二輿物語


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52 かどわかし




 アリシア姫はドキドキしながら、会場にいるウルフェウス王子を見ていた。
 入場前に渡された手紙には「話があるので、後で教会に来てほしい」と書かれてあった。誰の手紙かわからないが、あの状況で出せる人間は彼しかいないと思っていた。髪飾りを渡した意味を教えてくれるのではないか、と期待する。
 晩餐会に出される食品の数は全部で八品。卵とハムのテリーヌ、野菜のポタージュスープ、芋と茸の入ったオムレツ、羊肉のパテ、鳥の臓物煮込み、二種の魚介類の挟み焼、フルーツタルト、キイチゴのスフレ。食材を乗せるプレートは全て金地に王家の紋章入り。取り分ける皿は白磁と平たいパン。
 上座は給仕が一皿ずつ食事を提供し、下座では大皿で小分けにされた料理が提供されていた。貴族たちは食事が始まると同時に挨拶に向かう。ワイングラスを片手に直属の侯爵のもとへ馳せ参じ、会話をしていた。
 上座は、王を中心に会話が盛り上がっていた。父親はいつになく饒舌で機嫌がよさそうに見えた。王妃も王に寄り添ってコロコロと転がるような美しい声で笑っている。
 晩餐の後半になると、貴族らは酒がしたたかに入って最後のデザートまで座っているような遠慮が消えてきた。壁際にそって座っていた大貴族らも立ち上がって、夫人をダンスに誘いはじめる。王妃が親類に促されて席を立つと、なだれ込むようにして、舞踏会が始まった。給仕らは空いた皿を大急ぎで片づけて、ダンスホールから姿を消す。
 宮廷音楽は時間を調整しやすいように、何度も同じ曲調を繰り返しつつアレンジが広がっていく。指揮者は指先で数小節前から繰り返すように、指示をしながら会場内の動きを見ていた。王妃が合図をしたら、集団舞踏用の民族音楽の演奏だ。彼らは譜面を用意しながら、忙しく準備をしていた。
 そんな時に、白いバラの花が姫の元に届けられた。
 その花を見たとき、姫はドキッとして昼間の男性を思い出した。思わず、ダンスホールに白い花を持った男性を探してしまったのだが。
 花を持ってきたメンキーナは少し照れくさそうに姫に寄り添って話した。
「アリシア姫さま、この花は昨夜殿下がお届けになれなかった謝罪の気持ちでございます。どうぞ、お納めくださいませ……殿下は、この後、姫さまをお誘いにこちらへいらっしゃるそうでございます。今までのことを水に流し、どうぞ、今宵はダンスを共に楽しんでくださいませ。それを殿下は友愛の印と受け取りたいとのことでございます」
 メンキーナは会場入りする直前にとってきたばかりの白いバラの花を、手紙と共に姫の前において退いた。アリシアは不思議な気がして、バラと共に届けられた手紙を手に取った。視界の中でウルフェウスはアリシアを全く振り返らない。しかし、彼の傍にいる侍女が持ってきたのだから、この手紙は彼のものだ。アリシアは手紙を開き、美しい文字で書かれた謝罪の言葉を目にした。わずか一行の詫び文だったが、飾り文字の美しさも選ばれた言葉使いも品がよく、姫の頭は混乱する。
 ウルフェウスらしくない、と思ったのである。
 姫は、変だわ、と思いながら、会場の入り口でもらったもう一通の手紙を見つめる。その手紙も急いで書かれた割に美しい文字で綴られている。どちらも書き慣れた感のある文字である。教養の高い大人の男性が慣れた手つきで書いたような。
 剣を振り回し、馬に乗るのが大好きな人間の手で書かれたとは思えない。
「彼は……こんなこともできる方だったのですね。昨夜は手紙なんて書かなかったのに。気まぐれなのかしら。いろんな顔を持っているのね」
 バラの園で彼が笛を吹いたことは知っている。姫の部屋にもその音色は届いたからだ。そして、侍女が姫の代わりに彼に詫び文を持っていった。戻ってきた彼女はウルフェウスからの詫びの言葉は届けてくれたが、彼は手紙をくれなかった。一行書くぐらいなら、あの日だってできたはずなのに、彼はそういうことに気のまわらない少年だったのだ。
 それが、どうして、今日は二通も出したのだろうか。二度も手紙を送ってまで、許しを請いたいのだろうか。
 昨夜耳にした音色を思い出し、少しふわふわした気持ちになる。顔がゆっくりと上気して、桃色に染まる。美しい文字を見て、彼女はうっとりした顔になった。
 彼を許したい。
 彼の笛を聞きたい。
 もっと、彼と話したい。本当はどんな人なのか、もっと知りたい。
