二輿物語


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31 睡魔の悪戯




 実際のところ、彼の体力は限界だった。
 ウルフェウスは早掛け馬で二ヶ国間を往復し、また、謁見の間でミタルスクの皇太子とその警備兵を相手に戦ったにもかかわらず、大して休息もとらずにとんぼ返りしている。行きも帰りも命の保証はないという極限の中で、部下を引率した。その間、彼が心から頼れる人間は誰もいない。後方支援はほとんどなく、全て一人で計画し、実行し、責任を負った。
 体力も集中力も切れかかっている中で、念願だったアリシア姫に出会ったのである。
 しかも、惚れた。一目ぼれだ。
 予想以上にかわいい。
 それで心身ともに一気に興奮状態になったわけであるが、同時に、針が振り切れてしまったわけだ。いかに神経が一本抜けていると思われるような図太い戦好き男であろうとも、これほどのストレスにさらされ続けることは稀である。
 いつもなら、戦を治めた帰路では存分に羽を伸ばして、ぐーたらと帰ってくるところを、意中の女性が傍にいるというだけで品行方正に取り繕い、どうしたわけか、まともに官服なんかも羽織ってしまっている。
 だが、馬に揺られつつ、彼はうめいていた。
「うー、うー、うー」
 今すぐに寝床に転がって思う存分に惰眠をむさぼりたいっ!
 もう心に懸かる案件は消えている。外交官を二か国に派遣し、王に無事を知らせる文書を出し、集めた軍隊を元の守備位置に戻しつつ、ザヴァリア国の武人に全てを任せてしまったあとは、もう旅客としてだらだら旅を続けてしまっても許される身分なのに。
 気が抜けない。
 惚れた女に情けない姿は見せたくない。ましてや、姫は城外に出て、何とも色っぽい私服に着替えてしまっている。周りは無骨な男だらけで、気を抜けば、彼女をかっさわれるかもしれない。そんなことを黙って見過ごせるか。
 寝ている間に自分の女を他の男に寝取られることほど情けないものはない。
 それにしても、馬の歩行の緩さは何と心地よく眠気を誘うことか。これ以上ゆったりした速度に耐えられない。振り落とされたとしても、一気に全速力で駆け抜けたい気分である。眠気覚ましに、いや、本能のままに「いやっほー!」と怒鳴りたい気分だ。
「うー……はっ? どこだ? いまどこだ? どこにいるっ?」
 不意に頭がカクッと落ちた衝撃で目を覚まし、周囲に怒鳴りつけた。
 彼の周囲にいた兵士は笑いをこらえて控えていた。いつの間にか、馬の手綱を部下に握って、守られていた。実は馬に乗りながら、こっくりこっくりと舟をこいでいる姿は既に姫にも見られている。そして、とんでもない方角へ行こうとした馬を追いかけ、数名の兵士が彼を囲うようにして連れ戻し、慎重に馬を操っていたわけだ。
 意識を取り戻した彼は、真っ先に姫の姿を探した。
 アリシアと目が合った。だが、彼女は見てはいけないものを見たというような顔でそそくさと目をそらしてしまった。姫の背後にいるセレナはぱっくりと大きな口を開けて既に惰眠の真っ最中だ。うらやましいことに、姫の背中にもたれて、幸せそうな寝顔である。普段なら、主人の背中にもたれて寝るなんて、侍女の立場では許されないだろう。だが、セレナもまた極限状態を経験して、疲れ果てていた。
 ランファルは荷馬車の中で悠々と惰眠中だ。怪我をしている彼には遠慮なんてない。そして、ウルフェウスに従事していた兵のほとんどは国境で任を外れて休息中だ。
 今、最も辛い従軍を強いられているのは、王子その人である。
 それが国の引率者の辛いところだ。中央に戻るまで、最も長い時間を拘束される。
 日は既に落ちて、空は一面に茜に染まる。美しい夕暮れ空に細かな星の姿が浮かび上がる。ウルフェウスは顔を片手でこすりながら周囲の景色を見る。前方に湖の姿が見える。街を照らす灯がぼんやりと映りこんでいる。
 今夜の宿泊場所だ。ようやく体を横にして眠ることができる。
 王子は大きな口を開けて、欠伸をしたあとで、両腕を高く持ち上げて伸ばした。伸びやかな態度を見て、周囲の兵は明るい笑みを浮かべる。
