二輿物語


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35 喧嘩と惚気


2 喧嘩と惚気

 ウルフェウスは食堂に向かって歩きつつ、背後にいるメンキーナに話しかけた。
「なあ、メンキーナ……お前は夫と喧嘩したことはあるか」
「しょっちゅうです」
「どうやって、仲直りするんだ?」
「気がついたら、彼が謝ってます」
「お前にとっては都合の良い男に嫁いだもんだな。ちくしょう」
 王子はイライラしながら、傍に生えている低木に拳をぶつける。枝がざわめいたが、もうメンキーナはこの主におびえることはない。彼が八つ当たりするのは、木々だけだ。傍にいる奴隷たちは怯えていたが、彼らに手を出さないことはわかっていた。
 同じく従者のケタルは王子の背後を守りながら答えた。
「喧嘩をして熱くなってしまったら、感情的にしこりが生まれます。そうなると、女性の方から謝罪することはまずございません。理知的に男が腹をくくって謝るよりありませんよ。それがどうしてもいやならば、その女性とのお付き合いは諦めることです」
 メンキーナはケタルの言葉を聞いて、少しほっとした。騎士の教育を知っているケタルは一般女性の性質もよく理解できていた。彼女は自分の夫だけでなく、世の男性のほとんどは女性を守り助けてくれるのだと実感し、笑顔になる。
 だが、ウルフェウスにしてみると、自分の方から頭を下げるとは屈辱そのものだ。戦場において、彼は一度も負けを認めたことがない。一般的には惨敗と呼ばれるような状況に陥っても、是が非でも生き抜いて戦地を逃げ延び、きっちりと落とし前をつけて、借りを返していたタイプなのである。
 それがたかが婚約者を相手に、婚姻前に唇を奪っただけで、存在そのものを無視して八つ当たりされるほどの無礼を身に受けながら、なぜ、こちらから頭を下げて謝らなければならないのか。
 簡単に下げられる頭ならば、彼は大陸一の戦好きとはなっていない。下がらない頭を持っていたからこそ、その反発心で上り詰めた現在の地位だ。
 ウルフェウスはボソッと「もう破談で結構だ」とうそぶいた。いや、本心では、泣き叫んでいるのであるが。どうにもならない状態に彼自身もお手上げだ。もう、彼女を諦めなければならないのか。いや、それも負けず嫌いの彼からすると屈辱なのだが。
 普段、彼が王と会食する食堂は、王の私邸である北の棟にあった。これから王と内縁になるので、家族として扱われたのである。限られた人間だけを招き、直属の家臣や大臣らと親しく食事を交わす場所だ。だが、今宵はウルフェウスの他に、公式にピピネの訪問を明かすことになった。国賓をもてなすのは、国の行事の一つである。普段のこじんまりとした食堂ではなく、南に存在する宮廷の付属施設で会食をとることになった。
 普通ならば、姫もその場に出席するのが礼儀だ。しかし、彼女は熱が出ているという。またしても、彼女に避けられてしまっている。今まで、彼女の態度に我慢を重ねてきたウルフェウスもいい加減に呆れてしまった。
 彼は静かな口調で「扱いにくい女だな」と感想を漏らした。
 メンキーナとケタルは困った顔でそんな王子の背中を見つめた。姫を庇う言葉も思いつかず、かといって、同意するわけにもいかず、彼らはため息をついて互いに見つめ合った。王子も姫も頑固なところはよく似ている。
 渡り廊下を数人の集団が渡っていくのが見えた。
 ウルフェウスは足を止めて、彼らを見つめる。それは兄の世話をする従者たちだ。ピピネはヴァルヴァラ風に髪を高く結い上げ、ザヴァリアの礼服を身につけている。国を代表する男としてふるまうようだ。弟はその姿を見て、小さくため息をついた。廊下の先でピピネが弟を見つけて、足を止める。
「ウルフ、髪は結い上げなくてよいのか」
「この国は簡単に一つにまとめるだけで許される」
「そうか……だが、我らは今宵は旅客だ。気を引き締めよ」
「かたっくるしい」
 ピピネはもう一言口にしようとしたが、従者たちに視線を移して後の言葉を飲み込む。兄はさっさと弟に背中を向けて、歩き出した。二歩進んでから、弟をふり返る。無言のうちに、ついてこい、と命じられる。ウルフェウスは仕方なく、彼の背後について歩いた。
 従者たちは二人の王子の進路を邪魔することなく、隊列を組み直して後に続いた。メンキーナは王子から一番離されることになったが、遠目にウルフェウスの姿を見守った。不器用な彼の性質をもう理解していた。予想外に厳しそうな彼の兄を見て、ハラハラしながら、ウルフェウスの後をついていく。彼が叱られないかと見守る様はまるで母親だ。
 兄は弟の前を歩きながら話しかけてきた。
「父上に、お前と私の居場所を封書で伝えておいた。クロル大使の権限で、早駆け馬を用意してもらったから、今宵、大使に会ったら、礼を伝えておくように」
「うん」
「父上からの返答は不要だと記しておいた。月例の舞踏会に出席したら、すぐに帰国する。その前に必ずアリシア姫殿下からお許しをもらえ。喧嘩したまま帰国するな。よいな?」
