二輿物語


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48 白バラの男性




 貴族たちの謁見が終わり、社交が始まった。
 王は謁見が終わると妻に後の社交を任せ、宮廷に向かう。王妃は国内外から来た客をもてなし、爽やかな庭園茶会を取り仕切る。姫も正餐と同じ礼服のまま同席した。美味しいケーキや美しい水色のお茶、色とりどりのクッキーに囲まれ、表向きには優雅な時間が流れる。しかし、来客らは不安そうな顔で「ヴァルヴァラの王子」の話をした。戦場でどれほど恐れられている人間か知っているのだ。ウルフェウスの話が聞こえてくると、貴婦人たちが扇子で顔を覆い隠して眉をひそめた。
「可憐な花を手折られる様を見るようなもの……鮮血刃の悪魔は力づくで姫を差し出せと王に迫ったのだろう。アリシア姫の美しさを知り、是が非でも手に入れようとしたに違いない」
「恐ろしい男だそうだ。魔道に通じ、悪魔に魂を売ったらしい。そのために、戦地では時空を越えて神出鬼没らしいぞ。敵将の寝床に突然現れて首を刈るらしい」
「おお……! 何と恐ろしい」
 その噂はどこまで正しいのだろうか。アリシアは両耳を手で押さえた。彼の噂なんてもう聞きたくない。姫はその空間に居続けることが辛くて、席を外して庭の中を散策した。
 そんな姫の周りに親類たちが集まってきた。叔母たちが怯えた顔で、笑みを浮かべてアリシアに話しかける。
「姫……気になさらないでくださいまし。仮面を取ればお優しい方ですわ、きっと」
「ええ、きっと。見た目もほら、背が高くいらして、たくましそうで、素敵でしたわ。ウルフェウスさまは美丈夫らしいですわよ。今日はお顔を少し隠されていたようですけれど、きっと、そうよ、美しいに違いないわ。強さと美しさを備えた殿方はそうはいません」
「夫としては最高の殿方になりますわ、きっと」
 昼には悪魔のようだと罵り、王に政略結婚を考え直すように進言していた彼女たちがコロッと態度を変えた。アリシアは不信感の詰まった顔で彼女たちを見つめる。何が正しいのかわからなくなりそうだった。
 その背後で、王族たちの言葉を聞いて、貴族たちが眉をひそめて囁いていた。
「ほら……やはり、脅されているのだ」
「姫を差し出せと言っていたのだろう。姫を差し出さねば、国を滅ぼすとか」
「ああ、言っていたのかもしれぬ」
 彼らは一様に怯えた顔だった。親類らも笑顔の下に恐怖の感情が見え隠れしている。アリシア姫は彼らが気持ち悪くなり、そっと、後ずさりしたのちに走って逃げだした。
 姫を追って、侍女たちが妖精のように飛び跳ねていく。レースドレスを着た彼女たちが走ると華やかで注目された。貴婦人たちは「まあ、可愛らしい」と機嫌を直して微笑む。
 妖精のような少女たちを見つめ、退屈そうだった貴族の子息たちが悪戯好きな目を輝かせる。そのうちの一人に手をのばして捕まえると、困っているその侍女をからかって遊び始めた。かわいい妖精さん、と話しかけて顎をしゃくるとその娘は真っ赤になってしまった。貴族にさらわれた侍女がいると、彼らは慌てて駆け戻ってきて仲間を助けた。
 姫は後ろの騒動を振り返ることなく、森の中に飛び込んだ。
 彼は一度も魔法なんて使っていない。悪魔と取引なんてしていない。自分の力だけで大地の上を駆けていく。魔術ではなく、ただ、彼は誰よりも早く走るだけ。
 彼は美しい? 確かに美しい瞳を持っていた。穢れていない純粋な目を。
 彼は力づくでアリシアを手に入れようとしただろうか。あの時。
「……消え失せろと言ったら、いなくなってしまいました」
 アリシアは木々の中に入ると、ぼんやりとした顔で立ち止まった。彼はもうアリシアを望んでいない。アリシアよりも美しい女をたくさん見ているから、興味を失った。
 セレナが彼の寝室に呼ばれたことを、昨夜、聞いた。姫についている侍女だったから、報告があるのは当然のことだ。侍従長はセレナの無実と純潔を証明して幾度も恐縮していたし、教師たちは憤慨して「まずはこちらに相談するのが普通でしょうに!」と叫んだが、アリシアは脱力して心に痛みも覚えなかった。何が起きたのか、よく理解できなかったからだ。夜が明けてじわじわと哀しみが襲ってきた。彼に裏切られたという思いと、彼がアリシアを見捨てたという思いだ。
