ジョルノ・ステラ2

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2 地上へ


 航空士養成学校は昼間部と夜間部の二つがある。ジョルノは通常四年の昼間部に五年通った。昼間部は座学を一年次と二年次に地上で行い、三年から四年次に空中都市にあるシエル島で一年間の実技を行う。地上と空中都市のどちらでも飛べる技能を身につけるのだ。
 操縦法は航空士にとっては、脇役だ。しかし、操縦士が学ぶ初歩の操縦技術ぐらいは学んでいる。それは緊急事態に陥った時に、操縦士の代わりに操縦できる保険のようなものである。また、操縦桿を握った時に受ける大気の反応を知り、航空士として彼らをどう補佐していけばいいのか、技術的にも感覚的にも理解するために学ぶことになっている。
 ジョルノが地上の航空機に乗ったのは、その当時の航空実技以来一度もない。
「本日はACL227便にご搭乗頂き、まことにありがとうございます。当機の機長はニール・エステラン一等操縦士、副操縦士はミハイル・ドブチャロフキーでございます。私は客室乗務員のミナ・サエキでございます。みなさまのご搭乗を心より歓迎申し上げます。どうぞ快適な空の旅をお楽しみ下さい。ただいま、当機はチェルキオ国際空港を十八時十五分に定刻どおり離陸し」
 空中都市から地上都市への移動時間は、一時間程度だ。一度空中で待機した後に、地上の管制官と連絡を取って、水平移動もするが、機体の形状は長距離輸送に適さない。地上、いや、上空二万フィートまでの空域は地上部の航空機を使った方が早くて輸送力がある。
 天空からの旅客機はハブ空港まで運ぶだけの能力しかない。垂直に上下を繰り返す。
 チェルキオ空港を飛び立った後、すぐに着陸態勢に入る。雲の中を潜って、地上へ向かう。地上から導かれ、誘導装置が働いている。巨大な円盤が雲の下に出ていく。
 ACL227の中は、交流会を控えた学生が多く、引率者がブロックごとに着席していた。ジョルノは特等席に案内されて、彼らからは離されている。
 一月に一度、航空機は地上との交流会のため、まるごとチャーターされる。
 政治の力を感じる。交流会関係者は招待されている場合、無料で機内に乗れる。ジョルノは今回ユージンのおかげで、無料チケットが手元にある。普段は乗れない特等席でゆったりと地上の夜景を眺めた。
 久々に不ぞろいな髪を切り整えて、学生時代に着ていた制服をクリーニングに出した。同窓会に出席するには、在学証明と正装が必要だ。在学中に比べたら、体に筋肉が付いたので、肩周りが少しきつくなっていた。シエル島にある母校に連絡をして、仕立て屋を呼んでもらった。同窓会に出席するといえば、直しを受けることができる。
 ついでに現在の状況を学内にいる教官たちに聞かれて、うんざりしたが、久々にジョルノの話を聞き、彼らは安心した様子で上機嫌だった。就職口をいくつか紹介されたが、既に自力で生きている。航空士資格は停止中で、営業できないのだが。
 そんなわけで、今日の彼は珍しく品行方正であった。スーツを着てファーストクラスでくつろいでいる彼を見れば、見た目だけは御曹司に見えるだろう。生活に困窮した男には見えない。客室乗務員たちは彼の横顔を見て、そわそわした笑みを浮かべている。
 繊細に輝く華やかな金髪は清潔に整っており、柔らかい髪質が大理石のような顔を包むように彩っている。透き通った肌色はこの世のものとは思えぬほど、滑らかで陶器のようだった。知的な瞳はエメラルドグリーンで、虹彩に醜いしわなんて一つもついていない。透明感に溢れた澄んだ色合いで、見るものを魅了する。
 伸びやかな肢体は大らかで、バランスよい肉体であることが服の上からも理解できる。細身で優しげな肉体ではあるが、弱弱しい感じは受けない。滅多に袖を通さない作りたてのスーツを着ているので、マネキンのような男である。
