二輿物語


INDEX
prev

37 恋の手解き




 ウルフェウスは自分の部屋に戻る途中、気になって姫の部屋がある方角を見つめた。庭を挟んで反対側の棟の奥に彼女が眠っている。
 今、その方角に明かりは全くついていない。月夜にぼんやりと陽炎のように黒い影が浮かんでいるのが見えるばかり。深窓の姫を囲って守る奥深い樹林の壁。垣根を越えて彼女に近づこうとすれば、衛兵たちに追い掛け回され、庭はめちゃくちゃになってしまった。この王子も黙ってつかまるような男ではなかったし、姫の寝所を守る衛兵は男の侵入者に容赦しなかったから。
 だが、衛兵たちは彼の正体と目的を知るとようやく「大人しく見るだけと約束してくださいよ?」と内緒で姫の姿を見られる安全な場所を教えてくれた。
 夜這いを警戒しているのだろう。だが、既に最高の条件で彼女を襲って失敗している。ウルフェウスにとって、彼女の心の壁は最高強度の城壁である。今の状態のままで夜這いに行ってもさらに嫌われるだけだ。
 どのように近づいたらいいのかわからない。
 彼女を手に入れるために、どうしたらいいのかがわからない。彼女の許しをどうやって求めたらいいのかわからない。そもそも、彼女になぜ謝らなくてはならないのかがわからない。彼女はかわいかったし、好きだったし、誰かに取られたくなかったし……自分の好意を彼女に伝えたかっただけなのに。
 恋愛の作法はややこしい。
「……熱はもう下がったかな?」
 廊下の窓辺にもたれてぼんやりと庭を見る。白い花がいくつか咲いて風に揺れていた。
 自分の母親も若い頃はあんなふうだったかもしれないと想い、ウルフェウスは優しい顔になった。生前の母親と過ごした記憶はない。物心付いた頃から母親は居なかった。母親が亡くなったのは、記憶にも残らぬほど幼い頃の話だ。生きていれば今回の婚礼について何を言ってくれただろうかと考える。
 アリシアを見舞いたかったが、訪問したら叱られると思って諦めた。彼は後ろ髪を引かれる思いで、自分の部屋に向かう。
 傍にいる侍従たちが心配そうな顔でウルフェウスに話しかけた。
「殿下、衛所から連絡が……夜に一人で抜け出していると聞いたのですが」
「ん? ああ、散歩だ」
 ウルフェウスは大して深刻な様子でもなく答えた。今更だと思った。この国に来てから既に何度も抜け出している。それまで問題にされたこともない。司教は不問にしていたし、王子も夜間の図書室で好きなだけ読みたい本を読んで過ごしたこともある。
 だが、姫の寝所に近い場所まで行っていたことがばれると、急に縛りが厳しくなった。
「城内とはいえ、お一人で出歩くことはお控えください。今宵から、寝所の隣に侍従をつけます」
「見張りか?」
「散歩の共にしてくださいませ」
 王侯の寝所に侍る家臣の姿は珍しいものではない。ウルフェウスも祖国では数人の侍従に交代で見守られながら夜を過ごした。そのうちの幾人かは、寝物語を口ずさむ詩人や芸術家たちだ。神経質な彼を寝かせるために、多芸の才能をもった部下が控えていた。 
 ザヴァリアで王子の隣で寝ずの番をするのは三人の奴隷とメンキーナだ。
 メンキーナはがっかりした顔で傍にいた。彼女が夫を愛していることは知っている。一晩中、夫以外の男性の寝所で過ごすとは彼女にとっても苦痛だろう。
 王子はその人選を聞いて「メンキーナを外せ」と答えた。
「間違いが起きたら嫌だろう? 俺も誤解を招くような行動を控えたい」
 もっと反発があると予想していたケタルたちはほっとした様子で彼の決定に従う。メンキーナは任を外れて、緊張が解けた。彼女は王子から早々に退城の許可をもらうと、ケタルたちに後を任せ、帰宅に着く。今夜は男だらけの夜だ。
 自室に戻ると、王子は奴隷に本を持ってこさせ、物語を読ませた。
 珍しいことに、ウルフェウスが求めたのは恋物語だ。ケタルたちも同室して、つき合った。主に出て行けと言われるまで、傍にいるのが侍従だ。そして、珍しいことにその夜のウルフェウスは、なかなか出て行けとは言わなかった。
 メンキーナのいない場所だからこそできる話もあったりする。男同士で。
 奴隷に短い恋物語を読ませていると、さっそく王子が「あああああ」と耐えかねて途中で叫び出した。ウルフェウスは言う。
「何で? 何で? こいつはキスしても叱られないのに、俺はダメだったんだ!」
 物語では許される行為でも、現実には許されないものだ。そういう当たり前の感覚は今の彼には通用しないのか。いや、物語をネタに周囲にいる男たちの反応を知りたいがために、彼は侍従らを追い出さずに侍らせているのである。年齢的には弟のような主の傍で、彼らは優しい顔で笑っていた。
