二輿物語


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45 賢者の部屋




 翌朝早くに、ピピネは王に求められて、王の間に向かった。通常では旅客を呼びつけるような時間帯ではない。目が覚めたらすぐに来い、というのは本来はとても失礼な話だが、ピピネは王の怒りも感じつつ、反論せずに従った。
 謁見に出てきた王は、穏和な男にしては珍しく、深いしわが眉間に刻まれている。そうとう深刻な問題が起きていると理解した。王はピピネに話した。
「厄介な問題が生じておる……貴方の知恵を拝借したい」
「私でよければ、相談を承ります」
「ミタルスクの皇太子が今日の舞踏会に来ると言っていたのだが、取りやめになった。西方親善大使からの知らせでは、危急の忌事があったとのことだ」
「……どなたが亡くなられたのですか」
「推測では話せぬ」
 王は慎重に言葉を選んでそう答えた。ピピネは王の態度に理解を示して頷いた。だが、彼は外交官らから聞いていた情報で、亡くなったのは皇太子の嫡男だった可能性を考えた。皇太子が国を出られなくなった理由として、身内の死が考えられる。だが、戦争状態ではないのだから、王の死亡は隠さないだろう。王が死ねば、国葬だ。近隣諸国としては、参列の支度を急がなくてはならなくなるが、大使がその死について口を閉ざしている。
 王が早朝にヴァルヴァラの王子を呼んだ理由を考察し、今日の宴の相談に応じることにした。ピピネはすぐに舞踏会を取りやめるべきだと考えた。ミタルスクへ配慮して、ヴァルヴァラとの付き合いを控えるべきだと思ったのである。そのことで王がヴァルヴァラに遠慮する必要はない。もともと、弟の行動自体が非常識だったのだから。
 ピピネは慎重に話し始めた。
「お許しいただけるなら、早馬をお借りしたく存じます。祖国にいる父に知らせ、ミタルスク皇太子にお悔やみを申し上げましょう」
「いや、その情報は非公式のもの。気遣いは不要であろう。むしろ、アルダバ王子はそのことを悟られぬように使者を送ってくるだろう。何事もなく、我が姫と貴方の弟君の婚約に対して祝いを述べてくるに違いない」
「……では、舞踏会はこのまま開催なさるのですか」
「うむ。しかし、言動には、気をつけていただきたい」
「わかりました。弟も普段はあのように愚直ですが、公式の場では無口です。立場と礼儀はわきまえておりますので、御心配はいりません」
 兄として、弟の手綱を引き締めることを覚悟して、王を慰めた。ザヴァリア王は険しい表情を崩すことなく、軽く頷いた。
 王は続けて「もう一つ、解決しなくてはならん問題がある」と口にした。ピピネは頭を切り替えて、王を見つめる。ザヴァリア王は苦しそうな顔で口を開いた。
「弟君を愛する貴方のことを心配しておる……どうか、冷静に聞いていただきたい」
「例の噂の件でしょうか。私の不徳からご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いや……私の娘が原因で、お二人の心と名誉を傷つけてしまったことを詫びよう……実は、昨夜、姫の侍女を夜伽として、ウルフェウス王子の寝所に送り込んだ愚か者がいた。私は事前に相談されていたにもかかわらず、部下の苦境を見抜くことができず、王子を怒らせてしまったばかりか、貴方と私の娘の噂を隠し通すことに失敗した。申し訳ない」
 王は潔く詫びを口にして、目礼する。ピピネは王の謝罪を聞いて、慌てた。そんな王は今まで見たことがないからだ。彼は「とんでもない!」と叫んで、周囲を見回した。
 ザヴァリア王がヴァルヴァラの王子に頭を下げるなんてあってはならない。この時期に。
 妙な噂が立つ前に、彼は王に告げた。
「そのような言葉は不要です。愚かな弟が処置を誤っただけのこと……二度と口になさいませんよう。ここはミタルスクの目の前です。どこに誰がいるかわからない」
 ザヴァリア王は視線を戻して、浅く笑った。ピピネを誘って、広間の外に出るように促した。二人は早朝の庭に出る。
 ピピネは周囲の庭木の形状を見て、王の傍に侍る。彼は控えめな声に話す。
「私たちはこの程度の話で動揺しません。今まで、もっとひどい流言を聞かされたことがありますし、弟と殺し合ったことも一度や二度ではありません」
「なんと、ひどい国であるな」
 王は思わずそう言って、笑った。ピピネは「我らはヴァルヴァラの男ですから」と軽く受け流す。実際、戦地では弟のわがままを諌めるために、彼を射かけたことがある。そこまでしないと、愚弟を制御できなかったし、そこまでやっても、ウルフェウスは生き延びた。そして、彼はどんなに兄に虐げられても、慕い続けてくれているのだ。
