ジョルノ・ステラ2

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1 夜のユイティ


 右か左か。上か下か。行くか、やめるか。
 人生には二者択一の場面に迫られることが、ままある。天国へ向かうのか、地獄へ向かうのか。
 人には先読みの能力が生まれることがある。選択する前から予感を得て、自らの行き先を感じ取る。正しい選択をするときも、誤った選択をするときも、大抵は何となくわかるものなのだ。
「ダア!」
「シャオ……ブウ、ダア」
「シャオダアダア」
 黒曜石の壁が複数の熱狂者の姿を映し出す。低い天井の下で三十人近くの男たちがざわめいている。休職中のジョルノ・ポアンカレはケアフルール島にある民間の賭場にいた。傍には、集合住宅の隣人、バス運転手のイウェンがいた。
 薄暗く赤い蛍光管の下で、男たちは小さなサイコロの動きを見つめている。
 ルールはわからない。だが、ジョルノは現在八連勝中で、彼らの目が注がれていた。ダアは大きいと言う意味で、シャオは小さいと言う意味だ。ブラックジャックみたいなものなのか、と聞いてみたが、全く異なるものらしい。
 サイコロの合計数が「ダア」なのか「シャオ」なのかをあてるゲーム。
 イウェンが話しかけてきた。
「おい、俺の神様、次はどっち!」
 ジョルノはサイコロを振ったディーラーの目を見て答えた。
「シャオ」
「よしっ!」
 ディーラーは動揺することなく「ヅオシャオチェン」と聞いた後、きれいな笑みを浮かべる。ジョルノは「言葉がわかんねえ」と不機嫌につぶやき、横を向く。国際共通語ではなく、各国言語でやり取りされる。ここは公的な施設ではない、ということだ。
 イウェンは言葉がわかるらしく、すぐに有り金を全て出した。ジョルノはそれを四分の一に減らす。同じテーブルにいた男たちが、一斉に「シャオ、シャオ、シャオ」と怒鳴るようにして札束を放り投げた。
 もしかしたら、違法な営業、なのかもしれないが。周囲にいる参加者はきわめて砕けた民間人である。違法というより、無許可、の方が近い表現だろう。金銭のやり取りもチップ換算ではなく、現金だ。安直にしてわかりやすい賭場である。
 その分、治安がすぐに乱れるはずだ。ジョルノは闇の中に用心棒の姿を探していた。この形態の賭場なら、用心棒がいなくてはすぐに経営が立ち行かなくなるはずだ。金を持って逃げてしまえばいい訳なのだから。
 イウェンはジョルノの手を止めて囁いた。
「おいおい、先生、ここが勝負どころだぞ。これで勝てば、俺たちはバカンスに行ける」
 ジョルノはテーブルの上に置かれてあった紹興酒を手にして、舐めるようにして口に入れる。息を吐けば、芳しい香りが充満する。
 壁に浮かんでいる電光掲示板を見る。今の時刻を確認し、ジョルノはグラスをイウェンの前に置く。そのまま時計の周囲にいる警備員の動きを見つめた。彼らは一戦終えるごとに増えている。無線機越しに命令されていることがわかる。
 これ以上勝ち続ければ、損失を出しそうだ。こういう時は、儲けた後で痛い目に会う。
 イウェンはそのことに気づかずに上機嫌で話しかける。
「金がないときのお前って、最強だよな」
「生存の本能だ……次の勝負は負けるからな」
「は?」
 ジョルノは、それ以上の話をしたくない、という仕草で彼から離れた。
 群衆の中から一歩遠ざかり、店の出入り口を確認した。直後、左右に黒服の事務員がやってきた。嫌な予感は当たりそうだ。さっと辺りを見回して、バーの場所を確認する。
 ポケットから金を出しながら、近づいた。背後から二人の事務員もついてくる。
 ジョルノはカウンターに肘をつけ、バーテンダーからメニューを受け取る。文字がわからない。辛うじてわかるのは、紹興酒、のみだ。イウェンからこれが酒の名前だと教えられた。その周辺に酒の名前が列記されているはずだ。
「ミスター、今日は調子がよろしいようですね」
 メニューを選んでいたら、声をかけられた。ジョルノは屋内でサングラスを着けたまま笑った。事務員に気楽な声をかける。
