二輿物語


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44 兄想い




 計略を操るものが一人だけならば、戦いを制するのに苦労はない。知略に富んだそのものが事態を正しく把握して、全てを操作できていれば予測以上のことは起こらない。
 しかしながら、物事の大抵は、複数人の思惑によって複雑に動いていく。
 謀略を巡らす多数の人間が同時期に蠢くことは珍しいことではない。その中で、誰が機を制するかで勝敗が決まる。機を制するのに必要な能力は、危機を嗅ぎ分け、突破する度胸のみだ。その点、かの戦好き男はとびぬけた才能を持っていたにもかかわらず、こと、男女の営みに関してはまるで赤子のように無知である。そのため、自分を取り巻く状況に気がついたのは、一日が終わる間際のことだった。全ての対応が後手に回ることになる。
 ウルフェウスとアリシアの仲たがいの噂は既に宮廷内にも広がっていた。さらに、大臣たちは王子の機嫌を損なっていないかどうかを気にしていた。ピピネと全く同じ思考回路で、賠償金の心配をしていたのである。それも、姫と婚約者の兄が夜の教会で逢引していたという話を聞いたせいで。
 王に謁見を願い出て、噂の真相を追求するように促したが、ピピネが先回りしていたおかげで王は落ちついていた。穏やかに「ただの噂だ」と笑う。一度は、大臣たちも王の言葉を信じて退いたが、噂の第二波でウルフェウスが姫を疎んじていることを知らされ、舞い上がってしまった。
「姫よりも美しい女を探す、だと! バカ者! やはり、殿下はお怒りではないかっ」
「アリシアさまよりも美しい女を用意しろと言ってきたのか? 当てつけではないか」
「姫の不義を理由に、婚約を破棄されてはかなわん。こうなったら、殿下の望み通り、夜伽として、見目麗しい処女を用意して歓待してくれるわ。このことはくれぐれも内密に」
「全く……姫君のおかげでとんだ誤算」
 大臣と姫付きの侍女たちが余計なことをしなければ、時勢を制したのはメンキーナだったかもしれないのに、おかげさまで彼女の計画は全てぶち壊しになった。どこから、王子が美しい女を求めているなんて戯言が流れたのか全く分からない。メンキーナは、姫付きの侍女たちのおしゃべりが原因で、姫が泣きながら城内を歩いていたことなんて知らない。そして、衛兵たちが姫に同情しつつ、侍女たちの悪口を言いあっていたことなんて知らない。その悪口を大臣に侍る者たちが耳にしていたことも。
 姫付きの侍女たちは口を固く閉ざしたのに、あっという間に広まってしまった。
 その日の晩餐も、アリシアは王子の前に姿を出さなかった。この時、彼女はまだ深く傷ついていた。まだ彼の前に出られるほどの勇気はなく、立ち直っていなかった。
 ウルフェウスは兄と共に二度目の晩餐会に出て、メンキーナから明らかに嘘だとわかる誘いを受けていた。彼女に「殿下ー、笛がとてもお上手なんですよねー、帰国する前に一度ぐらいは後で聞かせてくださーい」なんて甘えられ、その真意を知りつつも、すっかりだまされたふりをして「別にいいけどー」と応えつつ、居心地の悪い顔をして黙り込んだ。素直に、姫のために演奏しに行け、と言ってくれないがために、彼は喉の奥に物が詰まったような顔をして「あー、気持ち悪い夜だなーくそー」と一人で悶えた。そんな弟の隣で、兄は涼しい顔をして食事を続ける。
 その様子を大臣たちは恐々とした顔で見つめていたのである。ウルフェウスの様子は明らかに不機嫌というか、不審というか、欲求不満の溜まった動きに見える。そして、ピピネ王子の厚顔な悪党ぶりに、あんなに涼しい顔をして弟の花嫁の心を奪ったのか、と腸の煮えくりかえるような思いで歯ぎしりする。