 なぜ、弟が自分を慕ってくれるのか、わからない。もともと、彼らにはそういう理由はいらない。血が繋がっているとか、異母だとか、言動が優しくないとか、言うことをきくとか、きかないとか。そんなことは愛を判定する理由にはならない。
 お互いに信じているのだ。自分が愛されていることを。
 いや、愛されているかどうかを考える必要はない。生きているのだから。生かされているのだから。彼が傍にいてくれるのだから。その事実が愛の証明だ。
 ピピネは続けた。
「たとえ、噂が原因で弟が激怒して、私に刃を向けることがあったとしても構わない……私がまだウルフに殺されずに、慕われていることのほうが奇跡です」
「そなたらの絆は強いのだな」
「いいえ。今にも切れそうな絆だからこそ、周り中が敵だったからこそ、せめて、身内だけは信じたかっただけ。明日、死んでしまうかもしれないから、誰よりも愛していると言い続けただけです。生きて抱きしめることができれば、それで十分だと」
 五人いる兄弟の中で、戦場を知っている男は、二人だけだ。他人には理解できない愛情表現を理解してくれる人間はこの世に一人だけだとわかっていた。
「そなたは弟君の無実も無条件で信じるのか」
「はい。あの愚弟が姫の侍女を献上させるなんて、ややこしい真似をするわけがない。あいつはもっと愚かです。自分で勝手にさらいに行きます」
 ザヴァリア王は少し口が軽くなったようで、話し始めた。
「私もいつか、ウルフに対して同じ気持ちを持てるようになるであろうか……部下から夜伽の話を聞いたときは、最初、殺してやりたいと思ったぞ。娘の心情を思うと、胸が張り裂けそうで……ピピネ殿下、もはや、ここまでこじれては二人の婚約は難しかろう」
 王は足を止めて、ピピネをふり返った。兄は静かに目を伏せて服従を示した。これ以上の醜聞があってはならない。姫はまだ汚れのない女性だ。今なら幸せになるだけの余地が充分残っている。身を引けと言われるなら、応じるべきだ。
 負けず嫌いな弟は納得できないと反発するかもしれないが、もうそのようなわがままは通用しない。これは政略結婚だ。両国にとって、利点が消えた時点で解消される。
 今夜の舞踏会で、二人の婚約を公にすることはないだろう。普段通りの外交儀礼で他国から遊びにきた王子として紹介されるだけだ。
 ピピネは少し考えて「わかりました」と引き受けた。
 ザヴァリア王は少しだけ優しい表情を浮かべ「貴方たちとの縁は私も切りたくない……無念だ」と答え、広間の方へと戻っていった。


 兄は弟の説得をどうするかという問題からじっくり考えようとしていたが、性格の全く異なる弟は時間の猶予を彼に与えなかった。自室に戻るとウルフェウスが不機嫌な顔で待っていた。部屋の中央で仁王立ちだ。彼は怒りを隠すことをしない。
 だが、今日の彼はまだ冷静である。いきなり殴りかかってくるようなことはなく、真っ当に、兄の言い分を聞きに来たようだ。兄は意外なところで、ウルフも一応成長していたのだな、と感慨にふける。この男も相当の兄バカである。
 ウルフェウスは怒りを抑えつつ話し始めた。
「ピピネ、話がある……ふー……場合によっては、俺と姫の話が破談になるぞ」
「もうなった。今、王からその旨を提示されてきたところだ」
「は? 何ーっ! お前っ、俺の初めての縁談をぶち壊しやがったのかっ!」
「初めてがあれば、二度目もあるだろう。気にするな」
「気にするに決まってるっ!」
 ピピネは弟の肩をポンと軽く叩いて、侍従に「朝食を」と命じた。バルコニーにテーブルを出し、王子の求める色合いのクロスを広げて準備が進められる。
 その脇で、弟は足を踏み鳴らしながら「いーやーだー」と駄々をこねたり、兄に悪態をついたりしたが、それでもまだ彼は兄を殴るようなことをしなかった。自制が効いている。ピピネは「お前は手が出ないようになったのだな」と口にした。
 ウルフェウスはふんと鼻を鳴らすと、バルコニーに出て食卓に着きながら話した。
「お前は、俺に妻を寝取られた時の仕返しをしてるんだ。そうだろう?」
 ピピネは彼の向かいに座りながら応えた。
「私の妻を寝取ったのか」
「違う! 寝取ってないけど、そういう噂が……あったことも忘れたふりか、お前。その時にきちんとぶつかればよかった。お前は不気味にも感情を押し殺し、こういう決定的な場面で俺を傷つける。根暗だぞ! 怒りを発散しろ! あの時の仕返しのつもりだろう」
