二輿物語


INDEX
prev

50 思い込み




 ピピネは不機嫌そうにぶつぶつと文句を言いながら控え間に向かっていた。鏡のような銀の仮面を額に乗せ、華やかな化粧を落として、昼よりは若干人間味を戻した格好になっている。彼は背後からついてくる、もう一人の白髪の男を怒鳴りつけた。
「異国に来てまで、このような戯言をあいつは計画しておったのか! 不愉快だ!」
「申し訳ございません。気がついた時には、もはや逃げられぬ状況になっておりまして」
 背後からついてきた白髪の男性は、しゅんと落ち込んだ様子で手前を歩くピピネに頭を下げた。その様子を見て、さらにピピネは怒り心頭だ。彼はすぐに「我が愚弟の頭はそんなに低くない!」と鋭い指摘だ。背後の男は慌てて体を伸ばしあげた。
 夕方、王子の身支度が始まるころに、出席者名簿の写しを控えていたランファルは駆け足でウルフェウスのいる部屋に飛び込んだ。王子に求められたから、大急ぎでバカ正直に名簿を持ってきたわけであるが、当の本人はもぬけの殻。そして、彼の支度をするはずだった奴隷たちが怯えつつ「ああよかった、青い目の、軍人さまが来た!」と叫んで、ウルフェウスの身代わりを頼まれてしまったのである。ランファルとしては、なぜ、と問う相手もいないままにとんでもない大役を仰せつかってしまったのである。
 ケタルたちが気がついたのは、今宵の衣装に着替えてからのこと。いくらごまかそうとしても、長く一緒にいた侍従たちの目は誤魔化せない。お前は誰だ、とすぐに問いかけて事態が発覚した。さすがのケタルも「殿下ぁーっ!」と怒声を張り上げて、探し回ったのだが、時間内に彼を見つけることはできなかった。
 仕方なく、厳重に衣服の下に布を積めて体型をごまかし、上げ底の靴を履かせて背丈をごまかしたものの、ピピネの隣に立つと背丈の違いは歴然だった。賢兄はすぐに「お前は誰だ」と見破ってしまった。
「今までこれほど程度の低い身代わりを立てたことはない。仮面舞踏会でよかったものの……お前、今宵は一言も口をきくな。動くな。喰うな。息するな」
「うう……努力いたします」
「その目が青いのはよいが、背丈が全く釣り合わぬ。私の方がウルフェウスではないか。せめて、私よりも背の高い奴はいなかったのか」
 そんなことを言いながら、控えの間に入ったら、クロル大使夫妻とアリシア姫がいた。ピピネはうっと息をのみ、思わず瞳を伏せて横を向いてしまった。見破られると厄介な相手だ。いや、見破られていた方が良い相手なのか。
 クロルは朗らかに「姫さまが一言ご挨拶を、と」と言いながら近づいてくる。ピピネは、ままよ、とばかりに彼に正対したのだが、クロルは隣にいるランファルに頭を下げて「どうか、今宵はよろしくお願いいたします」と挨拶していた。次いで、ピピネにも笑顔を見せる。明らかに兄弟を取り違えている。ピピネの目の色は黒いのだが、彼は全く気がつかなかったようだ。ピピネは複雑な顔で目を閉じた。ここはそっとしておくべきなのか。
 アリシア姫はランファルを見たあとで、ピピネを見つめ、すぐに恥らったように目を伏せた。ご挨拶に来た、という割には何も言うことができないまま涙ぐんでしまった。
 この状態では、姫の方から近づいて仲直りなんてできそうにない。
 ピピネはふと肩の力が抜けた。ピピネがウルフェウスに間違えられるというなら、好都合だ。彼は自分の頭から髪飾りの一つを取ると、姫の傍へ行き、手渡した。姫はびっくりした顔でピピネを見上げる。ピピネは何も言わずに彼女に背を向けて、彼女から離れた。姫は髪飾りを見つめて、目をパチクリしている。
