「マザー:R氏をめぐる殺人疑惑」




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7 かわいそうなコマドリのお葬式

 パブの噂話は六割がたはいい加減だ。色男で女にモテて金持ちで有能なカッケイド氏は、市井の間でやっかまれている存在。だから、市井の噂はほとんどが彼にとっては辛辣な内容になっている。
 本当の彼はどんな人なのか、ぼくですら知らない。
 ぼくは警部に話しかけた。
「事件の概要をまとめると、ライラ嬢が失踪し、その犯人をカッケイド氏だと推測している、ということだろう? もっと言えば、カッケイド氏の山荘で見つかった血痕の意味は何か。カッケイド氏は生きているのか。ライラ嬢の失踪に関係するのかどうか。彼女はどこにいて、生きているのかどうか……その推理の前に、ぼくは知りたいことがあるんだ。諸君らに答えられる範囲で教えてくれないか。ライラ嬢が妊娠していたかどうか」
 デリンジャー警部は紅茶を吹き出しそうになって咳き込んだ。隣にいたルーク氏の顔色が悪くなった。それはそうだろう。未婚の令嬢が誰にかどわかされて子を孕んだのか。それはスキャンダルになる。事実だとしても、ここで明言はできまい。
 だが、ぼくはその反応だけで十分さ。
 当たらずとも遠からずだからこそ、顔色が悪くなったのだ。さもなくば、きょとんとした顔で怒り出すだろう。どうやら珍しく市井の噂は真実だったらしい。
 ぼくは最後まで答えを聞かずに「次に」と話題を変えた。
「ジルバーシュタイン氏と取引しているというカッケイド氏だが、巷では二人がマネーゲームで争っていたと考えられている。でも、カッケイド氏の事業にとってジルバーシュタインは資本提供者として重要だったと思うのだ。二人の間で本当は資本提携の話があったのではないかね。そのためにライラ嬢と婚約したのはカッケイド氏ではなかったのか」
 デリンジャーはにやりと笑ってこめかみをかいた。今度はルーク氏が神妙な顔で「事業のことはわかりかねますが」と前置きしながら、二人が婚約していたことについては答えてくれた。ジルバーシュタイン氏とカッケイド氏の間で起きた経済的な問題については、彼は知らないに違いない。だが、スコットランドヤードはそこを知っているはずさ。だが、捜査情報だから、言えない。デリンジャーはにやにや笑って腕を組んだ。ぼくにはそれだけでもう十分さ。
 ぼくは時計で時刻を確認しながら、続けた。
「最後に、もう一つ確認したい。不測の事態が判明し、カッケイド氏とライラ嬢の婚約の話は白紙に戻された。まあ、その、不測の事態とは、カッケイド氏の愛人関係とか資金繰りの不安定さとか、そんなところだろうけれども、ジルバーシュタイン氏が手を翻すには十分な何かが起きた。その後、令嬢は別の男と婚約することになった。違うかね?」
 ルーク氏は神妙な顔で黙っていた。デリンジャーは「婚約の破棄は事実だ」と答えて笑っている。それぐらいの事実は捜査情報ではなく、しばらくすれば公にされるだろう。デリンジャーは気負うことなくあっさりと答える。
 だから、二人には時間がなかったのだ。カッケイド氏は酩酊するほど酒を飲み、そして決断したはずだ。その翌日に、山荘で血痕が見つかった。
 それは故意なのか、事故なのか。
 デリンジャーは紅茶をもう一口すすって、答えた。
「なんだよ、結局わかってるんじゃないか。それで? 名探偵よ、令嬢は今どこにいるのかわかるか? 死んでいるなら、どこで死んでる?」
「……死んではいない」
「さっきは死んでると言っただろう」
「そうだな……令嬢は生きてる。だが、腹の中にいた子供は死んだかもしれない」
「腹の中……? おいおい、令嬢は本当に妊娠していたのか?」