「よかった。言葉がわからないんだ。うまい酒が欲しいんだけど、お勧めは?」
「飛びきりの等級がございます。別室へご案内しましょう」
「まだ、一戦が残ってるんだ。連れもいる」
「では、お友達もご一緒に」
 事務員は柔和な笑みをたたえて、背後のドアを指し示した。扉の傍にチャイナドレスを着た二人の美女が、魅惑の美脚を見せつつ微笑んでいる。胡散臭さが匂い立つ状況である。
 ここで美人の微笑みにほだされて付いていこうものなら、生きて日の目を見れない目にあうかもしれない。賭場の背後にマフィアがいる例はいくらでもある。
 小さな島の民間人相手に小遣い程度の額をやり取りするだけの賭場だ。しかし、経営がクリーンであるとは限らない。そもそも、こんな庶民臭い賭場に美女が二人もいること事態がおかしすぎる。
 ジョルノは「また女かよ」とぼやきつつ、表情を変えることなくメニューを置いた。彼にとって、女はジンクスである。悪い予兆と言い換えるべきか。
 突然、大きな鈴の音が響き、掛け金を求めるディーラーの声が高くなった。周囲に人が集っていく。「ダアダア」「シャオ、サン」と叫ぶようにして人が手を高く上げている。
 ジョルノは余裕のある笑みを浮かべ「まずは今のテーブルだ」と事務員に話しかけた。勝負を見に行くふりをして、ゆったりと戻っていく。予想通り、事務員たちもついてきた。本心は今すぐ彼らを振り切って走り出したい思いで一杯なのだが、そんな素振りを見せれば、力任せに拷問部屋行き、いや、そのまま地獄へ直行、かもしれない。
 イウェンをどうにかして、連れ出さなくてはならない。逃走路を確認したが、警備員たちが階段にもドアにも立ちふさがっているのが見えた。これはまずい。いよいよもって、絶体絶命だ。
 ただ、勘が冴えているだけなのに、八百長やいかさまの疑惑なんてかけられたらたまらない。抜けたディーラーを使っているから、表情を読み取られるのだ。ディーラーの目を見て「ダア」か「シャオ」のいずれかを口にして反応をみればいいのだ。連続して勝つことができれば、そのうち、ジョルノの唇を見て、ディーラーの目に、怯え、が見えてくる。言葉を発する必要はない。口の形を「あ」にするか「い」にするかで、正しい答えがわかってしまう。こうなれば、あとは連勝できて当たり前だ。
 ディーラーは手先を鍛えるのも大事だが、もっと重要なことは、ポーカーフェイスを学ぶこと、である。これができないディーラーは客との勝負に負ける。
 そして、ジョルノのように客商売をしている男にとって、ポーカーフェイスを見破って、顧客の真相を把握することは、大した技能ではないのだ。これができなければ、ジョルノはもっと早くに失業している。大抵の仕事は違法ギリギリの犯罪者が持ってくるのだから。
「この才能を俺はどこで生かせばよかったんだよ、まったく」
 ジョルノはイウェンの背後に戻り、彼の肩を片手で叩いた。イウェンはいつの間にか全額を賭けていた。ジョルノはそれを知って苦笑いする。これなら、負けた後に逃がしてくれるかもしれない。ジョルノの予想では、次の勝負で「シャオ」はありえない。
 場に出ている掛け金の割合は「シャオ」の方が少し多い。だが、「ダア」に賭けている人間も少なからずいる。ジョルノに対抗心を燃やす男が数人テーブルを挟んで、睨んできた。賭けを通じて、いつの間にか、妙な闘争心を煽ってしまったようだ。
 続けざまにゲームの始まる金の音が鳴り響き、イウェンが手をもみながらつぶやく。
「神さま、神さま、ジョルノさま、大金をよろしくお願いしますよ!」
 パンパン、と手を叩き、両手を合わせて目を閉じる。ジョルノは白けた表情で横目に彼を見る。その後、ディーラーの様子を見つめた。彼はジョルノの視線を知って、緊張気味に掌に収まっている籠を握り締めた。
 その中に、三つのサイコロが入っている。その目の数を合計し「シャオ」か「ダア」かゾロ目を賭ける。三つとも同じ目が出る確率は低い。だが、優秀なディーラーなら自在に目を操る腕を持っている。賭場が熱気を帯びてきた今はゾロ目の出やすい時間帯だ。