「殿下、温かい湯も用意されているそうです」
「ん……あー、風呂か……一人で入ったら、溺れそうだ」
「お許しいただけるなら、ご一緒いたします」
「うん……」
 そして、また、すうっと彼は異世界へと入っていくわけだ。軽く閉じられた瞳を見て、その疲労を察した兵士らはそれ以上何も問いかけることなく、王子の馬を導いた。
 往路の強行軍に遅れて彼を見送っていた兵士らは、王子の姿を見て言葉を失う。彼が全力を出していたことを知っているのは、彼ら自身である。どれだけ力を振り絞っても追いつくことができず、能力差から馬術の優れた兵士に道を譲った。王子を見送った時は、本当にその速さを維持するとは思っていなかった。だが、その日数は彼が極限を維持していたことを示しているのである。
 王侯を相手に本業の常備軍兵士が音を上げたとは、彼らにとっては衝撃的な屈辱だ。それも、ただ馬を操るだけのことで。いつか、彼の元で本当に戦に従事することになったとしたら、その壮絶さはいかほどか。
 ヴァルヴァラで数万の兵を手足のように操り、大陸一の戦績を積み上げたという伝説の男を見て、彼らは気持ちを引き締める。その噂は伊達ではない。並大抵の努力では彼についていくことはできないと知る。
 だが、そのような背景をすぐに思いつくのは、同じ立場で能力を試された男だけである。力の差は厳然たるものだからこそ、兵士らは王子の実力を思い、服従するわけだが、同じ旅程を少し速度を落としてやってきた姫には彼が眠っている理由は怠惰以外に思いつかない。誘拐されたセレナの心労は理解できても、問題を起こした張本人の惰眠は許せない。
 そこが女の残酷さである。
 鮮血刃の悪魔なんかよりも、無垢な乙女の無知な思いつきの方がよほど残酷。
 王子としてはやっと安心できる場所に戻ってきて、気がゆるんだだけだが、理解できないものには理解できないのが彼の情ない寝姿の理由。婚約者の前で堂々と居眠りするとはけしからん、と恋に恋する乙女は考える。自分に全く興味がないゆえの行動であろう、と。
 旅中は彼の存在にドキドキしながら、何が起きるだろうかと緊張していた姫なのだが、いわゆる、期待はずれな結果である。なーんにも起こらないままに宿場に着いた。
 第一印象では、荒々しい野性味ある男性らしさと清々しい青い目に若干心惹かれるところがあったにもかかわらず、今はそのような強さも爽やかさも感じさせない惰眠ぶりだ。興味を持ち始めた異性の短所を見つけたとたん、評価が急降下するのはいついかなる時でも、女性に共通する残忍な特徴だ。もはや、姫の目にウルフェウスは全く魅力のない男として映っていた。
 無事に宿場町まで事故もなく、ウルフェウスを連れてこれたことに、将校はほっとして汗をぬぐっていた。彼だけは鮮血刃の悪魔としての彼の冷血ぶりを途中でかすかに感じていたので、生きた心地がしていなかった。姫を馬から下すときも、彼は冷や冷やしながら王子の動向を見守ったのだが、当人は数人の兵士に担ぎ下ろされている所だった。王子はもはや完全に寝入っていた。
 アリシアも手のかかる彼の姿を情けない目で眺め、大きなため息をついて顔をそむけてしまった。かすかに頬を膨らませて怒り気味である。
 王侯を泊める格式の高い宿へ辿りつき、警備兵を配置して二人を部屋に案内させる。
 行きは姫も軍事施設に泊まり、不自由な旅を強いられていた。だが、帰りは突然、普通の旅行に変わった。ようやく落ち着いた気分で滞在を満喫する。
 実は、その金も王子の懐から出ている。わかりやすく言うと、外国の王子ゆえに、あとで祖国に請求が行くわけだ。ウルフェウスが王宮に外交官を要求した時点で、彼の行動の背後にヴァルヴァラの金が使われることになった。ところどころで王子のわがままが通る理由も究極のところはその背後にヴァルヴァラの資金源が期待されるからなのである。
 いかに彼が身分を隠して無銭で旅を続けようとも、ひとたびその身分がばれるや、すべての請求は祖国に飛ばされる。だから、一般に王子は大した理由がないと国外には出してもらえない。国の金が国外に流れてしまうから。
 だが、そんな背景すらも実務に疎い姫にはわからない。彼の金を使っているとは全く気づくことなく、普段通りに自我を押し通した。
