバは敵か味方かといえば、どちらかといえば、敵だ。最初の一言にそれは集約されている。彼はウルフェウスに対する敵意を隠さなかった。殺意すらもひそませていた。だが、今は敵対の意志はない。
 では、何のために? ウルフェウスをおびき寄せるためだけに、ザヴァリア国の東南の方角にラヴィアルの紋章のついた輿を向かわせただろうか? いや、ウルフェウスの来訪は誰にも明かされていない、非公式のもの。もちろん、アルダバもウルフェウスの来訪は予想外だったから、大した策もなく観察以上のことができていない。
 何度も彼は聞いていた。何のためにここに来たのか、と。
 彼もまた、政敵の真意を知らずして、次の手を講じることを控えた。相手の意図が不明のまま、敵意をむき出しにするような不用意なことをしない。友好的に敵意を隠し、ウルフェウスの意図を何とかして知ろうと努力していた。今の彼に策略を感じない。まだ、ミタルスクはザヴァリアに対する態度すら決めていないだろう。
 計画的ではない、と感じた。ミタルスクはラヴィアルの動きとは連動していない。
 ウルフェウスはしばらくして、部下に問いかけた。
「ミタルスクとラヴィアルって実は仲が悪いのか? 奴らは同盟関係にはないだろう」
 それが生身で感じた彼の結論である。ラヴィアル国の姫という触れ込みで離宮に入ったとき、違和感があった。皇太子は入室と同時に、やってきた女を見て「もっと早く、私が結婚する前に、あなたにお会いしたかった」と口にした。表向きは女を口説く言葉だが、ウルフェウスはその言葉を聞いたとき、内心では既に用は済んだと思っていたのである。
 両国の間に婚姻契約が存在する余地はない。これから先も、おそらく。
 アルダバの口調は、彼がラヴィアルを軽視しているという証だ。
 王子の疑問に、荷馬車の中で寝ていたランファルが答える。
「経済的な交流はお持ちです。ラヴィアルからミタルスクへ大量の鉱物が輸入され、代わりにミタルスクの食品が北部へ行きます。ラヴィアル国は永久凍土があるので食品を得ることが難しいのです」
「飯を食わせておけばいい。アルダバにとって、ラヴィアルの国力も存在もそれほどの脅威になっていないし、彼らを操る手段にも事欠いていない。それに癪な話だが、あいつはわざわざ恩を着せるような策略に彼らを誘い込むほど軽率でもない。それほど深い同盟関係は感じねぇ。だが、アルダバは東を向いている。どうやらザヴァリア国を狙っているようさ。俺を手中に治めれば、ザヴァリアを手に入れられるとも考えてる……アルダバが欲しがるようなものが何かあるのか?」
「うーん」
「ま、しばらくは西と北は別個に警戒することだな。少なくとも、東南の異変との関係は薄そうだ。ラヴィアルへは国境際の異聞を正式文書で問い詰めてやるぜ。他国の平安を脅かした違法者なんだからな」
 王子自身がした某国の公文書の偽造は棚にあげ、何とも図太い外交である。だが、ミタルスクは彼らの偽造の報告を見送ると言った。紋章偽造の件でラヴィアルから責められることは、ないかもしれない。いや、仮にアルダバがその報告をラヴィアルにしたところで、ウルフェウスという男は厚顔無恥だ。
 水掛け論でも展開しつつ、知らん顔で相手の出方を見るのみだ。いざとなったら、罰金ぐらいは払っても構わない。だが、抗議の手紙は今しか書くときがない。そして、今しか、彼らの反応を知ることはできない。戦争が起きてから接触しても、もう遅いのだ。
 水面下の、まだ問題が表面化する前の、いや、問題ですらない時期に交流を始めるのが、政治というもの。友好的に始めるにしろ、敵対的に始めるにしろ。
 ランファルは少し青ざめて「一度、宮廷に戻りましょう」と提案する。ランファルは冷や冷やしながら王子の反応を見た。数秒後にウルフェウスが素直に「うん」と答えた。王子の頭の中で何の計算が行われたのかは不明だが、ほっと胸をなで下ろす。これ以上の問題の拡大を押さえたい――部下の不安と、主の思考は、このようにずれている。