 彼が歩み寄ってくれたので、不安に思っていた気持ちや、恐れの気持ちが薄れた。彼はアリシアのことを気にかけていて、共に過ごそうとしていることが伝わって安心した。彼をいますぐ愛したり、好きになることは難しいけれど、友愛を表明することは今すぐにできそうな気がした。言葉にして伝えるのは難しいけれど、彼と同じダンスを楽しむことはできると思った。そんな風にしてハードルが下がった。
 彼もまだアリシアのことはそれほど好きではなかったかもしれない。アリシアよりも美しい女性を知っていて迷っているのかもしれない。それでも、彼がアリシアに好意をもって、友情を育みたいと思っていることがわかったから、心は落ちついた。
 いきなり、彼に愛を求めるほどアリシアも性急ではない。彼とは友達として落ちついた付き合いから始めてもいい。今まで、どうして彼を恐れていたのかわからない。姫の心は霧が晴れるように澄み切って、落ち着いた。二人の距離を改めて感じた。二人はまだ何にも知らない者同士だ。この状態で、好きか嫌いかと悩んでいるのがおかしく感じられた。
 近づかなければ、彼のことはわからない。
 彼が呼びに来たら、素直に手を取ってホールに出よう、と心に決める。
 しかし、その反面で、彼女の心は、すっと冷えた……友愛なのか、とも思った。実は彼とのキスが激しかったからこそ、めくるめく熱愛を期待させられたのである。だから、その未知の激しさに恐れも抱いた。しかし、彼はアリシアとは友愛を育みたいと結論づけたのか。それは、乙女にとっては残念な肩透かしである。
 彼との距離が開いていることに気づかされ、少し落ち込みつつ、自分の今までの態度も反省させられた。もう少し、あたたかい態度で近づくそぶりを見せればよかったのかもしれない。アリシアは自分が頑なすぎたことを反省する。
 しかし、冷静になったことで、ふと、今まで気づかなかったものに姫は気がついた。彼女は二通の手紙を見比べる。
「筆跡が違う……これは誰の手紙なの?」
 二通ともウルフェウスが書いたものだと思ったが、よく見れば綴り方が異なっていた。
 教会へ呼び出そうとしている人は誰だろう。
 テーブルの上にある白いバラを見て、姫は大会堂の中を見まわした。あの男性を探した。白いバラの人を。しかし、入り乱れる人の中にバラを持った人は見当たらない。彼のことは名前も顔もよくわからない。ただ、甘い声と視線を持っている男性だというだけ。優しい言葉を話す人だというだけ。それだけが心に残った。
 すぐに会えると思った。すぐにわかると思った。でも、彼を見分けるものを何も知らないことに気がついた。彼はただ、その白いバラだけが「二人の愛の秘密」だと囁いた。
「この会場で白いバラを持っていたのは、彼だけ……?」
 姫はウルフェウスを見つめた。昼間に見た男性は、誰だったのだろう?
 同一人物だろうか?
 いや、絶対に彼はウルフェウスではなかった。そういう男性ではなかった。そう思いつつも、姫は頬が急に熱くなった。彼に唇を触られたことを思い出した。あれが、もし、彼だったら? もう一度、彼がキスをしたいと思っていたとしたら?
 姫は混乱したまま、席を立つ。迷いながら、側廊に出て、柱の陰で手紙をもう一度読み直す。今、ダンスを踊れる大会堂内にいるのに、どうして教会へ誘うのだろう。招待客なら、この場所を抜け出して教会へ行くことはできないと知っているはずだ。
 あの時、彼は庭園茶会へ招かれていなかった。招待状を持っていなかった。
 でも、今宵は招待されていない人間が城内にいるはずがない。
「あの時、彼は庭園茶会を外されていました……謝罪の言葉は部下に書かせたのかもしれません。きれいすぎるもの。きっと、事前に用意していたのだわ。そうよ……本当は昨日私に渡すはずだった手紙なのかもしれない……昼間に私に会いに来たあと、彼は自分の手で教会へ来るように書いたのかも。こっちが彼の本当の筆跡かもしれない」
 どうして、わざわざ会場を出て教会へ誘うのか。
 姫はまだ、城内で自分とピピネが噂になっていることを知らなかった。だから、教会、と聞いてもどうしてそんな場所なのだろう、と思い、きょとんとしていた。ただ、彼女は一つの答えを思いついて真っ赤になった。ウルフェウスはアリシアと二人になりたいから、会場を出るように誘っているのかもしれない、という可能性だ。
 だから、彼はそれを合図とするために、姫に白いバラを渡したのだ……と考えた。
