二輿物語


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5 思慮の庭

 
 アリシア姫は病弱だった。城の外には滅多に出ない。一人娘でこの国の後継者だったことから、特に厳重に囲われて守られたからだ。おかげで体力がなく、すぐに風邪を引きこみ、一度熱が出るとなかなか下がらない厄介な体質だった。
 健康的な生活、という概念がない。殿方に仕える姫君として教育を受け、とかく淑やかに育てられた。白い肌は殿方が好むと言うので、日中部屋に引きこもって、肌をいたわるようしつけられた。また、殿方は長い髪を好むことが多いとして、髪を切ることを禁じられる。だが、彼女は恋をしたことがない。姫が殿方に気に入られるよう、両親が心を尽くせば尽くすだけ、彼女は男性から遠ざかった。
 元来は気が強いのだろう。頑固で、我を曲げない一途なところがある。それが、時に彼女を孤立させる。また、正義に囚われ、理想を頑なに信じすぎるところがあった。
 殿方の理想を押し付けられるのと同じぐらい、彼女は男性にも理想を押し付けた。白い肌を男性が好むと言うならば、女は清潔な肌を持った男を好むと言い、理想に合致しない男には全く歯牙にもかけなかった。男性の理想を押し付けられて、日々努力を余儀なくされていることに対し、実際のところは怒りを抱いているのであろう。
 彼女にとっては、今回の婚姻は極めて理不尽なことである。ウルフェウスに心を惹かれるところは全くない。理想の対極に居るような男である。巷の噂を聞けば聞くだけ、憂鬱になるのだ。
 少しでも人間として優しいところがあればよいのに、人の口に上る彼の噂はどれも凄まじく勇敢で、僅かな慈悲すら感じられぬ冷酷ぶりだ。とはいえ、それは一般的には当然だった。戦に従事する王子の噂はどれも似通っていた。いかに冷酷で恐ろしく、強くて勇敢で逞しいかを流布して、敵の恐怖を煽るのが目的なのだ。
 実際のところ、名前負けした王子も多い。猛々しく獅子のごとく髪を振り乱して、敵を威圧すると言われた王子もいるが、実物は大人しく優雅な男であることも多い。ウルフェウスの兄であるピピネはその類の男である。鬼と呼ばれるほど恐ろしい性格はしていないが、赤毛の鬼神として恐れられ、敵の血を吸って髪が赤くなるほどだ、と揶揄されていた。実際のところ、ピピネが指揮する戦では、ウルフェウスが指導する戦に比べて人頭の損失ははるかに少ないのだが。
 婚礼当日、当人を見るまでは噂の真相なんてわからない。そして、知ったと同時に受け入れなくてはならないのだ。アリシアは絶望的な気分で呟いた。
「巷の噂が全て誤りで、本当は控えめで優しくて、思慮深い大人の男性であってくれたらよいのに……彼は本当に人を殺したことがあるのかしら? 本当に冷酷な男性なの? 私を愛してくれるの? わがままで冷たい人かもしれない……どうしたらいいの?」
 日が経つと、次第にその気持ちも萎えてくる。ふりかかる火の粉を払う気力もなくなり、運命だと受け入れて、己の境遇を嘆くようになる。自分はどれだけ辛い運命を負っているか、運命に逆らうこともできずにひたすら耐えていかなければならないと認識し、悲劇的な思考に浸る。どうせもう幸せにはなれません、生きている価値なんてありません、ひどい男性と一緒にされて、愛されることなく一生を終えるのです! 誰にも愛されない、という思い込みに自らを傷つけ、自室で深く深く落ち込む。
 悲劇的な恋、不幸な結婚生活、夫に痛めつけられる毎日、夫以外の騎士に想いを寄せる夫人の話……姫はそういう不幸話を、詩人に語らせるようになる。自分がこれから味わうであろう恐ろしい結婚生活の準備を始めたのである。
 そんな彼女の様子を侍女たちは痛々しい面持ちで見守り、王妃に伝えていた。母は呆れて物が言えないが、娘の不安を悟った。王妃は「もう少し普通の殿方と婚姻を結んではいかがでしょうか」と進言したが、王は困った顔で「普通の男ではダメだ」と答える。いみじくもこの国の未来を担う姫の婿だ。平凡な男では通用しない。
