二輿物語


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30 嫉妬




 不意に、セレナの声がした。
「それ以上近づかないでください!」
 しっかりした声で彼女は王子に怒鳴っていた。アリシアは侍女の声を聞いて、怯えていた心が少し弱まる。王子は足を止めて、セレナに話しかけた。
「今更、何を作っているんだ? もう、出るぞ。お前も早く支度しろ」
 そう言いながら、セレナを避けて先に進もうとするのだが、侍女は両手で彼の服を握って「だめーっ!」と叫ぶ。セレナの動きを見て、ハラハラした。相手はあの「鮮血刃の悪魔」だ。彼の怒りに触れたら、何をされるかわからない。
 案の定、王子は侍女の動きに眉をひそめて怒り始めた。
「邪魔すんな! そこを退け」
「いけません。姫様はまだ服を着替えていないんです」
「だから?」
「だから?……もーっ! 自分だけ着替えちゃってずるいじゃないですか!」
「はあ? ごちゃごちゃうるせーなー」
 彼はセレナの手をふり払ったが、侍女は懸命に彼の前に立ちはだかり、姫を守ろうとした。王子はまとわりついてくる侍女を見て「ああああー」と苛立たしげに怒鳴る。アリシアは木陰からその様子を見て、ハラハラしながら手をのばしたり、引っ込めたりする。
 最初はセレナの身を心配して青ざめていたのだが、ウルフェウスは刃向ってくる侍女をぶつようなことをしなかった。それどころか、徐々に彼女の動きをからかってふざけはじめた。セレナに追われて逃げつつ、不意に反転して、彼女の隙をつき、くるくる回っている彼女を笑う。その笑みが優しく見えて戸惑った。
 彼は本当に悪魔なのだろうか、と。
「姫」
 不意に背後から声がして、アリシアは驚きながらふりむいた。将校が黒い布を手に傍に来た。姫は彼から身を隠すようにしてうつむいた。
 将校は彼女の前に布を置いて話した。
「配慮が足らなかったことをお詫び申し上げます。その……これは女性用の衣類ではないのですが、ミタルスクでは男女とも同じ形状の上衣を身につけると聞きましたので……少し姫には大きいかと思いますが」
 黒色の短衣は男性のものだ。襟元と袖口に異国風の刺繍が入っている。ミタルスクと国境の近いこの地方ではよく用いられる衣服だという。姫はその衣類を手にすると、背後でふざけている王子たちを見て、素早く抱きしめた。将校は姫を手招きして着替えるための場所へと案内する。姫はいそいそと立ち上がって、その場所から離れた。
 将校の背中に隠れて、小屋の中に入る。将校は人を追い出して、姫のために場所を開けてくれた。身につける方法を教えて、簡素なベルトを渡す。姫は慣れない衣装を手に持って、一人で着替えはじめた。
 男性用の短衣を頭から被って袖に腕を通す。しかし、その服は姫には大きすぎたのか、胸元が広く開いており、肩が落ちてしまいそうだ。胴衣とは別の布がひらひらしている。ふくよかな布を左右から巻きつけるようにして体に沿わせる。着付け方を説明されていたものの、姫は上手く着ることができずに戸惑っていた。
 ベルトをどのように巻いたらよいのかわからなくて、そっと扉の外にいる将校を呼んだ。
 将校は姫の身を守るために、扉の外に立って待っていてくれた。姫は小さな声で「こんな着方でいいのですか?」とたずねた。将校は少しふり返り、彼女の姿を見るとぷっと吹きだして笑った。突如、顔に火がついて扉を閉めてしまった。
 いきなり笑われるほど、変なのか。
 扉の向こうで声がした。
「姫、大層よくお似合いです……黒い色も素敵でございます」
「お世辞はいりません!」
「いいえ……いいえ、本当でございます。どうぞここを開けてください。少しだけ直したい場所がございます」
 恐る恐る扉を開けて、彼を中に入れた。将校は姫の肩の位置を合わせて、袖を縛りなおす。体に巻きつけていた布の一部を取り払い、むき出しになっている腕を両脇から包むようにして結んでいく。胴衣の模様だと思っていたものが腕に沿って両側に二本の筋にそろった。袖の大きな衣類だ。細身の彼女の体をさらに頼りなく魅せてしまう。
 細い胴にベルトを巻きつけ、胸元の布を少し整える。胸に手をのばしたとき、姫に睨まれ、将校は少し咳払いしながら「失礼します」と口にした。指先で布をつかんで左右の合わせ目を綺麗に整えた。