「うん……」
 ウルフェウスはがっかりした顔でうつむいた。自分の足元を見つめて、落ち込んだ表情だ。彼の兄はすぐに弟の異常に気がついた。ピピネは厳しかった目つきを少しだけ和らげて「何が原因だったのだ」と問いかける。
 だが、弟は黙ったまま答えない。しばらくすると、怒りを含んだ瞳で前方を睨み、思いを断ち切って兄の前に出た。ピピネは弟の背中を見て、小さくため息をついた。
「お前も……たまには素直に甘えればよいものを」
「うるせえ。仲直りすればいいんだろ? 頭でも何でも下げてやるよ……政だからな」
 彼はそのようにして割り切ってしまった。その言葉を聞いていたメンキーナは密かに胸が痛んだ。女として、そんな理由で謝られても、姫は納得しないだろうと知っていた。何が原因で二人の仲がこじれているのかは理解できなかったが、メンキーナにとって、政治を前面に押し出すような男性の理知的な側面は、何とも味気なく感じられるのだ。心を通い合わせることができず、表面上の付き合いを強制されそうで。
 謝罪は、互いに理解し合い、許しあう儀式の一つだ。どちらが先に頭を下げようとかまわない。だが、その共感がなければ、二人の仲は元には戻らない。彼女は夫とそのようにして、喧嘩するたびに仲良くなってきたのである。
 夫が体面を重んじて、頭を下げていたら、メンキーナは今頃、冷たい家庭環境の中で、夫には心をさらけ出すことなく取り繕って生きるような妻になっていただろう。だが、彼はいつも真摯に自分の心をぶつけて怒り、謝り、許してくれていた。だからこそ、メンキーナは彼のことが好きで、今でも彼には嘘をつくまいと思っているのである。
 姫と王子には、最初の喧嘩で嘘をついて取り繕ってほしくなかった。メンキーナは祈るような思いで、ウルフェウスを見つめる。彼女にとって、彼はもう守るべき主だ。
 罰されることを恐れつつも、彼女は思い切って声を出した。
「ピ、ピピネ殿下はっ、きっと、奥様、がい、いらっしゃいますよねっ! 喧嘩とか、なさったりしないのかしらぁ?」
 即座にケタルに睨まれ、小声で「余計なことを」と鋭く諌められた。メンキーナは真っ赤になってうつむいてしまった。確かに、異国の王子に話しかける内容としては失礼な内容だった。すぐに正気に戻った彼女は、その場から走って逃げたい気持ちにかられる。
 しかし、ピピネは隊列の背後から聞こえてきたその質問に怒るようなことはなかった。彼は小さく冷笑したのちに、弟を見つめて応えた。
「仲直りの方法がわからぬのか、ウルフ」
 賢い兄だ。メンキーナの言葉から弟の苦境を理解して、穏やかな笑みを浮かべる。だが、ウルフェウスは射抜くような目で「うるせえ」と兄を睨んでいた。素直ではない。
 ピピネは自分の話を始めた。はっきりいって、のろけ話だ。
「妻と喧嘩をすることは滅多にないが、彼女とはルールを決めている。放っておくと、妻は自分の感情を押し殺して、さっさと私に頭を下げてしまう。だが、私の方が悪い時もあるのに、そんなことはさせられぬ。私も立場上、部下の前で自分の非を認めることのできない場合がある。だから、二人でルールを決めた……どんなに怒っていても、公にはよい夫婦であること。喧嘩の続きは寝床ですること。お互いに許すまで床入りはしないこと。どうしても、謝れないときは、愛していると伝えること」
 ウルフェウスは「けっ!」と叫んで早足で兄から離れた。兄はそんな弟を追いかけて、大きな歩幅でついていく。従者たちは含み笑いをして黙っていた。恐れていた軍事大国に暮らす王子たちの日常を体感し、ほほえましくなったのだ。ピピネが妻の許しを請いながら、愛をささやいている様を想像するとおかしかった。
 実はピピネもまた政略上の理由で今の妻と結婚した。それも敵国の女だ。結婚当初は、二人がそれほどのおしどり夫婦になるとは誰も思わなかった。だが、ピピネの結婚は敵対した両国を友好にまとめ、彼の手腕と人格が評価されることになったのである。
 王子二人は、侍従たちから離れ、早歩きで口喧嘩を始めた。実は仲の良い兄弟なのかもしれないと思いつつ、メンキーナたちは二人を追いかける。若い王子たちの足運びは速い。
「素直に謝れぬなら、愛を伝えろ。間違っても『政略結婚だから』なんて、口にするな。私の弟がそこまでの愚かな男だとは思いたくないぞ」
「うーるーせええなあああ。他国に来てまで、のろけてるんじゃねーよ。国の恥だっ!」
「自国でこれほどあからさまにのろけられるか。外国だから口にできるのだ」
「ばーかかー、お前ーっ!」
「兄にむかって、ばかとはなんだ、ばかとはっ! お前はそろそろ、兄を敬えっ!」
 際限のない口喧嘩である。メンキーナたちは二人の背後を走りながら「殿下ーっ! 会場はこちらでございますー!」と叫んだ。曲がり角で飛び跳ねたら、二人の王子は競争しながら駆け戻ってきた。兄も弟に負けず劣らず、無邪気に勝気な性格である。