 こそこそと囁く声が聞こえてきた。
「彼って、空中都市に暮らしてるんですよね。きゃあ、天使みたい」
「空中都市はやっぱりエリートが多いわ。家柄良し、見た目良し、将来性よし」
「招待券つきの乗客よ。粗相のないようにしっかりして」
「はあい……ふふふ」
 雲の下に出て数分後、機内は激しいエンジン音に包まれた。ジョルノは上空では味わうことのない騒音にさらされて、不機嫌そうに顔を歪ませる。地上が近くなり、推進力を上げているのである。地表に向かうに連れて、速度が上がる。気圧が上がっていく。
 彼の表情の変化を見て、乗務員が早速傍に来た。
「お客様、ご気分が優れないのでしょうか」
 ジョルノはこめかみに指を置いて、彼女をにらみつけた。音がうるせー、と言いたかったが、航空力学は理解できている。言っても仕方のないことを騒いでも仕方がない。片手を振って、邪魔だ、と伝える。
 しかしながら、彼女たちはうるさい。一人にしておいてくれ、とジェスチャーで伝えているのに、水をお持ちします、だの、酔い止め薬、だのと世話を焼きたがる。イライラが高じてきて、思わず怒鳴りそうになったが、そのギリギリの場面で彼女たちはピタッと来なくなった。遠目に見守っているのだが、怒鳴られる前に察したらしい。
 一人になってから、彼は目を閉じて気持ちを静めた。どうせ、この不快感は一時間程度で終わる。地上に降りる時に体調がおかしくなったことはなかった。しかし、今日は体に異変を感じた。理由がわからない。胸が苦しい。
「ストレスか……久々に気を遣うから」
 そんなことをつぶやいた直後、呼吸が乱れた。体中がしびれて震える。乗務員が走ってきた。しかし、その頃にはジョルノの体は真っ青になっていた。
「ハアッハアッハアッ」
「お客様、どうなさいましたか、お客様!」
 呼吸ができない。ジョルノは真っ青になった自分の指先を見て「はあっ?」と怒鳴った。肌が青緑だ。何故、体がこんな色になるのか。胸が苦しい。心臓の発作か。
 その彼の手を握って、男性が脈を計った。前の方の席にいた人間だ。ジョルノは目がかすんでそれ以上の認識はできない。彼は乗務員と一緒にジョルノの座席を動かして、横に寝かせた。彼はジョルノの口元をビニール袋で覆った。
 数分間、呼吸を繰り返した後、視界が回復した。ジョルノは呼吸が落ち着いてきてから、彼に目を向けた。てっきり医者だと思っていた。しかし、その男性は懐かしい笑みを浮かべて笑った。
「やあ、落ち着いたかい?」
「ゴールドバーグさん?」
「ケニーでいいと言っただろう?」
 ジョルノの後見人だ。ケニー・ブラック・ゴールドバーグは穏やかに微笑み、ジョルノの頭を撫でた。中高年を終えつつある彼の髪は所々白いものが混じり始めていた。しかし、懐かしい笑みは優しい。汗だらけになったジョルノの額を拭いながら、彼は言う。
「ジョルノ、君はどうやら今まで地上に降りなかったようだな。地上に馴化するまでに時間がかかるぞ。必要以上の酸素濃度にさらされると呼吸が止まる。一時的なものだ。気にするな」
 彼は腕まくりをして、ビニール袋を押さえていた。ジョルノは自分で手を持ち上げてビニール袋を押さえる。体がだるい。全身から汗が出ていた。
 空中都市で働くようになってから、定期的に薬剤投与をしていた。血液製剤を使用するまでもないが、ヘム鉄の合成を促し、人工的に赤血球を増やす。上空では酸素不足に陥りやすい。人工的に肉体を改造して空中都市に適応しているのだ。さらに、ジョルノは意図せずとも肉体を酷使して、血流量を上げている。血圧を上げて適応しているのだ。それが地上に戻る時、一時的にあだになっている。
 上空で増やした赤血球は地上に戻れば、二週間以内に正常値に戻る。だが、ジョルノは通常の地上人よりも血中の赤血球量と酸素運搬能が高い。気圧が二倍になっただけで必要以上の酸素を体に取り入れてしまうのである。