 いや、この国の情勢がもう少し平凡であれば良いのだが、二大国に挟まれた立地はどうにもならない。外交も軍事も経済にも秀でた男でなければ、国は路頭に迷うことになる。
 親の望みは唯一つ。
 娘が婿に愛されるようになることだ。彼が姫を恋しいと思ってくれれば、姫の不安も和らぐだろう。王は部下に、ウルフェウスが好みそうな女性の条件を探るよう命じた。彼がこの国に来る前に、娘を彼好みの女性にしようと考えたのである。
 もちろん、この考えは姫の反発を招くことになる。彼女は賢い娘だった。賢すぎて、逆に面倒なのだが。王の意図を悟り「私はウルフェウスなんぞに媚を売るつもりはありません!」と事態はより一層こじれてしまうのだった。プライドも高い。
 賢い娘の母もまた賢い女性である。王妃はその日から、娘と過ごす時間を多く設け、彼女の悩みを聞くことにした。娘は結婚生活に多大な理想を抱いているが、現実問題として、結婚は打算である。王妃はこう話しかけた。
「アリシア、自らの境遇を嘆き、これから夫になるであろう殿下を貶めることに懸命なようですが、そんなことをしても無駄です。あなたの境遇に同情して救い出してくれる理想の男性なんてこの世にはいないのです。悲劇に浸るのは、おやめなさい。あなたには他にするべきことがあるはずです」
 母に言われて、目が覚めた。自分こそが不当な評価を彼に対して下していたことを知る。結婚から逃げたくて、彼を極悪非道の化け物のように扱っていた。そうすることで、誰かが自分を救ってくれるような気がして、気が楽になったからだ。
 だが、ウルフェウスは国策として戦に従事する必要があって、戦争に従事しただけだ。彼だって好き好んで行ったわけではないと思い直した。一般には、王子とも呼ばれるような人間は贅沢好みだ。城外に出ると言うことは、日常の贅沢を我慢しなければならない過酷な労働である。誰が好き好んで戦場なんかに行きたがるだろうか。だが、ウルフェウスは文句も言わずにその仕事を十年近く行っているのだ。
 考えを変えたら、目から鱗が落ちた。己を捨てて、公のために働ける男に思えてきた。
 十年も文句を言わずに従事するほど、戦が好きなのだ、とは思い至らなかった。実際のところ、ウルフェウスは城内のふやけた優雅な贅沢が苦手だ。社交辞令が大嫌いで、だからこそ、あちこちで衝突しては喧嘩になるのだから。
 しかし、母に諭されてから、姫は悲恋を詩人に語らせることはなくなった。現実的に彼を受け入れたいと思い、彼の噂を集めた。吟遊詩人が大仰に語る「鮮血刀の悪魔」の伝説には興味がない。実際に彼に会い、彼と話し、彼がどんな姿で何を行ったかを知っている人を探す。
 一番身近なところにその人はいた。父はウルフェウスの実父とは既知の仲であるし、戦場の話は吟遊詩人よりも確かな情報が入ってくるのである。夢のように印象的な物語を展開する詩人たちに比べ、父の仕事は実際的で具体的だ。それゆえに紛うことなく、等身大の彼の情報が入ってくるわけだ。
「ウルフェウスの話か……王子が好む女性像についてだが」
「父上、真実の私を見ない男に愛されても嬉しくありません」
「うむ。真にその通りだ。誤解して欲しくないのだが、私はお前の欠点も含めて、心より愛しておるぞ。王子の前で取り繕って、お前以外の者にならなくてもよい。だが、お前が理想の男性像を持っているのと同じように、彼にもそういう願いがあるだろう。媚びる必要はないが、彼の望みぐらいは知っておいてもよいのではないか。人の望みにこそ、その人の本心が表れるのだから」
「父上も、母上も、私を上手く説き伏せようとするのですね」
「これでも人の親だからだ。娘を想うが故の親心と見逃せ」
 父は穏やかに笑って、話を続けた。
 ウルフェウスの境遇は今まで伝説で物語として詩人から聞いてきた。だが、父の口から聞いても、壮絶に思えた。八才から戦場に連れ出され、十五才で成人する前に、刺客に狙われて暗殺未遂にあっている。成人してからは、一年中戦地を渡り歩き、城内に戻ってくる時は、戦後の処理を事務的に行うときだけ。寝ても覚めても戦っているような男だ。