 彼らが王子の夜伽として、選べる女は決まっている。王侯の夜伽を務めるのは、姫か王妃の侍女だ。誤って子供ができても、すぐにその事実を握りつぶすことができるからだ。
 王子の機嫌を損なったのが、姫の行動に原因があるのなら、その責任を取るのも彼女に侍っている女たちの役目である。大臣はすぐに侍従長にその旨を伝えて、協力を求めた。
 前例のない要求を知り、侍従長は真っ青になって一度は拒否したのだが、軍事大国の王子の怒りを受けることは恐ろしい。お前に他に策があるか、と問われると侍従長も恐ろしくなって「では、王に相談を」と口走ってみたものの、大臣たちと共に震えあがって「できない」と続けた。追い詰められた彼は、誰にも相談できないという辛さを抱えつつ、王子の帰国は迫っているのだぞ、とか、ヴァルヴァラから賠償金を請求されたら国家は破産だ、なんて大臣たちに責められ続けて、泣きながら頷いてしまった。
 その頃、姫付きの侍女たちは傷ついた姫の自信回復のために、あらゆる手を尽くして慰めようとしていた。何とかして彼女をバラ園に連れて行かないと姫と王子の仲直りができない。それなのに、自分たちの言動で姫は深く傷ついて、寝室にこもったまま「誰にも会いたくありません」なんて避けられてしまっているのだ。
 姫に侍っている少女たちはもうあきらめてしまった。意地になって、頑張っている年長者たちを尻目に勝手に部屋を退いてしまう。主が「帰れ」といったら、彼らの仕事は終わりだ。いつもより早く終わったねー、なんて平和に言いながら自分の部屋に戻った。
 その夜は夕飯を抜かれていたので、もう辛くてたまらない。彼らはさっさと寝床に入って寝てしまう。そんな中、侍従長はセレナの部屋の扉を叩いた。同室にいる侍女はもう膨れてベッドから出てこない。セレナはグーと鳴る腹を抱えつつ、扉を開けた。
「セレナ、お前は王子とミタルスクへ行っていたであろう。少し頼みがあるのだ。ちょっと……来てくれんか」
「えー……今ですか?」
 セレナは今頃は彼がバラ園で笛を吹いているに違いないと思って、憂鬱な気分になった。初恋の人が自分以外の女性に愛を告げているであろう時間帯に、よりにもよって、彼に関する頼みごとなんて引き受けたくない。
 しかし、連れて行かれた先で突然身ぐるみはがされて、勝手に体中を洗われ「ぎゃー」と悲鳴をあげる間もなく、薄手の夜着を羽織って彼の寝室に運ばれてしまった。あまりの恐ろしさに「な、な、なん、なんで、なんで」とどもっていたら、大臣たちに命じられた。
「今宵、王子を絶対に満足させろ……とはいえ、どうして、こんな女を選んだのだ? 姫よりも美しい女にしろと言ったであろうに」
「い、いや、姫さまよりも美しい方なんて……王妃様ぐらいしか思い浮かびません」
 セレナは頭の中が真っ白になったまま、正座して真っ赤な顔で固まった。夢をみているのだろうか。姫の代わりに王子の寝室に運ばれることになるなんて。
 恐縮している侍従長を退け、大臣が話した。
「アリシア姫殿下とピピネ殿下の不義の噂を知っておるか。そのことでウルフェウス殿下はいたくご立腹だ。姫の行動が原因でわが国に損害を与えることになるかもしれん。国のためだ。その身を捧げよ」
「え……うそ……やだ」
「お前が敬愛する主の不始末だ。やだ、では済まされぬ。心してご奉仕するように」
 どうしても嫌というなら媚薬を飲ませるぞ、と言われて、セレナは震えあがった。大臣たちは彼女が逃げないように部屋の出入り口を衛兵らに見張らせて、退室してしまった。セレナは泣きながら、その部屋で王子を待つことになった。
