二輿物語


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32 一度の誤り




 湖畔はまだ朝日が入っていない。それでも、かすかに白んだ明け方の霧のせいで夢幻の景色が広がっていた。ぼんやりした柔らかい空気の中、穏やかな気分になる。清涼な大気が少し肌寒い。水は素晴らしい透明度で底が全て見えていた。色とりどりの小石が転がる。
 最初、姫は水辺にしゃがんで自分の髪を少し水に浸し、丁寧にくしでといていた。しかし、身につけている服が膝丈なので油断して、水の中に足を踏み入れてしゃがんでいたら、立ち上がるときに水底に足を取られてしまった。盛大な水の音と共に、転んだ。
「きゃあっ!」
 誰もいない湖畔に女の悲鳴があがる。誰かが助けに来ることはない。
 姫はずぶぬれになりつつも、浅瀬で起き上がり、一人呆然としていた。濡れた服から雫が落ちている。困った顔で彼女はあたりを見まわした。
 薄い霧の中に人影はない。岸辺に咲く黄色と白色の可憐な花が、朝の風でかすかに揺れている。
 岸辺沿いに歩いて、大きな岩の陰になる場所を見つけた。姫はもう一度辺りを見つめて、着ている服を脱いだ。濡れて重くなった衣類を絞って、岩の上に広げる。
「乾くかしら? どうしよう……」
 不安に思いつつも、姫は服を叩いて伸ばした。濡れてしまったものはもうどうしようもない。できる限り絞って乾かしている間に髪を洗うことにした。
 改めて、澄んだ水の中に裸体を入れると、気持ちよかった。
 腰の下まで水に沈んでみた。水は肌を切るように冷たい。それでも、頭の奥はすっきりして目が覚めた。湖底の石は色とりどりで、足の裏で踏んだら、丸っこく感じられた。すべすべしたでこぼこの感触を足の裏で楽しむ。
 彼女は手に櫛を持ったまま、体を半分沈めて、髪を水と共にといた。髪の根元からすすぐようにして何度かといていたら、気持ちよかった。髪のきめをそろえるようにして、髪を洗っていく。光る水の中で、黄金色の髪が繊細に揺れていた。
 自分の髪を眺めてきれいだと思った。
 髪を洗い終えてから、彼女は少し悩んでいた。もう、外に出て宿に帰るべきだろうか。でも、服はまだ濡れている。
 姫は突然、吹っ切れて笑顔になった。櫛を岸辺に置き、水の中に入って遊ぶ。今まで、誰にも許されたことのない遊びだ。それが、今は誰にも止められないということに気がついて、水と戯れて遊んだ。大きな水の中で腕を動かしたら気持ちよかった。彼女は泳ぐことはできないが、水に体を浸してふわふわしていたら何だか自由になったような気がした。
 今まで、姫が国内を移動する時は、たくさんの護衛が彼女の周りを取り巻いて、囲い込み、決められた日程表をこなすように強制された。
 だが、軍人たちは自由だった。もともと、王侯の世話には長けていない人間たちだ。王族の姫が何をしていても我関せずで、泊まる場所だけを用意して姫を放り出した。
 そのそっけなさに戸惑い、一人で四苦八苦しながら生活を経験した。今まで、自分は一人では何もできないと思っていた。だが、この半月は自分が動かないと、誰も何もしてくれなかった。
 城の外に自由がある。今まで知らなかった自由な世界。
 霧深い水辺に光がさした。姫は背後をふり返り、林間を通る眩さを目に入れる。朝日は彼女の白皙の肌に当たり、玉水に分光した七色の輝きが弾け飛ぶ。淡い霧に色が付き、視界がすっとぼやけていく。闇が消え、大気は光に染まり、白い世界に包まれる。
 その中に、彼女の柔らかい肢体が、キラキラした光をまとって浮かび上がっていた。湖面に反射する明るい女神の裸体。水面を覗くようにしてしゃがめば、金色に光る髪が水の中に滑り込んだ。アリシアは自分の髪を水の中で撫でて、中に潜った。
 水の中で息が苦しくなると水の上に顔を出し、真上に広がる青空を見る。
「わぁ……きれい」
 かすかに桃色に色づいた青空に柔らかい綿雲が浮かんでいる。金色に色づくその雲がゆったりと流れていくのが見えた。朝の空がそんなにきれいだと知らなかった。
 姫はふと我に返り、起き上がった。
 そのまま、ぼんやりと空を見ていたかったが、水の温度が冷たい。冷えた体を少しさするようにして水の中を歩いていく。気を抜いて遊び過ぎた。
 水が、ざば、ざば、と大きく動いていく。
 その狭間に、ざくりざくり、と別の水音が聞こえてきた。その動きは速い。大きな生き物がこちらに向かってくるような。姫は突然、恐怖に取りつかれて背後をふり返る。霧の中に何か大きな化け物がいるのではないかと思った。