 肩も腕もほぼ丸見えだ。膝よりも少し短い。足の形が丸見えになってしまい、姫は恥ずかしく思いながら両足をすり合わせた。公式にこのような形で人前に出たことはない。彼に膝を見せると思ったら、恥ずかしくてたまらない。
 将校は彼女に皮で編んだサンダルを用意して、足元にしゃがみ込んだ。
「ミタルスクでは、王族もこんなに大胆な服を着ますか?」
「えーと……王族は……あ、ヴァルヴァラではもっと肌を出した服を着るようですよ。長方形の布を一本の飾り紐で縛りながら着るのです。腕も脇も肩も鎖骨も丸見えです。国土の大半が暖かい国なので、もともと裸体で過ごすことに抵抗がないのでしょうね」
 彼は姫の小さな足を丁寧に包むようにして、サンダルをはかせた。用意が整うと姫は真っ赤になって鏡の前に立つ。肩のラインも足も全て見えてしまっている。今まで、黒い服を着たことがない。不思議な気分だった。見たことのない自分の姿だ。
 ウルフェウスの国ではもっと肌が出るという。姫は恥らって頬が真っ赤になった。レースもドレープもないシンプルなシャツだったが、異国の刺繍がどことなく開放的な気分にしてくれる。
 小屋を出たら、王子はまだふざけて走り回っていた。セレナは一人で必死になっているが、ウルフェウスも周囲の兵士らも彼女が必死になればなるだけ大笑いだ。
 その様子を遠くから見て、アリシアは再びもやもやした気分になる。
 王子は高貴な身なりに変わっても、その雰囲気は相変わらず下賤である。侍女をからかっている彼の姿はお世辞にも優雅な貴人には見えない。ただのいたずら小僧だ。
 将校がにっこり笑って独り言を口にした。
「仲の良いことだ。もうすっかり打ち解けている」
 彼の言葉を聞いてドキッとした。セレナは彼に恐怖心がないようで、力いっぱい罵りつつ、両手を振って彼を叩いている。彼らが半月近く一緒に旅をしていたことを思い出した。
 将校は近くにいた部下に「姫の馬を連れてまいれ」と命じた。姫の周囲に馬術に優れた騎士を配置し、将校自ら姫の背後について守ることになった。姫は彼の背後でそれらの話を聞きながら、セレナとウルフェウスを見つめる。
 城内ではあまり見ないセレナの生き生きとした表情に戸惑った。
 彼女は鮮血刃の悪魔を相手にしても、まるで恐怖を感じていない。それだけでなく、王侯に対するような謙った態度もとっていない。本当に仲の良い兄妹のように見えた。こんな短期間に彼らはどうしてそこまで仲良くなってしまったのか。
 城内の教育を受けたセレナが他国の王子にそのような無礼な態度をとるということにも驚いたが、悪魔と呼ばれた少年がセレナを許していることも信じられなかった。普通ならば罰されるような無礼な態度も、彼は許している。
 二人の間には姫が理解できない関係が生まれているのではないかと思った。姫はその疎外感に悩む。今までずっと自分の傍にいたはずの彼女を見知らぬ男性に突然奪われてしまった。姫は複雑な気持ちで、口を尖らせる。
 悔しかった。
 セレナをここまで連れ戻しに来たのは自分なのに。
「あ……姫さま!」
 セレナがアリシアに気がついて、大きな声をあげた。彼女は背後の木陰を見てから、もう一度アリシアを見つめ、走り寄ってきた。姫は固まっていた頬を動かして、取り繕うような笑みを浮かべた。嫉妬していたことを悟られぬよう、穏やかに微笑んでみたが、胸の奥でずっしりと焼けつくような痛みが広がる。
 侍女は自分よりも、王子を主として選んだのだろうか。自分は彼よりも価値がなく、劣っているのだろうか。本当は、自分は誰にも愛されていないのではないか。仲が良いと思っていたのは、自分だけだったのではないか。
 セレナは作っていた白い巻きスカートを抱いて、不安そうな顔をしていた。彼女は落ち込んだ顔でかしこまる。しばらくして、アリシアははっとして口を開いた。彼女の気持ちが理解できたのである。
「あ……ち、がいますよ、ふ、服を借りたのは……出発の時刻を遅らせないためです。セレナ、急いで用意してくれていたのに、ごめんなさい、勝手なことをして……」
 セレナは小さく首をふって恥ずかしそうにうつむいた。もう一度「そのスカートができたら、着させてくださいね」と言い直した。セレナはにっこり笑って頷いた。彼女の笑みを見て、安心した。