 ウルフェウスは姫が愛する白バラの園でメンキーナと共にぼんやりして月が出てくるのを待っていた。不用意な噂を流されないように、メンキーナはケタルたちも一緒に連れて行く。姫の周囲を守る衛兵たちはイライラしながら「男が三人かよ」と文句を言っていた。彼らが暴れたら取り押さえるのも苦労する。通常の二倍以上の人員をバラ園の周囲に配置することになった。
 ウルフェウスはいつでも笛を吹く準備はできていたのに、メンキーナがそわそわしながら「あー、月が出ていない―からー」なんて訳の分からないことを言いながら泣いていた。大方、姫が来ていないと言いたいのだろう。ウルフェウスももう騙されつづけることに飽きて「ちゃんと姫にも聞こえるようにでっかく吹いてやるってば」と侍女を慰めた。メンキーナは「今夜しかないのにー」と大泣きだ。
 そして、日付の変わる寸前になって、事態は急展開するのだった。
 姫に侍っている年長の女が申し訳なさそうに、姫の手紙を持ってきた。ウルフェウスは何時間も待ちぼうけを食わされた上に、すっぽかされたわけだ。メンキーナもガッカリした顔をしていたし、ケタルもあまりの待遇に怒りを覚えていた。貴婦人としての礼儀に反すると言って、王子の代わりに侍女を叱りつけた。
 この時、ウルフェウスにとってはまだ未知の事態には陥っていなかった。彼はだいたいこんな風になるだろうな、と予想していたので、それほど気にすることなくケタルの怒りを鎮めた。慣れという奴だ。驚くほど短気だった男だが、順応も早い。もう姫の行動に驚くことはない。そして、彼は部下のために一曲献じてくれたのである。メンキーナもケタルもその行動で涙ぐみ、その場にいた人間たちは皆、静かな楽曲に聞きほれた。
 姫の侍女も泣きながら、王子の笛の音を聞いていた。
 悪魔と呼ばれた男にしては、珍しくも可愛らしい女性向きの優しい曲を吹き終えると、さっぱりした顔で「終わったぞ」と彼らに声をかけた。ウルフェウスは兄との約束を果たしてほっとした顔で笑みを浮かべている。これで文句はないだろ、という顔だ。
 彼は笛を片づけながら、姫の侍女に話しかける。
「姫に詫びを入れてくれ。直接、俺が言うより、そっちの方がいいんだろ? んーと……彼女が怒っている理由は……あー……俺のせいだ。すごく反省していると伝え、いや、反省というか、違うな、俺は後悔してない。ただ、その……一人で早まったことをして悪かった。俺は……彼女が、俺の近くに来るまで待つことにする。一度、国に帰るけど」
 彼の言葉は不器用だが、ひたむきに感じられ、胸をうった。侍女は王子に問いかける。
「殿下はアリシアさまのことを、どう思っておられますか? こんなにひどいことをするような方ではないんですよ? 本当はとても優しいお方なんです」
 姫に悪評がたつことを気にして、そんなことを言ったのだが、ウルフェウスはうれしそうな顔をして「知ってる」と答えた。侍女は不思議そうな顔で王子の表情を見つめた。
 ウルフェウスは笛を懐にしまうと、立ち上がった。
 侍女は怯えながら「知っているって、何をですか?」と聞く。
 王子は思い出したように立ち止まって答えた。
「彼女は……侍女を国境まで迎えに行くような、心のあったかい女で、すごく照れ屋で、かわいくて、礼儀正しくて、強くて、曲がってなくて……清純な色気があって、とてもきれいだ」
「…………」
「俺の部下が姫のことを『虹の艶光こぼれるがごとく神の祝福にあふれた女神』……と呼んでいた。その通りだと思うぜ。お前は、いい主に仕えたな」