 急いで水から出ようとして走り出したが、そんな姫のすぐそばを何か黒い物体が通り過ぎていった。思わず上がりそうになった悲鳴を飲み込み、姫はその場でうずくまるようにして立ち止まった。
 岩場に大きな手をついて、黒い髪の男性が起き上がった。その指には金と銀で作られた指輪がはまっている。その肘から肩にかけて、繊細な文様で飾り文字が淡い墨で施されていた。荒々しい呼吸をして、肩で息をしている。長い髪から滴がこぼれ落ちていく。
「ハアッ……ハアッ……ハア」
 水から腰骨が外に出てきた。形の良い臀部は足を動かすと強く引き締まる。その人は全裸だ。太ももの脇にもくすんだ入れ墨が入っている。異国の紋章を体中に彫りこまれていた。そんな野蛮な人間を見たことがない。
 彼は体を外に出すと、盛大に髪を振り、雫を飛ばす。背中から滑り落ちる水の艶やかさに彼の裸体が照り輝いて見えた。まるで彫像のように美しい男だ。
 思わず見惚れてしまったが、ふと状況に気がつき、姫は悲鳴をあげた。
「きゃ……」
 大きな声を出そうとしたのに、途中でその声は小さくなってしまった。腹に力が入らない。とっさに水の中に体を入れて自分を隠そうとしたが、透き通った水の中では行き場がなく、彼女は真っ赤になって体を抱きしめた。
 黒髪の男性は女性の悲鳴を聞いて、少し背後に顔を向けた。濡れそぼった髪の隙間から、澄んだ水の色を見つけたとき、姫の頭の中はパニックになった。思わず、頭の先まで全て水の中に入れて隠れてしまった。
 ウルフェウスは濡れた髪をかきあげ、額に彫りこまれた太陽紋を外に出した。そのまま、濡れた顔を片手でぬぐい、水に沈んだ女性の姿を見つめる。肩で息をしながら「え?」と一言つぶやいた。水面に広がる金髪を見て、彼は突然顔色を変えた。彼女の傍に駆け寄り、腕を握って水の上に引き上げた。
 アリシアは強い力に引っ張られて、抵抗できず、そのことに恐怖を感じた。彼に逆らえない、という恐怖だ。しかも、水の中に入って体温を奪われ、唇から何からぶるぶると震えてしまった。寒いし、怖いし、恥ずかしいし……という状態だ。
 ウルフェウスは姫の体を引きあげると片腕でそのまま強く抱きしめる。震えている姫の体に触れて「うわ、つめて」と耳元でささやいた。同じ水の中にいたのに、彼の肉体は燃えるような熱を帯びている。その体温に包まれ、姫は思いがけず体から力が抜けた。その温かさに安心して彼に身を預けてしまった。
 王子はしばらく黙ったまま、ぼうっとしている姫の細い肩を抱いていた。
 体は密着しているのだが、姫は今まで男性に抱かれたことがない。初めての体験で自意識がふっと飛んでしまった。この後、どうしたらいいのかわからない。彼の体温は気持ちいい。体の震えが徐々に収まってくると、少し眠くなった。
 夢みたいだった。現実とは思えない。


 一方、ウルフェウスもまた、この非常識な状況の理解に苦しんでいた。
 水にぬれた乙女を抱きしめ、素早く周囲の様子を探った。記憶違いでなければ、その女性はアリシア姫のはずなのだが、彼もまた混乱した。姫がどうしてこんな場所で一人で水浴びしているのか。しかも、無防備にも全裸になって一人で震えるほど、だ。
 ありえない。
 彼女を取り巻く危険を探し、鋭い目つきで状況をさぐる。今は彼も丸腰で武器を持っていない。ウルフェウスの目は突然大きく開かれて、緊張した。この状態で姫を守らなければならない。そのことに内心恐怖を覚えたのである。
 が、岩場の上に広げられた黒い衣類を見たとき、彼の表情がふっと元に戻った。それは、不器用に広げられた布の姿だ。彼女がここにいるのは、自分の意志ではないか、と思ったら気が抜けた。姫に刺客はいないだろう。彼は改めて腕の中にいる女性を見つめる。
 どれほど長く水の中にいたのか、彼女の体は冷え切っていた。
 純真無垢なその女性はぼんやりした顔でウルフェウスを見上げていた。突然するどい顔つきに変わった彼の表情の変化を見て、きょとんとしている。その気の抜けた表情から察するに、彼女は今まで誰かに命を狙われたことはないだろう、と思えた。
 それに、その体はまだ男を知らない。
 こんな場所で男性に襲われたらどうなるか、わからないのだろう。
 王子が姫の体を見つめても、彼女はきょとんとしたまま無防備だ。かえって、ウルフェウスの方がその状況に照れてしまった。その肉体は女性らしい柔らかさで、彼を魅了する。豊かな胸の形に気がついて、思わず息をのんだが、彼女は隠すことも忘れて彼の顔を見続けていた。その視線が無垢すぎる。全く汚れていない女性だ。思わず、頭に浮かんだ欲望を飲み込み、見ていないふりをした。
 王子は彼女の無知を恐れ、改めて彼女を強く抱きしめる。彼女を誰かに傷つけられる前に見つけてよかったと思った。