 赤血球を壊すために必要な臓器は肝臓と脾臓だ。激変した環境に適応するため、脇腹にあるそれはフル回転で動いている。冷や汗が止まらない。針を飲んだように全身が痛む。
 水を飲め、と言われて素直に飲んだ。
 ケニーはジョルノの座席の肘掛に腰掛けて、気楽に笑っている。ジョルノは彼の言葉に従って、ぐったりしたまま地上へ向かう。乗務員が機長に連絡を入れて、急病人が出た、と騒いでいたが、やってきた副操縦士にケニーが状況を説明した。
 空中都市から地上に戻る時に、たまに気分を害する人間がいる。彼らに、しばらく低酸素状態で過ごすといい、と言われたが、呼吸が落ち着くと対処法を自分で考えた。少しずつ呼吸数を減らしていく。乗務員に「氷嚢をくれ」といって持ってこさせた。全身を氷で覆い、活動量を落とす。体温を測りながら、ビニール袋を口元から外した。
 荒療法で体調が落ち着いたことを知ると、副操縦士は戻っていった。乗務員らは不安そうな顔をしている。ジョルノを不気味な生物だと思っているように遠巻きにしている。
 同じ人間とは思えないのだろう。ジョルノも「まるで死人だ」と笑った。体温は三十五度を下回る。体表は青黒くくすんで見えた。人体が耐えうる限界を考察しながら、氷嚢の数を調整していく。
「ホテルに着いたら、冷房を効かせて一度寝たらいい」
「学生時代、地上から空中に交流会で行った時も体調が崩れた。俺はよほど交流会に縁がないんだ。また、ホテルで寝る羽目になるらしい」
 ジョルノががっかりした声でぼやいたら、ケニーは楽しげな顔で笑った。
 彼は空中の義父だ。久々に会って、ジョルノは照れくさそうに目をそらした。ホテルはどこに取ったのか、と聞かれて、これから探す、と答えたら、案の定、同じホテルに連れて行かれることになった。ゴールドバーグ氏の宿泊レベルに見合う金を持っていない。
 しかし、そんなことを言う前に彼は「たまには一緒に過ごそう、息子よ」と笑った。乗務員たちは顔を輝かせて「ゴールドバーグ氏の息子ですってっ!」と騒ぎ始めた。確かに彼は財閥の御曹司だ。氏はその年になっても独身だったが。
 ジョルノは断る理由を思いつかず、苦笑いして黙っていた。血縁関係なんて一滴も入ってないし、法的にも彼とは親子でもなんでもないのだが。滞在中の飯の不安は減る。彼の提案を無言で受け入れたのだった。


 体を動かさない方がいいと言うことで、乗務員らにストレッチャーで運ばれて空港のセキュリティシステムを通り抜ける。一度医務室へ寄って、医師の診察を受けた。その頃には酸素中毒の症状は落ち着いていた。数日間安静に過ごすように言われ、地上に入国する。
 空港内を電動の自動操縦担架で運ばれ、天井を見て過ごした。半円状のガラスで覆われ、低酸素状態の陰圧空間を維持した。手首につけた白いバンドに電光で血中酸素飽和度が表示されている。低酸素状態にもかかわらず、それは百パーセントだ。ジョルノは全く苦しさを感じていない。
 周囲は奇異な視線で白衣のロボットに送られている彼を見つめる。ケニーは背後から、浮遊する移動装置に荷物を載せて、ついてきた。ポーターが彼の荷物とホテルまでの送迎を整えて、空港の出入り口まで送っていく。
 宿泊予定のホテルから送迎が着ていた。エントランスにやってきたコンシェルジュが礼儀正しく頭を下げて「ようこそいらっしゃいました、ゴールドバーグさま」と声をかける。ケニーは穏やかに片手を上げて彼らに声をかけた。
「世話になるよ。今回は私の義理の息子も一緒だ」
「ご子息様でいらっしゃいますか」
 閉鎖空間の中でジョルノは「血縁ではないけどね」とつぶやく。マイクロフォン越しに彼らにその言葉が伝わる。コンシェルジュは丁寧に頭を下げて笑顔だ。
