二輿物語


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46 昼の冷気




 昼の正餐に王の親類が呼ばれ、王族間の付き合いが始まる。
 ウルフェウスもこのときばかりは普段の無礼を返上し、しっかりと礼服を羽織り、ヴァルヴァラから来た代表者としてふるまっていた。礼服はザヴァリア風のものだが、兄と同様にヴァルヴァラ風に髪を高く結い上げ、細かい三つ編みや華やかな髪飾りをつけて、額の太陽紋を隠す。額と目の周りを覆い隠す化粧を施し、まるで別人のようになった。性別すらもわからない。
 まるで人形のように。
 王侯の顔かたちを他国にさらすことは禁忌である。ヴァルヴァラでは親交の深い国以外では、体調を示す部位を人前にさらすことも許されていない。敵対する国に、対外的には国の顔として戦うことになる王子の身体的特徴を悟られないためだ。ザヴァリアはヴァルヴァラに敵対してはいないものの、付き合いが浅く、遠方ゆえに二人の王子は少し警戒した正装をしたようだ。いや、ただ、ピピネが弟の口を封じただけなのかもしれないが。
 爪の色や肌の色、唇の色や形がわからないように化粧を施す。王子の指は大きな鉤爪の装飾で覆われ、食事は全て侍従らが直接口に運ぶ。それも形式的に二口程度の量を、だ。口の中を人に見せることもしない。長い爪で口元を隠しながら、食事を運ばせた。
 その形式的な動作を不思議そうに見つめながら、王の親類たちは「これがヴァルヴァラか」とささやきあった。姫の婚姻を彼らは知っているので、これから大変だな、という目でアリシア姫を見た。彼らはピピネと王の間に交わされた話をまだ知らない。
 王は二人の王子の姿に見とれて、言葉がなかった。彼らが公式行事に出るときに、人間らしさを排除したマナーを徹底させるとは思っていなかったのだ。
 実のところは、王も姫もヴァルヴァラの王子というものを、この時まで見たことがなかった。それまで、二人の王子はここまで形式ばった食事の仕方を見せなかった。多少は人間らしい交流をしてくれていたのだ。
 今の二人には全く話しかける隙がなかった。知らない異国の流儀を反すれば、その場で罰を受けそうな厳かな空気である。二人の王子は会の最初に侍従を通して挨拶しただけで、会食中に話をすることはなかった。
 非常に緊張した会食である。ザヴァリアの王族たちがぞっとした顔をしたまま、静かな食事をこなしていた。これから、夜に行われる晩餐と舞踏会はどうなるのかと不安に思いつつ、王を見つめる。王の傍には、ヴァルヴァラの風習を解読する男が張り付いていた。執事と共に小さな声で、王に王子たちの行動の意味を一つ一つ伝えていく。話しかけていい言葉の種類や、言葉をかける時のルール。彼らに食事を勧める時のジェスチャーなど。 何度も同じ食事を勧めるのは無礼だった。もともと、彼らが公式に二口しか食べない理由は毒殺を恐れてのことだ。無理強いすると、斬り殺されることがあるとも注意された。
 戦による恨みの歴史がその習慣を洗練させたのだ。
 王子の美しさは化粧と髪結いで、はっきり言ってよくわからなくなっている。ウルフェウスはヴァルヴァラでも有数の美丈夫だと噂になっていたが、ピピネとウルフェウスの違いを見分けるのは背丈と髪結いの種類だけだ。髪につける装飾品は兄の方が多い。公式では、ウルフェウスの黒髪も、ピピネの赤毛も白い髪の付け毛でわからなくなってしまう。その装飾を施すために、侍女たちは朝食の後、彼らの部屋に入り浸って髪と格闘し、大量の化粧道具を持ち込んで要求に応えていたのだった。
 本国ではこれに加えて、顔の前面を覆う金銀の面を取りつけ、体臭がわからなくなるほどの香水を体に振りかけて、血の匂いや口臭を消すという。
 アリシアは会食中、微動だにしない王子の目線を見て、ぞっとしていた。
 ウルフェウスは運ばれてくる料理の熱が完全に下がるまで、絶対に口をつけようとしない。部下に取り分けるように指示する横顔は非常に冷たく、人間味のないからくりに似ていた。命令は声ではなく、指先のわずかな動きで行う。人間をまさに手足のように用いる。目線が動くことはほとんどなく、誰とも目を合わせない。それでも、彼の全神経はその空間の全てに注がれているように感じられた。
 会に出る前の彼女は、悲壮な思いで心に仮面をかぶる決意をしていた。ウルフェウスが見目の良い美しい女性を望み、アリシアは期待に沿わなかったと思っているとしても、これは公式行事だと言い聞かせて前に出た。心を殺して彼の前に行ったのだが、ウルフェウスはそれを上回るほどの仮面をかぶっていた。彼の好意どころか、嫌悪感も、人間性すらまったく感じられない装いで。幸か不幸か、そのことがアリシアの緊張を解いた。