 大会堂は、カプルア城の南部にある宮廷の背後に存在する。階下に調理場が存在し、数百名の人間を一度に接待することが可能だ。外国からの使者だけでなく、年に二回は宮廷の始まりと終わりに、晩餐会も開かれる。
 国内外の貴族たちが社交として、王宮内に入れるのはその時だけだ。わずかなチャンスを利用して、自分の能力を売り込みに来て、王にお目通りを願い、宮廷に役職を得たり、軍使についたりする。立食となれば千人以上の来場者を数える。もちろん、間諜が入り込む余地も多いが、招待状を送りあって親睦を深める場所である。
 今宵は異国の王子の来訪を歓迎して催された食事会だ。贅沢な空間を区切って、軍事関係者や大臣とその妻、部下となっている官吏が出席し、百名前後の会食となった。
 ウルフェウスは、国賓として大会堂に入るのは今宵が初めてだった。公式の場で利用される場所にやってくると、彼はその周囲を守る衛兵の数や守備位置、建物の形状を素早く確認して隙がないかと考察する。ここは件の舞踏会にも使われる場所だ。事前に安全性を考察できる機会だ。
 既に、彼の頭は兄を守るために切り替わっていた。ピピネの傍に控え、対する脅威の有無を瞬時に判断しながら、背後にいる侍従らに兄の座席を確認させた。会場内に入って、ウルフェウスが最初に探した人物は、クロル大使だ。兄を促して、彼に礼を言う機会をさっさと作らせ、簡単に今回の騒動を詫びた。クロルは会が始まる前に、すべてを水に流し、穏やかな笑みを浮かべていた。そのクロルに外務大臣と軍司令官を呼んでもらい、舞踏会当日の警備状況などを先に確認する。
 執務には有能な男だ。兄も苦笑いしつつ、弟の動きには文句をつける場所がない。それでも旅客としては行き過ぎた行為に「まだ非公式な滞在だ」と弟の注意を引いた。舞踏会の当日、ピピネとウルフェウスの命を狙うものがいたとしたら、それはザヴァリア王の部下しかありえない。つまり、目の前にいる人物が敵なのか、と暗に問いかけ、弟の行為を諌めた。ウルフェウスはすぐに大人しくなる。当日の警備が滞りなく進んでいることを確認すると、あっさりと「これからよろしく」と挨拶して、自分の座席に引き上げた。
 兄と共に王の傍に座した。
 そつなく王に招待の礼を述べたあと、兄は席に着き、素早く弟に話しかけた。
「お前に舞踏会の主賓を勤められるのか見ものだな。普通の食事会にしてもらった方がよかったのではないか? 姫に恥をかかせぬよう、きちんと舞踏の練習はしているか」
「はあああ」
 ウルフェウスは答えることなく、大きな吐息をついた。彼の背後にいたメンキーナも憂鬱な気分で自らの肩にのしかかる重圧を感じた。舞踏を指導しているのは彼女だ。
 王の隣にいた王妃がコロコロと笑いながら、ピピネに話しかけた。
「舞踏が苦手なのは私の娘も同じですわ、ピピネ殿下。当日は私の故郷の郷土舞踊で遊ぼうと思いますのよ。堅苦しいダンスではありませんの。地元の民が祭に行う集団舞踊で、収穫祭を祝う楽しいダンスなんです。初めてでも、見よう見まねですぐに踊れるようになりますわ。どうぞ、殿下も気取らずに楽しんでくださいましね」
 ダンスの苦手な客人に舞踏を強要してしまったことを知り、王妃は王子の責務を軽くするために策を出していた。ピピネは王妃の配慮を知り、知的な目を輝かせる。この王妃は意外にもやり手だ。ピピネは「それは楽しみです」と返し、笑みを浮かべた。
 集団舞踊は音楽に合わせ、皆で輪になって踊るものだ。舞踏の格式はそれほど高くないが、収穫祭に用いる大抵の踊りはその土地の神に捧げられる。客としては神の踊りに文句のつけようもない。ザヴァリア国の郷土舞踏で旅情も高まるというものだ。ピピネはその後、王妃とその舞踏にまつわる会話を楽しんで、弟から注意をそらした。
 ウルフェウスも兄の嫌味から逃れて、ほっとする。彼はそっと背後にいるメンキーナに視線を送る。メンキーナは、姫と二人きりで踊れなくて残念でしたね、と小さく話しかけた。強がりな王子は、全くだ、と笑みを浮かべる。舞踏嫌いな彼の意外な台詞を聞き、メンキーナはうれしそうに微笑んだのだった。


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