二輿物語


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29 恋の色合い




 その女性はウルフェウスの傍に近づくと、怪訝そうに見つめ返した。
 彼女の衣服は薄汚れて裾もぼろぼろに破れていたが、物腰だけは高貴である。気軽に声をかけることもためらわれるほど、清浄な気配が漂う。
 長く白いドレスの裾は、柔らかく風を含み、大きくたわむ。ほっそりとした体の割に豊かな胸が、馬の動きに合わせて少し揺れる。淡い金色の髪がその体に沿って、ふわりふわりと波打つように動いていく。手で触れたら、簡単に壊れてしまいそうな女性だ。
 とても軍隊を率いるような女には見えない。ウルフェウスは頭の奥で、これは夢だ、と思いつつ、彼女の動きから目を離すことができない。目に見えている女は本当にそこに存在しているのだろうか。これほど可憐な女性が、なぜ、軍馬に乗っているのか。
 ぼんやりと、彼女に触りたい、と考えたとき、彼女の表情が曇った。心を見透かされたように感じた。ウルフェウスはそのことでびっくりして声が出てしまう。彼女に嫌われたくない、という一心だ。何でもいいから、彼女を引きとめろ、という本能だ。
 もともと、侍女以外の女性に接する機会の少ない王子は緊張しつつ、問いかける。
「名は?」
 彼女は不機嫌な顔になり、彼を無視した。何も答えずに王子の背後を見つめ、直後、彼女はぱっと顔を輝かせた。その表情の変化を見て、王子は胸がドクと大きく跳ね飛んだ。何が彼女の気を引いたのかと素早く背後をふり返ったら、その隙に彼女は馬を動かして、彼の前から動いてしまう。
 彼女が自分の前から消えそうになって、彼はあわてた。
 ウルフェウスは不機嫌になり、彼女の前に馬を出して進路を邪魔する。男として無視されたことが腹立たしい。この女性を絶対に逃がしたくない。
 そんな男に向かって、彼女は強く諌めるように睨み返した。背筋はすっと伸びている。ウルフェウスを相手に堂々とたてつく女なんて、今まで見たことがない。いや、女だけでなく、戦地では、兵士、いや、敵将ですら。
 彼女は透き通った声で穏やかに命じた。
「退きなさい」
 命令口調だ。今まで、彼は家族以外で誰かに上から命じられたことなんて、ない。一度たりとも。いつも、命令を下すのは、彼の役目だったから。
 ウルフェウスはむっとして、答えた。
「やなこった。名を聞かれたら答えな」
「私に名を聞くなんて無礼です。お前が先に名乗りなさい」
 思わず、反論の言葉を返そうと思って口を開いたのだが、直後に飲み込んだ。名前を伝えたら、彼女も名前を教えてくれるだろうか。ウルフェウスの名前を聞いても、受け入れてくれるのだろうか。
 彼女は彼に正対したまま、まっすぐ見つめている。彼女を正面から見つめ返したい。彼女に嘘をつきたくなかった。名前も、身分も、何もかも。
 彼は緊張気味に口を開く。
「俺の名は」
 だが、彼が名乗ろうとしたとき、背後にいたセレナが「姫様ー!」と悲鳴を上げた。
 その言葉を聞いて、自失した。王子は呆然として「姫様?」と繰り返した。
 ふと、目の前で彼女がきれいな笑顔になった。その笑顔を見た瞬間、彼女の無礼を全て許してしまうほど舞い上がった。だが、彼女はウルフェウスを完全に無視して、走って行ってしまう。
 ウルフェウスはアリシアの名前を思いだし、頭に血が上った。あれが、姫?