 抱いていたら、姫が小さく体を動かした。足をすり合わせて肩を小さくしている。ウルフェウスも泳ぎを止めたら体が冷えてきた。彼は少ししゃがんで姫の細い足をすくい上げるようにして抱き上げた。大きな水の音がして、姫の体が持ち上がる。
 濡れた白い柔肌が目前に晒され、その肢体に黄金の髪がまとわりつく。
 きれいだ。
 信じられないぐらい彼女は美しい。細い腕を王子の肩に乗せて、彼の目を見つめる。彼も岸辺に向かいながら、彼女の目を見ていた。その深い色合いの碧眼に吸い込まれていく。
 陸の上に足を置いたとき、パッと弾けるような天啓を受けた。
 彼女が欲しい。手に入れたい。
 いや、その女性は自分のものだと思い出した。王子は無抵抗な彼女を抱いたまま、自分の衣類を置いた場所に連れて行く。花の咲いている柔らかい草地の上に脱ぎ散らかしたままの衣類が放り出されている。その上に彼女の体を横たわらせると、素早くもそのまま彼女の上に覆いかぶさった。その行動力には、全く罪悪感も迷いもない。
 もともと、思い込んだら一直線の男だ。
 至近距離で彼女の目を覗き込み、冷えた頬を包むようにして温めた。姫はゆっくりと瞬きして彼を見つめる。小さな顔を撫でるようにして手を滑らせる。きれいな唇は水温のせいで紫色に変わってしまっている。彼女の体を温めながら、絡み合うようにして上体を乗せた。柔らかい胸の弾力を肌に感じる。
 冷たい唇を指で撫でていたら、自分の体が徐々に熱くなった。細く冷たい彼女の足に自分の足を絡ませる。自分の熱が彼女に伝わっていくのを感じ取る。彼女の体温が自分の肌に移るのを感じる。
 手に入れる……彼女を自分のものにする。今すぐ。誰かに奪われる前に。
 王子の指先で彼女の唇がかすかに動いた。
「あ……あの……もうすぐ、朝食」
 姫の目に戸惑いが見えた。ウルフェウスはかすかに眉を動かし「うるさい」とささやいた。朝食? 今のこの瞬間に飯の話をするとは。そんなものはことがすんでからでも命じればすむ話だ。彼にとって、飯と女では、どちらの方が優先順位が高いのか?
 いや、この場合は絶対的に女の体を後回しにしなくては、国際問題になってしまうのだが。この悪童にとっては、そっちの方が些細である。結婚なんてただの儀式だ。男にとって子作りとは、したくなった時が吉日なのである。
 反論を続けようとする姫にイラついて、彼はその唇を押しつけるようにしてキスをした。そのまま小さな女性の頭を抱きしめ、顔をねじ込むようにして動かす。
 まるで獣のように。
 その荒々しい動きに姫はパチッと瞬きして、大きく目を開いた。彼女は自分の身に何が起きようとしているのか理解できていないだろう。その隙に、全部頂いてしまおうと思ったわけだが、次の瞬間、彼の背中に細い爪の刺激が強く走った。
「うっ……ってえええーっ!」
 いや、背中ではない。脇腹の弱い部分を力いっぱい引っかかれた。三本ぐらいの爪で。
 思わず、口を離したら素早く彼の頬にパチンと平手が入った。
 全く痛くない。
 だが、何とも心にズキっとくる痛みなのである。見下ろせば、可憐な姫の目にたっぷりと涙が湧き上がり、力いっぱい睨んでくるではないか。その迫力に思わずウルフェウスもひるんでしまった。いや、惚れた女でなければ、いくら睨まれても平気なのだが。
 彼女がなぜ泣くのか理由がわからず、王子は戸惑った。
「え? 何で? どこか痛かったか? まだ、ただのキス」
「無礼者! 下がりなさいっ! 私の前から消え失せなさいっ!」
 瞬時に男の頭に、しまったあー、と後悔が浮かぶ。姫は性的に無垢だと思い込んでいたが、途中で何をしようとしているのかばれてしまったようだ。ウルフェウスは飛び上がって逃げながら「違う違う違う違う違うっまだ違うっ」と哀れにも拙い言い訳を始めようとしたが、もう手遅れだ。今の彼は素っ裸の上、悪事はすべてバレバレだ。そして、姫は警戒心も高らかに「ケダモノ!」とごく当たり前の感想を叩きつけたのである。
 まさにケダモノ。後先も考えずに、すぐ飛び込む彼の癖が裏目に出た結果である。
 その後、姫は憤慨したまま、公然とウルフェウスを無視するようになった。そして、そのような態度を取られても王子はもはやぐうの音も出ないほど、落ち込むばかり。急いては事をし損じる、の典型であった。
 考えてみていただきたい。国境から中央の王宮までは姫の足で半月である。
 好きになった女性に、その期間をずーっと無視され続けるという、心のいたみを。


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