 姫の侍女は安心した拍子に涙がこぼれてしまい、王子に深々と頭を下げて礼を示した。この王子は女を見た目だけで判断するような男ではないと感じ、姫の懸念が失せたことを感じ取る。彼女は心底ほっとして「ありがとうございます」と幾度も繰り返した。
 ウルフェウスはケタルをふり返り「もう寝るぞ」と呼んだ。ケタルは姫の侍女から手紙を受け取り「殿下の御返答は後日差し上げる」と立ち去った。メンキーナは、彼女の手を握って安心させてから王子の後を追いかける。
 彼にとって予想外の事態が起きたのはそれからである。
 セレナと同室にいた侍女が真っ青になって、走ってきた。彼女は、セレナが帰ってこない、と年長の侍女に泣きついた。その侍女はセレナがミタルスクに連れて行かれたとき、一晩中セレナの帰りを信じて待っていた。また、セレナが誰かにさらわれたのではないか、と心配になって泣きわめいたのである。
 ウルフェウスにとって、幸運だったのは、この時、まだ彼がバラ園からそれほど遠く離れた場所にいっていないことであった。侍女の泣き声を聞き、城内で不穏な事件が起きていると気がついて、彼の足が止まる。王子はすぐに侍従長を呼びに行かせ、事態が発覚したわけだ。
 セレナが自分の寝室で待っていると聞かされ、何で、と訊ねると、侍従長は泣きながら、殿下のお怒りを鎮めるためと聞きました、とバカ正直に答えてしまい、依頼した大臣の名前まで告げてしまう。王子は「その男を今すぐここに呼んで来いっ!」と怒鳴りつけた。
 大臣を叩き起こして、王子の部屋に呼びつけ、セレナに夜伽を強要した理由を聞いて、兄と姫の不義の噂を聞くに及んだ。ケタルはその話を知らなかったので「ありえぬ」と一笑したが、メンキーナは真っ青になって「なんでー」と動揺した。
 大臣はすぐに侍従長と共に床にひれ伏したのだが、ウルフェウスはその話を聞いたとたん、黙り込んでしまった。ただ、麗しい碧眼だけがギラギラと光を放ち、過度の緊張にあることを物語る。怒りに満ちた顔つきだ。
 ケタルは主の不気味な沈黙に対して、毅然として口を開いた。
「殿下! 噂に惑わされてはなりません! そのような不義があるわけがございません」
 ウルフェウスはギロリと彼を睨みつけると「何の不義だ?」と改めて問いかけた。ケタルはそれ以上口にすることができずに飲み込んだ。姫とピピネの間に何があったのかは誰にもわからない。ただ、夜の教会に二人でいて、共に愛を口にしたというだけ……それでも、今のウルフェウスにとっては十分すぎる裏切り行為だが。
 メンキーナは何も言えずにただ泣いていた。一番知らせたくなかった人に、一番知らせたくない情報を知らせた。彼女は辛そうな顔で黙り込む。
 王子はセレナを睨み、大臣に命じた。
「今すぐ、その侍女の処女性を確認して、俺の無実を証明しろ」
「は、はい、もちろんでございます」
「ピピネがどんな男なのかは、俺の方がよく知っている。これ以上、兄の名を汚すな……二度と同じことは言わない……」
「はい……かしこまりました」
 大臣と侍女が出て行くと、ウルフェウスはケタルに「全員失せろ」と命じた。夜を徹して侍る男も許さず、一人残らず「出て行けーっ!」と怒鳴りつけて追い出した。
 一人になると、昼間に愛しげに妻の話をしていた兄を思い出す。彼が妻以外の女性に愛を告げたとは考えたくなかった。だが、ピピネが動いていないなら、この噂の真相は姫の片思いということになる。姫が自分以外の男に愛を告げている様を想像したら、無性に腹が立った。何も考えたくなくなり、弟は苦しげな顔で「くそ」とつぶやいた。


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