 ぼくとデリンジャーの話を聞き、ルーク氏ががたっと大きな音を出して立ち上がった。彼は言葉にできない様子で「ああ」とか「神よ」とか、ぶつぶつとうめいて歩き回った。
 デリンジャーはそんな執事の姿を見て、珍しく舌打ちしながら貧乏ゆすりを始めた。ぼくは腕時計を確認し、セバスチャンの位置を推測する。あいつはまだ着いていない。
 とつぜん、デリンジャーが大きな無線機のレシーバーを取り出して叫びだした。
「あああーっ! くそっ! まだ連絡は来ないのか、くそ野郎!」
 血痕のDNA解析の結果のことだろう。ぼくの推理が当たっているかどうかが気になってるんだ。ぼくはその血痕がライラ嬢のDNAを持っていてもいなくても構わないが。
 試合が始まるまでの時間が気になる。アイリーンに詫びなんて入れたくない。
 デリンジャーが身を乗り出してぼくに話しかけた。
「ルイス、見つかった血痕はそれほど大量ではない。死んではいないはずだ。だが、それが仮に流産によるものだとしたら、どのぐらいの量で危険なんだ?」
 おや、珍しい。デリンジャーが捜査情報を口にしたぞ。血液の量は少ないらしい。だから、のんきにアレス夫人のクッキーを食べにきたのか。こいつは。
 同時にルーク氏がぼくの前に両手をついて、机を叩きつけながら叫んだ。
「お嬢様はご無事なのでしょうか!」
 ぼくは二人に睨まれつつ、困ってしまった。未婚のぼくに胎児のことなんて聞かないでくれ。血が流れたらどうなんだ? ぼくのほうが知りたいよ。
 しばらくして、ぼくは二人に手をふってから立ち上がる。内線電話を通じて、厨房にいるアレス夫人を呼び出した。アレス夫人は昼食の仕込みを終えて、買い物に出かけるところだったそうだが、ぼくの問いに答えてくれた。
「あらまあ、坊ちゃん、妊娠中の不正出血ですって? まあーそんな、まあー色っぽいお話のできるお年になられましたの」
「いやいや、ぼくの話ではないよ。あるご令嬢の体調をおもんばかってのことだ」
「アイリーンさまのことですの? うふふ」
「アレス夫人、ぼくとアイリーンの仲を勝手に想像しないでいただきたい」
 夫人曰く妊娠初期の不正出血では、そのまま流産する危険が高い。すぐに病院に連れていく必要があるそうだ。まあ、予想通りだな。
 だが、その出血が故意によるものなら、令嬢は市井の病院なんかには行かないだろう。カッケイド氏が何かの薬剤で彼女を中絶させただろうか。山荘に二人はいなかった。もし、彼が子供を処理しようと思っていたのなら、人目に触れられずに済む山荘から出るとは思えないのだが。
 ああ、早くジルバーシュタイン家の様子を知らせてくれないかな。セバスチャンは何をやってるんだ。早く電話をしろ。
 もし、令嬢が途中でカッケイド氏の殺意に気がついたとしたら、逃げる場所は実家なのだ。彼女がジルバーシュタイン家に戻っていたら、頭取はおそらく今でも家にいるはずだ。令嬢が持ち込んだスキャンダルの処理に頭を悩ませているだろう。警察なんているはずがない。だが、屋敷の中は医師を呼んで慌ただしいはずだ。
 そして、ぼくが気にしている、もう一つの可能性。彼女が実家に逃げ込んでいない場合は、彼女はどこにいることになるのだろうか。カッケイド氏は殺したのだろうか。二人の未来、二人の愛情、二人の約束を。
 今日、彼女はルーク氏に指輪を頼んでいたはずだ。ある場所に持ってくるようにと。それは希望だったのだろうか。裏切りだったのだろうか。
 時間の流れがもどかしい。今は何時だ……あと何分で着くんだ。
 早く真相を教えてくれ、セバスチャン。
 そして、ついに真相を告げる電話が鳴った――。

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