二輿物語


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38 祈りの言葉




 ピピネはクロルに連れられて外交大使らの集まりに呼ばれた。高価な一級酒をふるまわれ、最近の国際問題に関する情報交換に応じる。ヴァルヴァラを取り巻く情勢を知らせてザヴァリアの官吏たちの不安を取り除くとともに、ミタルスクを含めた西方の情報を手に入れる。これほど近くで二大国の情報を手に入れられる機会は貴重だ。
 やはり、どこに行ってもこの男は真面目な仕事人間である。
 会自体はピピネ王子の疲労をおもんばかって短時間で終わったのだが、直接言葉を交わせる機会と言うことで、多くの外交官が彼を取り巻いて忙しい交流に加わった。実際のところは深い話を延々とできるような状態ではなかったが、異母弟の相談相手となるであろう主要な人物を紹介され、ピピネは兄として彼らと親睦を深めたのだった。
 月の角度が変わるよりも早く会は解散されたが、その短い時間にピピネはミタルスクに関する気がかりな情報を手に入れた。
『そういえば、おかげでミタルスクの情報が新たに入ってきましたね。ありがたいことですよ。先日、ミタルスクの皇太子が東にいると、ウルフェウスさまから聞いたのですが、私は不思議な気がいたしましてね』
『不思議? ミタルスクの皇太子といえば……獅子王、アルダバ王子だな。彼にとって、東に何か懸念でもあるのではないか?』
 内心怯えながらそんな受け答えをしたが、ザヴァリア国の外交官らは冷静に答えた。
『獅子王さまは天邪鬼な色男でしてね……好きな人には意地悪をして、興味のあるものには無関心を装う……皇太子殿下は今、宮廷が気になって仕方がないようです。いや、殿下が気にしているのは、後宮でしょう。彼は東離宮に居を移す前は、たしか、全国を遊行し、女性を同伴させていたはずなのですが、ウルフェウスさまから聞いた話では、その気配がありません。そして、西方親善大使はその少し前に『祝いの支度を急げ』と我らに命じていました……お世継ぎが生まれるのだと思います』
 意外にも平和な話を耳にして、ピピネはほっと気が抜けた。思わず笑顔になり祝いを述べたのだが、外交官らの表情は険しい。ピピネは笑顔のまま敵国内の問題を聞き続けた。
『アルダバさまには三人の妃が正式に認められております。しかし、男子がお生まれになったという話は聞きません。故意に隠している可能性はあります。後宮内は勢力争いが絶えないからです……アルダバさまは後宮には興味のないふりをして、専属の愛人と遊行を繰り返しておられました。しかし、昨年から王妃についている側近の動きが慌ただしくなり、皇大子も国内の離宮めぐりが激しくなったので、そのいずれかに正妃を連れていくつもりだったと考えられていたのですが……東離宮にその影がないとは意外です』
『三人の妻は全てミタルスクにとっては敵だったのだな。そして、彼女らの祖国を併合したのちも、紛争が残っている。戦の代理戦争が、世継ぎ問題と称して続けられている……今まで、かの国の王子は後宮内で暗殺されてきたのか』
『ご明察です。だから、現世王は幼少期にアルダバさまを後宮の外に出し、市井で乳母に育てさせたのです。それが唯一生き残った実子の後継というわけで』
 その後、彼らは明るい話題にすっと替えてしまった。ザヴァリア国内では後宮は存在しない。ウルフェウス王子とアリシア姫の婚姻の話題になると、そのような血なまぐさい話題は払しょくされてしまう。
 だが、予想外に険しいミタルスク内の状況を知り、ピピネは少し落ち着いた。今すぐに彼らがザヴァリアやヴァルヴァラを襲うことはないのかもしれない。
 いや、獅子王はそのように周囲が油断することも計算しているだろうか。
「人として、他者の不幸を願うことは許されぬが……アルダバ王子の歓心が国外に向けられぬことを願うばかりだ。世継ぎが生まれなければ、彼は対外的に出てくることはないだろう。血の断絶を招くからな。男子が生まれぬことを願うぞ」
 ピピネは自分の部屋に戻る際、ふとそんなことを囁いた。背後にいた侍従らは聞こえなかったふりをして静かに追従している。
 ピピネには既に子供が三人いて、後継となる男子も育てていた。妻の生地と祖国の間には今のところ、目立った紛争はない。だが、もともと、妻の兄を戦で殺している。アルダバ王子が被っている状況は他人事ではなかった。