 ジョルノは負けるつもりで、あえてその選択を外していた。
 ディーラーは勝ちに来るだろうと思っていた。今、ゾロ目を出せばディーラーの勝ちだ。大半が「シャオ」と「ダア」に賭けているのだから。
 金の音がやんだ瞬間、辺りが、しん、と静かになった。注目の中、ディーラーがゆっくりと、掌につかんだ小さな籠を持ち上げる。
 薄暗い照明の中、浮かび上がるサイコロの目に、人の目が集中する。
 ジョルノは直後「やべ」と小さくつぶやいた。瞳が目の数を計算する前に、異常を察知していた。ディーラーの目が驚愕で大きく開いたからだ。彼は八百長を間違えたらしい。
 イウェンの肩をつかみ、すばやく「出よう」と言った。イウェンはその言葉が聞こえなかったのか、次の瞬間、飛び上がって笑い出した。
「やったっ! やったっ! うわあああーっ! ジョルノっ、すっげ、すげええ!」
 両脇にいた黒服の男が不気味な笑顔でジョルノの隣に来た。逃げようと思ったら、もう力勝負だ。ジョルノは苦笑いして、イウェンに「ボケ」と悪態をついた。無邪気に喜んでいる時間はもうない。
 事務員が丁寧に「おめでとうございます」とお辞儀をした。特級酒をご用意いたしますので、と。ジョルノは血の気が引いてきた。
 その時、テーブルの向かいにいた男が怒りに任せて、机を叩き「イカサマダロ、テメーコノヤロウ」とジョルノを指して、叫んだ。イウェンが彼の罵倒に反応し、同様にテーブルを叩いて「何だと、やるのか、こらああ」と叫んだ。血の気の多い賭場である。普通のカジノではもう少し品よく罵倒するのだが。
 イカサマ、という言葉に反応し、壁沿いにいた黒服の警備員たちが上着の下に手をいれるのが見えた。彼らは銃器を入れてあるホルダーの留め金を外したようだ。何とも物騒なことになってきた。
 手前にいたディーラーの顔色が蒼白になった。彼は背後から黒服に声をかけられ、別のディーラーが場に立った。彼は余裕のあるポーカーフェイスで、客に金を返しながらジョルノを見つめる。が、ジョルノにはこれから彼と勝負する余裕なんてないだろう。
 死に物狂いで逃げるのみだ。
 イウェンが立ち上がって男に怒鳴りつけ、対する男も席から立って傍に来た。周囲は突然口笛を吹いてはやしたてた。喧嘩が始まるらしい。ジョルノは事務員の腕を振り解いて、彼らの仲裁に走った。ついでに逃げようと思ってのこと。
 早口で怒鳴りあう彼らの言葉が聞き取れない。だが、ジョルノは腕を伸ばし「おい、殴り合いはやめろ!」と怒鳴った。が、二人の間に入った瞬間に顔を殴られる。予想通り。
 サングラスは幸いにして割れなかったが、フレームが歪み口が切れた。瞬間、ジョルノはにんまり笑って「やりやがったな!」と叫び、男とイウェンの襟首をつかんで引きずった。彼らを壁に押付けて、一発顔に入れたら、あとはもみくちゃになる。男にも助っ人が入って、イウェンと四人で乱れ打ちである。その周囲に人垣ができ、声援をかけられる。
 もちろん、大人しく群集に囲まれていては逃げられない。
 どさくさに紛れて、そのうちの一人を殴ったら乱闘になった。女性の悲鳴が聞こえ、黒服の男たちが上着から手を離して、飛び込んできた。事務員は険しい顔で無線越しに誰かの指示を仰いでいる。彼らの目が離れた瞬間、ジョルノは血だらけになったイウェンの服をつかみ「出るぞ!」と叫んだ。もちろん、直後にジョルノは服を引っ張られて、知らない男に殴られていたのだが。
 イウェンもこぶしを振り回していたが、彼を無理やり階段へ引っ張った。
「おいっ! 金が」
「金より命だ、ボケっ!」
 ジョルノは彼を罵倒すると先頭に立って、階段を駆け上がった。イウェンは一度賭場を振り返ったが、血反吐をぷっと吹き出してから後についてきた。
 地下の賭場から出て、階段を登っていく。途中、黒服たちが「ジャンジュウ!」と叫んで、上着から銃を取り出すのが見えた。ジョルノは真っ青になったが、壁の背後から赤いハイヒールがその銃を蹴り飛ばすのが見えた。そのまま、華麗な生足のさばきで男の頭上から踵を振り下ろし、あっという間に彼を床に沈める。続いて、彼の脇腹をハイヒールで強く踏みつけると「ぐうっ」とうめき声がした後、男は静かになった。