「私はホテルドオランデのコンシェルジュで、RT4と申します。人工生命です。滞在中のお世話をさせていただきます。私は四体の同位体とクラウドコンピューティングで繋がっております。ご子息さまの健康状態をマザーシステムにお送りいたしました。お部屋の用意は、すぐに整えられます。他に、ご要望がありましたら、遠慮なくご用命下さい。ゴールドバーグさまとそのご子息さまが、当ホテルで快適な滞在を送られることを、従業員一堂心より願い申し上げます」
 再び深く頭を下げた後、彼女は柔和な笑みを浮かべて「ご案内いたします」と片手をあげた。ケニーはジョルノをふりかえって、歩き出す。ジョルノの体もすーっと滑らかに動き出した。このまま棺のように車に載せられるのだろう。ジョルノはうんざりした顔でため息をついた。久々の地上だというのに、感慨も何もない。
 空港を出ていくと、エントランスにあるリムジンに電気がついたところが見えた。ゆっくりと地面から浮き上がり、滑るようにして傍にくる。彼らはジョルノを箱ごと積み込んだ。やはり棺扱いだ。ケニーは彼が車に乗ったことを確認してから、後部座席に入った。
 ジョルノは寝返りして、車内の様子を見るが、想像通りトランクの中だ。
「低酸素状態でも生きていけると思ってやがるな……くそ。その通りだけど」
 トランク内でも全く苦しくない。いや、妙な圧迫感はあるのだが。折角の高級車に乗ったと言うのに、トランクの中とは。ふてくされて寝ている間にホテルに付いた。
 動いているとは思えないぐらい、静かな走りだった。空港からいつ出たのかも体感できない。地上部の車道は半導体を用いて、電流で車を走らせていると聞いたことがある。車にはナビゲーションが付いていて、目的地までの道を確定してから走り出すのだ。車が道に使用する路線を電気で指示し、道が車を自動的に目的地へと誘導する。
 都市域の地上部に信号機は存在しない。車がいつ交差点を通過するのか、道は既に知っているからだ。互いの車が交差する時刻を調整し、車を停まらせることなく進ませる。最小のエネルギーを使用して最短の時刻に到着が可能だ。
 人が通る道と車が走る道は完全に分離していた。その技術を目で見ることができなかった。気がついたら、トランクの扉が開かれて、外に出されていた。
 コンシェルジュは一人で荷物を取り出して、ホテルから出てきたロボットに積み込んでいく。どれだけ重たい荷物でも、彼女は顔色一つ変えることなく積み上げていく。
 ホテルの中には彼女と同じ顔をした人型ロボットが動いていた。
 ケニーはジョルノの入った箱を片手で動かして、車から降ろす。ロボットに任せれば、彼が手を煩わせることはないのだが、ケニーは自分の手でジョルノを動かした。
「君は生きてるからね」
「生きた扱いじゃなかったけどね」
「そうかい? あ……中の酸素量が少し上がってきているな。君は順応が早いようだ。明日にはカプセルから出られるかもしれないぞ」
 ジョルノの体調を感知して、カプセル内の酸素量と圧力が調整されている。外気と同じ環境に適応できるようになったら、カプセルは自動的に開くようになっていた。既に、気圧には順応し始めていた。肺の大きさと吸気の量が安定して、体が順応を始めている。
 ケニーはホテルの中に入っていく。ジョルノは横になったまま、豪奢なホテルの天井を見上げた。こういう位置から高級ホテルを眺めるのも悪くはないだろう。
 ホテルドオランデは歴史ある高級ホテルだが、見た目は近代的に建て替えられている。一見して伝統的な造形美を維持しているように見えつつも、ホログラムを用いて天井に幻想的な宇宙空間を映し出している。
 壁には一続きの画が映し出され、密閉された空間であることを忘れさせる。天井の上から星と共に流水が流れ落ちていく。屋内に入った瞬間に、大自然の中に入ったような錯覚に捕らわれた。
 上を見ながら中に入ったジョルノは、上空に広がる星空と空から精霊と共に滴り落ちてくる流水の映像に心を癒される。不思議な感覚を味わう。
