二輿物語


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4 赤毛の鬼神

 
 ヴァルヴァラには「赤毛の鬼神」がいる。しかしながら、誰もが恐れてその名を使わない。よく言われるのは「常勝の君」という褒め言葉だ。ウルフェウスを悪く言うことがあったとしても、彼の悪評だけは口が裂けても言わないのが、ヴァルヴァラ国民だ。
 ムラドゥラの第二子、ピピネ・マリアン・ヴァルヴァラは、ウルフェウスと並び称される戦上手でありながら、軍事のみならず、政治、経済、芸術、工芸に秀で、人心を深く掌握して称えられるカリスマだ。負け無しの鬼才といえば、彼のこと。実際のところ、ウルフェウスは負け戦もよく経験していたので、敗走の上手い王子とも知られている。ギリギリの場面での逃走が多かったがゆえに、武芸にも秀でた男であった。名実共にピピネはこの国一番の戦上手であるが、滅多に戦争をしない賢君だ。
 二人は異母兄弟であり、容貌こそは母の遺伝子を継いだのか全く異なっていたが、口に衣を着せぬ実直な性格がよく似ていた。ゆえに、兄弟喧嘩は華々しく、公然と仲たがいしている。弟にとって兄は目の上の瘤だが、兄にとっても弟は腹立たしい生意気小僧。
 兄の居城は、中央の都から東北の位置にあるシェレー地方に存在する。宙の星を模って黒曜石で作られた天覧の空城。煌めく星の城郭という呼び名で知られた、シャリア宮。妻の生家であるセリクム王領地に近く、穏やかな気候の牧草地帯だ。普段の彼は執務の合間に、趣味である種苗作りに精を出し、専用の実験畑で交配を記録している平和な君主だ。
 生意気な末っ子は南西地方にある経済都市、カクタスで政を執っている。普段は二人を遠く離しておこうという父の配慮なのだろうか。
 戦時に陥ることがなければ、異母弟の話なんて滅多にすることが無い。たまに、風の噂で、弟が冷酷な政策をとって、恐れられた、という話を聞く。そのたびに憤慨して彼に手紙を書くのだが、まともに返答が戻ってきたためしがない。一つ所に留まることを拒み、年中国中を旅しているウルフェウスのことだ。ピピネの抗議なんて一度も読んだことが無いか、全く無視しているのだろう。兄弟はそんな希薄な繋がりでもって国中に散らばっていた。中央の都で父の傍にいてまともに政治を行っているのは、皇太子である長兄のファラリエラぐらいだ。父が息子たちに召集をかけるのは、戦争を起こす時のみ。それも、戦好きの末子を好んでよく使った。
 だが、他人には理解できないような屈曲した愛情が、彼らにはある。
 ある日、ピピネの元に、不穏な噂が届いた。遠征に出ていた異母弟の話を持って、密偵が戻ってきたのだ。無事に戦が終わったことを確かめるだけだと思っていたのに、彼らは新たな脅威を探ってきた。
「ミタルスクが合戦の準備をしている? 相手は何処だ」
 ピピネは密偵に出ていた部下を庭先で相手しながら話を聞いた。この地方の奇石をふんだんに用いて作られたテラスには、妻が生地から持ってきた小さな花が咲いていた。彼はその色の異なる鉢を動かして、交配を計算する。
 草花を摘んだり、枝を剪定したり、手馴れた様子で世話をして、一見すると王子には見えない姿であるが、特製の皮で作った手袋をして、日よけの帽子を被っている。身につけている衣類は絹を贅沢に用いた白いシャツである。妻の刺繍が袖に入っている。公式には用いない、二人にとっては特別の衣服である。
 傍には、彼の作業を手伝って、数名の侍女と愛妻がいた。彼らはテラスの中にある休憩用の椅子に座り、主が作業を終えてから飲む冷茶の用意をしていた。
 密偵はそのテラスに招かれ、豊かな色彩で瑞々しく咲き乱れる花を数えた。かすかに表情をほころばせたが、気を引き締めて、報告を続ける。
「ヴァルヴァラではございますまい」
「わが国以外にあの国が脅威を感じる国はもう無かろう」
 ピピネは手を止めて、姿勢を直した。
 ヴァルヴァラにとって、一番の脅威はミタルスクではなかった。地理的に離れており、また利害もない。だが、この大陸の覇権をヴァルヴァラと二分する存在であると考えていた。ミタルスクが戦争を起こすとなれば、かの国の東側にあたるヴァルヴァラ周辺地域も影響をうけることになるだろう。あの国が大陸の覇権を競って、ヴァルヴァラを標的に動き始めたのだろうか。
 大きな戦争になる、と考えて、気持ちが深く沈んだ。
 体を起こして、帽子を取った。赤茶けた濃い茶髪は細かくカーブが付いている。知的な広い額に浮いた汗をシャツの袖で拭い、一度帽子を扇子のようにして扇いだ。穏やかな表情の眼差しは深い薄墨色だ。少し地味だが、かすかに紫を帯びたその瞳は光の加減で真っ黒に見える時がある。そうなると人知を超えた深い瞳は鏡のように周囲の光を反射し、瑞々しく見えた。色気のある長い睫を動かし、視線を彷徨わせる。