 その真っ白い美脚は赤いチャイナドレスの中に納まる。壁からきつめのドレスに身を包んだ女が出てきた。豊かな胸が上を向いて突き出すような形だ。その肉感とはうらはらに、腰はしなやかにくびれ、メリハリの良い体だ。小股の切れ上がったいい女だ。しかし、全体的にほっそりして見える。男を一撃で蹴倒すような女には見えない。男の片腕で抱き寄せられそうな、可憐な美女に見える。
 赤い口紅を鮮やかにつけ、少し釣り目の猫のような顔をした女だ。アイシャドウは濃い赤がきつめに入っている。髪は緩やかにカールして、肩の高さで弾むように揺れる。耳に真っ赤な紅玉のイヤリングをつけていて、揺れているのが見えた。
 イウェンと二人で、ぽおう、として腑抜けになっていたら、女が柳のようにほっそりした手を振って、招いた。イウェンがジョルノを押しのけて、駆け上がっていく。 
 ジョルノも階段を上がった。見れば、男は一人ではなく、その階にいる警備員が全て倒れているのが見えた。彼は驚きつつも、彼女の後をついていく。
 彼女は外に出る通用口を開けて「こっち」と妖艶に微笑んだ。
 こういう時、男の生存本能は狂うのである。その扉の向こうが地獄である可能性なんて、考えずに飛び込んでしまう。よく考えたら、その女は先ほど見た二人の美女のうちの一人だった。後をついて行っていいような女ではない。
 しかし、扉の奥に入ったら、緊急脱出用のエレベーターがあった。逃がしてくれるらしい。ジョルノはイウェンと二人でその中に入ってから、彼女を振り返った。
 逃がしてくれる訳を聞こうとしたら、彼女が両手でジョルノの顔をつかんで引き寄せた。あっという間に彼女の唇に口を塞がれた。柔らかい肉の感触を認識し、目を大きく開く。一気に頭の上まで血が上る。時空が吹っ飛んだ。
 優しい花の香水が漂う。彼女の香りに誘われる。
 女の滑らかな肌と潤む瞳を見ながら、頬が熱くなった。彼女はキスに熱中し、少し目元を伏せて、ジョルノの口内で舌を絡ませる。淑やかな瞳の表情からは想像できない、情熱的な舌の動き。彼女に身を任せて、体の奥が熱くなった。思わず彼女の細い腰を抱き寄せたら、イウェンが「おい、こらーっ!」と情けない声で怒鳴るのが聞こえた。
 彼女の胸の弾力と下半身に絡みつく生足の感触で、頭の奥が麻痺してきた。今は逃げるべきではなかったか? いや、ここで彼女を手放すのは勿体無い。ジョルノは自ら顔を傾けて、深く口付けを交わし、彼女を求めた。女を抱くのは久々で、我を忘れた。彼女の背後にあるファスナーの位置を指先で確認する。このまま押し倒したい女である。
 彼女もジョルノの体をまさぐっていたが、不意に唇を離した。ジョルノはぼんやりした顔で彼女を見つめる。彼女は小さな赤い舌で、少し唇を舐めた後、手の中にあるジョルノの財布を見つめた。ジョルノははっとして、自分の胸に押付けられている自動小銃を見る。安全装置は既に外れている。いつでも発砲可能。やられた。彼女はがっしりした銃器を握り、彼を制したまま、財布の中にある身分証明書を確認していた。
「ジョルノ・ポアンカレ……二十七歳。航空士」
 彼女はそうつぶやいてから、色気のある唇をほころばせた。可愛らしく「ふふ」と笑って、彼に財布を返した。彼の胸に叩きつけるようにして押付ける。
 ジョルノが財布を手にしたら、彼女は銃を胸から外し、一歩外に出た。
 彼女は上階に向かうボタンを押して、笑顔になった。小さな手を顔の横で可愛らしく振って「またあとでね、ジョルノ」と囁いた。
 次いで、イウェンに「もう来ないでね」と告げる。エレベーターの扉が閉まった後、二人の間に微妙な沈黙が流れた。ジョルノは片手で唇を拭き、イウェンは腕を組んで荒々しい鼻息を漏らす。ジョルノは彼にどう声をかけたらいいのかわからなくて黙っていた。
 が、数秒後、二人は突然話し始めた。
「俺だって突然のことで何が起きたか全く理解できない。今のは何だ、ははははは」
「お前って奴は、やっぱりあちこち美味しいところを持っていくんだ!」