 視線を動かしたら、彼と目が合った。
 ウルフェウスはぼんやりした顔でアリシアを見つめたあと、軽く咳払いして立ち去ってしまう。それまで、無邪気な顔でセレナと一緒に遊んでいたのに、アリシアを見る目は冷たくなってしまったように感じられた。
 やはり、最初の出会いで生意気な言葉を彼にかけて、嫌われてしまったのだ。
 アリシアは不意に泣きそうになったが、歯を食いしばって我慢した。セレナがきょとんとした顔で首をかしげる。彼女に問いかけられる前に、顔をそむけて将校の傍に駆け寄った。将校は姫の馬に鞍を乗せて、準備をしてくれていた。彼に手を貸してもらい、馬の背に乗る。姫は気を取り直し、セレナに手をのばして乗馬を誘う。
 侍女は恥ずかしそうな笑みを浮かべつつも、姫の後ろに一緒に乗った。


 裾の短い黒衣を身につけ、姫は馬の背に横座りになって、騎乗する。そんな乗り方では、馬の速度は出せない。だが、王子は馬の速度に文句を言わなかった。半月近く彼の近くで、早駆け馬を操って従事していた兵士らは含み笑いで王子の変化を読み取っていた。
 気楽な帰路だ。将校らも平時の速度に落として、軍を移動させる。
 滅多に軍が移動しない国ゆえ、農民たちがびっくりした顔で軍隊を見送る。水を求める王侯の使者を丁寧に接待し、村の長が事情を聞いていた。
 姫と王子は殿で将校らと共にいたのだが、互いに口をきくことはなかった。
 今まであけっぴろげな態度で親しみやすい男に見えていた王子が、急に殻の中に閉じこもるように無口になった。セレナも彼の異変に気がついて、不思議そうな顔で「お疲れなんですかあー?」と無邪気な質問をした。
 姫は彼の傍にいくことを控え、馬を操って将校の陰に隠れていた。その様を見て、王子はイライラした顔で不機嫌になっているのである。
「宿場まで、あとどれほどだ」
 休憩に立ち寄った村で水を飲みながら、王子は将校に問う。
 将校は太陽の位置と地図を見ながら、王子に示した。
「今はこの位置ですね。この先の丘を越えれば湖が見えてきます。その対岸に今宵の宿をとりました」
「ふー……俺は先に行っていてもいいか? 疲れた。もう寝たい」
「かしこまりました。道案内と警備のものをつけましょう」
 将校はすぐに部下を王子につけようとしたが、ウルフェウスはイライラしながら片手を挙げて彼の動きを遮った。将校は言葉を飲み込んで、王子の動きを見る。
 ウルフェウスはしばらく沈黙したまま、一人で悩んでいた。
 彼はその後、言葉を覆す。傍にいる男を睨んで口を開いた。
「やっぱり、いらない。もう出発しろ」
「はい……」
「お前のマントを姫に渡せ……俺の女をこれ以上見るな」
 王子の怒りの意味を知り、その将校はぞっとした顔で青ざめた。彼としては姫に色目を使った覚えはないのだが、王子の目は怒りで燃えている。姫に男性用の上衣を渡し、その肌をさらしたことで彼の不評を買ったらしい。たしかに、今の姫は妙な色気があり、傍にいる兵士らがそわそわしているのがわかる。
 背の高い馬の上で彼女のふくらはぎが丸見えになっている。横座りになっても膝の隙間から彼女の太ももがたまに見えたりするのである。可憐な肩はほぼ丸見えになっており、風が吹くと黄金の髪と共に黒衣がふわりと持ち上がるように膨らんでいく。ほっそりした上腕と豊かな胸の形が露わになる。馬に揺られる上体は、ベルトでその腰の細さが強調されている。それは今までの姫にはない女性らしい奔放さである。
 将校は大急ぎで自分の肩からマントを取り外し、姫の元へ行こうとしたが、すぐにその襟首を王子に握って止められた。ウルフェウスは彼からマントを奪い取り、無言のまま彼を睨みつける。将校は王子の視線をうつむいてやり過ごした。言い訳は許されないだろう。
 王子は長いマントを手に持って、姫に近づいていく。だが、アリシアは突然、挙動不審になって彼から逃げてしまった。その態度はあからさまである。
 王子はちっと大きな舌打ちをして、セレナの膝にマントを投げつけた。
「姫の体を隠せ」
 簡単にそう命じて、彼は立ち去った。セレナは重たいマントを手に持ち、唖然とする。
 存外に繊細な精神を持っている男だと彼女は思い直したのだった。


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