 王子と一つの部屋を使うと言われたときも、そっけなく「いやです」と答えた。
「結婚前の男女が一つの部屋で寝泊まりするなんて許されません」
「いや、しかし」
「婚約者としても、まだ正式に文書を交わす前です」
 取りつく島もなく跳ねのけた。
 部下からするとそれでも婚約者には違いない。王子の寝入りっぷりからすると一晩一緒に寝かせても、おそらく全く不安のないような状態である。だが、姫は頑固である。
 だから、彼らは王子を部屋に放り入れたあと、同じくぐったりしている侍女すら同じ部屋に放り入れてきたばかりか、部屋が不足しているので怪我をしているランファルまでも放り入れてきた。姫が泊まらないなら、その部屋に何人入れても平気である。そして、予定外の部屋を無理やり空けて姫を寝かせなくてはならなくなった。
 その犠牲になったのは貴族階級にいる将校だ。彼は自費で自分の部屋を取っていたのだが、それを姫に献上してウルフェウスの隣でハラハラしながら眠ることになる。
 そのようにして、広い王子の部屋には数名の従者がごっちゃになって眠ることになった。セレナも複数の男性に囲まれて眠りつづけていたのだが、彼女は豪気にもウルフェウスの顔を蹴ったまま、大の字になって眠りつづけた。
 だが、そんなときに事件が起きた。
 王子は明け方近く、ふと意識を取りもどしていた。隣で眠っている侍女の抜けた寝顔を眺めて軽く舌打ちしつつも、その頭を軽く叩いて自分の顎下に入っている彼女の手を退ける。実のところは、部下の無礼も旅中は慣れっこなのだ。
 そして、一人で勝手に朝風呂を浴びに出たのである。
 通常ならば、部屋に湯桶を持ってくるところなのだが、朝が早すぎる。この時間帯に目覚めれば、彼は部下を起こすことなく水場で簡単に身支度をしてしまう。彼はさっさと井戸を探しに出かけ、途中で湖の存在を思いだした。
 広々とした場所で水泳でもしようと思い直し、ふらふらしながら湖畔へ向かう。
 そんな時間帯に姫がそこにいるなんて誰も思わない。
 姫は今まで男だらけの中で旅を続けてきた。無我夢中で忘れていたが、女性として初めて意識する相手に出会い、はたと自分をふり返り恥じ入っていた。部屋に一人になると、ウルフェウスと出会ってからの数々の無礼や自分の姿を思い返し、七転八倒して恥ずかしがった。いや、真っ青になっていた。おかげで全く眠れなかったのである。
 半月以上同じ衣服を着ても、軍人は全く気にしなかったし、姫以上に汚い男も大勢いた。旅中は馬の上にいて、自分の匂いも気にしたことがなかった。将校も貴族とはいえ、突然の動きに対応できる物好きな類の方だったので、実は繊細さからはかけ離れた風来坊だ。姫の常識からすると一本どころか横道から外れて全く別の大街道を行くような男たちに囲まれて過ごしていた。
 髪も顔もほとんど洗わずに半月を過ごしていたことを思いだして、風呂に入ろうと思ったのに、セレナはぐーすかと異世界に飛んでいる。生まれて初めて姫は侍女を心の中で罵倒した。だが、彼女が疲れていることは理解できていたので、何とか一人で湯浴みをしたのだが、水量が足りずに髪が洗えなかった。何度もくしで頭をかいたりしたのだが、中途半端に濡れて乾いた頭皮はもうかゆくてたまらない。
 また日が昇れば移動が始まる。ウルフェウスの前で頭をぼりぼりかいている姿なんて見られたくない。だから、ほとんどの人間が寝静まっているであろう時間帯に、姫は意を決して水を探しに出かけた。
 井戸の水をくみ上げてみたが、今までそんなに重たいものを持ち上げたことがない。一度、釣瓶を落として水をくみ上げてみたが、その重さに疲れ果て、さらには苦労して取り出した水の量を見て、泣きそうになった。顔を拭えばもう終わりだ。
 改めて、自分の非力さに絶望した姫だが、うっすらと白んできた霧の景色の向こうに豊かな水の姿を認め、恥を忍んで湖の周囲で水浴びすることにしたわけだ。
 そんな場所に、彼が来るとは思っていなかったから。


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