二輿物語


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54 恋の幻




 姫は真っ赤な顔をしたまま、手をのばす。膝をついたまま、彼を見上げるようにして両手でバラの花を受け取った。彼はバラを手にした姫の手をそっと包むようにして握り、彼女の傍に寄り添って膝をつく。
 闇の中で彼の目を見て、姫はしばらく動けなかった。その目は……青くない。
 姫はその事実に気がついて、背筋がぞくっとした。彼はウルフェウスではない、と理解した。全くの他人だ。どうして、彼がウルフェウスだと思ったのか。知らない男性に手を握られていると認識し、彼女は慌てて手を離そうとした。
 だが、その逃げる手を握り、彼女の腰に腕を回して、彼は耳元に囁いた。
「愛しい人……やっと、あなたの手を握ることができた。もう離さないよ」
 拒絶の気持ちも萎えさせるほどの深い美声。魅惑的な囁きが、鼓膜から体内へ侵入する。姫は彼の腕に捕らわれたまま、身動きが取れなくなった。彼は姫を抱きしめて「君はもう私のものだ」とつづけた。
 アリシアは頭の奥がぼんやりして、彼に抱かれていた。知らない男性の香りがする。異国の香辛料のような強い香り。至近距離で、美しい瞳に見つめられ、体の力が抜けた。
 彼は指先で、アリシアの頬を滑るように撫でていく。
 その指が唇で止まった。彼はゆっくりと姫を抱き寄せ、覆いかぶさるようにして近づいてくる。彼の腕の中で体が折れ曲がっていく。彼を仰ぎ見るような体勢で、アリシアは体重を彼の腕に預けてしまった。仰向けにそらされた頭を彼は片手で支えてくれた。その動きが優しい。
 その人は婚約者ではなかった。なのに、拒否できない。姫は、その人がウルフェウスだったらよかったのに、と思い、涙がこぼれた。
 触れあいそうになった二人の唇の動きが止まり、彼の声がした。
「なぜ、泣く? 強引過ぎたかな?」
 彼は直前でキスを止めてくれた。アリシアの瞳から涙がこぼれ落ちると、親指でその涙をぬぐい、頬を撫でて目元にキスをした。父親のように優しい人だと思った。
 アリシアは彼の服をつかんで声を絞り出した。
「私は、あなたのことを、彼だと……間違えました」
 その男性は怒ることなく、アリシアの小さな頭を抱きしめて、ひそかに笑った。彼の笑い声を聞き、アリシアは緊張が取れた。
 彼は姫の頭を撫でながら、聞いた。
「彼を愛してる?」
「……わかりません」
「その涙が愛の証明なのでは? 君は、ピピネを愛したんだ……ウルフェウスではなく」
 その言葉を聞いた瞬間、アリシアは目を開いて、数回瞬きをした。涙はすぐに止まった。彼が何を言ったのか理解できずに、体をそらすようにしてその人の顔を見上げた。
 アリシアは「ちがいます」とすぐに言葉を訂正した。ピピネはウルフェウスの兄だ。婚約者はウルフェウスの方だ。そこを間違えられては困る。彼には倫理を違えるような女性だと思われたくない。彼女は凛とした態度で「ピピネ殿下はウルフェウス殿下の兄上さまです」と続ける。
 彼は腕の中で、芯を取り戻した彼女に気がつき「でも、君はここでピピネと逢引していたんだろう?」と確認する。彼女はもう甘い空気を払拭させ、眉根を寄せていた。アリシアはすぐに「無礼なことを!」と彼の胸に手を置いてはねのけた。
 過ちを見過ごせない性質なのだろう。姫は続けて断言した。
「私がピピネ殿下と逢引なんてするはずがありません! あの方は私の婚約者の兄上さまです! 敬愛こそすれ、なぜ、私がそんな不義をするとお思いなのですか? 私はそんな人間ではありません。そんな、そんな軽はずみなことをする女ではありませんっ!」
 彼女は再び悔しさから涙ぐみ、目の前にいる男性を睨みつけて真っ赤になった。そんなことをする女性だと思われて、こんな場所でキスをされそうになったのだと思うと悔しいやら、哀しいやら。
 少し、いいかも、と思った男性に、自分が女としてバカにされていたと気がつくと怒りは心頭である。こんな男は絶対に許せない、と変化するのが恋する乙女の恐ろしい自己防御力だ。女の復讐心は男のそれよりも理不尽で激しい。
 それがいい男であればあるほど、憎しみは募るものなのである。
 自分がその美男子にキスされそうになって舞い上がっていた事実なんて、遥か彼方へ吹っ飛んでいる。どちらかというと、見ず知らずの男性に口説かれてポーッとなっていましたという、そちらの方がウルフェウスから見れば不義なのだが。