「だいたい、お前があそこで全額賭けたりするから計算が狂っちまったんだよ」
「ああああーっ! 俺の金っ! あんなに儲けたのに、畜生っ!」
 イウェンが悔し紛れにジョルノに飛びついて、頭を殴り始めた。ジョルノはもう無抵抗だ。今のイウェンの状況を思えばこれしきのこと。金もない、女に無視される、男には殴られる。今の彼には殴られてもいい。ジョルノは少しいい想いをしたわけなのだから。
 上階にエレベーターが着いて、夜の街に戻る。
 イウェンが外に出ながら、吐き捨てるように言った。
「どうして、あいつがここにいるんだよ。ったく、なあにが『もう来ないでね』だ。頼まれたってもうこねーよ、くそ」
 ジョルノは早足で歩きながら、背後を見る。夜霧に濡れた石畳を歩き、穏やかなガス灯の光に包まれる。後をついてくる人間の姿はない。ジョルノはイウェンの背中を押して、人通りのある歓楽街へ向かいながら、問いかけた。
「おまえ、彼女と知り合いなのか?」
 イウェンは呆れた顔で「はあ?」と答えた。彼は続けた。
「抜けたことを言うなよ、ジョルノ。お前の隣に住んでるだろ、あれ」
「え? 誰が?」
「あの女! 色気に騙されて目が曇ったか、おい」
 数秒後、朝に見ていた下着の種類を思い出した。ジョルノは「うわあああ」と叫んで、両手で頭を抱えた。胸のサイズだけは覚えている。確かにあれぐらいの大きさだ。
 彼女の名前は、確か、ルカだ。
 賭場でチャイナドレスを着るような女だ。背後にマフィアがいそうである。これは、手出し厳禁、だ。悪戯に彼女に手を出して、命を落としたら洒落にならない。
「あー……確かに、彼女に手を出す男はいねーな」
「キスされてその気になったか?」
「急に醒めたよ。何者なんだ?」
「知らん」
 大の男を一撃でしとめた華麗な足技。あの美脚……柔らかい肉体。
 ジョルノは不意に片手で顔を覆って、上を向く。思い出したら、血管が切れそうな気がした。鼻をつまんで星空を見る。イウェンが腹立たしい顔でその後頭部を片手で一発殴った。ジョルノはよろめきながら歩いていく。
 ユイティにある歓楽街は夜十一時以降も開いている。夜明け近くまで明るい。
 しかし、零時を過ぎれば、街の様相はがらっと変わる。簡易なドレスを羽織った女が出歩き、男を誘って片目を閉じる。近くに酒場が並ぶ。その奥に娼婦の誘う夜の歓楽街が隠れている。この辺りは違法スレスレの商いが多い。地元民のみが知る暗黒の一面だ。
 金さえあれば、ジョルノだって、日ごろの憂さを晴らしにイウェンと二人で飲み歩く。娼婦の知り合いだっている。たまに彼らの子供のお守りをアルバイトでやることがあるのだ。彼女たちの家に行けば「ヒモ男」と誤解されることもあるのだが、娼婦と関係を持ったことはない。間違えて抱いたら、即座に子供つきで一家の大黒柱になってしまうだろう。彼女たちの結婚願望は強い。
 通りに立っている女たちの誘いから逃げて、表の歓楽街へ戻る。
 色彩鮮やかな夜の街はネオンが華やかで、やや古臭い郷愁にかられる。行きつけの店を覗き、不機嫌なイウェンを宥めて飲みなおすことにした。
 ブラックライトに照らされ、壁際に蛍光に輝くダーツ用のボードが見える。ジョルノはカウンターで、ダーツと酒をもらって、テーブルに入った。イウェンはコインを出して、準備中だ。酒を持っていくと「負けたらここはお前もちー」と笑われた。ジョルノは酒を一口飲んでから、歪んだサングラスを外した。
 二人でダーツを投げ合って遊んでいたら「ジョルノ?」と声をかけられた。
 声の方をふりかえったら、一人の男が吹き出した。
「あははは、その顔はどうしたんだ!」
 ジョルノはイウェンと二人で顔を見合わせてから、にやりと笑った。二人とも顔に痣ができて、血が出ている。既に傷口はふさがっているのだが、痛々しい顔だった。
 イウェンはダーツを手離して、自分のグラスを手に持った。軽く酒を口にして休む。
 ジョルノは笑っている男の傍に行き、顔を確認する。知り合いだった。