 手袋を取って、妻を振り返る。パーゴラの下は涼しげな木陰ができており、女性たちはお茶の支度をしながら、楽しげに話をしている。穏やかな彼らの表情を見ていると、そんな情勢は夢のように感じられる。
 妻はすぐに彼の視線に気がついて「殿、もうすぐ支度が整いますよ」と声をかけた。ピピネは小さく笑みを浮かべて、彼女に頷いた。妻はうきうきした様子で笑顔になる。
 彼女は庭で取れた香りの良い野草を用いて、ハーブティを入れていた。ガラス製の大きな茶器には瑞々しい草の色と、果物の華やかな色彩が溢れている。黄色のテーブルクロスを敷いて、鮮やかな青色の皿が並んだ。香ばしく焼き上げた菓子の香りがする。
 この日常は戦争が起きれば一変する。ピピネは再び部下に目を向けた。
 部下は、主の視線が自分に戻ったことを確認してから、続けた。
「殿下、実は、ウルフェウス様が近々ミタルスクの喉元に婿入りする予定です」
「ん……そうか、ザヴァリアか」
 ピピネは突然、気がついて真っ青になる。ザヴァリアの地理を思い出して、理解した。
 ヴァルヴァラとミタルスクがぶつかり合ったら、戦の被害は甚大だ。だからこそ、周到に交流を避けていたのに、よりにもよって実弟がその逆鱗に触れようとしていた。弟が婿入りするザヴァリア国はミタルスクの東隣。国境を接している小国だ。こんな場所に戦好きで有名な男が出向くなんて、本来は自殺行為である。
 しかし、ザヴァリアがヴァルヴァラのかつての協定国であることや、ミタルスクに国境を脅かされているという話は知っている。かつての朋友を見捨てられず父王が息子を手渡したのだが、これがミタルスクの怒りを買っているかもしれない。
 ピピネは困った顔で思案しながら、立ち上がる。
「あのバカが喜びそうな状況になってきてしまったぞ……ウルフが気づく前に納めなければ」
「ウルフェウス様が気づかれたら、先制攻撃して戦火を広げてしまわれるでしょう」
「ヴァルヴァラならばその戦い方でもよいわ。確かな後方支援ができるのだから。だが、あいつが行く先はザヴァリアだ……死にに逝くようなものだ」
 ピピネは心苦しそうに呟いて足を止めた。
 弟思いの彼を、従者が穏やかな瞳で見守る。
 ピピネはしばらくして呟いた。
「合戦は避けねばならん」
 既に部下は主の心を理解している。ピピネは「カクタスへ」と命じ、使者が「御意に」と呟いた。ウルフェウスのいる地方都市、カクタスへ密偵役に向かったのである。立ち去る使者を見送り、彼は作業を終え、妻が待つパーゴラの方へ足を向けた。
 戦争になる前に、戦の芽をつむ。それがピピネの戦い方だ。
 しかしながら、一刻後、そんな努力を無に帰すような報告が入ってきて、ピピネは度肝を抜いて激怒した。
「ザヴァリアへ向かっただと?! あの大馬鹿者がぁーっ!」
 その頃には、庭を後にして自分の執務室に戻っていたのだが、バルコニーで子供と一緒に遊んでいた妻が、驚いて部屋の中を振り返っていた。窓越しに子供がきょとんとした顔で、父親の怒声を振り返る。妻が子供の不安を悟り、小さく指を口元に当てて、静かにするよう命じる。子供は大人しく口を閉じ、父親のいる執務室を振り返る。
 執事が王子の傍を通って、バルコニーへ出て行った。妻と二人で子供を別の扉から、屋敷の中に入れる。ガラス越しに、そろそろお昼寝を、父上と一緒に寝る約束でした、わがままを言ってはいけませんよ、母上まだ眠くありません、と会話が聞こえる。
 ピピネは背後でごねている子供を振り返ることなく、イライラした様子で椅子から立ち上がった。壁にかけている周辺の地図を睨み、ザヴァリアの位置を確認する。
 部下は主の激昂に慣れているのか、動揺することなく話を続けた。
「さすがは輝殿下様です。戦に関しては優れた嗅覚をお持ちでございます。カラ・カス卿が言うには、パシナム地方からザヴァリアへ向かう西部丘陵線の開発に取り掛かるため、周辺国の下見に行かれたのだろう、と。仕事の速いお方でございます。まるで光の矢のごとく飛んで消えてしまわれた、そうでございます」
「ならば、私が実際に射抜いてやるわ。全く忌々しいクソガキ。輝殿下なんぞと呼ぶな。わざわざ光り輝いて影を作っておるように聞こえる」
 思わず言葉を荒げてしまったピピネだが、彼の怒りは収まらない。
 敵地の喉元へ出かけた弟が心配で、腹立たしく、居ても立ってもいられない。末の弟とは九つほど離れている。異母弟とはいえ、幼い頃から、何かにつけ手を焼いて可愛がっていた弟なのである。成人しても、なお、この弟は兄に迷惑ばかりかけている。
 しかしながら、馬鹿な弟ほど可愛いものなのである。
 ピピネはしばらくすると駆け出してしまう。従者が「どちらへ!」と声をかけたが、ピピネは応えることなく城を出てしまった。
 実はこの男も独断速決の男なのである。兄弟とは、よく似ているものだ。

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