 そのこと自体にもショックを受けたが、それ以上にショックだったのは彼が誰一人として愛していないと感じたことだ。アリシアやセレナは彼にとって「愛せる対象」ではなかった。彼にとって、女とは手に入れるべき所有物に過ぎない。彼女たちは人として彼に認知されていなかった。誰でもよかったのだ。欲しくなったら、相手の心なんて関係なく、部下に命じて連れてこさせればよいだけの代物だ。
 彼は最初から誰にも興味を持っていない。もっと恐ろしい世界の中で生きてきた。彼自身も祖国では人間ではありえなかった。彼は国の象徴で、彼自身もそのことを受け入れ、人形になりきった。彼に選択できる自由はない。人形のように祭り上げられて、戦わされた。そうでなければ、生き残れなかったから。
 戦争のある国で。
 父から、今日の舞踏会では婚約者の紹介はしないと言われた。ウルフェウスが姫の部屋に迎えに来ることはない。彼の手を取って今宵一緒にダンスを踊ることはない。彼と舞踏会を一緒に過ごすために、授業を受けて準備をしてきたのに。
 彼を拒絶したのは自分なのに、彼が自分を見ないと知ると胸が苦しかった。
 あの時のキスも、ただの気まぐれだったのだろうか。
 アリシア姫は木の根元にしゃがみ込んで、両手で顔を覆い隠した。侍女たちが彼女の傍に来て、泣いている姫の姿を見つめる。彼女たちは落ち込んだ顔になり、姫に抱きついて慰めた。年配の侍女は言う。
「姫さま、昨日の無礼を改めてお詫び申し上げます。姫の身を貶めるためにあんなことを言ったわけではないのです。この子たち……姫さまの美しさに嫉妬しただけなのです」
 少女たちも頷いて答えた。
「そうです、そうです! 姫さまよりも美しい人なんているわけがありませんし!」
「ウルフェウスさまだって、昨夜はバラの園に足を運び、姫に会いたがったそうですわ」
 口々に彼らはそのようなことを話したが、アリシアは「もうやめてください!」と叫んだ。侍女たちはびっくりして口を閉じる。姫の叫び声は庭園内に聞こえた。貴族たちの談笑まで止まってしまう。
 姫は泣きながら続けた。
「本当の話も、嘘の話もいりません……慰めなくてよいから、私を一人にして……」
 彼女は涙をぬぐうと長い裾を手で握って、森の奥に走って逃げた。侍女たちは追いかけようとしたが、足が動かない。少女たちは涙ぐみながら「姫さまに嫌われた」と落ち込んだ。年長者たちは彼女たちを抱いて慰めつつ、姫を見送る。
 だが、森のように見えても、侵入者を防ぐために、少し奥に入ればもう壁がぐるりと囲んで逃げられないようになっていた。姫は花崗岩の壁に手をついて、泣いていた。
 アリシアは自分がなぜ泣くのかと不思議でならなかった。彼のことを愛しているわけでもないのに、なぜ、それほどショックを受けるのか。これは同情からくる涙なのか。
 いや、自分自身に驚いて哀しくなったのである。
 自分自身も、彼のことを「人間だとは思っていなかった」のである。結婚相手なんて誰でもよいと思っていたのは彼だけでなく、自分自身も同じだった。ウルフェウスがどんな人間であろうとも、国のために結婚しなくてはならない、と考えていた。それは、彼に対してどれほど失礼なことだったのか。自分自身が彼から同じ対応をされて気がついた。お前がダメなら別の人間でも構わない……彼がセレナを選んだという可能性を聞いたとき、真っ先に感じたのは怒りだった。
 ひどい裏切りだ、と。でも、自分を見つめない女性に対して、彼が興味を失ったとして、何がおかしいのだろうか。彼の反応はごく当たり前のものだった。そんなことにも気がつかないほど、思い込んでいたのである。彼も国のために結婚するしかないのだから、諦めて自分を選ぶようになるのだろう、と。彼が心を偽って自分を選ぶのだと考えたら、自分を軽視されたように感じられて、勝手に怒りを覚えた。だが、そういう失礼なことをしていたのは、彼ではなく自分自身の方だったのである。
 人を愛して愛されたいという、そんな人間らしい心も持たない悪魔のような男だとでも思っていたのだろうか。何という呆れた自惚れか。彼は心もなく自分を選ぶと思っていた。だが、彼は選ばなかった。そして、そのことにショックを受けた自分の自惚れ具合にショックである。もしかしたら、とキスをされたときに彼の愛を感じそうになっていたからこそ、余計に哀しくなった。
 確かに、彼は婚姻を逃げないだろう。だが、人を愛するかどうかは全く別の話だ。そこを割り切ってつき合えるほどの器用な柔軟性を持っている男性である。彼はアリシアを選ばない。だが、心が望まなくても、姫と結婚するだろう。そして、偽りの夫婦を演じるのだろう。