 壁に映し出される動画に見入って時間を忘れる。ぼんやりしていたら、ケニーがフロントで手続きを終えて、ホテルマンと共に歩き出していた。目の前の映像が変わりはじめた。ロビーから離れる時、思わず「ああちょっと待て!」と声を出して、ケニーに笑われた。
 ケニーも天井を見上げて「きれいだな」と微笑む。ホテルマンが嬉しそうに頭を下げた。
 ヒーリング用の映像は夜の風景で統一されていた。今の時刻に合わせた映像を使っているのだろう。天空から巨大なオーロラが降ってきて、七色に変化する。ジョルノは大きく口を開けて「すげー」とつぶやいた。空中でオーロラを見ることはある。しかし、帯状には見えないのである。地上から見る景色は幻想的で美しい。
 一通り彼が満足するのを待って、ケニーが「そろそろ行こうか、息子」と声をかけた。ジョルノは照れくさそうに口を閉じて、苦笑いしていた。子供のようにはしゃぎすぎだ。
 エレベーターに乗ると、ホテルマンが注意を話し始めた。
「当ホテルはセキュリティのため、エレベーターにお客様の部屋番号を入れた後、登録者の虹彩情報を記憶します。ゴールドバーグさまの滞在時間は一週間とうかがいましたので、あとはその瞳を読み取り機に近づけていただければ、滞在中、お部屋の番号を言う必要はなくなります。このエレベーターはお部屋の前までお送りいたします」
 ケニーがジョルノを見て、ちょっと笑った。彼はいたずらっ子のような笑みで「君は迷子になるよ」という。ジョルノはホテルマンに「どういうことだ?」と聞いた。
 ホテルマンは軽く頷いて答えた。
「ホテル内の居室は全て可動式の部屋でできております。十階以上の居室はこちらのエレベーターを使っていただきます。十階以上の居室にはコンシェルジュが付きます。ワンフロアに三つずつのお部屋しかありませんが、互いにその部屋を行き来することはできません。エレベーターを降りれば、すぐにお客様のお部屋になります」
「つまり、部屋がエレベーターの傍にくるよう、ホテルの中を移動している、というわけだよ。個人認識用に登録された虹彩で、各部屋の呼び出しが可能になる。一度、部屋を出たら、ホテルのフロントを通して送ってもらった方が安全だね」
 ジョルノは数秒考えてから質問した。
「非常時は? 火事や地震が起きたら、どうする?」
「非常時の脱出用ボードが各部屋に設置されている。それは常にどの部屋からも外部へいけるように作られてるよ。大丈夫だ」
 ホテルマンがエレベーターの壁を撫でて、館内の設計図を呼び出した。ジョルノは半身を少し浮かせるようにして外を見る。ガラスごしに映って見えていた夜景がすっと消え、金色の壁に設計図が浮き上がった。
 部屋を移動させる回転軸が三つ用意されている。移動するといっても、部屋を回転させて出入り口の方角を調整するだけのようだ。部屋がルービックキューブのようにあちこちへ移動するわけではない。中央部分にエレベータ用の通路が設置され、それが回転しながら昇ったり降りたりしている。宿泊客の虹彩を認識したら、回転方向と回数を決めて、各部屋の入り口に連結させると言うわけだ。
 原理を理解したら、ジョルノはにんまり笑って「俺の目はどうする?」と聞いた。ホテルマンは片手に持っている読み取り機でケニーの目を計った後、ジョルノに「後日カプセルから出たらとらせて頂きます」と答える。
 それまでは、ジョルノが一人でこの部屋を出て一人で戻ってくることは危険だ。いや、不可能だ。身元のしっかりしたセレブリティがこのホテルによく泊まるのだろう。セキュリティとプライバシーが保たれる。
 見かたを変えれば、それは監獄のようなものなのだが。
 エレベーターの扉がゆっくりと開いた。ホテルマンは扉を片手で押さえて、ケニーを外に出した後、ジョルノの入ったカプセルを移動させる。ジョルノは中で寝返りを打って、腹ばいになる。エレベーターから出てすぐにわずかばかりの空間があり部屋の扉がある。廊下はない。他の部屋の扉もない。そこが二人の部屋だとすぐにわかる。