 幸いにして、ピピネは後宮を持たなかった。彼が気に掛ける女性は一人だけ。だから、複数の妻の間で彼の後継ぎを巡って争うような状況は生まれなかった。
 ヴァルヴァラは一夫多妻を認めない国だ。そのことが内憂を減らしている。ピピネだけでなく、皇太子も愛妻家として知られていた。父は三人の妻をめとったが、同時期に彼らを後宮に押し込むような愛し方はしなかった。皇太子の母も、ピピネの母も既に他界している。最後の妻となったウルフェウスの母も。父は妻となる女性には恵まれない男だったのだろう。今は生涯独身を貫くと公言し、息子に後継を譲り、形だけの王座にいる。
 薄暗い回廊を渡り、青く輝く中庭を眺める。
 小さな噴水が石清水を滴らせつつ、流れていく。白いハスの花が咲いている。
 影絵のような光景を見つめながら、ピピネは言う。
「祝いを用意するように、か……既に生まれたのならば、その男は余命を賭して前に出るのかもしれん。かの獅子が欲しがるようなものが、東にあるのならば……何を願う男なのか、気がかりだな」
 軽くため息をついて、足を止めた。庭の向こうを白いベールを被った女性が歩いていく。ピピネは噴水越しにその女性を眺めて、立ち止まる。侍従たちが彼の耳に「姫殿下でございます」と告げた。アリシア姫がこの時間にどこへ行くというのか。
 ピピネは姫の動きを目で追いながら、黙っていた。
 姫は会食には出てこなかった。熱があるという話だったが、そんな体でこれからどこへ行くのか。彼女の周囲には仰々しい数の人間たちが従っている。隠密の行動ではないだろう。彼女はゆったりとした動きで南から西へ向かっている所だった。回廊の角を曲がり、道の先にピピネがいることに気がついて、ようやく彼女は足を止めた。
 ピピネは彼女が立ち止まったことを確認してから、軽く体を折って会釈をした。背後にいる侍従たちは両膝をつき、ピピネよりも低く体を曲げる。姫の周りにいる侍従たちも、姫の耳に言葉をささやいてから、一斉にピピネにひれ伏した。
 姫は丁寧に腰を落として視線を伏せる。道を譲って、回廊の脇に退いた。彼女は小さく服従する姿勢を取り、ピピネに通行を促す。
 ピピネの背後で侍従がその旨を伝えた。
「殿下、通り過ぎる際に、挨拶は短くお伝えください……夜ですので、二言以上の言葉を交わされませぬように」
「これから義理の妹になるのだがな」
「舞踏会で言葉を交わす機会はございます」
 姫の侍従らはピクリとも動かずに、王子の侍従たちよりも低く頭を垂れていた。いつまでも、彼らにその姿勢を維持させるのも忍びない。ピピネは足を動かして、姫に近づいた。
 アリシア姫は白いベールを被り、小さな燭台を手にしていた。首には宝玉で作られた念珠がかかっている。クリスタルでできているようだ。燭台の光を跳ね返し、美しく輝いて見えた。彼女は教会に行っていたのだと知る。
「夜分遅くにお勤めですか」
 ピピネはそう声をかけた。アリシアは「はい」と小さく答える。
 それ以上の返事は帰ってこない。ピピネは大人しい姫を前にして不思議な気持ちに駆られた。そんな彼女がどうして、ウルフェウスと喧嘩なんてできたのだろうか。
 侍従は背後でピピネに通行を促していたが、彼はそれを無視して続けた。
「私も就寝前に祈ろうと思う。案内を頼みたい」
 姫の周りにいる侍従らは困った顔で素早く首を横に振った。姫も黙ってうつむいたまま、じっくりと考え込んでいる。見るからに無力な女性だ。やはり、弟と喧嘩のできる人間とはとても思えない。どこにそれだけの気力があったのかと疑うほど、生気がない。
 ピピネの背後で侍従が「お控えください」と繰り返す。ピピネも姫の反応を見て諦めた。あっさりと「では、いずれ」と言いながら、通り過ぎた。
 廊下を歩きながら、背後にいる侍従に話しかける。
「だが、少し祈ってから部屋に戻ろう。それは構わないか」
「はい。案内申し上げます」
 彼らと共に教会のある場所へ移動していく。姫が先ほど通ってきた道を進む。
 その時、背後から「姫さま!」と叫び声がした。ピピネが足を止めてふり返ると、姫が回廊を走って追いかけてきた。深窓の姫らしからぬ動きだ。衣類の裾を手に持ち、ヴェールを揺らしながら、駆けてくる。乱れ落ちるヴェールにあわて、燭台を振りまわしながら、小さな悲鳴をあげた。滑り落ちたヴェールを片手で抱くようにして、走ってくる。
 だが、ピピネはその様を見て笑顔になった。あの愚弟の妻となる女性だ。これぐらいのお転婆でなければつまらない、と思ったのである。