 彼は生涯心を閉じたまま、生きていくのだ。これまでも、これからも……彼をそんな風に苦しめることがアリシアにできる唯一のことだったのだろうか。彼がザヴァリアでも、ヴァルヴァラにいたときと同様に心を殺して人形になるのだとしたら、彼をそんなふうに追い詰めた人間はアリシア自身である。この国では心を殺す必要はないと教えることができたのは、彼女だけだったはずなのだから。
 どうして、彼と正面から向き合って話し合い、理解する努力をしなかったのか。彼を受け入れて、心を通わせる努力をしなかったのか。
 その時、頭上で「おっと!」と男性の声がした。
 アリシアははっとした顔で上を見る。白い礼服に身を包み、背の高い帽子を目深にかぶった男性が向こう側から壁に上ろうとしている所だった。アリシアは侵入者の姿を見て、ぞっとしながら後ずさりする。この庭に入れるのは、正当な招待客だけだ。こんな風に入ってくる客はいない。
 その男性は逃げようとするアリシアに気がつき、さっと上体を跳ね起こすようにして飛び上がった。あっという間に、姫の前に飛び降りる。思わず悲鳴をあげそうになった姫の口をそっとふさぎながら耳打ちした。とても甘い声だ。
「招待状を置いてきてしまったんだ……姫に会えたら、すぐに帰るから見逃してくれ」
 その人間はアリシアの姿を知らないようだ。姫は警戒しながら、彼を押しのける。帽子の下からかすかに覗く顔は、甘い魅惑があった。とろけそうな瞳を近くで見たとき、思わず、頬が熱くなってうつむいてしまった。
 彼は腕の中にいる彼女を覗き込み、そっと、アリシアの髪に手をのばす。彼女の髪を顔に沿って撫でたあと、器用にも親指で姫の涙をぬぐいさる。姫が泣きやむと、優しい笑みを浮かべた。彼は姫のドレスについている胸の白いリボンをつまみ、そこにキスをする。
「おや……いきなり、私の目的は達成されてしまったようだ」
「私から、離れてください。人を呼びますよ」
 弱々しくも彼の態度を諌めると、その男性は両手を挙げて離れた。彼は彼女の唇に指を一本置いて、黙るように指示をする。馴れ馴れしい男性だと思ったが、その仕草は優しくて少し滑稽だった。彼は素敵な笑みを浮かべて「宣言通り、もう帰るよ」と言った。
 彼は少し帽子を持ち上げる仕種を見せるが、顔を全てさらさなかった。落ち着いて彼の顔を見ると、恐ろしいほどの美男子だ。アリシアはドキドキしながら彼の顔を見つめる。国内の貴族にこんな人がいただろうか、と記憶をたどる。
 彼は魅惑の笑みを浮かべたまま、姫に一輪の白いバラを渡した。胸ポケットに入っていたその花を無造作に取り出し、彼女の前に出す。アリシアはぼんやりしたまま受け取ってしまった。美男子にはそういう抗い難い魅惑のパワーがあるものだ。
 腰が抜け落ちていきそうな甘い囁き声で、誘われた。
「私がこの会で出会ったのは、きみが最初で最後だ。もうこれ以上誰にも会いたくないからね……早々に消えることにする」
「あなたは誰……この国の……」
「あとで教えるよ。愛しい人……今宵、舞踏会できみの手を最初に取る人間として選んでくれるとうれしいな。そのバラの花は、私たちの愛の秘密だ」
 再び彼の指が唇に近づいたので、アリシアは背筋を伸ばして、遠のいた。彼の指に二度も触れることは許されない。キスの味を思い出す。
 獣のように荒々しかった彼のキスを。
 突然、いたたまれない気持ちになり、アリシアは顔をそむけた。まだ、城内にはウルフェウスがいる。これから婚約者になる人間だ。彼以外の人物に惹かれてはいけない。
 姫から手を離すと、その人はさっと周りを見て登りやすそうな木を見つける。宣言通りそれをよじ登って壁に上がってしまった。アリシアはバラの花を持ったまま、彼を見送る。いけないことだとわかっているのに、彼にバラを返すことができなかった。
 初めてだった。
 男性から愛の告白を受けたことも、舞踏会で自分を選ぶように言われたことも、優しい言葉でドキドキさせられたことも。
 そんな風に愛されたら幸せだろうと夢見ていた。理想の人が現れたのである。


 服飾の準備室で、セレナは居心地の悪い時間を過ごしていた。昨夜、彼女がウルフェウスの寝室に運ばれたことは、既に姫の侍女だけでなく多くの人間たちが知っていた。その事実を元に、あることないこと囁かれた。
「身の程も知らずに、ウルフェウスさまに迫ったそうよ。いやしい女」
「あんな女を殿下が選ぶわけがないじゃない。何を考えていたのかしら? 図々しい」