 ケニーはこのホテルをよく利用するらしく、すぐに扉の前に立ち、自分の目をドアの隣にある読み取り機に近づけた。それは測定が始まると同時に二種類の光が出た。ケニーがゆっくりと瞬きする。次の瞬間、開眼と同時に二色の光が縦と横に素早く動き、扉がカチッと音を出す。鍵が開いたらしい。
「生体反応も読み取ってるというわけか」
 ジョルノはにんまり笑って、ホテルマンをふりかえる。ホテルマンは穏やかな笑みを浮かべて立っていた。彼は生きているのだろうか。人工生命なのか、生体としての人間なのかがわからない。
 扉が開くと、ホテルマンがカプセルから手を離し、扉を開けてケニーを中に入れた。次いで、ジョルノを中に入れる。部屋は円形で壁が全てガラス窓だ。夜景がきれいに見えるが、夜間なのでカーテンは半分閉められていた。そちら側に浴室があるのだろうか。いや、寝室があるのだろう。部屋はワンルームではなかった。開放的に見える部屋だ。空に飛び出していくような印象を受ける。
 部屋は落ち着いた家具が置かれてある。近代的な技術の詰まった場所にしては、古くさいインテリアだ。布製のルームランプが柔らかいオレンジ色の光を出している。ソファは二人がけ用のこじんまりとしたものが使われていた。
 ケニーは調度品を見て「気に入ったよ」と口にした。彼のリクエストだったらしい。ホテルマンはほっとした表情になって、頭を下げる。
 セキュリティボックスやフロントの呼び出し方などを説明して、彼は部屋を出て行った。
 二人になると、ケニーはくつろいだ様子で上着を脱いで、バーカウンターへ入った。
「君と飲めないのは寂しいね」
 ジョルノも「外に出れないのが辛いぜ」と笑う。今日は、温かいベッドで眠ることもできない。あちこち触って確認したいのに、ガラスごしに最新技術を眺めるばかりである。
 トイレや食事の時にカプセルは開かないのだろうか。そういう説明はされていない。早く開いて欲しいものだ。ケニーはクーラーボックスの中を覗いて、話した。
「同窓会はいつなんだい?」
 ジョルノはカプセルの中で肩肘を付いて、頭を乗せる。横向きにケニーを眺めて答える。
「二日後だ。交流会も同じ日にある」
「交流会には私も出席するよ。待ち合わせようか」
「交流会なんて俺は興味ないけど」
「人的交流を現実社会へ還元するだけが目的じゃないぞ。健全な男女の出会いの場だ」
「まだ、嫁さんを探すのか?」
「私の話ではないよ。義理の孫を見たくなってね」
 ケニーは蒸留酒の口を開けて、氷の入ったグラスに注いでいく。とくとく、と深い音がして、黄金色の液体が滑るように氷を覆う。
 ジョルノはにやりと笑って、首を絞めていたネクタイを片手で緩める。そのとたん、呼吸が楽になった。直後、体温が急上昇した。声を出す間もなく、次の瞬間には気絶していた。何が起きたのか、彼にはわからない。強制的に眠らされた。
 ケニーは彼が眠ったことに気づかず、しばらく話を続けていた。しかし、カプセルの中で眠っているジョルノに気がついて、ふっと口を閉じる。
 グラスを持って、傍に来る。酒を一口飲んで「立派な男になったね」とつぶやいた。ガラスをこつんと叩いて微笑んだ。


 懐かしい制服に袖を通したら、淡い思い出がよみがえった。鏡の中でミディアに出会ったときの自分を想像する。年を取ったな、と思いつつも、髪を少し整えて直した。
「もう行くのかい」
 ケニーは浴室から気楽なバスローブ姿で出てきて、鏡の中のジョルノを見た。彼は目尻に皺を寄せつつ、優しい笑みを浮かべる。
「うん。いい男だ。行っておいで」
「交流会は最初だけ顔を出して、あとは外に飲みに行く。堅苦しいのは勘弁だ」
「虹彩の登録は終わったのか。帰りが別になるなら、フロントに声をかけて」