 クロルは二人の動きを交互に見ながら、瞳をきょろんと動かして微笑む。髪飾りを手渡す風習なんてヴァルヴァラにはないのだが、その行為で仲直りを表現することはできるだろう。ピピネは二人に表情が見えないように壁際に立ったまま、早く出て行けと手で指示をした。クロル大使は「また後ほどご挨拶に伺います」と答え、姫を連れて出て行った。
 二人が出て行くと、侍従に向かって「私の髪飾りの数を減らせ。こいつの髪に付け替えろ」と命じた。もう、今夜はウルフェウスになり切ってやるぞ、と心に決めたのだった。
 しばらくして、大会堂から大きな拍手が聞こえてきた。
 ピピネはランファルに話しかける。
「それで、紋章鑑識官がなぜ、あいつの部屋に呼ばれたのだ。他に何か頼まれていたか」
 ランファルは胸のポケットから、折りたたんだ出席者名簿を取り出し、ピピネに渡す。ピピネはその紙を受け取り、大会堂の中にいる人間の数を知る。そして、気になっていたミタルスクの使者の名前を知る。
「コーネル・ザル・デッピ……大使か」
「ザヴァリア国駐在大使ですね。近郊の街、ファータルに滞在していますが、ミタルスク皇太子からの祝いを受け取るため、使節を迎えに行き、そのまま入城しました」
「迎えに行った? わざわざ? 手形料の方が高くつくであろう。部下に運ばせればすむ話なのに、ミタルスクの官吏は真面目だな……いや、皇太子が入国すると思っていたのだな」
 ピピネはコーネル・ザル・デッピが連れている侍従の数を確認し、彼らが身につけているであろう紋章旗を覚えた。何とかして、ミタルスク内の情報を手に入れたい。皇太子が入国できなくなった理由を。国内で誰が亡くなったのか。
 または、誰も亡くなっていないのか。
 今宵、コーネルの周囲には祝い品の管理と運搬のために、八人の部下が付き添い、二人の騎士が護衛についている。ピピネは向かいにいるコーネルの控室を柱越しに見つめた。薄い布が夜風を含み、大きく膨らむ。その隙間に、彼らが出てくるのが見えた。
 クロル大使の入室の後、外国からの使者を紹介するのだろう。コーネルは少し早歩きで進んでいく。彼の後を追いかける人数を数え、ピピネは笑みが漏れた。
「一人足りないぞ。城内に紛れ込んだな……」
 コーネルの後を追いかける従者の数は八人。騎士が二人。報告通りだ。しかし、ピピネは部屋に残されたグラスの数を見て、大使の他にも接待されていた人間がいたことに気がついたのである。鬼神は静かな瞳で考察を始めた。
 そこへ、広間へ行くように王の使者が呼びに来た。ピピネはケタルたちを自分の傍に置き、自分の侍従らをランファルの近くにつけて世話をするように命じた。昼の正餐を体験した侍従らはランファルの両手をとり、導きながら前に進む。
 ピピネは幕間に向かいつつ、ケタルに命じた。
「ウルフを探せ……城内にミタルスクの間者が動き回っている。衛所に協力を依頼して、城内に忍び込んだ不審者をとらえさせよ」
「殿下、王以外にそのような動きを命じられません」
「私の弟の捜索だ。許された権限であろう」
 ピピネは片手で、行け、と強気の命令だ。結局のところ、ヴァルヴァラの王子はどちらも強引な性格をしている。ケタルももう慣れてしまって「かしこまりました」と答えた。しかしながら、執事の紹介とともに中に入らなければもう主賓紹介の後は扉を閉められてしまう。そのことをケタルは伝えて、ピピネが途中で足を止める。
 時間を少し稼ごう、と言いながら、彼はふらりと白バラの咲く庭へ向かった。弟の言葉を思い出したからだ。姫は白い大輪のバラを好んでいる、と。彼を呼びに来た使いが途中で気づき「殿下、どちらへ!」と叫んだ。その隙にケタルは衛所に走っていった。