 侍従のケタルはそっけなく答える。
「殿下は姫君にキスをしようとなさったのですか」
「うん。それでケダモノと呼ばれた」
 同室にいた男たちは一斉に同情的な顔に変わった。ウルフェウスは「ただのキスだったんだぞ?」と続けた。彼らは姫の態度に納得して「それはダメですよ」と言い始めた。
 恋の話に身分も何もない。いや、厳密には奴隷の恋、騎士の恋、侍従の恋、王侯の恋は全く性質が異なる。でも、基本的には男と女だ。女の対処法に差異はそれほどない。作法が変わっていくだけだ。
 物語を読んでいた奴隷は耳年寄りだ。たくさんの恋物語を奴隷の立場であちこちで聞いて知っている。貴族たちは彼らを人間だとは認めていないので、赤裸々な話まで聞かせてしまうからだ。彼は王子に話しかけた。
「女性にとっては、手を握ることも、キスをすることも、熱い抱擁も全て愛情の表出です。キスをするということは、もう特別な存在なのです。たとえ、二人の肌が他に触れあわなくても、です」
 ウルフェウスはうんざりして答える。
「俺だって、憎からず思っていたから、したんだ。誰にでもするわけではないし、彼女とはそれ以上の関係になっても構わないと思って」
「姫も同じ気持ちなんでしょうか」
 傍にいた侍従が問いかけた。王子はそっけなく答える。
「俺にキスされるのは嫌だったから、拒否したんだろ……なあ、こういう状態に陥った時は、どうしたら挽回できるんだ? 姫の心を手に入れるために俺ができることは?」
 彼らは王子に問われて、口々に話し始める。自分の経験談や、聞きかじった他人の恋物語や、神話や書物の情報を。女の心を手に入れるためには、もはや身分の差なんて気にしてはいられない。
 ケタルは真面目な男だ。かつての主が騎士見習いの教育を受けたので、騎士道による女性への服従法も理解している。騎士が女性に愛を告げる時、決して己が欲を押しつけてはならないのだ。か弱き女性を保護し、真に尽くしぬいてこそ騎士道は完成する。たとえ報われなくても、というところに彼らのロマンがある。
 権力者からすると、自分の女を傍にいる部下に取られないようにするために施す、表向きの教育に過ぎないのだが。
 ウルフェウスは残念そうな顔で「報われる恋の話をしてくれ」とねだる。
 翌朝のシャツを王子に運ぶ役目の奴隷は独り言のように囁いた。
「ぼくなら、彼女が喜ぶことを何かしてあげるんだけどなぁ……花が好きだったら摘んできてあげるとか、水瓶が重そうだったら手伝ってあげるとか」
「具体的だな。お前の想い人は城内にいるのか。水瓶を持った女か」
 ウルフェウスは即座に見抜いて、奴隷に問いかけた。その奴隷は青ざめて「たとえ話です」と答えたが、周囲は既に水瓶を持つ乙女を思いだそうと記憶の底を探っている。記憶力のよいウルフェウスは「縮れ毛の女だろ」とあっさりと正解を告げてしまう。奴隷は真っ赤になって「ぼくの話はいいんです!」とあわてた。
 具体的な話が出てきたら、急に彼らの目が輝いた。水瓶の少女に話題が移る。ウルフェウスも楽しそうに笑って、奴隷の表情を見つめた。
「彼女の名前は何? 縮れ毛の女の子……もしかして、目の青い子? 背が小さくて」
「うわああーっ!」
「夜なのにうるさく騒ぐな、殿下の御前だぞ?」
「だけど、だけど……違うんです。ぼくは別に彼女とどうにかなりたいとか、そういうわけじゃなくて、だって身分もぜんぜん」
「あ、思い出した。その子って、王妃さま付きの侍女だろ? 最近入ってきたばかりで、古参の侍女たちにいじめられてて」
「えええー、王妃さまの……え? いじめられていたんですか? 彼女が?」
「動きがとろいんだってさ。あんな小さな女の子に重たい水を持たせて、何がとろいだ。王妃つきの侍女は性格が悪いからさあ。可哀そうだよなあ」
 思わぬところで城内の情報が駄々漏れだ。ウルフェウスは面白くなって、彼らのおしゃべりを放置した。城内の裏情報がこれほど大量に手に入る機会はない。恋物語の副産物だ。王妃の周囲にいる侍女たちの情報を手に入れつつ、彼は姫の周りにいる侍女について考察する。恋の協力者になりそうな侍女はいるだろうか。
 しばらくして、会話が落ち着いてから王子は彼らに問いかけた。
「侍女の配置は定められているのか? 王妃つきの侍女があとから姫の侍女になることはない? そのいじめられている女を何とかして姫の侍女にできないのか」
 ケタルが答えた。