「昨日やったよ」
 ジョルノは髪型を整えたら、首元にIDを示す校章を取り付けた。同窓会の招待状と会場までの地図を持って、外に向かう。出入り口で一度ふりかえって「いってくる」と声を出した。ケニーは電子雑誌を手に持って、ソファに座りながら「気をつけて」と答えた。
 部屋の外に出て、エレベーターを呼び出す。すぐに扉が開いて中に入った。十階以上の人間たちが使うエレベーターだ。たまに誰かと一緒になることがあるのではないかと思ったが、まだ他の旅行客と顔をあわせたことがない。まっすぐに下へ降りていく。
 実は昨日の夕方までカプセルの中に閉じ込められていた。トイレも風呂もその中で自動的に処理されていた。ガラスが曇り始めたら「やめろー」と叫んでも、丸裸にされて体を洗われてしまう。もうなすがままだ。暴れる患者のことも想定されていたらしく、ガラスを殴れば、強制的に気絶させられる。
 開放された時はそのまま逃げ出そうかと思ったが、ケニーに連れられて、ようやく地上の繁華街へ連れて行ってもらった。久々に酒を飲みたかったが、やんわりと諭される。健康的な食事をして、あっさりと帰った。彼に守られていると感じて照れくさくなる。
 ケニーと一緒だと、どうも調子が狂う。居心地の悪い安堵感に包まれる。彼を罵倒することもできない。恩があるのだから、当たり前だが。
 地階について扉が開いた。
 ロビーに一般客が集っていた。ジョルノはエレベーターを降りてから、天井を見上げた。壁の映像は森の中を飛び回る極彩色の鳥の群れだ。天井の真上は輝かしい光で溢れている。木漏れ日が自然な揺らぎで床に落ちる。この映像はいつ見ても心を癒される。
「すっげ……今日は森か……見てみたいな」
 空中ではこんなに大きくて立派な森を見られない。ジョルノは目を輝かせて立ちすくんでいた。そんな彼の姿を見て、女性客がうっすらと頬を染めている。身なりを整えたら、それなりの美青年だ。女性には気になる存在だろう。
 真っ白い制服は体にぴったりと合っている。短く切りそろえた金髪とあわせて、光に溢れる装いだ。金色のボタンとバッジが所々印象を引き締めて、光をまとっている。きちんと磨いた靴で彼は歩き始めた。
 エントランスの扉は自動ではなかった。コンシェルジュたちが開いて「ゴールドバーグさま、いってらっしゃいませ」と声をかけた。ジョルノは彼らの間違いを正すことなく、外に出た。名目上、今はケニーの義理の息子として滞在中だ。
 日差しの中に出たら、手に持っていた制帽をかぶって歩き出した。コンシェルジュが背後から「お車はこちらです」と声をかけてきたが、ジョルノは知らん顔で地上を歩いた。
 会場までの道をゆったりと歩く。
 科学都市として先進的な技術のある国だが、遊歩道は緑に溢れて気持ちがいい。歩きやすいように舗装されている。たまに人がジョギングしているところに遭遇する。ようやく生きている本物の人間に出会った気がして、ほっとした。肉体を動かすことに彼らは抵抗がないようで、いい汗をかいていた。
 浮遊する車椅子にのって通り過ぎる高齢者の姿もある。電動の犬と一緒に散歩して、家庭にいる家族と通信システムで会話を楽しんでいる。
 遥か遠くに空中に浮かぶ街が見える。ジョルノが暮らす上空の空中都市は雲の上に存在するので、地上から見えることはない。あれは低空域で稼動している風力発電所だ。浮島として、地上都市の上に存在しているのだ。地上部に係留していて、ケーブルで電力を配給している。発電所から伸びるケーブルは地上部だけでなく、浮島同士にも繋がっている。隔離された風俗店やセキュリティの厳しい証券会社や銀行、刑務所、裁判所などが地上で定められた区画どおりの場所に浮いている。