 彼はアリシアなんて全く見ていない、と強く認識させられたのである。
 今まで、姫だって、ややこしい社交界のルールを学ぶために、退屈な授業を幾度もこなしてきた。だが、彼らのそれはマナーのレベルを超えている。目の前の男性は礼儀作法だけでなく、魂までも全て調教されてしまっているように見えた。
 胸が痛む。
 馬の首を撫でて微笑んでいた優しそうな男性の姿はそこにない。靴を履いて、ぴったりだと言いながら飛び跳ねていた無邪気な少年の姿はそこになかった。同じ人物なのかと疑うほど雰囲気が違う。それは全く知らない人だった。
 彼と初めて会ったとき、あまりの自由奔放ぶりに驚いた。上半身は裸だったし、言葉遣いは無礼で汚かったし、常識を無視して、自分の想うがままに生きているように見えた。
 それが、幻だったと気づかされた。
 彼は、国のために、ここまで縛り付けられてきたのだとわかった。
 その人が戦場に出たのは、八歳の子どもの頃だ。それから十年も生死の狭間で働いてきた。軍人たちは自分の世話をしてくれない。甘えたくても甘えられないような環境で。幾度も暗殺未遂を体験していたとも聞いた。軍部を掌握したのは十五歳で、父親から離れて商業都市に一人で住んでいた。子供なのに、大人と同じ量の仕事を課され、眠くても、辛くても、馬から降りることを許されなかった。
 ミタルスクから帰ってきたとき、数人の兵士に担ぎ下ろされていた彼の姿を思いだした。あの時は、だらけた男だと思って姫は怒っていた。だが、馬に乗りながら寝るなんて、どれほど辛かっただろうか。それまで、夜も眠れないほど、彼は頑張って戻ってきたのだ。
 気がついたら、アリシアは目に涙が溜まっていた。鼻がつんと詰まって、苦しくなる。また、彼を傷つけるようなことをしていた。彼を貶めるようなことをした。勝手な思い込みで、彼を退け、彼を心の中で責めていた。
 自分たちの常識を我らに押し付けるな。
 彼の兄にもそう言って叱られたことを思い出した。姫が知っている世界はほんの小さな一部分なのに。全ての男性が一つの価値観で判断できるわけがないのに。
 アリシアは涙がこぼれないように耐えていたが、王も王妃もその姿を見て、沈痛な顔に変わっていた。姫が何を思って泣きそうになっているのかわからない。王の頭によぎったのは、もちろん、王子と姫を取り巻く数々の騒動だ。その中には姫の心を傷つけるものがたくさんある。彼女を守るために、王は「少し辛い料理があったようだ」と言いながら、自分の目を布巾でぬぐった。
 王妃がピピネに「殿下は大丈夫でしたか」と問いかけている間に、姫も父の真似をして、少し目をぬぐった。ピピネ王子は声を出すこともなく、手を挙げて、無事を知らせる。味付けに問題はない、と伝えると、表情を崩すことなく再び顔を前に向けて、動きを止める。
 姫が泣いても、ウルフェウスの視線は動かなかった。彼には全く心がないかのように。
「本当に……あれは、悪魔だな。アリシア姫も可哀想に」
 とても小さな声でそう聞こえた。
 彼を評価する心無い言葉に傷ついた。彼の本当の姿を知らないくせに、と思った。


 王子の退席を手伝って、侍従たちが二人の手を導きながら部屋を出て行く。
 扉が閉まると、それまで張りつめていた糸が切れたのか、一斉に重々しい吐息が漏れた。
「緊張しますわね……ハア……婚礼の儀では一体どうなるのやら」
「ヴァルヴァラの作法を学ばなくてはならん。生きた心地がしなかったぞ」
 親類たちはそう言いながら、冷や汗をぬぐう。珍しいことに今まで公式の場で崩れたことのない余所行きのすまし顔が全員消えていた。今まで体面上張りあってきた親戚同士でも、ヴァルヴァラに比べたらまだ身内なのだと認識した。
 その日の午後は妙に親類が近く感じられた。昼の正餐の後は、親族の親睦会だ。ヴァルヴァラの王子も呼ぶ予定だったが、急遽、王が身内だけで集まることを決めた。
 アリシアの叔父は「会食中に誰か殿下のことを『悪魔』だと言っていただろう! なんと恐ろしいことを。ばれたら殺されるぞ。夜は絶対に気をつけろ」と周り中を睨んで作法を注意した。今まで、叔父はそんな下世話な注意を親睦会でも話したことがない。今まで、鼻につく態度で仰け反りながら親類の話を聞き流していたような男なのだが。
 叔母たちも陶器のように美しい顔を崩し、恐怖におびえながら「さっきまで何を食べていたか忘れたわー」と周りに話している。そして、アリシアに温かい笑みを見せて「何かおなかがすきません?」なんて話してきた。食事をねだるなんてはしたない、なんて見下した顔で従妹たちを注意していた叔母が。
 ザヴァリア王は親類たちに囲まれて、質問責めにあっていた。
「王陛下、本当に、本当に、あのヴァルヴァラと婚姻契約を結ぶおつもりですか」
