二輿物語


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34 憂鬱な夜




 その夜。アリシアは自室から宮廷内の庭を眺めてため息をついた。
 眼下に見える庭木は、ウルフェウスによってひどく荒らされてしまっている。彼はわざわざアリシアの視界に入る庭を選んで傷つけていた。乱暴な彼の態度は自分に対する嫌悪に満ちている。アリシアは哀しくなって窓辺から離れてしまった。
 ベッドに倒れて目を閉じる。指先で唇に触れると、彼の熱を思いだした。突然、顔が熱くなった。湖畔で彼に抱きしめられた時のことを忘れられなかった。姫は真っ赤になって、唇から手を離す。突然、彼にキスをされるとは思っていなかった。
 前後の脈絡もなく、彼は突然行動を起こした。お互いの思いを伝えることもなく。
「どうして、あんなこと……」
 いくら考えても答はわからない。いや、聞きたい答は一つだ。だが、その答を彼は口にしない。キスをしたのは、アリシアを愛しているからなのか。
 いや、姫の常識では、出会ってからたった一日で恋に落ちるわけがないのだ。慎重な彼女にとって、そんな短期間で進展する恋なんて、信用できない。彼は最初からアリシアのことは政略上、手に入れなければならない女として認識していたのだろう。心を通わせる必要も感じることなく、性急にその肉体だけを欲したのかもしれない。
 女ならば誰でもいい、と。
 覚悟はできていたとはいえ、いざ、その事実が目の前に提示されるとひどく傷ついた。少しだけ、彼に愛されたい、と思い始めた矢先のことだったのだから。
 彼はアリシアがどんな女であろうとも気にしない。彼が欲するのは、ただ、女の体のみ。世継ぎを生む女の腹が欲しいだけ。彼に自分の人格をすべて否定されたように感じた。
 しかも、それを拒絶したら、帰還後にアリシアの部屋から見える庭が全て彼に荒らされることになったのである。思い通りに行かない女に対して怒りを抱いているのは明らかだった。お前は黙って俺に抱かれればいいんだ……そう言われているように感じた。
 この先、彼に愛されることはないのだと予感した。胸が引き裂かれる。痛い。
 傍にセレナが来て姫の髪を撫でながら言う。
「姫様、元気を出してください。輝殿下にはまたすぐに会えますから」
「王子はまだ城にいるわ」
「え……そ、そうですか! よ、良かったじゃないですか」
「いえ、全然。早く帰ればいいのよ。もう顔も見たくない」
 アリシアはベッドの上で仰向けになって目を閉じる。セレナは神妙な顔で彼女の髪を撫でて髪をとく。セレナの指が優しい。自分をいたわるその優しさに慰められる。
 だが、不意に、アリシアは胸の奥に湧き上がるもやもやとした不快感を思いだした。セレナは彼と共に旅をした。二人が仲良くじゃれていた様子を思い出すと、胸がむかむかしてたまらない。彼女を救うためにアリシアは必死だったのに、当人は主の婚約者と旅を楽しんでいたのかもしれない。
 無邪気なセレナが疎ましい。女として、彼女に嫉妬しているのだと気がついた。セレナはウルフェウスとどんな時間を過ごしたのだろうか。彼はアリシアの他に好きな女性を作ってしまっているのではないだろうか。
 この年下の少女に。
 セレナに触られている場所が気持ち悪かった。思わず、口にしてしまう。
「体中が痛い」
 セレナはドキッとしてアリシアの体を撫でた。だが、もう彼女に触られたくない。
 慣れない馬に乗り、長い旅をしてきた姫は疲れのせいで少し熱が出ていた。セレナはびっくりして「医者を呼びます」と言って外に出て行った。彼女がいなくなるとほっとした。直後、無理やりセレナを追い出したことに気がついて、後悔した。
 姫は一人で自己嫌悪に陥り、涙を流す。ひどいことをした。もし、ウルフェウスがセレナを好きになっていたとしても、責められるべきはセレナではないのに。


 医者を探している途中、セレナは執事に会った。フィスは大使と共に異国からやってきた二人の王子を歓待する舞踏会の準備中だ。彼女は彼に声をかける。
「あのぉ、姫様に熱があります」
「ほう。それは大変ですな。医者を遣しましょう」
「お願いします」
「私もこちらの仕度が一つ落ち着きましたら、そちらへ行きますから」
 フィスの傍に料理長がやってきて、パーティー料理の相談を始めた。忙しそうだ。