 彼は航空士養成学校の同級生だった。名前はユージン・クラーク・マクスウェルである。空中都市に伯父が暮らす裕福な良家の子息である。航空士として、空と地上を行き来する定期便に就職した優等生だ。
 ジョルノはイウェンをふりかえって「同級生だ」と紹介する。イウェンはユージンに笑みを浮かべて、軽く挨拶した。ユージンも気楽に答えて、二人の傍にやってくる。良家の生まれだというのに、彼は垣根がない。だから、学生時代、彼と友人になれた。
 互いに名前を紹介して簡単な会話を交わしたら、イウェンは「酒をもらってくる」と言って席を立つ。ユージンはにっこり笑い、隣に椅子を持ってきて座った。
 ジョルノは的からダーツを取ってきて、彼の隣に座る。
「休暇中か? ケアフルールなんてお前の生活レベルに合わないだろ」
 ユージンはビールを飲んでから「やめろ」とジョルノの肩を叩く。身分の差を意識するような話題を口にするな、と睨まれた。ジョルノは軽く笑って酒を飲む。
 少し怖い顔になったあと、彼は表情を和らげて話した。
「昨日まで第二気団にいたよ。知り合いの結婚式があったんだ」
「へー」
「でも、恒星フレアが観測されて、第二気団にも退避命令が出された。今、一時的に上空にいた人間たちが第一気団に避難してる。宿泊施設は満室だった。地上行きのチケットが取れなくて、留まっている地上の人間も多いだろう」
 恒星フレアとは、星の活動に伴って生まれてくる爆発現象だ。大量のX線が流入し、磁気が乱れて、大気の状態も変動する。通信が滞り、原子の電離が起きたり、そのことで地上にも少なからず影響を与える。
 第二気団以上の高さの気団は直接その影響を受けると考えられており、人体保護のため退避勧告がなされる。第一気団に逃げたり、そのまま地上に戻る人間が増える。フレアの活動は頻繁ではないが、一度起きたら数日間は空中都市への乗り入れが閉鎖される。精密な通信機器が不安定になるから、事故が起きやすくなるのだ。
 ユージンは気楽な顔で「休暇は延長だよ」と笑った。
 そういう事故でもない限り、彼がこの島に滞在するという理由はないだろう。ジョルノは苦笑いして、品行方正な同級生の身なりを見つめる。ユージンは砕けた格好のつもりだろうけれど、シャツの生地は一目でわかるほど質がいい。
 彼はもう一口酒で舌を湿らせてから、続けた。
「ところで、お前は卒業してから一度も同窓会に来ないんだな。今度こそ来るだろ?」
「え? 同窓会? そんな連絡は来てないぜ」
「そんなはずはない。今年は俺が幹事なんだから。絶対に送った。教官がお前のことを心配してる。今度こそ顔を見せに来いよ。今月は交流会も同時にやる。地上で開催だ」
 ユージンに肩を抱かれて、ジョルノは苦笑いした。卒業してから三年だ。まともに職に就いたわけでもないのに、教官に何と言って説明すればいいのだろうか。最近のニュースは「空賊と共に戦闘に巻き込まれ、軍の収容施設に入りました」である。泣きながら殴られそうである。
 シエル島第一学区の交流会も同時に開催されるなら、ジョルノの後見人も来るだろう。彼の資金援助のおかげで空賊から足を洗うことができたのに、結局、また空賊と共に仕事をする羽目になっている。彼に顔向けできないと思った。
 少し沈んだ気分で酒を口にしたら、ユージンが穏やかな顔で囁いた。
「式場でお前の活躍を聞いたよ」
「はあ? 何の活躍だよ」
「アメリア・ノイフィールドをハイジャックから救ったんだろ? 彼女は花嫁の知りあいだったらしいんだ。アメリアはまだ独身らしいぞ? 今度紹介してやろうか」
「いらねーよ。世間は狭いな」
「この業界は狭いんだ」
 ユージンは気持ちよく笑って、ジョルノの肩を叩いた。ジョルノもアメリア副操縦士のことを思い出して、少し笑った。
 そして、ついでに嫌な記憶まで思い出した。
 あれから、マックスはどうしただろうか。彼の無事だけは祈りたくない。どこかで野垂れ死んでいてくれ、と願う。
 イウェンが三人分の酒とつまみを持って戻ってきた。ジョルノは財布を取り出して、彼に金を払う。ユージンもしばらくしてグラスの数を見て、財布を取り出した。金を払って、三人で改めて乾杯する。