 その下に、青々と茂った緑の大地がある。それは巨大な鍾乳洞が口を開いているように見えた。地上部の都市は地面から少し浮いた場所にできている。下部に広がる緑の絨毯ごしに、近代的な街の姿が幻のように浮かんで見える。樹木のキャノピー(樹冠)から少し上に出るように作られた人工都市は、幾重にも複雑な階層構造を持つウェハースのように重なり、広がっている。森の下には、さらなる地下空間が広がっているだろう。しかし、都市部に住んでいる限り、その構造を思い出すことはない。足元の地面は頑強で風に揺れることがない。だが、都市の外延部から外を眺めた時にここが人工的に作られた地盤であることを思い出すのだ。
 空中に浮かぶ遊歩道を渡り歩きながら、ジョルノは眼下に広がる大自然を目に入れた。見渡す限りの大樹林。それが地上部の基盤になっている。
「今の俺には勿体無い酸素量だ」
 カプセルから出て、最初に気がついた異変は肉体の軽さだ。いつも以上に体が温かく、動きが機敏だ。頭脳の回転も速くて、脳内がすっきりした感じを受けた。酸素の運搬量が一時的に上がって、運動能力を始めとする諸機能が活性化していた。
 会場まで全速力で走ることもできそうな気がしたが、会場内に入ってから汗臭いのは勘弁だ。ジョルノは展望台から離れて再び歩き出す。
 呼吸数は常人に比べて著しく低い。地上に完全に適応する前に彼は空に戻るだろう。空中都市に戻ったら、しばらくは赤血球が再び戻るまで、目眩と頭痛に悩みそうだ。人工的にチェルキオ空港で処理をしてから、他の島へ行くことになるだろう。
 地上部から直接乗り入れの多い天空のハブ空港には、入管施設と共に空中都市域への馴化を促進する施設が置かれてある。クルセル島で普通に一泊すれば、特に何の違和感もなく他の空中都市へ行けるようになる。食事や気圧、大気組成などがあの島では計算されている。空中都市の水を一日飲めば、水に染まると言われる。ヘモグロビンの合成を補完するためのクロロフィル色素が空中の水には多く含まれている。
 それは、空中に暮らしていた過去の異人たちの知恵だったのだろう。空中の井戸から採取される水でジョルノたち空中都市域の人間は生命活動を維持させている。
 その水を生み出す技術が狙われている。
 マックスは第四気団にあるビュルラク島から何を盗んだだろうか。太古の空中人が、雲から水を生み出す技術を開発した。その記録がビュルラク島にはあった。それをマックスは盗んだのだろうか。彼の窃盗の目的を聞かなかった。
「遺産を手に入れてどうするつもりだったんだろうな……あいつは」
 マックスの窃盗には企業家の思惑があるらしい。企業名は知らないが、その企業は空中の技術を手に入れて、何をするつもりなのだろうか。
 人は生命のいない空間に生命を住まわせた。空は今、人類の生活圏だ。
 緑の大地から離れて、人はなぜ空へ向かったのか。それは、おそらく森と共生することができなくなったからだ。ジョルノは空に浮かぶ発電装置を見ながら、そんなことを考えた。森を切り開いて大地に人が住み、樹木の生息圏が狭まったことで、人の文明は危機に陥った。だから、森を大地に戻し、自分たちは空に飛んだのだ。
 森と共に生きることは、もう、今の人類には難しいのだろうか。
 美しい映像に心を惹かれつつも、ジョルノは理解できていた。あの空間で自分は生活することはできないのだ。彼はもう街という人工環境に適応し、科学的な物理環境の中で生活を成り立たせる術を身につけている。自然は遥か遠くにあるものだった。
 これは滅びの道に向かっていることになるのだろうか。
 わからない。それが人類にとっての、自然との共生なのかもしれない。自然に対して、影響を与えず、共生することなく自分たちの生活域を架空の空へ持ち上げる。
「今日は小難しいことを考えても、頭痛はないぜ。ありがたいのやら、迷惑なのやら」
 ジョルノはそんなことを言いながら、公園を通り過ぎた。


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