 セレナは走ってきた女性を見て「きゃあああ」と盛大な悲鳴を上げた。
「姫様ぁああ、危ないですぅーっ!」
「バカ! もう、セレナの大ばか!」
「きゃああ、もっとゆっくり、ゆっくり! ぎゃあああ、姫様、何と言う格好を」
「もう許しません! 絶対に私の傍を二度と離れてはいけません!」
「はい! はい! わかりましたから、馬から下りてぇーっ! レースが破れちゃうー」
 セレナの周りに居た兵士たちは大慌てで馬から下りて、ひざをついた。王子はその様を見て頭が混乱する。深窓の姫が城の外に出て、馬で国境まで侍女を迎えに来た。本当に。
 ありえない話だ。
 しかし、その非常識さに彼女の心のあたたかさを感じ、ウルフェウスは嬉しくなった。彼は「あははは」と明るく笑う。アリシアのことを気に入った。一目ぼれだ。こんなに簡単に惚れるなんて、きっと運命に違いない。
 心のどこかで感じていた不安が一度に消えた。
 相手が彼女だったことに安心する。一目ぼれになるとは思ってもみなかった。ウルフェウスは一人で笑い続けていた。小さく「惚れた、惚れた」とうれしそうに何度も口にする。
 好きになった女性を手に入れることができるなんて、夢のようだ。
 彼女でよかった、と思った。結婚する相手が、彼女でよかった。彼女ならば、愛を告げることができる。偽りではなく、心から、愛することができるはずだと思った。
 国境を守っていた兵士たちは彼の傍に来て「ご無事ですか!」と声をかけてきた。王子は上機嫌で頷いた。
 ウルフェウスは視線を落とし、自分の格好を見る。有り金を使い果たした彼は満足な服も着ていなかった。優美だったドレスは既に汚れてぼろぼろになり、彼の腰から下を覆っている。上半身は暑いのでもう脱いでしまった。今の彼はまるで山賊のような形だ。
「これでは、今の俺には惚れないか」
 彼は苦笑いして馬を動かした。彼女に背を向け、集まっていた軍隊の中に入っていく。
 結局、国境には、アリシアに従事した十数名の兵士の他に、王子を迎えに来た王の使者が集まり、後から本隊までも出ていた。これに加えて、王子が要請した外交官と早馬を駆る騎士が控えている。思った以上に多い出迎えである。
 兵士たちは王子の無事な姿を見てほっとした表情だ。ウルフェウスは王子にあるまじき格好で、鎧も着ていなかったが、相次ぐ戦で鍛えられた戦士の体が丸見えになっていた。その肉体を見て彼らは嬉しそうだ。巷で聞く戦に長けた王子という噂の実態を確認し、兵士たちは王子を見直して身近に感じ始めていた。
 王子は彼らに囲まれて声をかける。
「姫を連れてきたのは、俺に対するご褒美なんだろ?」
 冗談めかして聞けば、兵士たちも大笑いして賛同した。ウルフェウスはおおらかな気分になり、彼らを叱責する言葉を忘れてしまった。
「まぁ……細かいことは後でもいっか。とにかく、帰還する! 宿営地を撤収しろ!」
 兵士たちは王子の言葉を聞いて、大急ぎで宿営地を片付け始めた。


 アリシアにとって、その男はまったく予想外の人間である。
 それが、王子、だとはまったく考えつきもしなかった。とても無礼な男に見えた。
 彼と初めて言葉を交わしたということに気がついたのは、彼と離れてからのこと。彼が王子だと気がついたのは、セレナと再会してほっとした直後だ。ふり返れば、その無礼な男の周囲で、兵士らが明るい顔で談笑している。明らかにザヴァリア国の血ではない彼の姿を見て、突如その正体を理解し、青ざめた。思い返せば、血の気の引くような強気の発言を繰り返していたことに恥じ入った。
 相手は、戦場で恐れられている「鮮血刃の悪魔」だ。
 彼に斬り捨てられなかったことが不思議でならない。いや、不興を買ってしまっただろう。教師たちにあれほど最初の出会いを大事にするように注意されていたのに、すべてぶち壊しである。アリシアは内心ではぞっとして彼の視界から逃げた。
 その男は慣れた調子で多くの官吏を従え、難しい話を交わす。彼が呼び集めていた外交官に「ミタルスクの皇太子を挙式に呼ぶ。それから少し解決してほしい問題が起きてる」と話していた。外交官は彼から相談を受けて、その場で対処を決めた。ミタルスクとラヴィアルに向けて、幾人かが出立する。
 外交官の権限で国境から中央の都へ馬を走らせ、王に知らせが入る。
 ザヴァリア国の官吏に問題を委譲した後、ウルフェウスは軍を率いている将校と帰路の相談を始めた。将校らが姫の進行速度を伝えると、彼は口元に浮かんだ照れくさそうな笑みを片手で隠した。彼に女の馬の速度をバカにされたような気がした。
 アリシアは少し離れた場所からそんな彼らを見つめる。
 心の中をもやもやとした不快感が募っていく。
 その気持ちの意味がわからないまま、彼女は彼の動きを見つめていた。
 今まで見たことのない男だ。身につけている衣服はぼろぼろで元の形を推測することはもうできない。腰回りに青い布切れがまとわりついているだけに見える。本当は下賤の賊だと思っていた。罪人が逃げてきたような形なのだが、整った顔の表情は穏やかだった。意外なことに優しげな視線を浴びて、胸がドキドキした。身分の違う男に惹かれそうになり、必死で取り繕って、身分の差を意識させるような言葉で彼を貶めたのだ。
