創作術について

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2資料は必要か?



 我流の意見として聞き流してほしいのですが、私は小説に資料はいらないと思います。いや、なくても作れるのが文芸なのです。資料が必要な理由は「リアリティを追求したいのさ!」とか「現実的な問題を書きたいから、現実の資料が必要なんだ」とか「分量的に穴埋めとして書かせてくれー!」とかそういう理由です。
 作者は自分の知らない世界を自分の言葉で作り上げることはできません。私たちが小説を作る時には、必ず、今まで見てきた世界の一部、学んできた教養の一部、経験した常識の一部が反映され、自分が得た知識や見解が知らず知らずのうちに使われる。そして、それこそがリアルな言葉として読者が読む価値のある言葉になるのです。
 だから、自分の経験から導き出されるものだけを作っていたっていいのだ。ただ、具体的に書くならば、事実誤認がないようにしたいとか、そういう作者のエゴから資料による確認が必要になる。それすら、造語や暗喩にして表現してしまっても許される。それが小説という芸術の奥深いところだ。

 それでも、毎回空想チックなふわわんとした童話ばかりを書いているわけにもいくまい。いや、童話でもきちんとした下地が必要な場合があるだろう。童話の目的は教育なのだから、どちらかといえば一般書籍よりも資料の扱いは厳しい。
 というわけで、資料を使った創作について、考えてみる。

 私は資料を使った創作に白旗を上げた人間だ。
 わーん、難しいー! 理解できなーい! 経験が足りなーい! 資料の方が小説よりも面白ーい……そんなことを感じさせられまして、資料に負けました。
 最初に掲げた小説の定義、答5にあるように、ノベル(新しい知見)を一般に広めることが目的ならば、この資料を用いた創作は意味がある。プロは必ず資料の読み込みを技術として持っている。そこがないならば、素人と同じ創作者だ。世間に知られていない新しい情報を伝えてくれる人たちだからこそ、作家の資料読みは尊重されるのです。それはつまり、未知のものを理解する能力を求められる、ということに他ならない。

 失敗から話をする方が読みやすいだろう。
 私がしてきた資料読みの失敗について話す。私が資料を用いた創作から一時的に離れた理由を書こう。理由の一つは、先に物語の展開法をきちんと修得したかったということがある。つまり、資料に負けた一番の理由は、話の展開よりも資料によるうんちくの方が増えてしまったからなのだ。私は百科事典を作りたいわけではない。話を作りたいのに、資料を読んでから話を作ると、知識の方が先に描かれてしまう。これがつまらない創作になってしまうのだ。
 読者が読みたいのは、知識ではなく物語だ。資料はその物語を彩る一部分にすぎない。私は資料に食われたと感じてから、資料を読まなくなった。いや、事前に読んでから、構想し、執筆中に見ないようにした。事実の確認は、全て終わってから推敲時にいれればいい。間違った事実を書いても構わない。とにかく執筆中は資料による知識の付加は最低限にして、物語を意識するようにした。
 自分が新しく学んだことは、喜び勇んで詳細に書きやすい。読者が知っているかもしれないことでも「ほらあなたこのことは知ってるー?」と鼻につくような文章になってしまうわけで。資料を読んで学んだ時間が長く、辛い思いをした人ほど、資料偏重の傾向はより強く出てしまう。そして、さらにまずいことには、資料を読んで自分は理解できていて当たり前になってしまうことだ。他者はその知識を全く知らないことを忘れて、難しい言葉や事実を平然と使ってしまう。だから、資料読みは難しい。
 新たな知識を身につけても、無知でいられる心の状態を維持できるか。
 無知な方が物語は楽しい。子どもの頃、何の予備知識もなく読んだ児童文学の方がわくわくしたのはそういうことだ。かしこい人の話は、実はつまらないものが多くなる。資料偏重で間違いをなくそうとしてしまうからだ。だけど、小説はもともとは人の空想力を楽しみ、その人の論説を味わうことが目的で、知識を得ることなんか二次的なのだ。本当の知識を得たいなら、小説ではなく教科書を読め。経験をしろ。
 それを理解したうえで、どんな資料を読んだらいいのだろうか。
 次は資料の活用法を考える。全くなくても書けるけど、あればあったで表現が豊かになるのが、資料というものなのである。上手く使えるようになりたいですね。
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