 クロル大使と共に幕内に入った姫は、奥方から夫の隣に行くよう促され、大使の腕をとった。大使は娘を見るような温かいまなざしで「姫も大きくなられましたな」と声をかける。姫は先ほど譲られた髪飾りを手でもち、それを見つめながら大使に話した。
「私は……ふさわしいと思いますか?」
「何にふさわしいのです?」
「彼の、彼と結婚してもよいと思いますか?」
 アリシアは真っ赤になっていた。大使は彼女が話せない名前を理解して、穏やかに頷いた。姫は不安そうな顔で続ける。
「本当は、私よりももっと、ふさわしい……女性を、お望みなのではありませんか? 私では役不足だとお思いなのではありませんか? 自ら優しい親しみを口にできるような、積極的なお方が好きなのでは、ありませんか?」
 言いながら涙ぐんでしまうところが何とも儚い女性だ。大使はそれでも、彼女が勇気を振り絞ってこの場所にいることを理解していた。クロルと一緒に入場すれば、ウルフェウスに少し近づけると思ったから、彼女はそうした。実際、王子には一言も声をかけられなかったが、行動したということがすごいことだった。今までの姫では考えられない。
 彼女が自分の意志で、予定にない行動をとったのだから。
 最初の一歩は誰でも怯えるものだ。クロルは慎重に話した。
「ウルフェウス殿下がどなたに心を預けるかは、私にはわかりません。殿下が姫さまに渡されたその髪飾りの意味も、私にはわかりません。でも、姫さまにのみわかることがございます。それはご自分の気持ちでございます……姫は殿下をご自分にふさわしい方だとお思いですか? その髪飾りを受け取られたとき、どんな気持ちがいたしましたか?」
 アリシアは髪飾りを指先でもてあそびつつ、少し困った顔になった。
「私にもわかりません……こんなことをするとは思わなくて、びっくりしました」
「ええ。私もです。ウルフェウスさまにしては、随分とお気を使われたようですな。あんなに慎ましい姿を拝見したのは初めてでございます。実際にぶつかってみないとわからないものも多いのでしょうな」
 幕の向こうから執事が顔を覗かせて「ああ、いらっしゃいましたか」と微笑んだ。クロルは自分の妻をふり返り、無言で微笑みあった。大使は仮面をつけると、姫の指先を優しく包むようにして、自分の手を乗せる。姫も自分の仮面をつけて支度をした。
 姫は白い仮面だった。ウルフェウスから贈られた真珠にあわせて作らせたもの。淡い真珠で作られた仮面だ。海の女神を思わせるような。
 さらに、彼女は彼の髪飾りを自分の髪に取り付けて、恥らいつつうつむいた。彼にもらった髪飾りを自分の髪につけるなんて、大胆だ、と思った。まるで、自分はもう彼のものだと宣言しているみたいだ。しばらく、姫は耐えていたが、幕があげられる前に慌てて髪から取り外した。彼女の顔は真っ赤になっている。それでも、彼がそれを求めているのかもしれないと思い、涙目になりながら握りしめた。
 クロル夫人はそんな姫の様子を見て、背後から「よくお似合いでしたよ」と優しい言葉で話しかけた。しかし、姫はもう勇気がなく、自分がこれを着けるのは身の程知らずだと思うようになった。本当はもっと似合う人が他にいるのでは?
 彼が心を寄せている女性が他にいないだろうか。
 セレナは本当に彼の寝室で何もされていないだろうか。彼女が夜伽を侍従長に命じられたという話を聞いたときは、ありえない、と思っていた。今でもありえないと思っている。でも、胸はざわめいている。ずっと。
 どうして、髪飾りを渡したのだろう。セレナではなく、アリシアを選んだと証明してくれたのだろうか。怖かった。信じて裏切られることも、失望することも。彼の思惑が異なったときに自分がどれだけ落胆するかと考えると怖くてそれ以上何もできなくなる。
 髪飾りを渡したあと、彼は手をふって、早く出て行け、と命じていた。それは、これをやるからもう顔を見せるな、という意味かも知れない。姫は泣きそうな気分で落ち込む。
 彼は何を考えて、これを渡したのだろう。彼の考えがわからない。
 そこへ、背後から侍従が入ってきた。
 クロルはドキッとして「まだ入ってはならん」と注意したが、その侍従は深く頭を下げて非礼を詫び、姫に簡素な手紙を差し出した。姫はドキドキしながら、その手紙を受け取った。誰からだろうか、と思いながら、裏返してみたが、急いで書いた手紙のようで封じられておらず、差出人の印も署名もされていない。
 従者は「取り急ぎ、失礼いたしました」と述べて立ち去った。クロルは記憶をたどりながら、誰の従者だったかと考える。
 その直後、幕が開いた。
「東方外交大使、ヨーデン・クロルご夫妻と、アリシア・フォル・ザヴァリア殿下のご入場です!」
 執事の紹介と共に盛大な拍手で迎えられた。クロルと共に頭を下げて中に入る。
 ダンスホールの熱狂は久々だった。晩餐の後に開かれる舞踏会は無礼講だ。王侯貴族は全て仮面をつけて、建前上、誰だかわからない状態で踊りに誘いあう。
 姫は髪飾りと宛名不明の手紙を握りしめて、中に入った。
 もしかしたら、その手紙は彼がくれたものかもしれないと思いながら。


next