 イウェンが話しかけてきた。
「地上と空中都市の交流会に出るって? うわあー、お前、実は上流社会の人間か」
 ジョルノはチーズガレットをつまんで食べながら、無言で笑った。ジョルノは生まれも育ちもそんな社会になじむ人間ではない。だが、資金援助してくれた人間がそういう社会の出身だ。彼の名前はケニー・ブラック・ゴールドバーグだ。財閥出身のパイロットだ。
 イウェンはユージンに話しかけた。
「交流会ってどんな感じなんだ?」
 ユージンもチーズに手を出して答えた。
「シエル島の第一学区はちょっと堅苦しいね。地味だよ。お暦の学長が義理堅く参加するんだ。軍隊出身者もいるから、酒はあまり出ないね。挨拶を終えたら、仲間内でさっさと脱出して飲みに行くよ。俺も幹事でなければ、抜け出すところだね」
「あー、でも政界とか財界の人間が来てそうな」
「財界は来ないな。東南線の学園都市ならば、もう少し華やかだろうけど」
 ユージンは控えめに言っているが、シエル島の第一学区は航空関係者が集う空の交流会だ。航空関係の業種は軍事面でも経済面でも重要なので、利権がひしめき合う社交場である。ここでは若い学生は主役ではない。卒業してから力を持った利権者が、学閥を通じて交流を深めていく場所だ。学生はそのための飾りに過ぎない。
 ユージンの家系は政界にパイプがある。空中に暮らす彼の伯父は国際政治の舞台で活躍するロビイストである。親類には政界に圧力をかけられる実力を持った財界の指導者が集まっている。そして、今年ユージンは同窓会の幹事を務め、その後の交流会にも出ることになっている。つまり、彼はその若さで、社交界の立場を確立しつつあるのだ。ユージンの血筋から言って、それは妥当な流れだった。彼の本業は定期便の航空士だ。だが、社交界にデビューした後は、ただの労働者ではなくなっていくだろう。
 ジョルノは学生時代に一度、航空実技でトリプルAを取ったので、選抜に選ばれたことはあるのだが、交流会に出席することはなかった。その年は空中都市で開かれた。入学してから地上で学んでいたが、しばらくぶりに空に戻ったら、気分が悪くなってしまったのだ。会に出ることなく、教官と共にホテルで一日中寝ていた。
 その頃、自分は空に適性がないと思っていた。上空に適応できる肉体を持っていないから、地上で働く人間になると思った。この場所で生きていけるとは思ってなかった。
 それが、卒業してみたら、地上には戻れない身の上になった。地上にジョルノの働く場所はなかった。空の上で航空士として生きている。
「貴婦人とダンスなんて踊ったりして?」 
「いつの時代の話だよ」
 イウェンのジョークを聞き流して、ジョルノは笑う。
「交流会に女はいるのか?」
「それがいなくて、何の交流なんだ」
 ユージンはイウェンの問いに答えて笑う。女好きのイウェンは「いいなあ!」と喜んで、ジョルノの肩を叩くが、ジョルノはうんざりした顔で「何が」とぼやいた。
 学校関係者しか出てこない交流会だ。航空関係の女なんて、嫌な思い出しかない。男勝りで勝気で可愛げがない。シエル島にいる航空士、操縦士、機関士、通信士、管制官などの養成学校に女は少ない。そして、少ない女にも関わらず、彼らはちっとも可愛くない。
 ジョルノは在学中に知り合った女を思い出していた。
 ミディアという名前しか知らない。交流会に行く途中で知り合った。
 交流会自体は体調不良で出られなかったが、ミディアとは空中行きの航空機の中で出会った。たった一時間弱の移動時間だったが、彼女の隣になった。男に紛れて戦う女生徒を見慣れていたので、女を意識することはあまりなかった。しかし、ミディアは初めてジョルノに女性を感じさせた人だった。移動時間の間はずっと本を読んで過ごしていた。静かな女性だ。礼儀正しくて、言葉遣いも丁寧で、良家の女というものを始めて感じた。
 彼女は地上で交流会を終えて帰還するところだった。ジョルノは彼女に自分はこれから交流会に行く、と話した。彼女と言葉を交わした回数は少ない。だが、全ての言葉に笑顔で反応して、丁寧に頷く彼女を見ていたら、変な気分になった。