「奴隷とは違いますので、侍女の配置は侍従長の権限で決められています。彼らの能力に応じた場所に配置されているのです」
「奴隷は主の間で同意があれば、授受は自由なのか」
「……そうですね。それでも、奴隷を教育する係がその使用法を決めますけれど。殿下の場合は、メンキーナが奴隷の仕事の割り振りを定めています。気軽に移動はできませんよ。そんなことをして奴隷が逃げだしてしまえば、罰されるのは教育係なのですから」
「色々と面倒だな。俺の手足になりそうな人間を、姫の傍に置くにはどうしたらいい?」
 奴隷と侍従らはきょとんとした顔で王子をふり返った。
 この図々しい男には聖域というものがない。欲しいものは絶対に何が何でも欲しいのである。姫を諦めるつもりは毛頭ない。どんな手をつかっても、彼女を手に入れたい。その執念にはあっぱれだ。だが、こういう男を女は嫌がる。間者を使い、女を落とす隙を探らせるとは、見方によっては卑怯である。騎士道精神を重んじるケタルは困った顔で「恋の作法に反します」と諌めたが、件の悪童はへっちゃらだ。
 ウルフェウスは言う。
「そもそも、婚約者を相手に何が作法なんだ。彼女は俺との婚姻を承諾し、俺は彼女が欲しくなった。それで、もう十分だ。今更、俺が策を弄しなくてはならないのが変なんだ。アリシアが俺を拒否する方がおかしいだろう? あいつはどうして俺を拒絶する?」
 ウルフェウスは根っからの狩人だ。女性と心を通わせるという発想がない。敵城と同じように、女も奪う。もともと、彼の恋愛はそういうものだ。年中、執務に忙しい男だから、悩んでいる暇はない。いい、と思ったら身分に関係なく手に入れる。
 実際には、ウルフェウスは女を知らない男ではない。
 侍女と寝物語を語り合ったことがあるし、戦地で女を拾ったこともある。その恋は姫が求めるような穏やかな駆け引きではない。力で女を手に入れる行為だ。だが、彼らに逃げられても、追いかける余裕はない。別の場所で次の仕事が待っている。非常に短命な恋をすることになる。
 彼は今までその身分と立場から、女性に拒否されたことは少ない。大抵は、彼に望まれれば女性たちは喜んで彼に侍った。その犠牲に余るほどの贅を味わえたからだ。そして、目的のものを手に入れれば、さっぱりと彼の元を去る。幸いにして、ウルフェウスはそういう女性に傷つけられて恨むようなこともなく、女とはそういうものだと受け入れた。
 女を知っているのに、恋を知らない。心から女性を愛したことがない。
 そんな男なのである。
 彼はアリシア姫の純情さと温かい心に惹かれたが、彼女に愛されるための方法を何も知らなかった。ケタルは驚きを封じ、目の前にいる少年を見つめ返した。彼は目つきが優しくなり、話しかける。
「殿下はどうして、姫が拒絶なさったのだと思いますか」
「わからない」
 王子はそう答えた直後、片手を挙げて渋い表情になる。ケタルは「本当は何か悪いと思うことをされたのですね?」と確認する。件の悪童は「そうかもしれない」と言葉を覆す。
 ウルフェウスは自室を見まわして「メンキーナは帰ったよな?」と確認する。ケタルは頷いて、彼の傍に近づいた。男になら話せるが、女には話したくない内容のようだ。
 王子は言いにくそうに話した。
「アリシアは……無垢だと思って、性的に初心だと思って……キスの意味も知らないなら、きっとそれ以上の……だ、から……ま、少しは俺も卑怯だったかもしれない。その……」
 少し言葉をきった後、王子は意を決し、カッと目を見開いた。
 しかし、ケタルも奴隷たちももう情けない顔をして、話の内容を理解できていた。男として、そういうスケベ心ぐらいは理解できちゃうのである。つまり、この若者は、キス以上のことも隠れてしようとした、ということなのだ。
 ウルフェウスは言う。
「ちょっとだけ、やっちゃおうと思ったけど! わかってる! 言われなくても、お前たちの批判は理解できるぞ! 立場上、婚姻前にそんなことは許されないってことは俺だって知ってる。だが、彼女さえごまかせば、処女血のごまかし方ぐらい何とかなると思った。そのためなら俺はいろいろ我慢する。俺の腕でも足でも何でも切って俺の血を流してもかまわない。とにかく、あの時、俺は彼女を欲しかったんだ! かわいかったんだ!」
「それは絶対ダメですよ、ダメ!」
 ケタルは厳しい表情でもう一度「ダメー!」と念を押した。王子はしゅんと落ち込んだ顔で「わかってる、俺が悪かった」とあっさりと懺悔を口にした。そんな姫とこれから仲直りを講じなくてはならない。侍従たちは重々しい吐息をつくのだった。


next