 セレナはアリシアの体を心配し、開催間近な舞踏会を不安に感じた。体の調子も悪いのに、姫である彼女は休むことができない。王子と仲直りしていない姫が公然と恥をかきそうであるし、多くの人に接して疲れてしまうだろうと思った。
「姫さまって可哀想……好きでもない人と結婚なんてしなくてもいいのに」
 彼女は政略結婚に文句を言うことも許されない。それが、姫という人間の役割だ。
 セレナは女性として彼女に深く同情していた。女性ならば、誰だって、好きな人に思われて幸せになりたいと願うものだ。想ってもいない男性と一緒にさせられるなんて、こんなにひどい拷問はない。しかも、姫という立場では、国の世継ぎを生むために、その大嫌いな男性に身を許さなくてはならないという過酷な労働も課せられる。
 セレナの目から見て、アリシアはウルフェウスを毛嫌いしていたように見えた。王子がこの城にやってきたと聞いたとき、真っ先に「正式な招待状のある舞踏会以外に顔は出しません」と公言し、公然と王子を遠ざける理由をつけて、彼から隠れた。
 その後も、姫は王子を冷遇し、潔癖にも一度も文を出さなかった。
 だから、姫は彼のことを全く好きではない、と思っていたのである。侍女たちはその後も姫の恐怖を和らげるため、ウルフェウスの周辺を探り、彼にまつわるよい話を持ってきて聞かせたにもかからわず、姫の態度は一貫していた。
 美男子だと聞いても、性格の穏やかな男性だと聞いても、知性のある人間だと聞いても。
 普段、姫の周囲にいる侍女たちは彼女が好む男性の理想像なんて、手に取るようにわかっている。だから、多少脚色して、ウルフェウスの印象をそこに近づけようと苦心したのだが、姫の心は全く動かなかった。
 侍女たちの中には、そんな頑なな姫の態度に呆れる者たちもいた。特に年長の侍女たちは陰では「姫さまの潔癖ぶりにも困ったものね」と笑っていた。世の中には自分の思い通りの男性なんていない。よしんば、それに近い人間がいても、欠点の全くない男なんているわけがない。そんなことは、多少恋愛を経験し、男性との付き合いでもまれた年長者には周知の事実だ。
 セレナも衣装係という立場から、実はそんな姫の強情さに困っていた方だった。舞踏会のために、姫と王子の衣類を決めたいのに、主は全く相談相手にならず困っていた。だが、立場上姫を諌めることもできないし、女として姫の苦しみも理解できる。だから、しょうがないな、と今までは思っていた。
 だが、不可解なことに、姫は彼と出会ってから、態度が微妙に変わった。
 彼が噂通り美男子だと知って、認識が変わったのだろうか。彼女は婚約者とは舞踏会でしか会わない、と断言し、今まで頑なに王子の前に出ることを嫌がっていたのに、彼が帰国するとなったら、見送りのために謁見の間に出た。
 なぜなのか。
 姫にとって、結婚相手の男性は美しければ誰でもよかったのかもしれない。ウルフェウスの本質を全く無視して、見かけで彼に惹かれたのだろうか。セレナの主はそんな女性だったのだろうか。どことなく、哀しい気分になった。主の即物的な一面を知った気分だ。アリシア姫もまた尊敬されるほどの完璧な人間ではないのかもしれない。
 セレナは実際に旅で彼を理解する機会に恵まれ、王子に同情するようになっていた。彼は難しい性格をしていて、多少厳しい一面も持っているが、国や部下を大事にする男だと思えた。少なくとも、人として軽んじてよいような人間ではない。一人の男性として、彼と向き合わなかった姫の態度は無礼そのものだ。身分なんて関係ない。
 今までそんな態度を取っていたのに。姫は彼のことを嫌いだと思っていたのに。
 セレナはそんなことを思いながら、もやもやした気分で庭に出て行った。
 月が薄くてこの夜は大変暗かった。セレナはランプを灯して庭を歩く。王子に荒らされた庭はところどころ木や花が散らばっていて、避けて歩いていたら足元がふらついた。
 アリシアの好きな白いバラの咲く場所へ来たら、心が晴れた。可憐な姫の笑顔を思い出し、セレナは笑顔になる。彼女に花を積んで持っていってあげようと思った。姫が外見で男性に惚れるような女性であったとしても、それがなんだというのか。セレナはアリシアのことが好きだ。そのことを思い出し、明るい表情に戻る。主を喜ばせたい。
 だが、庭園の中に入ると先客が居た。セレナはランプを持ち上げて「誰?」と聞く。ランプに照らし出されて男性が振り返った。その人はウルフェウスだ。とっさに、彼がこの庭を壊しに来たと思った。セレナは真っ青になってあわてて叫ぶ。
「この花はダメです! ひ、姫様の大事な……」
「…………」