 彼女は傍に来たとき、真っ赤になって恥らっていた。言葉もだせないぐらい緊張しているのがわかった。ピピネは彼女に「教会に忘れ物ですか?」と問いかけた。姫は「は、はい!」と元気に返事をする。ピピネは彼女に笑いかけ、二人で教会へ行くことになった。
「あの、ピ、ピピネ殿下は……よく、教会で祈られるのでしょうか」
 歩きながら、姫はそう話しかけてきた。ピピネは普通に解答しようと思ったのだが、直後、彼女の背後にいた女性たちが姫を諌めた。彼らの言葉がかすかに聞こえる……話しかけられるまで話してはなりません。
 姫はすぐに落ち込んだ表情でうつむいてしまった。姫はずっとそのような教育を施されてきたのだろう。自分から問いかけることも許されず、自分の意志で動くことも許されず。
 ピピネは姫の背後にいる侍従に話しかけた。
「姫に発言は許されぬのか」
 彼らはしばらくしてから答えた。
「殿下より先に声を出すことは許されません」
「しかし、この国の姫だろう? 敬うべき対象だ。まるでお前たちの人形ではないか」
 侍従は驚いた顔で目を開き、首をふって答えなおした。
「とんでもないことでございます……普段の生活で我らが姫をこれほど厳しく諌めるわけがございません。姫君が服従するのは、殿下のみです。公の場で姫君があなたさまの上に立つことは絶対に許されません」
「あなた方の教育の全てを否定したつもりはない。だが、慇懃も甚だしい。私は今宵、義理の妹となる姫と親しく言葉を交わしたく思う。私の愚弟とつき合うのに、そのような礼儀も不要だぞ? かえって、あいつは『つまらぬ女』と思ってしまうだろう……自分たちの常識を我らに押し付けるな。ヴァルヴァラはもっとくだけた国だ。あたたかく親しみを自ら口にできない女性は、我らの常識では幼稚な子供に等しいぞ」
 ピピネは礼儀正しい男ではあるが、不快なことは不快だとはっきり言うような、歯に衣を着せぬ性格だ。侍従たちは彼の言葉を聞き、一瞬、惧れを見せた。異国の流儀は、今まで施してきた姫の教育とは異なる。女性が自ら男性に親しみを口にするなんて、はしたないと教えてきたのに。
 異国の王子の言には反論すべき点がたくさんあるのだが、そこを指摘できるような身分でもない。それで、彼らは暗黙のうちに反論を全てのみ込んでしまった。だが、姫には暗に目線を送って、控えるように伝えている。姫はその後も大人しかった。
 教会につくまで、彼らは沈黙した。ピピネも姫が話しかけるまで黙っていた。話しかければ何か答えるのは知っているが、それはつまらないと思ったのである。
 姫の周りにいる侍従たちの態度は、喧嘩した時の彼の妻によく似ていた。自分を押し殺してしまい、黙って追従するふりをするのだ。しかし、本心では絶対に自分が正しいと思っている。そして、二人が納得できないところを互いに理解しあうという努力を放棄してしまう。だから、ピピネは自分の妻を思いだし、憤慨した。何度、妻のこういう非情な態度に孤独を味わったか。そういう冷たい態度が彼は嫌いだったから。
 教会に着くと、修道士らが燭台を片づけ、蝋燭の火を一つ一つ消している所だった。
 彼らは戻ってきた姫を見て、穏やかな笑みを浮かべる。その隣に男性の姿を認めると、視線を伏せて礼を示した。ピピネの傍にいた侍従が彼の名を告げ、来訪の目的を話した。彼らは二人を案内して、暗い屋内へと招く。
 白い教会内は月の光でうっすらと蒼くなっている。青緑色に見える澄んだガラスから、月光が漏れている。祭壇の中央にある金の壁画を照らしだし、幽玄な気配が漂う。捧げられた大量の白いバラがほのかに香る。この場所では世俗の理は通用しない。
 ここは、思う存分、心の中をさらけ出せる場所だ。
 ピピネは機嫌を少し直した。いつも、妻に告げている言葉を思い出す。
「つまらぬ意地を張ったことを詫びよう……私はあなたを愛しみたかっただけなのだ」
 ピピネの隣に姫が座し、両手を組んで祈りと共に懺悔を口にした。
「私もつまらぬ意地を張りました……私もあなたに愛されたかっただけなのです」
 そうして、姫はかすかに涙ぐんで目を閉じた。その横顔を見て、純真でかわいい女性だと思った。こんな女性を愛したら、弟も穏やかな平和を感じられるようになるだろう。二人が仲直りできるように祈り、兄は沈黙する。
 そのようにして、二人は静かに許しの時を過ごしたのだった。


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