二輿物語


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42 自信喪失と怒り




 侍従長は姫の異常に気付いていた。明日の支度は整いましたか、と訊ねに来た姫だが、魂を抜き取られたような顔で、ぼんやりと宙を見ている。姫を連れてきた衛兵も沈痛な表情で姫に深く頭を下げていた。その衛兵がいなくなってから、彼は姫を椅子に座らせる。
 姫は心ここに非ずという顔つきで、大人しく座ってくれたが、今にも消えそうな儚さだ。侍従長は傍にいた見習の掃除婦に「調理場に温かいお茶を申し付けてくれ」と命じた。見習の少女は野暮ったい顔つきできょとんとしたが「へぇ」と言いながら部屋を出た。
 そこへ、姫付きの侍女がやってきた。彼女は姫の様子を目にすると、胸をうたれた様子で哀しそうな顔になった。彼女を手招きして傍に呼ぶと姫は突然冷たい表情で固まってしまった。侍従長は異常に気づき、侍女の入室を止めて部屋の外へと連れ出す。侍女は「姫さまにお話をさせてください」とすがりついたが、彼は厳しい顔で「仕事を続けなさい」と命じた。不安そうな顔をしている彼女に「後は私に任せなさい」と続ける。侍女は心配そうな顔で「でも、男性にはきっと理解できません」と粘った。そんな彼女を無理やり追いだした。
 部屋に二人になると、侍従長は少し腕を組んで姫の姿を見つめた。
 姫は感情を深く心の奥底に仕舞い込み、化石のように動かなくなってしまっている。これを無理やりこじあければ、傷つけることになるだろう。侍女たちが姫を故意に傷つけたとは思えない。だが、女性にしかわからない部分を傷つけられてしまったそうだ。そこを男性が無理やり踏み込んで理解しようというのも誤りだ。
 侍従長はしばらくすると割り切って、穏やかな笑みを浮かべた。姫は平静を装いたいから、表情を固めているのである。だったら、平時と同じように接することだ。誰にも気づかれたくない、と願っているのだから。
 侍従長は元の席に戻って、姫に話しかけた。
「侍女が何か無礼なことをしたようですね。後で罰しておきましょう……明日の予定表の確認にいらしたのですね? 少しお待ちください。今、持ってまいります」
 侍従長はゆったりとした動きで、舞踏会に使われる人員のチェックリストと、当日の姫の動きを記した計画表を用意した。いつもなら、求められたらすぐに取り出せるのだが、今日はわざとゆっくり探すふりをして、隣の準備室に入りこみ、姫を一人にしておいた。
 案の定、姫は部屋に一人になると、静かな表情のまま涙を流した。ポロポロと雫が溢れていく。彼女は声を出さずに泣いていた。どうしても、泣いていることを悟られたくないようだ。彼は、彼女の泣く姿を放置してそっとしておいた。
 と、そこへ突然扉が開いた。ノックもなしだ。
 無遠慮な掃除婦見習いが戻ってきて「後でお茶が来ますー!」と抜けた大声を上げる。侍従長はちっと舌打ちしながら、慌てて、部屋に戻った。姫は真っ赤な顔を両手で覆って、声を押し殺していた。姫もびっくりしたようで、緊張が途切れ、我慢できなくなってしまった。肩を震わせながら嗚咽が漏れていく。
 見習は不思議そうな顔で「あれ? 泣いているんですかあ?」と声に出してしまう。侍従長は彼女の襟首を一つかみにして、部屋を追い出した。
「お前はしばらく入室禁止だ」
「ええー! もうやだあ、ゴミ捨て以外の仕事もしたいー」
「もうよい! お前のような小娘に城内を歩き回られると気分が悪くなる。そのぼさぼさ頭ぐらい何とかしろ。櫛ぐらい髪に入れろ」
「そんなことしても、無駄だもん。無理だもん。あたし、きれいじゃないし、かわいくないし、掃除婦は汚れる仕事だし、誰も見ないし」
「そういう卑屈な女のことを醜いというのだ! だが、素直になることを学べ! 見た目なんかのために命じているのではない。私の命令を聞けるかどうかを見ているのだ」
「えー……くしー? もってないもん……買えない、もん、だれも……くれないもん」
 その掃除婦見習いはもじもじしながら廊下に出た。侍従長は彼女の目の前で扉をバタンと閉めてしまった。そして、部屋の中に戻ろうとして、くるっと体の向きを変えたら、真っ赤な顔をして怒っている姫に真正面から睨まれることになったのである。
 さきほどまで全く生気の欠片もなかった女性が、溢れるほどの怒りを見せている。姫がこれほどまであからさまに怒っているのを見るのも初めてだ。侍従長は彼女の前に膝をついて、無礼を詫びた。