 だから、女性に心を寄せて悩む暇もなかったのではないか、と父は言う。
 女性の噂がほとんどない。珍しくも清らかな男性である。
「彼は本当に心の底から戦好きなのではないでしょうか」
「まあ、男とはそういう面がある。お前や王妃が刺繍を楽しむ気持ちが、私にはわからぬ時がある。だが、お前は私やウルフェウスが鷹狩で気持ちが高揚する気持ちなんてわからぬだろうよ。この王子は動物が大好きで、自らの手でよく育て、狩に連れて行く。実は世話好きなのだ。馬も猛禽も害獣ですら、王子はどんな生物でも懐けてしまう」
「そうなのですか。意外に平和な男性なのですね」
「そうか? 狩りだぞ? 戦はダメで、狩りは許せるか」
「はい。父上も狩りには行かれますし」
 はじめはどんな血なまぐさい話が飛び出すかとハラハラしていたが、父の口から彼の話を聞いて、少し落ち着いてきた。女性と男性では、好みも考え方も、違っていて当然なのかもしれない。戦好きだからと怯えていたが、父の言葉で語られると、男性とはそういう一面もあるのかもしれない、と思えた。
 父から聞くウルフェウスは大らかな人間に思えた。縛られることが大嫌いで、動物や人に対して壁がない。正直でまっすぐな印象だった。だからこそ、父は彼を信用し、傍に呼びたいのかもしれないと想った。
 そして、このときようやく、姫は王子の年齢に気がついた。自分よりも二つ年下なのだ。そんな人間に対して、自分がどれだけ意地悪だったかを反省した。とはいえ、彼に対する印象が変わってきたからといって、結婚に前向きになれるというものでもない。姫は慎重に彼との結婚を考えていた。
「お母さま、父上と結婚する時、不安ではありませんでしたか?」
 母親にもそのような質問をして、共感しようとした。世の中には、愛し愛されて成り立つ結婚ばかりではないのかもしれない。両親は愛し合っていると思っていたが、母はあっさりした口調で「不安でしたよ」と答えた。
「国を背負って立つにしては、頼りない殿方に思えました。しかし、そのことで私がしっかりしなくてはと思ったのです。この人には、私の力が絶対に必要であると思いました」
「お母さまは父上のことを愛しておられたのですか?」
「いいえ」
 さっぱりと全否定である。王が同じ部屋に居たら、落ち込む場面であるが、幸いにしてこの時は傍に居なかった。だからこそ、王妃は正直に話したのかもしれないが、アリシアにとっては衝撃的な答えである。
 両親が愛し合った結果、自分が生まれたと信じたいではないか。
 しかし、本当の話を言うと、母もまた政略結婚だった。父と出会ったのは結婚式の当日、神前においてである。慌しく輿入れした後、ようやく二人で話をする機会があり、将来の約束を一つだけ交わした。
 どんなに忙しくても、一日の終わりには二人でゆっくり話をして、悩みも喜びも二人で分かち合おう、と父に言われたのだそうだ。その誠実さに心を打たれ、彼が持っている全ての欠点を受け入れることにしたという。母は愛から結婚したのではなかった。
 アリシアは「今は愛していますか?」と恐る恐る訊ねた。王妃はコロコロと楽しげに笑って「当たり前ですよ」と答えてくれた。王妃にとって、今は理想的な最愛の夫である。出会いがどういう形であれ、それから二人でどのようにして愛を育むかが大事なのだ。
 今は愛していなくてもいい。これから二人でどうするか。二人で一緒に生きていくことができるかどうか。ウルフェウスの経歴から多数の恨みを負うことになるかもしれない。彼を手助けできるのは、自分しかいないのではないか。
 しかし、今度はそのプレッシャーに悩んでしまうのだった。自分に、その男性を支える器量があるのかどうか、と。姫の悩みは尽きない。


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