「ふー……根暗という言い分は認めよう。だが、私の妻は関係ないぞ。お前では相手になるはずがない。私の妻はクソガキなんて相手にしない。お前が彼女に愛されるものか!」
「喧嘩を売っているのか。買ってほしいのか」
「買うな……今の言葉は聞き流せ。少し発散しただけだ。ふー!」
 陶器のすれ合う音とともに二人の前に皿が整えられる。みずみずしい葉野菜に色とりどりのフルーツが混ざり合い、宝石箱のように輝く。香ばしい乳牛の発酵食品と、数種類の木の実が入った温かい卵料理が並ぶ。
 朝日が食卓に差し込んだ。目の前にある深い色合いの植物園の間を鳥が渡っていく。
 ウルフェウスに従事して、ケタルたちも傍で王子たちの朝食を見守った。ウルフェウスは焼きたてのパンを受け取ると、簡単にバターを塗って口の中に放り込む。主の意外な食欲を見て、従者たちはハラハラする。昨夜の状況では、落ちこんでいると思っていたのに、朝一番に兄の部屋へ連れて行くように命じられた。さっぱりしたものだ。
 ウルフェウスはパンを食べながら続きの話をした。
「俺の姫と逢引しただと? 若い女に乗り換えたくなったか……む。バターがまずい」
 ピピネは侍従にサラダを取るように命じてから「馬鹿げた話だ」と答えた。
 二人のグラスに透明な水が注がれていく。朝日の中、弾け飛ぶような光と共に細かな水泡が回る。滑らかな水の音。鳥の鳴き声が高く聞こえてきた。
 ピピネは温かいパンをかごの中から取り出して、話した。
「バターより、ジャムの方が美味いぞ……若ければいいというものではない。相性だ」
「また惚気を聞かせる気か。いちいち仲の良さを証明するな。俺がてめーらの家庭を壊すわけがないだろう、ばーか! どっちのジャムが美味いって? あは……果実がごろごろ入ってる。ザヴァリアの奴らも大雑把だぜ。絶対に俺と相性がいいはず」
「私が気に入っているのは、バラ科の食品だ。そっちのオレンジ色の奴」
 二人は忙しく食事をしながら、食卓上に並んでいる色鮮やかなジャムを吟味する。テーブルの上には五種類のジャムが並んでいた。ピピネが気に入っているバラ科の食品はオレンジ色をしているが、かんきつ類のような酸味は全くなく、まったりとした甘みと爽やかなみずみずしさがある。砕いて入っている果実はほっこりした舌触りで肉厚だ。
 兄に勧められて、いくつかパンに塗りながら、ウルフェウスは口に入れていく。彼は軽く頷いて「美味いな」と答えたあと、話を続けた。
「バラ……姫は白い大輪のバラが好きなんだ。女に花を贈るとき、兄貴はどうする」
「うん? 何だ、このソースは! 普通のサラダではないぞ、ウルフ、早く食べてみろ」
「俺の質問に答えろ。食ってる場合か?」
「もう姫との契約は終わった。花なんか贈っても仕方あるまい」
「く……お前のせいだ。何にも始めていないのに、終わらせやがって」
 ぶつぶつ文句を言いながら、ウルフェウスはフルーツソースのかかったサラダを口に入れ「うめー!」と叫んだあと、そっけなく話題を元に戻して「今まで女に花なんか贈ったことがないから、わかんねー」と不安そうな顔でパンをかじる。彼の隣で侍女が卵料理を取り分けて、小皿に盛りつけた。
 ピピネは絶対に姫を諦めそうにない弟を見て、ため息をついた。彼は問いかける。
「本気で好きになったのか?」
「ああ。一目ぼれ……ふふ。いい女だったろー? 最後に花ぐらい贈らせろ」
 無邪気にもニコニコ笑っている。噂のことは全く堪えていないのか。
 ピピネは改めて、背後に集う多くの侍従を見つめてから、弟に話しかけた。
「姫がお前を望むかどうか、私と賭けをしてみるか? もちろん、私はお前がこのまま振られる方に賭けよう。掛け金は今回の私たちの旅費全額だ。どうだ?」
「あの時……絶対に手を出すな、と言ったのに。お前は既に俺を罠にはめていたのか」
「早く賭けろ。姫がお前を望む方に」
「もう王は婚約の破棄をお前に通知したんだろう? 勝負ありじゃないか」
「では、負けを認めろ。無理するな。もともとただの政略結婚だ。他にいい女はいる」
 ピピネはそんなことを言って、楽しそうにサラダを口に入れる。ウルフェウスは口を尖らせたが、直後、彼の目は輝き「では、俺は命を賭ける」とさっぱりした笑顔で答えた。
 その言葉を聞いて、ピピネは笑い、背後にいた侍従たちは全員真っ青になる。
 兄は「やはり、お前は単純でかわいい」と弟を褒める。弟は不満そうな顔で睨んでいたが、兄は上機嫌になり、温かい卵料理に手をのばすのだった。


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