「姫さま、失礼いたしました。あの者はまだ教育も未熟な女でして、マナーというものが全くなっておりません。私の責任でございます。どうかお許しください」
「許しません。彼女をここに呼びなさい」
「あ……いや、あの……よく罰しておきます。入室の礼儀をきちんと教えておきます」
「いいから! 早く! あの女の子をっ、ここにっ、呼びなさいっ! 早くっ!」
「あわわわわ」
「私の命令を聞けないのですかっ! そういう横暴な男の姿を醜いというのですっ!」
「はいっ、申し訳ございませんっ、今すぐに呼んでまいりますっ」
 侍従長が飛び上がって扉を開けると、例の見習少女はまだそこにいた。姫の怒声を聞いて、ぽかーんとした顔で侍従長を見ている。何とも間抜けな表情だ。垢抜けていない女である。だが、侍従長は彼女の腕をつかんで中に入れた。
 姫の怒りを恐れて、彼は手取り足取りその少女の膝を床につけさせると、後頭部を片手で押して一緒に詫びを入れた。少女は自分がどうして謝らされているのかよくわかっていない様子で、上目づかいに姫の表情を見つめた。
 姫はぼろぼろ流れ落ちていく涙を片手の甲でぬぐいながら、部屋の中を歩いていく。引き出しを開けたり、扉を開けたり、棚の上を覗いたりして櫛を探してきた。侍従長はそれを見て、渋い顔つきで「ああ……」とうめいた。姫の怒りは、少女の態度ではなく、侍従長の言葉の方だったらしい。姫は彼が押さえこんでいる、ぼさぼさ頭の少女の髪を何とかしてやろうと考えているようだった。
 侍女の言葉を思いだし、男性には理解できないという姫の傷ついた心を、少し理解する。
 彼は、見た目を綺麗にしろ、と叱っただけなのだが、実はこれは女性には失礼な言葉だ。彼だって、自分の妻には口が裂けても言わない。少しでもそのことをほのめかしたら、ものすごい大喧嘩になるからだ。女の美醜は男が口を出してはいけない聖域なのである。
 アリシア姫が劣等感を持っているとは思わないが、何か誤解を受けるような言葉を言われたのだろう。その言葉を口にした人間が王子でなければいいのだが、と思いながら青くなる。いや、姫が泣くなんてよほどのことだ。男がからむから、女は落ち込む。
 侍従長は抵抗を諦めて、姫の好きにさせた。侍女の言うとおり、男には理解できません、である。いや、男は理解しない方が幸せなのだ。
 姫はもう涙が流れることを隠すことなく、真っ赤な顔をして泣いていた。ひれ伏していた少女の腕を引き、無理やりソファに座らせると姫が自らその髪をすきはじめた。少女はきょとんとして抵抗しなかったが、侍従長は「あ、あ、ああ」と動揺しながら、その場で腕をふった。掃除婦の髪をとく姫なんてあってはならない。立場が逆だ。いや、侍女ですら許されない行動だ。
 だが、大泣きしながら、少女の髪を整えている姫に注意はしにくい。意地でもその少女をきれいにしたいようだ。その行動自体が姫にとっては慰めになっているに違いない。
 女性らしさからは程遠かった見習の少女も、美しい姫に髪を撫でられて、真っ赤になった。彼女は恥ずかしそうにうつむいて、癖のある自分の髪を隠すようにして握りしめる。どんなに丁寧に櫛を入れても、素直に流れてはくれない。そのことがとても恥ずかしくて、彼女は涙目になった。努力してきれいになるなら、すでにやっている。だが、いくら櫛を入れても、周囲に認められることはなく、醜い髪だと言われ続けたからこそ、彼女はもうあきらめてしまったのだ。きれいになるための努力を。少女はそのことを思いだして、不意に「うえーん」と泣きだしてしまった。大事に髪をとかれれば、とかれるだけ、傷ついた。全くきれいになってくれない自分の姿に。醜い髪を愛してもらえずに傷ついてきた日々を思い出す。
 少女が泣きだすと、姫は彼女を後ろから抱きしめて「絶対にきれいにするから泣かないでください」と言った。少女は涙を流しながら「無理だもん。絶対に無理だもん」と首をふり続けた。その姿を見て、さすがに侍従長は反省した。
 彼は優しい声で二人に話しかけた。
「何を言うか。かわいくなったではないか……これから、三つ編みにしてきなさい」
 少女は大粒の涙をこぼしながら、侍従長をふり返る。姫も同じような顔で彼を見つめた。侍従長はにっこり笑って少女たちを安心させる。