 今のアリシアは出会って間もないウルフェウスに操を立てるほど親しくつき合っていないし、ちょっとだけ、この人の方がいいかも……と思った気持ちもないでもない。婚約の破棄は実のところ、今ならば可能だからだ。だが、女は自分をバカにする男に対しては厳しく査定を行う生物。あっという間に、目の前の美男子から興味が失せた。姫の目は冷酷に目の前の男性を分解してしまう。その男はアリシアよりも年上で中年に差し掛かった男だ。よく見ればただのスケコマシではないか。
 その男性は女に慣れているのか、空気の変化を敏感に感じ取り、へらへら笑って目をそらす。あっさりと女から手を引いて遠ざかる。美男子とは引き際も鮮やかなもの。
「うーん、どうやら、私は情報に踊らされたようだ。まあ、でも、今宵は君に会えてよかった、よかった。噂通りの美女で嬉しいよ」
「よくありません! 私の名誉を回復させるために、きちんと謝罪なさいっ!」
「え? 謝罪? でも、君は……あれ? 私は君を傷つけるようなことをしたかな?」
「し……しましたっ! 絶対にしましたっ!」
 いや、その美男子は姫をとろけさせはしたが、キスだって、未然で終わっている。彼からすると、え? キス? いや、顔を近くで見ただけさ、とでも言い逃れるかもしれない。そこが、男のズルいところだ。
 ただでさえ、アルダバ王子はこの手の逃げ口上は慣れている。ミタルスク皇太子殿下はこれ以上の失点を許すことなく、姫の傍から立ち上がり、さっと軽く頭を下げる。
 憎らしいことに、彼は爽やかな笑みを浮かべて、別れの言葉を囁いた。
「さらば、我が愛しい人……私は今宵のあなたを生涯忘れられないだろう。甘く誘われたあなたの唇のことも。このことは二人の秘密にしておこう……我らの間にあったことは、すべて秘密の語らい……男女の話。あなたは私の永遠の愛人」
「無礼なっ! 私はあなたとは何もしていません! 妙な噂を流したら、許しません!」
「ははは! これは二人だけの秘密だと言っただろう……それとも、謝罪の必要な事実はなかったとでもいうかい? どちらでも私は構わない」
 その男性の頭上から、閃く光が落ちてきた。
 アルダバは次の瞬間、目の色を変えて、その場から飛びのいた。真上から飛び込み、一人の衛兵が剣を振りぬいて姫と彼の間に入ってくる。それは光のような鋭さ。
 その衛兵は姫を背に守り、矢継ぎ早にアルダバに向かって剣を振ってきた。
 アルダバは後ろ手に逃げつつ、大きな声で「あはははは」と笑った。彼が剣を抜く隙は全くない。その衛兵は全く隙のない剣の流れで、滑らかに空間を切り裂きつつ、その男を追い詰めていく。そして、壁際に来ると鋭く突き入れて、アルダバの上着を壁と共に貫き刺した。
 動けなくなってから、アルダバは口を開いた。
「これは、懐かしい殺気だね……探したよ、愛しい我が姫……私に別の女を口説かれて、嫉妬したのかい?」
 その衛兵はアルダバを至近距離で睨んで「誰が姫だ」とうめくように、歯ぎしりした。
 その衛兵……ウルフェウスはアルダバの仮面を奪って、睨みつけた。アルダバは「君はいつも変装しているんだね」と笑う。今宵は私も真似してみたんだよ、と続けて、朗らかな笑みを見せている。その男の度胸は並みのものではない。この状況でも笑えるとは。
 ウルフェウスはアルダバを睨んで、問いかけた。
「何をしに来た?」
「君たちのお祝いに。誘ってくれたのは君だっただろう?」
「祝いにきて、俺の女を口説くのか? あ?」
「本気になるな。これは……ただの喧嘩だよ」
「はっ! むかつくっ! てめーはっ!」
 ウルフェウスはすぐに「殺してやる」と叫んで剣を壁から引き抜いた。返し手に剣を翻して、アルダバの首を狙ったが、その男はすっと体をひねり、避けてしまった。ウルフェウスの脇を通り、駆けだした。
 アリシアはドキッとしてアルダバを見つめたが、彼は姫を一瞥して軽く微笑んだだけで、声もかけずに走り去った。衛兵はすぐさま走ってその男を追いかける。
 姫は呆然と座り込んだまま、その背中を見送った。
 走って行く衛兵の背が、彼に重なる。ウルフェウスに声が似ている……と。湖で見た美しい裸体の男性を思い出し、姫の頬は赤く染まるのだった。乙女とは、かように単純なもの。助けに来てくれた男はすべからく英雄に見えるものなのである。