「あ、いや、その件でな、今日は相談」
「ああ、なんて恐ろしいのかしら! 本当に人を殺しても何とも思わなそうだわ。彼らの無表情ぶりをご覧になりまして? まるで悪魔か人喰鬼のようで」
「ん……ん……」
「陛下、是非、ご再考くださいますよう。あれではアリシア姫殿下があまりに気の毒でございます……本当に人身御供ですわ。姫が何をされるだろうかと思うと恐ろしくて」
「…………」
「人を人とも思わず、姫を傷つけてしまうでしょう。いたぶられて殺されてしまいます」
 親類たちはアリシアを心配して、姫の周りに集まっていた。叔父や叔母、遠縁の親類たちが姫を慰めるように「よく涙を耐えていたね」「偉かったわよ」なんて話しかけてくる。今まで、客の前で泣きそうになると「無礼です」と叱られてきたが。
 最初はそんな親類の態度の変化に驚き、きょとんとしていた姫だったが、徐々に彼らの愛情を感じたり、ウルフェウスを罵倒する言葉にイライラしたりして、不思議な感覚を持つようになった。
 この居心地の悪さは何だろうか。
 彼らに、彼の悪口を言われたくない。本当の彼は違うの、と叫びたかった。
「で? どちらの王子が『鮮血刃の悪魔』なんだ?」
「あら嫌だ。気がつきませんでしたの? 全く姫を見ようともしない、冷酷なお方ですわよ。もう! 五番目の王子とはいえ、兄さまよりも背が高いようでしたわ」
「ああ、あっちか」
 人を人とも思わないのは、どちらなのだろうか。人間を、あっち、こっち、と評するような言葉の使い方にイライラする。今まで、アリシア姫だって、知らん顔で「どちらの方が」と口にしていたに違いないのに。
 姫はむかむかしてきて、両手を握り合わせたまま、部屋の中をぐるぐると歩き回った。
 王妃の親類たちが「本当に大丈夫ですの?」と王妃に問いかけた。王妃は涼やかな表情で「何が?」と優雅に笑った。王妃は穏やかな表情で続きの話を引き受ける。王は一人で深く考え込んでしまっていたが、その状態に陥ると埒が明かないことをこの女房はよく理解できていたからだ。彼を補佐して、足りない言葉を補った。
 王妃は親類一堂によく聞こえるように澄んだ声で話しかける。
「みなさま、本当にまだ気が早いことですわ。アリシアはまだ正式に書面でお答えしていませんのよ? 今宵は遊び好きな殿下が旅行のついでに立ち寄っただけですのに」
「あ、あら、まだ正式に決まったものではないのね?」
「そうですわよ、おほほほほ」
「でも、その……お二人の様子はいかがなんですの? 殿下の滞在中に、仲良くなりまして? お二人は……あ! 姫さまは殿下をご覧になっていかがでしたのー?」
 二人がゴーサインを出せば婚約することになる。親類たちは怯えた顔でアリシアの反応をうかがった。アリシアは部屋中にいる親類たちに見つめられ、ごくりと息をのんだ。
 従弟たちが黙っているアリシアを見て「まだあまり仲良くなっていないんだね?」と確認する。アリシアは恥ずかしくなってうつむいてしまった。
 仲良くなる前に、彼にキスされた。あれはヴァルヴァラではどんな意味があったのだろうか。とっさに彼の頬を叩いてしまったが、無礼ではなかっただろうか。その後、罰されることもなく無事に今まで無視されているが、本当のところは大丈夫なのか。
 親類の目がアリシアに注目している間に、王はふらりとその部屋を出て、庭の散策に出てしまった。侍従たちが親衛隊を呼び、王の動きを守る。親類たちは一人になった王を見送り「何かお悩みのようね」と囁きあった。
 姫は父親の姿を見て、不意に心細くなって走り出した。傍に行くと、父は一言漏らした。
「一度は、自分がこれと認めた男の悪口を聞くのは辛いものだな」
 王は娘に乗馬を誘った。アリシアは父の申し出を受けた。
 馬に乗るのは久々のこと。彼と旅した時間を思い出す。キスされたことも、きれいだと思った彼の体も、体を温めてくれたときのこともよく覚えている。
 アリシアが寒くて震えたら、彼は水から出して抱き上げてくれた。陸の上でも、彼は自分の熱で温めようとした。もしかしたら、あれは彼の中では無礼ではなかったのかもしれない。アリシアはびっくりして彼を叩いてしまったけれど。寒いだろうと思ってしてくれた、ただの親切だったのかもしれない。
 馬に乗っていたら、彼の寝顔を思い出した。
 父親に「彼は馬に乗りながら寝ていました」と教えたら、王は「器用なことができるものだな」と気楽に答えた。姫は目からうろこが落ちた気がして「器用、ですか」と繰り返す。あれは怠惰ではなく、辛そうで可哀想なのでもなく、器用と呼べばよかったのか。そういうものの見方もあるのだ、と思った。


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