 もっと話したい、と思っていたら、空港についてしまった。
 彼女とはそこで一度別れている。
 交流会の会場はシエル島ではなく、良家の令嬢が集まる東南線のある島で行われた。島に到着した後、執事と共に移動する彼女の姿を見た。熱が出たのはその夜からだ。体調が悪くなって、ホテルで過ごした。
 交流会に行けば、彼女に会えるような気がしていたのに、悔しくてならなかった。
 稀にそういう体調不良に陥る学生もいる、といって教官は笑ったが、医務室の中でジョルノは何のためにここに来たのかと悔やんだ。ただ、移動しただけだ。誰とも交流することなく帰るのだ。何ともつまらない。
 三日ぐらいしてから、ようやく体調が戻ったけれど、その翌日には帰還することになっていた。ジョルノは教官から許可をもらって、空中都市の見学に出た。せめて観光ぐらいはしたかったのである。
 巨大なクルセル島の見学をした。古風な建物の多い空中都市には珍しく、そこは近代的な電子機器に制御された島だ。観光できる島は他に許されていなかった。
 その場所で彼女に再会した。ミディアはクルセル島にある父親の会社に来ていた。親族間の食事会の帰りだと言っていた。彼女は執事にジョルノをホテルへ送るように命じた。ジョルノは交流会はもう終わったと伝えたが、彼女は優しい笑みで「送ります」と繰り返した。その好意に甘えて、彼女と一緒に車に乗った。
 航空士と話をするのは初めてだといって、彼女は興奮していた。
 ジョルノは空中都市にいる間は、航空士養成学校の制服を着ていることを義務付けられていたので、苦笑いしていた。堅苦しい制服は嫌いなのだ。でも、その制服を見て、ミディアが喜ぶなら、着ていても良かった。照れくさく思いながら、時間を過ごす。
 ジョルノが泊まっているホテルの名前を伝えて、私用の航空機で送ってもらう。執事は礼儀正しく、ミディアの世話をしていた。航空機で島に渡るとき、居室で彼女と二人きりになった。執事が消えたのはこの時だけだ。
 彼女がせがむので空の話をした。航空士としてどんな学問を学んでいるのか、航空実技は彼の得意分野だったので、操縦法や実技の話などを語った。空の上で過ごした時間は二時間程度。本当なら、クルセルからは航空機で三十分もない島だ。
 ミディアは全ての話を大きく頷いて楽しそうに聞いていた。そして、二人は空中遊覧を楽しんだ後、男女の関係を結んだのである。
 当時、彼女が置かれていた状況を理解していなかった。
 求められるがままに、燃え上がった。言葉も要らず、交わす必要もなかった。空の上では逃げ場がない。だけど、ジョルノは逃げたいとは思わなかった。彼女が可愛かったのだ。手に入れたかった。
 彼女が「もうすぐお別れなのですね」と寂しそうに言った時、終わらせたくないと思って彼女を抱きしめた。彼女もそう思っていただろう。キスをして、そのまま、彼女を抱いた。彼女は抵抗することなく、身を任せてきたのだから。
 航空機を降りた時、執事から「ミディアさまには既にご婚約者がいらっしゃいます」と釘を刺された。彼女とはそれっきりになった。
 彼女は婚約者と結婚しただろうか。だが、ジョルノは彼女が死んだことを知っている。航空機の事故だった。そのニュースを見たとき、後悔した。ミディアは空中都市から地上へ向かい、事故にあった。その時の操縦士の名前を知らない。
 だが、彼女自身が操縦したような気がしたのである。
 あの時、彼女に操縦の技術を教えなければ良かった、と悔やんだ。
「ジョルノ……たまには地上に来いよ。お前は空の方が好きなのかもしれないけど」
「好きじゃねーよ、こんな場所」
 ユージンに悪態をついて、酒を口に入れた。酢漬けのオリーブを口にする。
 イウェンが「俺に土産を買えー!」と騒ぎ始めた。もう一度「だから行かないって!」と叫び返したが、ユージンは朗らかに「もう航空チケットも送ってあるから」と笑った。

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