 彼は姫の手から自分の櫛をとって、少女に渡した。少女は恥ずかしそうにその櫛を侍従長に返した。まだ頑なに拒否したいらしい。だが、彼はもう一度「素直になったら、櫛を買えるだけの給金を得られるように教育してやろう」と告げた。少女は汚れた手でその櫛を握りしめて、大事に両手で抱きしめた。少しうれしそうに「いいよ」と口にした。生意気な反応だが、条件につられるとは、かわいい子供だ。
 姫は少女に「簡単な三つ編みなら私にもできます」と笑いかけて、編み方を教えた。二人は仲良く自分の髪を編み始める。赤い顔をしたまま、姫は笑顔になっていた。姫が泣きやんで侍従長も安心する。
 調理場から温かいお茶と共に甘い菓子が届けられた。舞踏会で用いる試作品だという。侍従長は姫に「御試食して確認を」と呼びかけた。姫はもういつも通りの表情で、部下の求めに応じ、一つ口にすると「美味しいですね」と答えた。菓子制作の責任者であるヨセはほっとした顔で「ありがとうございます」と頭を下げる。
 いつまでも姫と一緒に座っている見習の少女を退け「三つ編みはもうできたな? では仕事に行きなさい」と追い出す。少女は不器用に編み込んだ髪を手で隠しながら、照れくさそうに姫に頭を下げた。姫も彼女と同じ三つ編みをしたまま、優しい笑顔で手をふった。
 再び二人になると、侍従長は姫に声をかけた。
「かわいい三つ編みですね、姫」
 アリシアは恥ずかしそうに笑って「下手な三つ編みです」と応えつつ、長く編んだ自分の髪を撫でる。姫は侍従長に問いかけた。
「男性は美しい女性の方が好きなんですね。どうしてですか?」
 若干、言葉に棘を感じる。女性として、責めたい気持ちがあるのだろう。
 だが、侍従長は少し考えて姫に返した。
「女性は美しいと褒められることがお好きだから、ですね」
「……心にもない褒め言葉は嫌です」
「たとえ、心の中で本当に美しいと思っていなくても、私は口にしますよ。その女性を喜ばせたくなったら、男はどんな言葉だって言います……美しい、という言葉は、愛しいという意味なんです」
 侍従長は姫にお茶を勧めて、一息ついた。
 姫も汚れた頬に気がついて、頬を赤らめた。姫は濡れた睫毛を指先で撫でながら言う。
「無様に泣いてしまいました。こんな姿を男性に見せるなんて」
「女性は大変ですね。そんなに格好よく取り繕いつづけなくてはならないとは」
「男性が、美しい女を求めるから悪いんです」
 姫は少し憤慨した顔で口を尖らせた。でも、心の壁は少し低くなったようだ。彼女の口から不満が出てくると、侍従長は頭を下げて笑った。女の方から男に近づかないから、男が「美しい」と言いながら女に近づくだけだ。そこを批判されても困るのだが。
 確かに、美しい女の方が好かれるのは事実だが、美しさだけを愛することはない。
 姫は少し怒った表情で続けた。
「やはり、男性は外見のきれいな方がお好きなのですか? 内面は関係ないのですか?」
「おやおや。姫さま、本気でそのようなことを……さては、侍女たちに外見で何か言われたのですか。あなたほど美しい人が、何をおっしゃいます」
「ごまかさないで答えなさい。女は美しければよいのですか」
 姫はつんと澄ました顔で侍従長を睨んだ。絶対にその答えを言わせたいらしい。侍従長は困った顔で「世の男性は一種類の価値観では決まりませんよ」と逃げ道を作った。姫にとって、本当に責めたい人間は彼ではない。
 婚約者に違いない。
 ウルフェウスが美しい女を求めているのかもしれない。それはそれで、彼の価値観だ。侍従長にはそこを諌めることはできない。
 姫は真っ赤になって口を開く。
「本当は……体だけが目的なんですか? 心なんて関係ないの?」
 彼女は哀しそうにそう続けた。侍従長は昨夜ケタルがしていた相談を思い出した。王子が姫にキスをしたという話だ。姫の不安はそこにあるのだと理解した。
 そこに、姫の教育係たちが怯えた顔でやってきた。彼らはノックをして入室を許されると、姫の姿を見つけて「ああ!」と安堵の声を漏らした。
「姫さま! お一人でどこに行かれたかと……もう、またあのような突然の失踪はしないでくださいましね? 明日の舞踏会が嫌で逃げ出したかと思いました」
 彼らは傍に来て、姫を抱きしめた。姫の泣き顔に気がつくと、厳しい口調で「化粧が取れていますよ?」と注意した。姫は慌てて片手で顔を隠して赤くなる。
 彼らはその後、その泣き顔を隠しつつ、姫の頭を撫でて慰めた。優しい表情で。


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