 辻褄は合う。合うはずだ。恋に恋する乙女にはこれ以上の都合よい解釈はない。アリシアはこの時、彼と二人になりたいと思っていたのだから。昼間の男性とウルフェウスの容貌の差異なんてスパッと忘れる。どちらも美男子だった。だが、彼の目は青かっただろうか? 実のところは記憶にないのだが、何となく青かったような気もしてくるから、人の記憶とは恐ろしい。
 姫は迷いつつ、白いバラの花を手に持った。指先で、くるくると動かしながら、場内にいるウルフェウスの姿を見つめる。本当の彼があんな理想的な男性だったら良いのに、と期待する。彼がかすかに首を動かして、姫のいた席を見つめるのが見えた。アリシアはドキッとして思わず、柱の背後に身を隠してしまった。
 楽曲が変わり、テンポの良い曲が流れてきた。道化が会場内に入り込み、飛び跳ねながら来場者にダンスを誘う。華やかな衣装を着た道化たちにつられ、客が拍手と共に哄笑した。場内はパッと空気が変わり、華やかな手拍子が溢れた。道化たちに囲まれ、王妃が王の親族たちとともにダンスホールに出て行くのが見えた。収穫祭のダンスが始まる。
 王妃が数名の女性たちと共に腕を組み、少しスカートの裾をあげて、足の動きを列席に見せながら、見本のダンスを踊る。場内にいた貴族らは、通常の社交ダンスではないと知り、集団舞踏の輪に次々と入ってきた。皆で横並びになり、王妃の足の動きに合わせて動き出す。兎のように足を蹴りだし、鹿のように飛び跳ねる。楽曲師たちは王妃の動きに合わせて、最初はゆっくりした速度で、来場者たちがダンスに慣れて来たら、少しずつ早くなるように演奏した。
 体を上下に揺らす軽快なステップを踏み、場内が同じ動きで靴音が響いた。ドン、ドドン、ドン……太鼓を打ち鳴らすようなホールの振動にあわせ、楽師らが曲想を変えていく。音楽に合わせて、王妃は両手を打ち鳴らし、基本のステップを踏みながら、上半身の動きをつけていく。周囲にいる貴族らも、次第に緊張が取れて笑顔になった。
 ドン、ドドン、ドン、ドドン……単調なリズムに揺れながら、王妃たちは体を麦穂のように左右に揺らして、ジグザグに動いていく。広いダンスホールは五列の方形に人が並び、左右に入れ替わりながら、人が入り混じる。右手ですれ違った人と手を打ち合わせ、左手ですれ違う人と手を打ち合わせ、波が動くように人の流れが混ざっていく。
 交差していく人の間を道化たちがくるくる回りながら、遊んでいた。彼らにぶつかりそうになって、貴婦人が声をあげて笑い、子息らが真似をして、女性の傍でくるりと回り戯れに誘う。回る人、踊る人、進む人、戻る人。華やかな人の動きが交差して、会場内は明るい音楽に満ち溢れる。
 単調なリズムに動きをつけて、楽師らが複数のリズムを加えていく。強弱の変化する音に合わせて、来場者たちはステップを大きくしたり、小さくしたりして遊び始めた。王妃も彼らの動きにつられて、大きく飛び跳ね、道化と共にくるりと回って華やかに笑った。衛兵たちも足先で小さくリズムを踏んで、体を揺らしていた。
 アリシア姫はドキドキしながら、ウルフェウスをふり返る。彼は王妃のダンスを見守っていたが、姫の視線に気がついたようで、すっと視線を滑らせて彼女を見つけた。次の瞬間には、彼は迷うことなく立ち上がり、姫の方へ歩いてきた。アリシアはドキドキして、二つの手紙を見比べる。自分はどちらを選ぶのかと彼に問いかけられているように感じた。
 友愛のダンスを踊るか、愛の秘密を囁くか。
 ピピネに言われた言葉を思い出した。
 あたたかく親しみを自ら口にできない女性は、我らの常識では幼稚な子供に等しいぞ。
 彼に誘われなくては、自分の行動を決められない女性なんて、彼は「つまらない女」だと思うに違いない。自分の意志で、自分の行動を決め、自分から彼に近づくような女性を彼は求める。彼につまらない女だと思われたくない。
 彼が近づいてくるのを待ってから、走って逃げた。給仕たちが出入りする場所にくると、後ろをふりかえり、彼の姿を見つめる。ウルフェウスは少し立ち止まり、逃げた姫を見ていた。彼は追いかけてこないだろうか。アリシアは彼を見つめたまま、手に持っていた手紙と白いバラを、傍にある飾り棚の上にそっと置いた。その後、祈るような思いで、彼の髪飾りを胸に抱き、外に走り出て行った。
 姫が出て行ったあと、王子は暖炉の上に置かれた飾り棚の傍にやってきた。
 彼は白いバラの花と手紙をとって、視線を落とす。直後、鋭い光が目に宿る。姫が置いて行った手紙には、教会に来るように、と書かれてあった。彼はその手紙を握りしめ、知的な瞳を輝かせた。


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