「あの……お願いです。ここだけは、壊さないでください」
 セレナは懇願しつつも、急いで綺麗な花を選び、つみ始めた。彼に荒らされる前に花だけは手に入れたかった。
 王子はセレナの様子を見て苦笑いする。白い花に手を伸ばし、花弁を握ってちぎりとってしまった。やはり、彼は乱暴者だ。セレナはドキドキしながら、急ぐ。
 しかし、ウルフェウスは手に入れた白い花弁を見つめて匂いをかいだ。彼は花の香りを気に入って花びらにキスをする。そんな反応は予想してなかったので、セレナはドキッとして手が止まってしまった。薄明かり越しに彼を見て緊張する。
 王子は花弁を手にして花壇の中を歩き回る。セレナは遠慮がちに「花の根が傷みます」と注意した。ウルフェウスはすぐに花壇から外に出た。意外にも素直だ。
 彼は木にもたれて花の匂いをかぎながら、セレナに話しかけた。
「ここはアリシアの部屋から見えるのか? 衛兵が教えてくれた」
「え、ええ」
「でも、全然窓辺に出てこないぜ。どの部屋にいる?」
 セレナは花を摘みながら、横目で王子を見つめる。彼は背の高い鉄柵ごしに建物を見て、彼女に「あれか?」と問いかけた。セレナは花を摘み終えて花壇から出た。王子は「あっちの窓か?」と言いながら、歩いていく。セレナは迷いながら姫の部屋を探す。明かりはついているが人影は無い。姫は寝込んでいるはずだ。
 ウルフェウスはセレナの傍に来て話しかけた。
「なあ、今の時間なら起きてるんだろ?」
 セレナは黙っていた。彼はちょっと哀しそうに「寝てるのか?」と聞き直す。彼は素直だった。彼が姫に好意を抱いていることが伝わる。そのことが哀しかった。彼の想いが報われないことをセレナは知っている。
 しばらくしてセレナは答える。
「今、姫様は……熱が出て」
「え……熱?」
「起きられないと思います。ここにいてもきっと会えません!」
 セレナは言い切って庭から出ていく。王子はあわてて彼女の後を追いかける。
 早足で歩くセレナを追って、ウルフェウスは問いかける。
「大分悪いのか?」
「…………」
「おい、黙ってないで教えろ」
「嫌です」
「はあ? あ、ちょ、ちょっと、待て!」
 王子はセレナの腕を掴んで引き止める。セレナは彼に腕を引かれて泣きそうな顔になった。正面から彼に睨まれて、セレナは震えながら目を伏せる。
 だが、セレナは哀しくなって叫んだ。
「もう姫様に構わないでください!」
「俺の妻になる女だ」
「王子は、王子は姫がお好きなんですか」
「うん」
「え? どうして……嘘でしょう。親が決めた相手だから、だから、結婚しなくちゃだめだから、だから、好きだって言うだけでしょう?」
 セレナは言いながら後ずさりする。
 ウルフェウスは苦笑いして首をかしげていた。彼はあっさりと答えた。
「理由なく好きになったらダメなのか?」
 既に、彼は彼女のことを好きなのだ、と理解した。あんなに拒絶されているのに。
 どうして彼は姫を愛したのか。いつの間に姫を愛したのか。美しい女であればそれでいいのか。セレナには彼がアリシアに惹かれる理由はそれぐらいしか思いつかない。
 姫は美しい女性だ。どんなに努力しても、その美しさには敵わないのだ。
 セレナは胸が痛くなって逃げてしまった。ウルフェウスは逃げる彼女の手首を握り、強く引っ張った。セレナは不意に庭のくぼみに足をとられて転んでしまった。
「きゃあっ!」
 ウルフェウスはセレナを抱きとめた。王子の胸に飛び込み、セレナはあわてて飛びのきながら真っ赤になる。王子が彼女に声をかけようとしたとき、彼についていた侍女のメンキーナが呼びに来た。
「殿下、夕食の仕度が整いました。皆様、お揃いでございます」
「ん……今行く」
 ウルフェウスは彼女の手を離し、歩いていく。セレナはドキドキしてうつむいていた。
 メンキーナはセレナの様子を見て首をかしげる。王子は通り過ぎる間際、セレナに「気をつけて歩け」と声をかけた。セレナは頷きながら涙が出てしまった。うつむいた顔を隠しながら、彼女はその場に留まっていた。メンキーナはセレナの様子を見て、眉をひそめたが、王子を連れて食堂へ急ぐ。
 一人残されたセレナは、王子が居なくなると泣き出してしまった。彼を好きになっていたと気がついて自分でもどうしていいのかわからなくなり、彼女はその場で泣き続けたのだった。彼は主の婚約者だと理解しているのに。


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