「マザー:R氏をめぐる殺人疑惑」




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2 ビートル・ニードル、ディック・ピック、ラーク・ダーク

 ぼくはとても退屈だった。
 デリンジャー警部の説明が、つまらなくて。
「ルイス、とても難解な事件が起きているんだ。手伝ってくれないか、あれ、今日はセバスチャンはいないのか、ああ、いるじゃないか、頼むよ、いつものセイロン産のウヴァにジンジャーを効かせて適温で持ってきてくれないか、ああ、そうだ、紹介しよう、こちらはジルバーシュタイン家の執事でルーク氏だ、オー、これはこれはマリアーヌ、今日はとても美しいよ、あれ、私に持ってきたんじゃないのかね、おお、これだよ、これだ、私はアレス夫人のクッキーを食べるのが楽しみで」
 話が全く先に進まない。こういう奴にアレス夫人のチェッカークッキーなんて持ってこなくてもいいんだ。ぼくはメイドのマリアーヌをひと睨みしてすぐに下がらせた。ぼくと同じ金髪の美しい女の子だけど、どことなく目つきが父上に似ている。誰も何も言わないけれど、ぼくの異母妹かもしれない人だ。まったく、人騒がせな父上の好色ぶりだ。
 ぼくの名前はルイス・クラン……もちろん、偽名だよ。
 正式名称はとても長くて、堅苦しくて気に入らない。ちっともクールじゃないからね。
 ぼくを楽しませる事件を持ってきてくれるのは、スコットランドヤード*の落ちこぼれ警部、ポール・デリンジャーだ。今日も捜査をさぼって、ぼくの屋敷に入り浸ろうという魂胆らしい。まじめに現場を捜査すれば解けるような事件をわざわざ持ってきて、ぼくを探偵に仕立て上げた。そして、何かにつけて屋敷にやってきては、アレス夫人の手料理を食べようとする男だ。
 ぼくと大して年は変わらないのに、三十代手前にして、スコットランドヤードで警部になった。ぼくの与り知らぬところで検挙率は優秀な男らしいが、くるくるパーマの黒髪に眠そうな垂れ目をして、よろよろした細身のダークスーツを着ているのを見るとそれほどできる男には見えないだろう。彼の下には、よほどよい部下がいるに違いない。
 青い陶製のウェッジウッド製デセールプレートを眺めて、悦に入ったらしく、浮かれた様子ではしゃいでいる。様々な幾何学模様のクッキーをつまんでいるデリンジャーを無視し、ぼくはジルバーシュタイン家から来たルーク氏に目を向けた。
 白髪交じりの美しいロマンス・グレー。初老の彼はきちんと折り目だたしく三つ揃えのベストを身につけ、年季の入った懐中時計の鎖を左のポケットに入れていた。左利きとは、執事にしては珍しい。神経質に磨かれた牛皮の革靴は黒……僕の趣味じゃない。ぼくなら、セバスチャンに履かせる外出用の靴はエナメルだ。ルーク氏の主であるジルバーシュタインはマナーを知らないのか。
 いや、革靴の手入れは意外に手間だ。形よく履き続けるには定期的に手入れが必要だろう。そして、見た目には皮製品のこなれた皺は全く見られない。あの靴は新品だ。つまり、金回りの良いことをアピールしてのことか。銀行家の執事らしい宣伝だな。
 そのルーク氏がゆったりと口をひらいた。
「ルイス・クランさま……と、お呼びすればよいのでしょうか」
 ぼくは彼の吟味を止めて、彼のダークグレーの瞳を見つめた。彼は北の血が入っていそうだ。アングロ・サクソン系の細身で長身の。言葉に訛りが少しある。ドイツ移民か。
「ええ。デリンジャーに本名なんて呼ばれたくないんでね」
 ぼくがそう答えると、クッキーをくわえたまま、デリンジャーが目を大きく広げた。まるで、お前そんな冷たいことを言うなよ、と言いたげに。
 ぼくの執事、セバスチャンが茶器をもって部屋に入ってきた。それで、デリンジャーの目はそちらに釘づけだ。セバスチャンはぼくより四つ年上の男性で、北方ドイツ系とラテン系の血が入っている。背も鼻も高くて、すっきりした顔立ちをしている色男だ。母上が気に入って連れてきたんだ。彼の父上はインドで会計士をしていた。母上の御学友だ。
 ぼくはセバスチャンに、お茶を淹れるように合図をしてから、ルーク氏に向き合う。
 ルーク氏は事件の話を始めた。
「デリンジャー警部から既にお聞き及びかもしれませんが、ジルバーシュタイン家のライラお嬢様が行方不明なのです。わたくしの主は取引先のロバート・カッケイド氏に誘拐されたと考えております」
 ロバート・カッケイドとは、巷ではロビンという名前で知られたR氏だ。クック・ロビン(巨根の反り返ったオス)だ。氏は地元のパブで聞くだけでも、五人の愛人がいると囁かれている。スキャンダルな噂話には事欠かない御大だ。
 ぼくはみなまで聞かずにルーク氏に答えた。
「残念だが、もうライラ嬢は生きていないだろうね」
 デリンジャーとルーク氏は、ゴクリ、と息をのんでぼくを見た。針の先に糸を通すような緊張感が漂う。セバスチャンだけは小さく口端をあげて、笑っていたのだが。


*警視庁のこと
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