 彼の上半身は裸だった。よく日に焼けて、腰や節々の筋肉は強く引き締まっている。身につけている武具は一つもないのに、恐ろしい殺気も感じさせる。細身ではあるが、肩周りと背筋はよく発達し、美しい流形の肉体。彼の前に面した時、その体を直視することができず、彼の目をずっと睨んでいた。
 彼の瞳の青さを覚えている。涼しげに透き通った水のような色を。
 それほどまでに純粋な色を見たことがない。
 ふとした瞬間に、彼がアリシアのいる方へ視線を流した。その美しい青さが見えたとき、姫はドキッとして頬が熱くなった。彼から目をそらし、物陰に隠れる。
 背後から足音が聞こえてきた。アリシアはその場を走って逃げてしまう。
 彼の声がした。
「あ、おい……逃げることないだろ……ちぇ」
 ウルフェウスはその場に立ち止まって、腕を組む。しばらくして、彼は傍にいた兵士にむかって「おい、誰か、俺に服をくれ!」と怒鳴った。その声の大きさにおびえ、また、彼を怒らせたことを知る。
 将校が彼に衣服を与え、軍事施設の中に連れて行く。
 アリシアは木陰にうずくまり、両手で顔を覆って泣きだした。これから、どう接すればいいのかがわからない。彼が怖くてたまらない。
 姫の傍にセレナが寄り添って、慰めた。
「姫様ぁ? 大丈夫ですかぁ?」
 セレナはアリシアの髪を撫で、汚れているドレスを手に取った。彼女は悲しそうな顔で「今すぐに代わりの服を用意しますね!」と言う。侍女は姫と共に涙ぐみ、抱きついてきた。セレナを抱きとめて、少しほっとした。何にしても、彼女が無事でよかったと思う。
 衣装係は姫を抱きしめたあと、涙をぬぐい、元気よく立ち上がる。彼女は生き生きとした顔で軍事施設の方へ走って行った。出てきた将校に向かって「姫様のドレスを!」と怒鳴る。将校は困った顔で「女性の衣類はございません」と応えていた。
 それでも、セレナは彼らを説得して未使用の白布を用意させた。大きな布を素早く縫い合わせて簡易な巻きスカートを作ってしまう。真新しい布地の白さを見て、姫は改めて自分の姿を思い出した。汚れたドレスを見つめて真っ赤になる。
 こんな姿で彼の前に立っていたなんて。
 ウルフェウスは着替えを終えると、ぶつぶつと文句を言いながら外に出てきた。将校は彼に上等の官服を渡したらしく、豪奢な上着に細身のタイツと皮靴を履いている。王子はさらさらしたきれいな黒髪を動かし、上着の首元を息苦しそうにゆるめようとしていた。
「かたっくるしい服ばかりだな、この国はー。肩の位置が合わない!」
「申し訳ございません。殿下の体に合いそうなものが他にございません」
「礼服も甲冑も何もかも作り直しか……あー、金のかかる婚礼になりそうだぜ」
 彼は苦しそうに肩を動かしたあと、上着のボタンをすべて外してしまった。だらしのない男だが、それを補って余りある美しい容姿と堂々たる肢体だ。
 ウルフェウスは、ふと、足を止めて姫を見た。アリシアは彼の視線から逃げるように、体を木陰に隠す。王子は足先の向きを変え、近づいてきた。
 だが、途中で兵士が将校と王子の傍に走って近づいた。
「殿下、出立の支度が整いました」
「ん……んー……では、行くか」
 ウルフェウスは姫のいる木陰を名残惜しそうに見つめつつも、太陽の位置に視線を移した。彼は将校に「次の宿場町へ行って、宿泊の支度を」と告げた。将校は彼の命令に服し、自分の職務に戻った。軍の引率と王侯の護衛を引き受ける。
 王族の移動に馬車がない。ウルフェウスは姫が乗ってきた馬を見つめて、にやにや笑っている。その馬の首を撫でて可愛がった。
 優しい彼の動きを見て、アリシアは頭に血が上った。彼は動物の好きな人間らしい。馬の扱いに慣れている。彼にまつわるたくさんの噂話を思い出した。冷酷で、動物好きで、世話好きで、大らかな美男子で、背が高くて、髪が黒くて、目が青くて。
 本当に、その男が自分の婚約者で、ウルフェウスなのだと実感した。アリシアは目に涙が浮かんできて、頭の中がぐちゃぐちゃになった。これからどうしたらいいのだろうか。
 ウルフェウスは再び馬から手を離して、体の向きを変えた。
 まっすぐに姫のいる方へ歩いてきた。アリシアは小さく悲鳴をあげ、体を縮めて隠す。化粧も何もしていない。服も汚れている。髪も結っていない。彼女は自分の髪を握りしめて、顔を隠した。
 どうしていいのかわからないまま、自分を抱きしめて泣いた。今、彼女を守ってくれる護衛は誰もいない。いや、周りに兵士はいるのだが、彼らは王子の横暴さから姫を守るような繊細な護衛ではない。
 近づいてくる足音を恐怖と共に聞く。
 なぜ彼が怖いのだろうか。婚約者なのに。


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