「ああ、汚らわしい。同じ空間で、同じ空気を吸っていると思うだけで気分が悪くなる」
 セレナは夜会用のドレスを用意して、姫の到着を待っていたが、じわりと目に涙が浮かんできた。密かに聞こえてくるそれらの悪口は全てうそだ。セレナだって、突然あのように王子の前に連れて行かれるなんて思っていなかった。
 それに、昨夜の王子はセレナを一瞥して、怒っていた。
『その侍女の処女性を確認して、俺の無実を証明しろ』
 彼はセレナには一度も手をふれずに追い返した。セレナは全くそんな価値のない女だと彼は断じた。それも、セレナにとっては身を引き裂かれるほど辛いことだ。
 今、そんな彼女を理解して支えてくれる人間はいない。姫の侍女たちはセレナの話を聞くと、冷たい目で睨みつけ、口をきいてくれなくなった。同室の侍女も「どうして断らなかったの!」と叱ったあと、他の侍女たちと同じくセレナを無視するようになった。
 窓の外から、城門を閉じる知らせが聞こえてきた。深い鐘が鳴り響く。同時に西側にある教会からも時を知らせる鐘が鳴り、城内の森から鳥が飛び立つのが見えた。
「そろそろ、姫さまがやってくるわ……ちょっと。あなた、まさか、姫さまの準備をその手でするつもりではないでしょうね? 姫さまの心をこれ以上傷つけないで」
 早く出て行きなさいよ、と言われて、セレナは無理やりその部屋から叩き出されてしまった。今日のために準備をしてきたのに。セレナは我慢できなくなり、膝を抱えて泣いてしまった。衛兵はそんな彼女の腕を引きあげ「早く帰れ」と追い立てた。
 廊下を歩いていたら、姫に会ってしまった。回廊の曲がり角を過ぎたら、ばったりと。
 周りにいた侍女たちは急に眉をひそめ、姫を庇うようにして遠ざけた。セレナはそそくさと廊下の端に身を寄せて、彼らを見送った。
「セレナ……昨夜、王子の部屋に行ったと聞きました」
 姫に声をかけられた。周りにいた侍女が「姫さま、そんな噂話を本気にしないでください」と言いつつ、セレナを後ろ足で蹴って退ける。無言のうちに、早く向こうへいけ、と。
 アリシアはそんな侍女たちを押しのけ、転んでしまったセレナの腕をとった。
 セレナは姫の前にひれ伏して、声を出した。
「ウルフェウス殿下は潔白でございます!」
 自分でも驚くほどはっきりとした力の入った声だった。
 それだけは、彼が求めた真実だったからだ。セレナが姫に憎まれることがあったとしても仕方がない。姫の婚約者に恋慕したのは、事実だったのだから。でも、彼は姫のために身の潔白を証明するように、真っ先に命じていた。
 彼は、姫を好きになったと言っていた。
 その想いを踏みにじりたくない。彼のことを好きになったから、幸せになってほしい。
 アリシアはセレナの手を握って抱きおこした。姫は言う。
「あなたがそのような女性ではないことを私が知っています。あなたに対する中傷を私は気にしません。あなたも気にしなくてよいのです」
「姫さま……」
 姫に手を引かれて、セレナは立ち上がる。周りの侍女たちが不機嫌な顔で目をそらした。セレナは恐る恐る同室に暮らす侍女を見つめた。彼女は涙目になり、セレナから顔をそむける。後で彼女にも謝ろうと思った。一晩中、心配していたに違いないから。
 姫はセレナの手を強く握って、笑みを浮かべた。セレナも温かい姫の手を握りかえし、今後も変わらぬ忠誠を誓おうと心に決めた。
 と、そのとき、彼女の目に白いバラの花が入った。姫の手に握られた一輪の花。
 セレナはどきりとした。昨夜、姫は王子からバラの花を受け取ったのだ、と思った。王子は姫が愛する白バラの園で姫のために笛を吹いたはずだから。
 アリシアも侍女の視線に気がついて、バラの花を見つめた。姫はセレナの手に白いバラの花を握らせて、話した。
「お願いがあります……このバラを……返してほしいの。白いバラを持っている男性に返してきて。私は……彼の想いを受け取れません」
 セレナは胸が引き絞られるような気がして、涙が流れた。彼の想いが通じなかったことを悟り、不条理だと思った。セレナが身を引いても、この人は、王子のものにはならないつもりなのだ、と。姫はさっと顔をそむけ、支度のために部屋に戻っていく。セレナはその場所で白いバラの花を握りしめた。胸が苦しい。どうして、何もかもうまくいかないのだろうか、と。


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