 ウルフェウスは「正式に抗議できるのは俺ではない」と簡単に答えた。彼は王を動かすつもりで、ランファルの提案に応じただけだ。問題の拡大を恐れて、事態の解明をうやむやにするつもりはないのだった。
 国境が見えてくると王子の様子は目に見えて、落ちついた。半月近く彼の傍に従事して、その人となりを理解した兵士らはわずかな彼の変化に気がついて、ほっと胸をなで下ろす。王子の瞳は青く澄んでどこまでも知的に見えた。非常識な行動を取りつつも、背後には常に計算高い意図が存在した。部下たちは彼の言葉と決断を聞きながら、徐々に彼を信用するようになった。
 彼の思惑を全て理解できない。それでも、彼についていくことに対して、不安に思うことは減っていく。彼に任せておけば、何か、常識では理解できない力学で問題が解決するような気がしてくるのである。その男の目に見えているものは何だろうか。ずっと彼の傍にいるのに、誰にもわからない。彼にしか見えない何かがある。それでも、その男は情勢を読み取って、国を導くだけの力があるのだと思えた。
 国境で出国の手続きを取る間、王子は図太くも大きな欠伸をして気楽に見えた。この場所に来るまでの行程で、アルダバの意図を既に理解できていた。国境で止められることはないとも理解できていたのである。
 そして、すんなりと国境を越えて、ザヴァリアへ再入国を果たした。
 国境を越えた兵士らはようやく肩の荷を降ろして、明るい表情になる。王子もそんな彼らの顔を見て、不意に優しい笑みを見せた。兵士らは王子と微笑みあって「全員、生きてますね」と話しかけた。ウルフェウスは「うん」と簡単に応えて、笑う。
 穏やかな草原の彼方にザヴァリア国の入国施設が見えた。
 広々とした緩衝地帯を馬で進む。
 雑草がはびこらないように敷き詰められた小石の色が途中できっぱりと二つにわかれていた。兵士が王子に「ここが国境です」と伝えた。行きはそんな雑談すら、している余裕がなかった。王子は馬上から小石の色を見て、赤い石がミタルスク側、白い石がザヴァリア国であることを理解した。草原を走る石の川に国境線を体感する。
 この線をこれ以上、後退させないこと。
 ウルフェウスは気持ちを引き締めてザヴァリア国の領土に足を踏み入れた。
 入国施設が近づいてくると、王子の顔色が少しかげった。彼はその施設の背後に、不審なものを見つける。
 国境沿いにザヴァリア軍が配置されている。軍馬の数はざっと見ただけで、千を超える。宿営地は国境の軍事施設内に収まらずに、周辺に臨時のテントが広がっていた。
 ウルフェウスは馬を止め、傍に来た兵士に声をかける。
「どうして、軍がこっちを向いて配置されてるんだ? 俺はまだ何も命じてないのに……王はミタルスクと戦争を……いや、お前たちは外交官もあんな重装備で守るのか?」
「きっと王子を心配して、迎えに来たのでしょう」
「んなもん、頼んでねーや。アルダバに見られたら、また難癖を吹っかけられちまう。あいつとは戦地だろうが、公式の場だろうが、もう二度と会いたくねえのに……これ以上、つけ入る隙を与えるな。くそ。言い訳の文面を考えるのもおっくうだぜ」
 王子はさっと不機嫌な顔に変わって、馬を走らせた。
 近づいていくと、白馬に乗った女性がやってくるのが見えた。最初は旗だと思っていたのだが、近づくにつれて女だとわかった。
 その女性は雄雄しくも馬を自分で駆って近づいてきた。輝く金色の長い髪に白く滑らかな肌を持ち、優雅な四肢を持った女性だ。光に祝福された彼女を見て、王子は怒鳴りつけてやろうと思っていた気持ちが弱まり、ドキドキしてきた。今まで自分で馬を操って軍隊を率いた女性を見たことが無い。彼女の名前を知りたくなる。彼女はまるで戦いの女神のように凛々しくて美しかった。
 そして、ついに、彼は馬を止めてしまった。
 一目ぼれである。雷に打たれたように。


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