 そのすぐ後に、ヴァルヴァラの王子がメンキーナと衛兵たちを引き連れて、彼女を迎えに来た。彼は教会内に座り込んでいる姫を見つけると「アリシア姫!」と叫んで、駆け寄った。彼女の無事を確認し、彼はほっと安堵の吐息をつく。
 その声で、姫は彼がピピネだと理解した。アリシアは話しかけた。
「どうして、ピピネ殿下がここにいらっしゃるのですか?」
「あなたがここに呼び出されたと知ったからだ」
 彼は姫に手紙を見せる。姫はその手紙を見て、顔中が急に熱くなった。教会に来るように、と手紙を出したのはウルフェウスではなく、あの無礼な男の方だったのだ。まんまと騙されてこんな場所に来てしまったと気づき、自分を恥じる。
 ウルフェウスがこの手紙を見て、追いかけてこないのは当然だった。姫は急に涙がわいてきた。今度こそ、彼に嫌われた、と思った。
 ピピネはそんな彼女の肩を撫でて慰めつつ「無事でよかった」と答えた。
 ピピネは壁の近くに落ちている仮面を見つけた。彼は姫から離れ、その白い羽の仮面を手に取り「コーネル・ザル・デッピのものとおそろいだ」とつぶやく。彼は執事に「この仮面を大使の席から見える場所にさらせ」と命じる。次いで、衛兵に「裏門を一か所開けておいてやれ」と告げた。そこから逃げていく不審者の数を確認しろ、と続ける。
 落ち込んでいる姫の傍に戻ると、ピピネは「戻りませんか」と声をかけた。
 アリシアは泣きそうな顔で彼に話した。
「どんな顔をして戻ればいいのかわかりません……私は愚かでした。彼に……彼だって、きっと、私に呆れています。こんな手紙に誘われたなんて」
 そして、涙が一筋落ちていく。ピピネはふと優しい表情になって、義妹を慰めた。
「我が愚弟があなたに見せたいものがあるそうだ。どうせ、大したものではないと思うのだが、会場に戻らなければ見ることができない……私と共にそれを見に行かないか? きっと、あなたはもう一つの秘密にも気がついて、泣きやむことになるだろう」
 姫の前に、温かい手が差し出された。姫はポロポロ泣きながら、その手を取った。義兄となる男の目を見る。黒く澄んだ瞳は優しい。姫は片手で涙をぬぐって立ち上がる。


 アルダバ王子は城内を駆けて逃げながら、背後に迫るウルフェウスに叫んだ。
「相変わらず、君は卑怯で無慈悲だなー! 私は丸腰だぞ、武器ぐらい与えてくれ。決闘には応じる!」
「お前は図々しいっ!」
 傍から見れば衛兵に見えるウルフェウスだ。彼は逃げていく不審者に情け容赦ない軌道で剣をふり、ひらりと身を翻して風のように舞いながら刃を滑らせる。アルダバは無様によろめきながら、逃げ回り、転ぶように藪の中へ飛び込んで身を隠す。が、ウルフェウスだって、そんな風にして衛兵らに追われた身だ。すぐさま、藪を飛び越えて、反対方向へ飛び歩き、逃げだそうとしたアルダバの前に刃を突きつけた。
 もちろん、そこで黙って投降するようなアルダバ王子ではない。すぐに顔をひっこめれば、草木をかする刃の衝撃が草木を震わせる。ウルフェウスはチッと大きな舌打ちをして、藪に隠れた男をいぶり出すようにして、剣を突き刺していく。確かに無慈悲である。
 さらには、傍に来た衛兵から槍を奪って、柄の長いそれでズンズンと刺していくわけだが、刺した拍子に「いてっ」なんて声が上がると、喜び勇んで滅多打ちにしてしまう。
 その隙に、反対方向からその男が這いだしてくるなんて思いもせず。
 アルダバは「あの男は、埒が明かないな」と言いながら、抜けた顔で立っている衛兵の足を払い、転んだ拍子に手放した槍を手に入れた。やはり、武具は奪うに限る。
 自分の得意な武具を手に入れて、彼の表情は少し落ち着く。ザヴァリアの槍はミタルスクのものよりもやや長いのだが、その分、反動に優れて威力がある。長槍を使いこなすのは難しいのだが。実は、短槍よりは長槍の方が彼は得意だ。
 武具を手に入れた不審者の周囲を、衛兵たちが怯えた顔で取り囲む。
 その状態でも、獅子王の表情は落ちついていた。彼は武芸に秀でた男ではないが、人をおちょくる才能は高い。ウルフェウスはかつて同じ状況でミタルスクに忍び入った。これはその時の、お返し、である。黙ってやられているだけの大国では示しがつかないから、同じ条件で忍び入ったのだ。
 アルダバは気分よく「さて、殺し合おうか」とウルフェウスを誘う。


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